13/11/3朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙5章20節、詩編103篇 「父の憐れみは常にある」

13/11/3朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙5章20節、詩編103篇

「父の憐れみは常にある」

 

この御言葉を聴いて、よく愛唱聖句であげられるテサロニケの言葉を思い出されるかもしれません。いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これは言わば信仰の三拍子として、信仰者たる者、こうあるべきというイメージで、心に焼き付いている御言葉かもしれません。確かにそうだとも思うのですけど、それはまた、先週申しました、霊に満たされるというイメージが、お~来た来たと、言わばスーパースピリチュアルで超霊的なイメージで誤解されやすいのと同じで、感謝するというのも、超霊的に何かわからんけど感謝で~すというのとは、ちっくと違うように思われます。今引用したテサロニケの三拍子の後にも「これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」と、キリストが喜びと感謝の根拠として語られるのです。キリスト抜きで、信仰者かくあるべきという、表情と言いますか、感謝ですを口癖のようにせないかんというイメージを、もし想像してしまうなら、方向が自分に向かってズレるのです。

感謝には根拠があります。動機と言っても良いかと思いますが、別にキリスト抜きでも、感謝しましょう、いつも何にでも感謝しましょうという宗教とか宗教ではないけど、ありがたい教えというのは、皆さんも聞いたことがあるんじゃないかと思います。あれは何で感謝するのか。例えば、そうしてたら良いことがあるとか、良い人になれるからとか、そういう感謝する人になりたいからとか、色々と動機はあるのです。

それに対して御言葉の語る根拠・動機は、私たちの主イエス・キリストの名によって、イエス様が私たちの主であられるという理由によって、いつでも、どんな状況でも、感謝できるから、しかも父である神様に、感謝できるから、だから感謝をする。自分を根拠にせんのです。

あらゆることについてというのは、知能を駆使して頑張って考えて、何かしら感謝できる理由を見つけて感謝をしなさいというのではありません。御言葉の語るのは、もっとシンプルです。ほら、あるでしょう、何があっても変わらん一つの感謝できる父の恵みが。イエス様を私たちの主として与えて下さった父の恵みと憐れみが。私たちに何が起こっても、どんなときでも、キリストが私たちの救い主として与えられている恵みの事実は常にある!と、私たちの土台を見つめさせるのです。

もちろん考えて感謝する理由を見つけることも、思いを尽くして主なる神様を愛することに含みうるとは思います。教会の歴史でもそうした説教はありました。例えば金の口と呼ばれるほど優れた説教者クリュソストモスが、人は地獄という最も恐ろしい聖書の教えに対してさえ、それが私たちを罪を犯すことから遠ざけるからという理由で、その存在に感謝できると教えた説教が残っています。そうやって色々なことに対して、例えば病気や災害に対しても、尚そこに知性を尽くして探し出して見つけられるであろう感謝の理由というのも、ないわけではない。でもこの御言葉は本当に、そういうことを教えるのでしょうか。違うんじゃないかという理解もあって、私はそちらのほうがしっくりくるのです。

そもそもここは、言わば這いつくばってでも感謝せえという、根性の如き信仰のスタイルをスパルタ教育しているのではありません。ここは聖霊様に満たされて主に倣って歩むには、つまりキリストの体の一肢として、キリストを証しする教会員として歩むにはどうしたら良いかという視点から語られている御言葉です。それにはこの四つだと、18節後半から、改めて省略して直訳するとこうなります。霊に満たされなさい。①賛美によって語り合いつつ、②主に心から歌いつつ、③父なる神様に感謝しつつ、④互いに仕え合いつつ。そうやって教会はその最初から、礼拝の中で共に賛美を捧げ、賛美で語り合ってきた。それだ。皆で賛美するんだ。しかも心から、言い換えれば自分のこととして賛美しなかったら、賛美にはやはりならんでしょうと、賛美の対象を、漠然と神様と言うのではなくて、に向かって賛美する、それが教会の讃美だと告げるのです。そして、そうやって私たちが自分のこととして賛美することのできる主とはどなたか。それは他でもない、私たちのために人となられて十字架で私たちの罪を負って死んで下さった、私たちの主イエス・キリストだ!そうだ、この方こそが私たちの主!父が私たちの主として与えて下さった私たちの主イエス・キリストのお名前を呼ぶ時に、私たちは、どんな状況にあったとしても、その状況によってダメにならない、無にならない、奪われてしまうことの決してない、常に父に感謝できる恵みの事実に立てる。私たちの主イエス・キリストの救いの事実に立てるじゃないか。神様の憐れみの現実はここにあるだろう、なあ、そうじゃないか、主は生きておられる!と御言葉は励ましを語るのです。

キリストの救いの事実に立つ。それが聖霊様に満たされるための立ち位置であり、土台です。あ、私ここに立たされていたと、感謝ができる自分の土台に立ち帰ると言っても良いでしょうか。

このことは実にこの手紙の3章16節以下で教えられてもいたのです。「どうか御父が…心の内にキリストを住まわせ…キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し…満たされるように。」

聖霊様によって、主の愛の現実、救いの現実に満たされるためには、キリストなしでは私は貧しいという、自分の貧しさに帰るのだと言ってもよい。心貧しき者が幸いなのです。その心にキリストは住んで下さるのであって、心がいつも感謝で満たされてなかったら、そんな家住めるかと主が出ていくのではない。人間はそうでも、私たちの主となるために人となられた神様はそうではない。神は愛です。その愛を、貧しき者を満たす神様の愛を、人は、十字架で死なれた主によって知るのです。

心の荒れる時があります。嵐の中に投げ込まれた小舟のように、心が状況に振り回され、何で私がこんな目にと思って荒れすさむ時、私には人から教わって自分に語りかける言葉があります。すさむ自分の心に向かってこう語るのです。私には地獄の裁きが相応しい。私が思い、また為したこと、語ってきた言葉は、神様の聖なる怒りにこそ相応しいと、謙遜ではなく、聖書の語る罪と裁きの教えを信じる信仰によって心からアーメンと思いつつ、私は荒れる心に唱えます。何度も唱えます。自分を裁くためではありません。そんな私のために自ら十字架で釘打たれ、私の地獄を引き受けて死なれたイエス様が、裁きにこそ相応しいこの私を、だからこそ愛して死なずにはおれないと、私の荒れた死を死んで下さった。その愛を知るため唱えるのです。その愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるか理解したつもりになっている私が、何度も何度でも、その愛の高さに向けて、キリスト以外の何者かによって満たされようとしていた心を、主にご支配して頂くためにです。その私たちの心を主に差し出して、心から主に向かって歌いつつ、主よ、私をあなたの僕に相応しくして下さい、私を憐れみ造り変え、あなたの愛によって満たして下さい、それがあなたに結ばれた私に、父の目から見て相応しいことですからと、私たちの主イエス・キリストの御名により、父よ、私を主によって赦し、あなたの子供として救って下さり、ありがとうございます、父よ、天にまします我らの父よと、どんな時でも感謝ができる。キリストはこの無条件の恵みを、十字架の死と引き換えにくださったのです。決して失われることのないこの愛による救いのゆえに、私たちは感謝を父に捧げるのです。キリストと言う救いの土台以外に、私たちはもはや立たされてはおらんからです。これが私たちに与えられている、揺るぎなき救いの土台、キリストが主でいて下さる憐れみです。