13/10/27朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙5章15-21節、エゼキエル書11章19-21節 「心の帆をはる賛美の風」

13/10/27朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙5章15-21節、エゼキエル書11章19-21節

「心の帆をはる賛美の風」

 

霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。この礼拝で、私たちが今まさに行っておりますのが、これです。神様の霊によって、私たちの命の最も奥深くで神様に造られた人として持っている渇きが、この世では満たされない欠乏、私が神様によって造られ生まれてきた目的が、神様の霊によって満たされる。しかも何か怪しい満たされ方をするってんじゃなくて、お~来た来たとかってだけじゃなくて、どの教会の礼拝でもそうでしょう、主に向かって、救いの主イエス・キリストに向かって心からほめ歌うとき、それは起こっているじゃないかというのです。

霊に満たされなさいという御言葉は、知名度の高い御言葉かと思いますが、ともするとそれが、何か特別な次元のキリスト者だけに、言わば霊的なキリスト者だけにアーメーンってくる御言葉に聞こえて、私にはようわからんのですと思われる方がおったら、どうぞ安心して下さい。きっと今までの礼拝生活の中で、この満たし、あるいは霊的満足という味わいは、それと気付かずに味わっておられるのではないかと思うからです。わかりやすく言えば、心がイエス様に向かうときがある。そしてイエス様の御言葉に、はい、アーメンとお応えするときがある。世の中の雑事に心奪われて、あれをせないかん、これもせないかん、そうせな生活も心もお財布も満たされないからと、自分や家族の人生を満たそうと、ついついあくせくする毎日が、ふとリセットされる時が来ると言いますか、むしろリセットしに来なさい、そのために礼拝はあるじゃないかと、主が安息日を用意して下さっている。そこで人間の生きる目的、生まれてきた目的に皆立ち帰って、そうだ、これが私だと、キリストの前で満たされる。これが私だ、神様の子、それが私だと満たされる。それを光の子として歩みなさいと、前の頁8節では言われたのですけど、同じことです。キリストの光のもとでわかるのです。これが私だ、また私たちなのだと、主に結ばれた家族としての私たちをも悟るのです。

それをどういうところで悟るのか。心から主を讃美するところで、光が心に満ちて、思いや考えが、あるいは人生に対する態度、心の根底、心のモードって言ったらよいのでしょうか、とにかく今朝の19節で心と言われている、私たち一人一人の存在の根底が、讃美の光の中で聖霊様のお働きを受けて、キリストの愛に触れるのです。賛美の中でそうした体験をされたことはないでしょうか。主の愛に触れて涙を流されたことはないでしょうか。説教はわからんかったけど、賛美に感動して教会につながったという人の数は、どれだけでしょうか。それはうんと単純に言うと、神様が私と共におられるという印象やイメージだとも言えるかと思います。もっとハッキリ満たされると、神様が私に語っておられるというイメージに心が成長していきます。しかもそれが説教を聴く中でじゃなくて、讃美の中で起こると語るのは、この聖霊様の御業を一週間の内のほんの一時間足らずに私たちが限定して考えてしまわんためでもあるでしょう。無論、御言葉の説教を通して主は語られますが、宗教改革者ルターの言った通り、讃美歌は信徒の説教です。説教は毎日の生活の中で歌われる賛美を通して終日鳴り響き続けるのです。皆さんが今朝起きて、頭に響いていた曲ってないでしょうか。もしそれが演歌やっても責めはしませんが(笑)、それが讃美歌であったらどんなに心が嬉しいでしょう。起き抜けの顔の表情も違ってくるのではないかと思います。

この辺りは、この手紙を書いた使徒パウロの牧会者としての細やかな配慮が表れるところでもあると思います。聖霊様に満たされる歩みは、まことに具体的なのです。なんか、お~来た来たってだけが満たしじゃなくて、ここを丁寧に説き明かしますと、今朝の御言葉の後半「霊に満たされ」という言葉の後に、四つの「~しなさい」という言葉が続きます。①語り合い、②ほめ歌い、③感謝しなさい。そして新共同訳は区切りましたが21節、④互いに仕え合いなさい。この四つは、霊に満たされなさい、じゃあ具体化にはどうしたらよいか、これだと語る内容です。省略して直訳するとこうなります。霊に満たされなさい。①賛美によって語り合いつつ、②主に心から歌いつつ、③父なる神様に感謝しつつ、④互いに仕え合いつつ。いずれも極めて具体的です。そしていずれもが神様の子供として具体的に歩むための急所です。これをしてないと世に流されて、心が世の楽しみに満たされ、あるいは世の語る充実や価値観に向かって心が渇くように影響されて、光の子としてどうやって生きたらよいのか、わからんなる。具体的な生活の急所です。例えば三つ目の父に感謝することをないがしろにしたら、恵みに生かされている感覚が麻痺します。自分で自分の人生を頑張って生きないかんピリピリした人間になるか、ピリピリする必要がないほど世では成功しているけれど、自分を満たすのは聖霊様でなく、自分に満足しているという自己満足に陥りやすい。詳細はまた次週説き明かしますが、霊に満たされるというのは、言わば自然体で毎日歩む姿なのです。イエス様をイメージしたら良いのです。何にも怪しい素振りとか妙な高揚感とかなく、天の父の前で父と共に生きる一人の人として、自然体で父に祈られ、自然体で人々に接して、父の愛の御心に生きておられたのが、私たちの代表として人となられた神の子イエス・キリストです。霊に満たされなさい、という招きは、言い換えれば、キリストに結ばれたあなたがたは、キリストに倣って自然体の神の子として歩みなさいという招きです。ただそれを、自分の力でやろうとする傾向、傾きが人にはあって、私たちを父の愛から引き離します。自分で自己実現をしたい、自分で自分を満足させたいという放蕩息子、放蕩娘の罪がある。それに対して、いや、自分で自分を満たすがじゃないがで、聖霊様によって満たされるがで、人は神様の霊の導きに従ってのみ、満たされ、御心に生きられるがやきに、わたしもそうやったがやきと、イエス様は、霊に満たされて歩むというのは、こういう風に歩むのだと、私たちの主として先に歩まれたのです。家族の歩みの先頭を、主として先んじて歩まれて、だから、わたしに従ってきなさいと、霊に満たされる歩みをこそ導かれるのです。

ですから、妙な霊的高揚感とかグッと来て心が熱くなるとか、そういう体の反応も副作用としては起こり得ますが、それイーコール霊に満たされるじゃないことは、ぜひご理解頂きたく願います。酒に酔いしれるのとは違うのです。痴れるとは愚かになることです。酔って高揚して、わけわからんなって、そのときは楽しいと思うておっても、それは結局そのすぐ前に戒められる、無分別になって、主の御心を考えれんなることなのです。御心を考えれんなったらどうなるか。身を持ち崩す。言い換えたら放蕩する。本来神様と共に生きるために受けている時間もお金も人生も、御心を考えんで無駄遣いして、ないなってしまうから、酔い痴れるがは、いかんと言う。いっときの満足はしますけど、問題は考えれんなるががいかんのです。大体酔うた人に、ちょっと飲み過ぎやないと聞くと、え?酔うちゅう?とか、酔うてないちやって怒られる(笑)。酔うちゅうか酔うてないか考えれんなるのと同じでして、感動しちゅうだけなのか本当に聖霊様に満たされているのか、自分を冷静に判断することができんほどに考えれん状態は、ここで命じられる霊による満たしとは異なるものです。酒と同じで自己満足なのか。あるいはキリストの満足に生きるのか。キリストとの関係を心から大切にして、キリストを賛美して生きる満足を求めているのか。そこが急所です。

霊に満たされるとは、言い換えれば、そうか、キリストに倣う、うん、これでえい、これが私の生きる道だ、イエス様ありがとうございます、御名を賛美しますと、主に結ばれて、主の招きに満足して歩めるということです。私に対する主の御心、愛が満ちる、関係が満ちると言っても良い。それが証拠に霊に満たされて歩む具体的内容は全て、自分のことではありません。語り合うのも、主に歌うのも、感謝するのも、仕え合うのも、決して独り善がりの感謝とか悦にいった賛美とかじゃなくて、相手あっての事柄です。愛は関係です。その関係が霊に導かれ、その導きに、はい、と応える愛で満たされるとき、愛のキャッチボールがなされるとき、そこに聖霊様による満たしがあります。キリストを下さった神様の愛の御心が満ちるのです。

そして神様の愛が満ちるところ、霊の満たしがあるところには、語り合いもまた生まれます。しかも賛美による語り合いがです。無論、先の交読文みたいに、Ⓐい~つくしみ、Ⓑ深~き、と順番にデュエットするわけじゃありませんが、デュエットで神様に歌うのが、この礼拝で捧げる讃美だと言ったらわかりよいでしょうか。礼拝に何しに来るか。一つには、讃美歌のデュエットしに来るがです。本当に(笑)。私たちは礼拝で父の前でデュエットするのです。父の右の座にはイエス様もおられて聴いておられます。どんな思いで今日の礼拝の賛美を聴いておられるでしょう。ああ、満たされるって思いで、ぜひ聴いて欲しい賛美を捧げるのです。心から。心を込めて。その賛美がまた、私たちに対しても語りかけ、そこに慰めが生まれるのです。寂しいとき、人は歌を聴きます。あるいは嬉しいときに口ずさむ。自分の今の気持ちを代弁してくれているような歌を聴き、また歌う。詩編の祈りや讃美歌は、私たちの神様に対する気持ちを代弁する祈りであり賛美です。重い気持ちを引きずるようにして礼拝に来るとき、家族が歌っている賛美の中で慰められる時があるのです。そこに聖霊様が働かれるからです。そこに三位一体の神様の御心が満たされているからです。世間一般が、今夜は飲みに行こう、カラオケに行こうって、気持ちを共有し、歌やお酒で何かを満たしたいのはわかります。それが人間だとも思います。だけどそれでは満たされない渇き欠乏を満たすため、神様は安息の礼拝をご用意して下さって、霊による満たしに招かれるのです。ここであなたがたは、本当の自分になりなさい、わたしは主、あなたの神、そしてあなたは、このわたしの命をかけて愛する子だと、神様が招いておられる礼拝で、私たちは霊的な賛美を捧げるのです。霊的な自分また家族として満たされるのです。聖霊様が満たされるこの救いに、歌いつつ身を置けばよいのです。