13/10/13朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙5章15-17節、詩編90篇 「奪われた時を取り戻す」

13/10/13朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙5章15-17節、詩編90篇

「奪われた時を取り戻す」

 

細かく気を配ることができる人というのは、確かに賢い人であるなとよく思わされます。それは人の気持ちがわかる愛の賢さです。誰かからそうした気配りの賢さを見させて頂くときに、惚れ惚れと感心することが、皆さんにもあるのではないかと思います。例えばこの教会堂に来るとき、坂を上がって、しかも途中で壁沿いに左に曲がるのですけど、これを車で上がるとき、壁沿いの左上から子供や他の歩行者が歩いて降りてくるんじゃないかと考えて、ゆっくり坂を上ってくる車を見ると、賢いと思います。また坂を今度は降るとき、今度は右下に向かって曲がるのですが、やはりその右側が壁で見えなくて、ひょっと車や人が上がってきよったら危ないと考えて道路の左側をゆっくり降りる車を見ると、やはり賢いとうっとりします。逆に歩行者や対向車が見えない坂の向こうから来ているとは考えないで、えいっと上ったり道の真ん中をシャッと降って、もし人身事故を起こしたら、取り返しのつかないことをしてしまったその後で、自分の愚かさを悔いると思います。

生々しい、免許証書き換えの時に見る映画みたいな話をしましたが、賢さってそういうことでしょう。人の気持ちがわかるかどうか。これをしたら、どんな結果になるかが見えるかどうか。もとの言葉でこれまた直訳をしますと、愚かな者、賢い者と訳された言葉は、知恵なき者、そして知恵ある者という言葉で、知恵、ギリシャ語でソフィアという言葉ですが、知恵のあるなしを問うのです。一体どこでわかるかというと、細かい気配りと配慮が、実際にできているかどうかに見えるのです。

この15節の翻訳は、だから配慮して歩みなさいという形で訳されておりますが、実は、歩みなさいという命令はもとの言葉にはありません。歩みなさいという命令は、既に何回も言われておって、主の招き、召命に相応しく歩みなさい、また光の子供たちとして歩みなさいと言われてきました。今度は、じゃあ私たちは今どんな歩みをしているか。招きに相応しい歩み、光の子供たちとしての歩みとは、知恵ある歩みであるのだから、自分たちの歩みをチェックしようと言うのです。言い換えれば今聴いた御言葉が、わかったつもりで終わらんように、実際にわかったかどうかは、配慮ある歩みの内に実際に見えるから、自分たちの歩みをよく見て、わかったつもりを超えて、実際にわかった歩み、賢く配慮する光の子たちとして歩もうと、極めて実践的な牧会指導がされます。

15節をまた直訳しますとこうなります。「見なさい、どのように注意深く、あなたがたが歩んでいるかを、知恵なき者たちとしてではなく、知恵ある者たちとして」これが直訳です。私たちの実際の歩みをよく見るのです。賢く配慮しているか、それとも愚かで軽率ではないか。ああ私は大丈夫というのは賢くないので、じっと目を凝らして、自分たちが実際に語る言葉や具体的な行動に、細やかな気配りがあるかを、見る。

そうすると見えてくる、言わば私たちの行動指針、ここを肝に銘じておればよいという、もう一つの具体的チェックポイントが見えてくる。私たちが時をよく用いているか、どうかがです。ただこれは、時は金なりとか光陰矢の如しという、時間を無駄にしたらいかんという教訓ではありません。少年老い易く学成り難しという、時間はあっという間に過ぎていくから、自分の人生を無駄にせんようにというのではなく、敢えて言うなら、こういうことです。キリスト者老い易く伝道成り難し。単なる時間じゃない。その過ぎていく、限られた人間の時間の中で、人が救われて、神様との永遠の家族の関係の中に移し入れられるかどうか。限られた伝道の時、救いの時を、軽率にも寝過してしまわんように、悪い時代の流れに流されて、時を失ってしまわんようにしなさい。直訳すると、時を贖いなさい、買い戻しなさい、何故ならば時代が悪いから。つい世の中の流れに流されて、永遠よりも今のニーズに押し流されて、あれがいる、これがいる、あれも欲しい、これも必要と、あくせく何かはしているが、つい永遠を忘れて神様に無配慮になって、愚かにも世の流れに飛び乗って坂道の真ん中をゴ~ッと駆け降り、道の上におられるキリストを車で轢いてしまうことがないように、というのです。

これまた生々しいイメージで語りましたが、イエス様は私たちと共に歩もうと、わたしのもとに来なさい、ついてきなさい、一緒に天の父の家族として歩んでいこうと、いつも招いておられますし、実際に私たちの滅びの道に立ちはだかって、ここで止まれと十字架で手を広げられ、死ぬな、滅びるなと、止めておられてもおるのです。十字架はそういう命の標識です。単なる時間の延長の命ではない、死を超えた命の標識、神様の家族として生きる永遠の命の標識は、十字架の死の標識でもあるのです。その死を過越していたる命の標識です。罪の道は死だから止まれと、立ち塞がられたキリストを、引き殺すような歩みはしてないか、自分たちの歩みを、じっと見る。単に人の気持ちを考えて生きているかだけを見るのではなくて、イエス様のお気持ちを考えて、私は生きているだろうか。神様のお気持ちを考えて一時一時を大切に生きているか。もしそうでなく人間のことだけ気にしておったら、ましてや自分のことしか考えてなければ、私は知恵を道端に捨てているのだと悟るのです。主の御心が何であるかを悟りなさいと17節が言うのは、そういうことです。十字架の主のもとで立ち止まり、私は誰であるのかを知るのです。赦された者であることを知るのです。命がけで主に引き止められ愛され生きられる者だと知るのです。そこに一番大切な、主の御心が見えてきます。主の御心は私たちを愛されることです。そして、その愛は極めて具体的で現実的で生々しいので、主は生々しくも人となり、ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、陰府に降り、そして生々しくも三日目に死人の内から甦らされて下さった。私たち人間の現実が生々しいから、罪が生々しいから、その罪と滅びと裁きから私たちを救い出すために、主は私たちの現実に生々しくも介入されます。それが神様の愛の現実だからです。

主は私たちの今の生き方に、介入して来られます。もし皆さんがこの説教を聴いて、何か私の生き方に介入してきゆうと感じられるなら、それは皆さんが主の御心を悟り始めておられるからだと言っても良いのです。主の私たちへの愛の御心は、私たちが天の父のお気持ちを考えて、父の御心に従って、具体的に父の喜ばれる歩みを歩むことだからです。それが共に歩むということでしょう。違うでしょうか。三位一体の神様が、私たちに愛の介入をなさること。共に生き、共に喜び、共に泣き、神様のお気持ちが私たちにわかって、神様と共に歩んでいけるよう、愛の介入をなさること。それが主の御心ですから、神様は冷たい自己責任主義者ではありませんから、だから神様は愛なのです。介入しない愛は自己責任のただの言葉です。しかし神の言葉は肉を取ります。そして私たちの現実の問題を引き受けて共に歩まれ、今も具体的に細やかな配慮をもって、御言葉によって指導して、わたしについてきなさいと、道を導いて下さるのです。

説教の題に、奪われた時を取り戻すとつけました。単に過ぎ去ったというのではなく、悪い時代に奪われたのです。神様と共に生きるために与えられた命を、時間を、一つ一つの出会いを、悪い時代の濁流に押し流されるようにして奪われて、神様と共に生きられなくなってしまう。主のお気持ち、お心、御心がわからいで、流され、あるいは自分主体で生きてしまう。無論それも流されているからです。自分勝手で何が悪いという悪い世の流れ、あるいは自分勝手はいかんけど、それは何も神様と結びつけなくてもよいと、造り主を無視した道徳の流れに流されてしもうたら、神様と共に歩む時が奪われるのです。キリスト者だけの話をしているのではありません。キリストが十字架で背負われた世界全体の時の強奪、神様と共に生きるために皆生まれてきたのに、なのにという礼拝生活の強奪、信仰生活の強奪、神様との愛の家族の生活の強奪を、この御言葉は真っ直ぐに見据えて、しかしその時を、贖いなさい、買い戻しなさい。そのための代価、贖いの身代は、十字架でわたしが支払いきったから、あなたは大胆にこう宣言したら良い。私たちに与えられている一日一日は全てキリストによって買い戻された神様との大切な時であるのだと。それがこの主の御言葉の命令です。

だから無分別にならず、と言われます。わかりやすく言えば、ゴミの分別と同じで、これはプラスチック容器、これはまだ着れるから衣類、これは穴が開いたから燃えるゴミいうて、これは何かがわかるのが分別があるということで、え?全部ゴミゴミいうて、何が何に属するかわからん、あるいはわかろうとせんのが無分別です。だからこれは神様と共に生きるための大切な時だと、神様のお気持ちも、自分が何者であるかもわからんで流される無分別な者には、なってはならないと言うのです。

むしろ主の御心が何であるかを悟りなさい。総合判断しなさいとでも訳し得る言葉です。私たちが知恵ある者か、そうでないかが、気配りをしゆうか、しやせんか、目に見えてわかって判断できるように、御心も色々と総合判断をしなさい。そのためには、これもやはりあちこちに目を配って、主は今何をなさろうとしておられるか、私の祈りはどのように導かれ、また答えられているのか、教会は今どういう方向に導かれて進んでいるのか、それら全てに御言葉は何と舵取りをしているか。全て総合判断材料です。人の気持ちがわかって配慮している知恵ある者は、主のお気持ちもわかって配慮できるはずです。注意して人の動向を見るように、例えば寒そうにしてないか、逆に暑そうにしてないか注意して見るように、神様が今どのように動かれ、介入をなさっているか、主の動向を注意して見て、総合判断するのです。無論、御言葉から離れたら遭難します。私たちの心の内に御心を示される聖霊様は、知恵と啓示の霊と1章で呼ばれていました。啓示された聖書の御言葉、主の御言葉を羅針盤にして、その方向にどんな雲が出ているか、イスラエルを導いた雲の柱が立ってはいないか、御霊の風は吹いていないか、どっちに帆を張って進めば良いか、総合判断する。そして主のご配慮、キリストの愛を私たちは身に着けて、伝道という主の御心に生きるのです。