13/10/6朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙5章11-14節、イザヤ書26章19節 「赦されたらもう光です」

13/10/6朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙5章11-14節、イザヤ書26章19節

「赦されたらもう光です」

 

キリストが私たちを照らされる、その光とは、優しい赦しの光です。間違っても、刑事ドラマで夜道、怪しい人を職務質問するときにピカーいうてライト当てて何ちゃあ見えんなるような光ではないし、警察署の取調べ室で容疑者に、お前がやったんだろう!言うてライト顔に当てるような、そういう光ではありません。暗闇の業を明るみに出しなさいとは、そうした律法主義的な暗い業ではありません。キリストを見えなくさせるこうした暗い業も、実を結ぶことはありません。

11節で「実を結ばない暗闇の業」と御言葉が語るときの、実って何でしょう。闇の行い、例えば陰口を言って、それが相手の耳に届いたら、信頼関係が壊れるなどの結果が結実します。仮に相手にばれなくても、天の父はそれを聴いておられますから、近い内か、遅くとも終りの裁きの日、自分の蒔いた種は刈り取ることになります。罪は必ず結果を結びます。でもそうした罪の果実など、父は私たちに味わってほしくないのです。そういうのを実りとは呼ばんだろう、違うかと、御言葉はここで暗闇のと敢えて言葉を変えます。父が求められる実とは、むしろ先週9節の御言葉を直訳して申しました、光の結ぶ実。これは吟味できる。食べて味わって、おいしいと、ますます光の実を結びたくなる。そしてその実は、自分だけじゃなく、隣人に食べて欲しいのです。キリストの光の実、赦された喜びは、他人が見よっても何となく味はわかります。何かあの人、自由な味を出しゆうと、一味違う。それをイエス様は、あなたがたは地の塩であるからとおっしゃいました。キリストの光のもとに我が身を置いて、世の光としてそこで結ばれていく生活の実、人格の実、その人から醸し出される味は、何か一味違うということを、私たちもイエス様を信じて洗礼を受ける前、キリスト者を見て感じておったんじゃないかと思います。そして礼拝につながって、洗礼に至り、教会の仲間、神様の家族に加わった。父が求められるのは、そういう実です。

ですから、実を結ばない暗闇の業には加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさいと求められます。加わらないでと訳された言葉は、一緒に手を繋いで楽しそうに仲良く話し合っているイメージの言葉ですが、そこでの話題は暗闇の業ですから、陰口とか、それの仲間はいかんと言われる。闇の業だからって、いつもその業に加わる人が暗い顔をしゆうのでもない。むしろ楽しそうに見えるときさえあるでしょう。そうした闇の行いに多いのですが、それらは密かに行われるのです。暴き出されては困る楽しみが人にはある。この手紙が届けられたエフェソの町の遺跡に行った方から聞いたのですが、図書館から秘密の抜け道があって、それが路地裏の売春宿に続いている。ガイドが言うには堂々と店に行けん人が図書館に行くふりをして通う秘密の抜け道だったそうです。現代の日本に住む私たちにも、様々な秘密の抜け道があると思います。人前ではどんな明るい顔をしておっても、その抜け道を通る時の顔は、きっと暗い欲望に引きずられておって、何か目つきも違うのでしょう。真剣な顔かもしれません。命を賭ける人だっておるかもしれない。でもその暗闇の業の果実は腐敗であり、裁きです。それでもかまんと態度も腐り、良心は麻痺して、トンネルの闇に、心の目が慣れてしまう。

そのトンネル仲間に、けれどもあなたは入り込まないで、むしろ以前は暗闇であったけど、今は光とされた者として、そのトンネルの出口に立って、キリストの光をそこに灯しなさい。あなたが置かれたその場所でキリストの光を灯しなさいと、御言葉は私たちに語るのです。暗闇の業を明るみに出すとは、その闇を白昼にさらけ出すという意味ですが、説教の冒頭でイメージしたように、その白昼とは、キリストの光の中にという意味であって、人間の好奇心や暗い正義感の前にさらけ出すのでは断じてありません。ただ罪を暴いて責めたてたり裁いたりするのでなくて、光に変えられなくては滅んでいくその死の闇を、キリストの赦しの光のもとに置くのです。そのためには先ず自分がその光のもとにおらな無理です。キリストの憐れみのもとに身を置く者だけが、人を憐れむことができます。

光としてのキリストのイメージを最も鮮やかに描くのはヨハネによる福音書ですが、その8章に姦通の現場で捕えられた女性が律法主義者たちによってイエス様の前に引きずり出されてきて、この女をどうせよと御言葉が語っているかと、イエス様に問う場面があります。イエス様はそこで地面に向かってかがみこんでしまって、顔をよう上げんのです。それでも律法主義者たちが余りにもしつこく、どやと問うので、やっと身を起して、あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、先ずこの人に石を投げなさい、と言われて、またかがみこんでしまわれた。きっとイエス様は罪の現場で捕えられたこの人を、しかもそれが人間の好奇心や醜い正義感の白昼にさらされてなぶられる姿を、直視できんかったのです。罪の取り扱いは、そうやってやるんじゃない、罪を神様の御前にさらしだすというのは、そんなにたやすいことではないと、イエス様はきっとその女性を既に十字架の上で担いつつ、そしてその罪を責めたてて自己正当化する律法主義者たちをも担いつつ、言わば両サイドの罪の暗闇が支配する人間の闇の只中で、そのどうしようもない人間を闇から救い出すための、赦しの光として立たれたのです。

そのキリストのもとに我が身を置くとき、人の押しつける正しさや、自分の良心の声じゃなく、イエス様のもとで、罪は光を受けるのです。光に罪が照らされるのです。そして、あなたの罪は赦された。もう罪を犯してはならないと、私たちを罪人としてでなく、赦された者として、愛されている者として、今もまたこれからもずっと招かれ続けている者として、私たちはキリストの光のもとで我が罪を知り、ごめんなさいと言えるのです。人にではなく、自分にでもなく、私を造られた神様に、ごめんなさいと悔い改められる。そして光となるのです。悔い改めて、キリストの赦しに照らされて立つ者は、キリストの光の証人として光るからです。キリストの光に明らかにされたら、全ては光となるのです。

人の罪を明らかにし、ごめんなさいと言わしめるのは、キリストの救いの業を私たちの内に執り成されるキリストの霊、聖霊様の業であって人間はできません。どんなに言わせたくても(笑)。人間ができるのは、その人とキリストの光のもとに立つことです。一緒にここに立ちましょうと、その人のために自分から立つ。あるいは私もその暗闇の中にいたのです。それは人にはよう言わんけど、口にするのも恥ずかしいけど、でもその罪をキリストの光のもとに置いて、私は今ここに立つ。あるいは再び倒れても、何度も何度でもキリストに照らされて、起きなさい、立ち上がりなさいとキリストの召しを聴き、はいと赦しに立つのです。そこに立つことができるのです。キリストの赦しの光のもとに何度でも立てる。そうして立つこと。隣人のためにも立つこと。それがキリストの光のもとに暗闇の業をさらけ出すことです。あいつ何で一緒にこれせんがやろうと思われるところで、いや~したいけど宗教的規定でって暗い顔じゃなく(笑)、朗らかな明るさで立つ。キリストの赦しに照らされた姿でトンネルの出口に立つときに、私たちは出口の明るさ、いや出口から差し込む光として用いられます。その光に照らされた心は、自分が密かに抱く闇に恥を覚えます。でも照らされた恥の自覚です。照らされて知る自覚は、キリストのもとに来るのです。私たちは皆そうした光、キリストの光に招く光として、必ず用いて頂けます。だから歩んでいくのです。キリストに結ばれた光の子として、一緒に歩んでいくのです。