13/9/22朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙5章6-7節、詩編62篇 「避けたい言葉こそ必要」

13/9/22朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙5章6-7節、詩編62篇

「避けたい言葉こそ必要」

 

虚しい言葉と訳すより、中身を伴わない嘘の言葉と、少し丁寧な表現をしたほうが、わかりよいでしょうか。例えば薬局でよく見かける商品に、食べなかったことになる何とかっていう名前の、薬なのか何なのか目に飛び込んできます。ん、と思い留まって通り過ぎるのですが、魅力ある言葉だとは思います。そのうち、昨日あったことをなかったことにする記憶喪失ドラッグとかできるんでしょうか。ハリウッド映画の世界では、はい、これ見て下さい、ピカ!っていう光を見たら、さっき見たこと全部忘れているという装置が出てきますが、が、です。なくなるのは記憶だけで、事件はあったし、その事件によって引き起こされた結果は、やはり残ります。大切な何かを失ったなら、ピカッと光ったち戻ってきません。もうやったことを、なかったことにはできません。中身が伴わない、虚しいと聖書が語るのは、そういうことです。

でもその嘘を見破れんかったら、惑わされてしまう。偽札のようでもあるでしょう。見破れん人は皆本気にしますから、モノが買えたりします。まるで本物のように流通して、何年も誰も疑わなかったら、それが本物になるのでしょうか。でもそういうの案外あるのかもしれません。何年か前に流行った言葉、そういうときにも使ってよい言葉かもしれません。人間だもの。皆それでえいと思いよったがやき、皆やりよったがやき、しょうがないわえと言い訳ができるか言うたら、今週の御言葉が告げるには、惑わされてはならないと告げるのです。

虚しい言葉に惑わされてはなりません。ただ、こう訳してしまうと、勝手に流通している偽札のような言葉、考え、常識があって、はい、皆その言葉に惑わされていました。だから悪いのはその言葉…いや、でもやっぱり騙された方が悪いんでしょうか、神様の怒りがあるんでしょうか、って感じに、ひょっとなるかもしれません。幸い惑わされなかった偽札をつかまされなかった人は、そうよ、騙された方が悪いわと、人間お得意の自己責任にするのでしょうか。でも、むしろ、御言葉が注目をするのは、偽札のような言葉を語る相手なのです。直訳はこうです。誰であろうと、空虚な言葉であなたがたを騙すことをさせてはならない。その誰かに焦点があっていて、その誰かの顔を具体的に神様が、じっと見ておられると言ってもよいのではないかと思うのです。その誰かが、偽札の言葉であなたがたを騙すことがありうる。あなたがたとは無論、教会のことであり、キリスト者一人一人のことですが、その私たちに、誰かが偽札のような言葉を語ってくる。ないでしょうか。ここ、すごく具体的だと思います。それは、その誰かにとって意図的ではないかもしれませんけど、自分自身、偽札だとは微塵も思ってないのかもしれませんけど、でも嘘の言葉、中身の伴わない言葉、例えば、これこれって、やってえいがでねえ、やっても裁きはないがでねえ、だって皆やりゆうことやし、これってああでね、こうでねえと、それが人畜無害でむしろ良いモノだとばかりに、その誰かが私たちに語るとき、その時、偽札の言葉をもって語りかけるその人に、私たちを騙すことをさせたらいかんと言うのです。

それを更に積極的な言葉で言い換えたのが次の頁11節の言葉です。「実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。」詳しくはまたその時に説き明かしますが、主が私たちに求めておられることは一つです。その人とただ同調して同じように生きることでその人の生き方も行く末も、それでえいやかと保証せんこと。むしろその人の行く末が、あなたの行く先と同じ方向に向くために、その人の手助けをしなさい。そのまま行ったら、裁きがあるでと、その事実を明るみに出すのであって、一緒に同じ生活態度に留まることで、その人に自分を騙させたままにさせてはならない。それは、もっと厳しい言い方で言うならば、4章の後半で、私たち教会の歩みとは、イエス様によって与えられた真理を身に着ける、生活の中で真理して生きていくという歩みであると語られ続けてきた以上、その真理を他の人に隠して、偽札の言葉と生き方に同調して、そうやねえ、それでえいわえと歩むなら、むしろ私たちがその人たちを騙すことになるのです。もしそうならば、神様の怒りが不従順な者たちに下ると告げられる時、むしろそれが故の理由で、そうだ、だから神様は騙す私たちを裁かれるのだと納得できるし、不従順と呼ばれる態度が如何なるものかも納得できて、だから主がここで私たちにも全ての人にも、方向転換を求めておられるということが、納得できるのではないかと思います。

じゃあその神様の顔って、怒り心頭に極まって、激オコぷんぷん丸!って最近の子は言うらしいですけど、顔真っ赤にしてる顔で、御言葉に従わない人々を今、カッと睨みつけるように見ておられると、どうしてイメージできるでしょう。無論、御言葉が敢えて怒りというイメージしやすい表現を用いて神様をイメージさせている意図を、損ねるつもりはありません。が、そもそも怒りをイメージする時、人間の間違った怒りをイメージして、神様に押し付けることも多いのです。だから4章31節では人間の自分勝手で愛のない自己正当化するような無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどの類は、人間の悪意だから全部捨てろと言うのです。そんなのと神様の怒りとを一緒にしたらいかんのです。人間が神様の形に造られたのであって、歪んだ人間の形に模して神様を造るのが偶像なのです。とにかく、神様の怒りのイメージは大切です。その名を愛と呼ばれる神様が、それ故に怒られるというイメージでもよいし、だからと言って甘くはならず、ブチ切れはせんけれど、恐ろしいという畏れのイメージもまた真理です。十字架で御子が受けた神様の怒りを、御言葉からイメージしたらよいのです。十字架で人類の罪の身代わりの裁きを受ける前の晩、神の子が恐怖した怒りを思えばよいのです。その怒りを、どうかあなたは受けてくれるなと、そのために御子を十字架に付けられた父の思いを、神の怒りという言葉が出る度に、思わないままで想像する神の怒りは、どこか歪んでいるように思います。十字架を通して見るのです。不従順な者への神様の怒りを、十字架を通して見るのです。父は、刑に処されたキリストを不従順な者として裁かれて、あなたはなんてことをしてくれたのかと、怒られたのです。この神様の罪の裁きを、神の怒りと呼ぶのです。もし愛がそこにはなくて、法的な正義が全てであれば、淡々と裁きでえいのです。愛があるから怒るのです。自分が関わるから怒るのです。他人ではないから怒らずにはおれない。だから、あなたの身代わりに死んだキリストを、どうか他人事にはしてくれるなと、あなたはわたしの子じゃないのかと、父が怒りを通してもなお呼びかけておられると知れるのは、この愛の怒りが十字架を通して語られるのを、御言葉の内に見るからです。

だからこそ、です。じゃあ裁きが十字架で終わったがやったら、別にどうじゃちかまんとはならん。それが愛ではないことは、誰にでもおわかりになるだろうと思うのです。そこでこそ、何をやっても裁きはないなどという空虚で偽札の言葉や考えで、誰かが私たちを騙すことを、誰にもさせてはならんのです。

御言葉が語る通りに私も語ります。神様の怒りは下ります。やがて、終わりの裁きの日に、キリストご自身が、生きている者と死んだ者とを裁かれますと、使徒信条では告白しますし、それも無論、御言葉の真理ですが、ここで怒りが下ると告げられているのは、現在形、つまり、今もう怒りが下っているということでもあります。無論、だから将来は下らんというのではなく、むしろ将来の怒りがあることを予期させつつ、その将来の怒りから逃れさせるため、言うなれば今その怒りに向かっている方向からグルリとキリストの赦しに方向転換し、キリストの救いに従順な者として悔い改めさせるための恵みとしての怒りを、御父が、今下しておられるとも言えるのです。親なら、あるいは大人なら、そういう怒りがあることを、おわかりになるのではないかとも思います。子供であってもわかるでしょう。神の怒りが下るのは、それだけもう神様の愛が下っているからです。

だから、その愛に従わない者たちの仲間になるなと言われます。仲間と訳された言葉は面白い言葉で、この手紙を書いたパウロの造った言葉のようです。直訳すると、こういう言葉です。共に一緒に持つ者。他人じゃない。何かを共有し、それを一緒に持っている。同じ言葉が3章で異邦人がユダヤ人と共に一緒に約束に与る者となる、と言われるときに使われました。一緒なんだ。救いの約束を共有して、一緒に持っている仲間、家族だという意味合いです。キリストを一緒に持っているほどの仲間です。その同じ言葉を用いつつ、今度は、それほど強い共有を、あなたがたは、どうか偽札の共有なんかでしてくれるなと言う。裁きらぁないでねえ、これやったち、裁かれんし、赦されるし…と、そういう無責任な考えを共有するのではなく、あるいはそのことで下る裁きを共有するのではなく、どうか、その裁きから救われるために、十字架で死なれたキリストの救いの招きに、はいと応えて、お従いしていく共有を共に一緒に持つ仲間に、この救いの仲間へと人々を招きなさい。これこそが、御子を私たちの兄として、父が与えて下さった理由です。そして、キリストの、私たちに向けてのご命令なのです。あなたがたは行って、全ての民をわたしの弟子としなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたこと全てを守るように教えなさい。この教会の仲間、キリストの弟子として福音を共に一緒に共有する仲間、神の家族へと人々を招くこと、それが伝道するということです。お一人様の信仰などありません。あるのは家族の愛であり、その愛を喜ぶ父と子と御霊です。この愛は偽札でしょうか。偽札の言葉が横行し、まるで存在そのものが偽札のような世の中で、しかし、この家族は主の愛の火によって、あるいは裁かれ、試練を受けつつも、精練されながら練り清められながら、最後に残る真実の愛の家族として、歩み続けていくのです。だから、この愛の仲間にいらっしゃいと、一緒に笑い、また泣きましょうと、父の愛へと招くのです。この愛が永遠に残るのです。