13/9/8朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙5章3-5節、詩編12篇 「感謝で貪欲に終止符を」

13/9/8朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙5章3-5節、詩編12篇

「感謝で貪欲に終止符を」

 

では誰が受け継ぐのか。それもまた、わきまえていなければならないでしょう。受け継ぐのですから、勝ち取るのではありません。例えば、私の財産は、誰が受け継ぐのでしょうか。それはもちろん、保険の受取人でしょう、って考えた方はサスペンスドラマの見過ぎです(笑)。ま、牧師死なせても儲かりませんので心配いりませんが、それでも誰が受け継ぐかって言ったら、すぐ顔が浮かぶと思います。家族です。受け継ぐという言葉がここで用いられているのは、1節からの流れだからです。あなたがたは神に愛されている子供ですから、ですから受け継ぐのですよ。そのことをわきまえていなさい。そして、あなたは神の家族であるとわきまえるなら、ここに列挙されている生き方、神の家族に相応しくない会話の内容や、その態度は、あなたには相応しくないとわきまえられるはずだ。そう言い直したらわかりよいでしょうか。

今週の御言葉の冒頭では、それをこう言い直したのです。あなたがたの間では、聖なる者にふさわしく、これこれのことは口にせんように。聖なる、という言葉は、神様の、という専門用語です。聖書は神様の書ですし、聖霊は神様の霊です。聖なる者は神様の者、神様に属する神の家族だとも言われます。先に告白した使徒信条で、聖徒の交わりを信じますと告白したのは、神の家族の交わりがここに与えられている恵みを信じますという信仰告白です。その交わりの中で、下品な会話をすることは、神の家族に相応しくない。父がお喜びにならない。それはこの家ではしない。無論、外でもしない。だってあなたはわたしの子だから、うちの家族は、それはせんだろうと言われるのです。

別の言い方で言うと、聖なる者とはキリスト者、キリストの者です。最初に教会が始まった頃、ローマ帝国の大都市アンティオキアで呼ばれ始めた名前だと使徒言行録に記されます。例えば皇帝カエサルの兵士や僕をカエサリアニと呼んだように、あいつらキリストのために言うて、前は一緒にやりよったあんなことやこんなことせんなったぞ。まあ立派なクリスチアニ、キリストの兵士や、あるいはキリストの奴隷か、言うこときかないかんがやき、あっはっは言うて笑い物にしておったようです。最初は変なあだ名を付けられたと思ったかもしれませんが、けんど確かにそれが私たちだと、自覚するようになったのでしょう。私たちはキリストのもの。キリスト者なのだと、自分たちを呼ぶようになった。私たちに相応しい会話が、やはりあるなと襟を正す根拠があるのです。それは自分を誰だとわきまえるかです。主がおっしゃるのは、あなたは神の家族だろう、聖なる者じゃないかと言われるのです。だから家族に当然のこととして家族の受け継ぐものを受け継ぎます。それが神の国と呼ばれるだけでなく、「キリストと神との国」と言われるのは、キリスト抜きの家族はないことを強調しているからでしょう。キリストが私たちの身を引き受け、死なれ裁きを受けられたから、私たちも、キリストの身代わりによって神様の子とされる。三位一体の神様がそこまでして与えようと差し出されたキリストの身分、神様の子とされ家族として受け入れられるという聖なる救いを、受け継ぐことができるのです。

昔アンティオキアで、あいつらおかしいぞ、自分のために生きてないぞ、立派なキリストの兵士か、それか奴隷じゃ言うて笑われたように、以来、キリスト者はずっと、理解されにくいポジションに自らを置いて生きてきました。それは単に性的に乱れた世の風潮に身をさらさないというだけではありません。世の中で、それっぱあえいじゃか、皆やりゆうじゃかと言われる生活態度を避けるだけでなく、その根源に目をやるのです。それが貪欲、あるいは貪りと呼ばれる罪の力です。もっと欲しい。食べたらいかん果実をも食べたいのです。アダムとエバのように。食べたい欲求自体は父が人間にくださったもので良いものです。それを悪くするのが貪欲です。貪るのです。性的なことで言えば結婚関係以外で満たそうとする欲です。食欲も然り。もっと欲しいのです。あるいは今これが欲しいのです。よくわかることだと思います。

どうして貪りが天の父の家族に相応しくないか。その答えを御言葉はズバリこう言います。貪欲は、偶像礼拝だからだ。その貪欲が貪るものを神とするからだ。すごい言い方をすると思いますが、現代日本の若者文化は、この聖書の教えを学んだのでしょうか。インターネット文化で自分が欲しいものを与えてくれる提供者のことを、若者たちは神と呼ぶのです。それは若者だけのことでしょうか。フィリピの信徒への手紙はこう語ります。「彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。」そして続いてこう告げるのです。「しかし、私たちの本国は天にあります。」腹や下っ腹の貪欲などに仕え礼拝してはならない。そこに神様はおられない。人は自分の腹に支配され、うつむく生活をせいでもよいのです。むしろ私たちは天にこそ目を上げて、そこで私たちの戸籍を握りしめてくださっている、キリストにこそ目を上げてその名を呼ぶのです。キリストよ、私の戸籍を握りしめておられる主よ、憐れんで下さい。そして私が誰であるのかを名乗らせて下さい。私はキリスト者、あなたの命によって罪から買い戻された、あなたの家族、神の家族ですと、私たちには天に目を上げ祈れる家があるのです。その救いの恵みを、その慰めを、何度もわきまえ続けるのです。

目を天に上げ祈り、また腹に目を留めることを遮るようにして聖書を開く。そこに開かれる主の言葉をこそ、まるで貪るように没頭するところで、私たちは貪欲から解放される恵みをわきまえるでしょう。何を欲したら良いのか。どんな喜びと満足が私たちのものとして、もう用意されているのか。頭がクリアーにされると言いますか、貪欲の鎖がチャラチャラ落ちていくと言いますか、神の形に造られた人間本来の欲求が、貪欲から解放されて現れてくる。ああ、私は神様を求めているのだと、神様をもっと知りたくなる。私の渇きはどこから来るのか。主でないと私は満たされんのに、私は嘘の代替え品で、偶像で、自分を満たそうとしよったき、貪欲が更なる貪欲を呼んで、収拾付かんなっちょったがやと、本来の欲求をもわきまえられます。だから主の名を呼ぶのです。

だから御言葉が告げるのは、貪欲に替えて、むしろ感謝を口にしなさい。だってもう欲しいものが与えられているじゃないかと、キリストに目を向けさせるのです。もうキリストは来て下さった。少なくとも一つそこに感謝を口にする根拠があります。少なくともなんて言うとお叱りを受けるかもしれませんが、ここに描かれている人間の姿は理想主義や律法主義のまかり通る絵空事の人間ではなく、貪欲と戦わざるを得ない罪と弱さを持つ教会の姿です。以前のように歩んでしまう、いや歩みたくなる貪欲が、腹減った、満たしてくれ、これっぱあえいじゃかと誘惑する肉体を持っている教会です。その貪欲が、言わばちょっと品を良くした形で、教会で交わされる会話の中にも現れてくるのです。例えば、あの教会はあんなにお金持っちゅうに…とか、あんなに人がおるに云々とか。これはまだ上品な内の下品でしょうか。顔のことや見かけの魅力などはどうでしょう。それが伝道のお役にたてて感謝やねえ、となればよいのですが、それを口にすることで弱い人がつまずくのであれば皆で感謝できません。主は、自分のことだけ考えて感謝するファリサイ派の姿を描き出して、これは父の前で正しいと認められないと言われたこともあります。貪欲に終止符を打つ感謝は、隣人を建て上げる感謝です。教会がキリストの体として成長できる感謝です。隣人に不満を持つことはあるでしょう。家族にすら不満を抱き得る貪欲があるのです。なのに感謝ができるのです。その隣人のため、家族のためにキリストが死んでくださったのです。神の家族へと招かれたのです。わたしのもとに来なさい、不満から休ませてあげようと。そこでイエス様が招かれた柔和で謙遜な生き方を、自分で持ってない生き方とも言えます。コリントの信徒への手紙一の4章はこう語ります。一体あなたがたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。そうだ、父から頂いたのだと、天にまなざしを上げるとき、ありがとうございますと言えます。自分で得たと思うなら言えない。それ故、貪欲を脱ぎ捨て、感謝しなさいと御言葉が語るのは、あなたは自らを正しい場所に置きなさい、父の恵みのもとに自分を置いて、キリストの憐れみのもとに自らを置いて、神の家族に相応しい場所で、父の御前に歩みなさいという招きです。

父が私を見て下さっていると、まなざしを父に向けて人と語るなら、話題がもし不品行に滑り落ちても、すぐ、ごめん、今のいかんかったねと言えるでしょうし、下品な冗談も避けられて、むしろ皆で感謝できるような冗談すら言えるでしょう。冗談の全てが悪いのではありません。イエス様はユーモアがお好きでした。人が笑うのが好きだったとも思います。健全な笑いは心を和ます、食卓に飾られた一輪の花のようです。仮にいわゆるおやじギャグでも、一つぐらいなら和みます。が、多いと下卑る。と言うか、一緒にいる人の気持ちを考えない時、下品になってしまうのでしょう。うけてやろうとか。自分のことが中心になって貪欲になるのがいかんのです。

むしろ感謝できるポジションに自らを置き、また隣人をも感謝できるポジションへと、父の恵みへと招くのです。ここには神様がおられますと。ここには救い主が共におられて、見よ、世の終わりまで共におられて、父のみもとに歩めるのです。一緒に歩んでいきましょうと、家族の歩みをするのです。自分が自分がではない、恵みを受けるポジション。共に天の父の子供たちとして手を取り歩んでいくポジション。それが、聖なる者に相応しい生き方を営む場所、教会であり、それが父の招きに相応しく、はい、と返事する歩みです。改めて申します。皆、招かれているのです。キリストがもう来られたのです。罪は十字架に架けられたのです。今や赦しを携えて、復活のキリストが言われます。わたしのもとに来なさい。父のもとへと共に歩もう。その神様の招きに相応しく、はい、と返事する人の全ての戸籍は、天に保管されているのです。戸籍を天に持って歩みましょう。父の子として歩みましょう。笑いあり、涙あり、色々ある人生を、キリストが、一緒に歩んで下さるのです。