13/8/18朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙4章31-32節、詩編103篇 「赦しに導かれる生活」

13/8/18朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙4章31-32節、詩編103篇

「赦しに導かれる生活」

 

先日、高知中央教会の会堂建築の参考にと、朝倉にあります高知喜びキリスト教会の会堂見学に行ってきました。大きさは大体ここと同じぐらいかと思いますが、会堂を立てるとき、あるコンセプト、うちはこういう会堂を立てるという考えに基づいて立てたそうです。椅子はベンチではなく、上に重ねてすぐ片付けられる椅子でして、それを重ねて端にザーッと置いたら、広い遊び場になる。下はビニールマットと言うのか拭いたら子供が座って遊べて、子供会に沢山呼んで、一緒に巨大カルタ取りゲームとかって、すべってカルタ取りできるよう、最初から計画、ヴィジョンがまずあって、それで会堂を建てている。素晴らしいと思いました。うちもいずれ開拓伝道し会堂建築するときは、まず駐車場側に流しそうめん用の蛇口を…(笑)。ま、妻が本気にして図面引いてしまいそうなので、このへんにしておきますが、本題はこうです。キリストも御自分の体、教会を建てるにあたって、とっても具体的なコンセプトを持っておられた。それがこの4章でずっと語られてきたのですが、今週の御言葉で言えば、こうです。ここにいると互いに親切でいることができる。憐れみの心で接し合うことができる。赦し合うことができる。それが教会だ。それが、わたしの体、あなたがたの家、神の家族である、教会であると主が言われる。アーメンって言えたら、こんな幸いなことはないと思います。主が、あなたがたもこの幸いに生きていこう、さあ一緒に、この教会を、幸いな救いの家として建てていこうと招いておられる。それが今週の御言葉です。

互いに親切にし、と訳された言葉。直訳すると、互いにしっくりくるようになりましょうという招きです。例えば、このベンチにしっくりとくる長座布団が教会員の素敵な奉仕によって与えられています。けれどもしこの座布団が、真っ赤なベルベットで、しかもスパンコールがちりばめられちょったら、しっくりこんですね。場違いという言い方がありますが、まさに場が違っていて、それでしっくりこなくなる。無慈悲や憤り、怒り、わめき等は、教会という場にしっくりきません。だから、それらは脱ぎ捨てて、キリストの優しさを着て、キリストの優しさに包まれて、互いにしっくりくる人になる。それが優しい人になりましょうというイエス様の招きです。親切だけど、距離があるっていうのではなくて、しっくりくる。家族の匂いがすると言ったら近過ぎでしょうか。

以前、同じ言葉がイエス様の招きで語られていると言ったのを覚えてらっしゃる方もおいででしょう。疲れた者、重荷を負う者は誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげようとイエス様が両手を拡げ、さあわたしと一つのくびきを負って、一緒に歩んでいこう。わたしのくびきは負いやすいからと招かれた。そこで、負いやすいと訳された言葉が、あなたにしっくりくるという言葉なのです。オーダーメイド仕立てのスーツのように、あるいは履き古したジーンズのように、しっくりくる。私の体の一部だって思えるほど、しっくりくる。教会で、互いに親切にしあうところで、私たちがどんな風に感じるかというと、互いにしっくりくるようになる。それがイエス様による教会形成のコンセプトです。初対面から親友っていうのは、難しいと思いますし、人間関係苦手な方もおられますから、これを律法主義的に、教会はしっくりこないかんという態度でおると逆にしっくりせんでしょう。最初からでのうてもよいのです。新品のジーンズ履くようなもんで、おおの窮屈なと思うのが、初めて出席した教会の礼拝の印象だってよいのです。私もそうでした。当時伝道所だったこの教会に初めて出席したとき、おおの窮屈なと思いましたが、教会員になって、皆の顔と名前とを覚えて、その顔の方から私は祈って頂いていて、いや、教会の神の家族によって私は支えられていると肌で感じるようになっていき、その優しさの中に身を置いて、まことこの教会が、私の一部となりました。そして私も、この教会の一部となった。今は天に召された金田さんや堀さん。ユニークな個性の持ち主でしたが、さあ、そうでない人が教会におるのでしょうか(笑)。個性の違いは当然あっても、一緒にイエス様の名を呼んで、教会はえいねえと一緒にお仕えして、それが互いにしっくりくる。そういう優しさに共に生きるイメージの方が、親切という言葉のイメージより、もっと教会の実際にしっくりくると思います。こう訳し直してもよいのです。互いにしっくりくる人になりなさい。そこを目指す。履き古されたジーンズになるまでには、時間がかかるかもしれませんけど、履き古すぐらいの沢山の時間を一緒に歩んでいきたいのです。一緒に歩んだその距離の分だけ、キリストの優しい弟子たちになれるからです。

その逆に、心の距離を遠ざけてしまうのが、先に言いました無慈悲や憤りなどの態度です。どうして前半後半で、これらの言葉が対比されるのか、よくおわかりになると思います。一方は互いの間に距離を作り、他方は距離を縮めてくれます。キリストの体である教会を一緒に建てていく時に、キリストが持っておられたコンセプトは、互いにしっくりくることなのに、そのしっくりを壊す態度が教会にもおこりうる。これらの態度は、でもキリストの憐れみのもとにしっくりこないので、だから脱ぎ捨てなさいと言われます。ですので、もしそういう態度が沸き上がってきたら、あ、私の心はいま真っ赤なベルベットを着ちゅう、なんやこのカラオケ衣装は、スパンコールまでついちゅう、はよう脱ごうと、キリストの憐れみのもとに急ぎ来て、イエス様、この変な衣装を脱ぎ捨てます、主よ、憐れんで下さいと祈るのです。

無慈悲と訳された言葉は、もともと奴隷をモノ扱いする態度を現わした言葉です。人扱いしない。私とは違うからと。だから同情もしない。厳しくして当然だという態度になる。その無慈悲な態度を、わたしの体にまとわせないで、すぐ脱いでくれと主は言われます。マザーテレサが愛の反対は無関心ですと言ったことも、これに当てはまると思います。私は関わりたくないと、自己責任にして放置する態度を、しかし教会は脱ぎ捨てて、私はキリストの憐れみのもとに、あなたと一緒に立ちたいと、自らキリストの憐れみに立ちつつ、キリストの憐れみの優しさを、その人のもとに運ぶのです。具体的には一言二言だけの言葉かもしれませんし、その勇気が出なくて、祈るだけかもしれません。でもそこで、主の憐れみのもとで祈るのです。あの人を、そして私を、どうか私たちを憐れんで下さいと、主の憐れみのもとに立つのです。そうやって祈る教会は、内々だけでしっくりくる仲良しグループにはなりえんでしょうし、伝道する教会に当然なります。ここに優しい憐れみがありますと、キリストの赦しと恵みがありますと、伝えたくなる優しさが心に湧き、その湧き出した優しさが、キリストを証しするのです。

続いて教会のしっくりを壊すリストに、憤りと怒りがあげられます。怒りについては、26節で取り扱ったはずなのに、また語らざるを得んというのは、これで教会を壊す事例が本当に多かったのだと思います。わめきというのは、大声を上げることですが、口論や言いあい、高知ではよく目にする光景かもしれませんけど、どうして大声になるかと言うと勝ちたいのだと思います。でもそこでキリストの憐れみに立ち損ねたら愛の闘いは負けになります。私たちは人に勝たなくてよいのです。自己主張する必要もありません。むしろキリストの憐れみをこそ主張して、しかも優しく主張して、この人おかしいと思われたら良いのです。その憐れみのおかしさが、人を自由にするのです。愛の愚かさと言ってもよい。人を本当に変えるのは、十字架で罪を負って赦す愚かな愛です。

そしりという言葉は、あまり使わんかも知れませんが、やってはいるかもしれません。悪口、陰口、無責任な批判。おんしはねゃとか、あの人はねぇとか。これも教会を壊します。陰口で盛り上がるしっくりは、キリストの憐れみにしっくりきません。十字架のもとに立ち損ねています。むしろ一緒に祈ったらよいのです。我らの罪を赦し給え。そしりの試みに遭わせず悪より救い出し給えと。そこには悪意があるからです。そこから私たちを救いだすために、キリストが死んで下さったのですから、主の憐れみのしっくりを破壊する、悪口、陰口は脱ぎ捨てて、もし図に乗ってやってしまったら、勇気を出してこう言ってもよい。一言お祈りしていい?って、今言った主の祈りを祈ればよい。そしたら、本当の言葉が、新しい言葉が、続いて出ると思います。しゅんとした雰囲気になるかもしれませんし、そういう雰囲気に慣れてなかったら、戸惑うかもしれませんけど、案外その前の陰口に傷ついて躓く寸前の人がおったかもしれんのです。そうやって主の憐れみのもとに一緒に立って、悪を脱ぎ捨て、古い言葉や態度を脱ぎ捨て、キリストの優しさのしっくりに生きる。こっちのほうがしっくり来るねぇと、しゅんとした気持ちでありながらも、不思議な自由が心にあるのを、それがキリストの平和であることを同時に体験もするでしょう。ごめんね、言い過ぎてと、悔い改めの言葉も出るかもしれんし、ごめんなさいという言葉って、こんなにしっくりくるのかと、こんなにも優しい言葉だったかと、改めて驚くのかもしれません。赦しもそうです。赦したら自分が負けだと思っていたのに、これは妥協できんと赦さないで、苦々しい思いであった私が、むしろどんなに不自由であったかと気付くのも、同じキリストの憐れみのもとでです。神様がキリストによって私たちを赦して下さった。その憐れみのもとに身を置いて、赦しの自由に生きられることが、こんなにしっくりくるなんてと、あの聖餐式の招きの言葉に導かれもする。主の恵み深きことを味わい知れ。そこで恵み深きこと、と訳された言葉も、しっくりくるという言葉です。赦しはしっくりくるのです。

キリストがその優しさと恵みに招かれます。赦せない思いに疲れた人も、自分の悪の重荷を負う者も、皆わたしのもとに来なさい。赦されて生きるいのちの自由を、互いに優しく生きられる平安の道を、わたしと一緒に歩んでいこう、家族みんなで歩んでいこうと、キリストが招いておられます。その恵みの召しに、皆でお従いしていくのです。

キリストの憐れみがしっくりとくる教会形成。それが、その名を愛と呼ばれる三位一体の神様の、救いのご計画であるのです。