13/11/3朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙5章20節、詩編103篇 「父の憐れみは常にある」

13/11/3朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙5章20節、詩編103篇

「父の憐れみは常にある」

 

この御言葉を聴いて、よく愛唱聖句であげられるテサロニケの言葉を思い出されるかもしれません。いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これは言わば信仰の三拍子として、信仰者たる者、こうあるべきというイメージで、心に焼き付いている御言葉かもしれません。確かにそうだとも思うのですけど、それはまた、先週申しました、霊に満たされるというイメージが、お~来た来たと、言わばスーパースピリチュアルで超霊的なイメージで誤解されやすいのと同じで、感謝するというのも、超霊的に何かわからんけど感謝で~すというのとは、ちっくと違うように思われます。今引用したテサロニケの三拍子の後にも「これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」と、キリストが喜びと感謝の根拠として語られるのです。キリスト抜きで、信仰者かくあるべきという、表情と言いますか、感謝ですを口癖のようにせないかんというイメージを、もし想像してしまうなら、方向が自分に向かってズレるのです。

感謝には根拠があります。動機と言っても良いかと思いますが、別にキリスト抜きでも、感謝しましょう、いつも何にでも感謝しましょうという宗教とか宗教ではないけど、ありがたい教えというのは、皆さんも聞いたことがあるんじゃないかと思います。あれは何で感謝するのか。例えば、そうしてたら良いことがあるとか、良い人になれるからとか、そういう感謝する人になりたいからとか、色々と動機はあるのです。

それに対して御言葉の語る根拠・動機は、私たちの主イエス・キリストの名によって、イエス様が私たちの主であられるという理由によって、いつでも、どんな状況でも、感謝できるから、しかも父である神様に、感謝できるから、だから感謝をする。自分を根拠にせんのです。

あらゆることについてというのは、知能を駆使して頑張って考えて、何かしら感謝できる理由を見つけて感謝をしなさいというのではありません。御言葉の語るのは、もっとシンプルです。ほら、あるでしょう、何があっても変わらん一つの感謝できる父の恵みが。イエス様を私たちの主として与えて下さった父の恵みと憐れみが。私たちに何が起こっても、どんなときでも、キリストが私たちの救い主として与えられている恵みの事実は常にある!と、私たちの土台を見つめさせるのです。

もちろん考えて感謝する理由を見つけることも、思いを尽くして主なる神様を愛することに含みうるとは思います。教会の歴史でもそうした説教はありました。例えば金の口と呼ばれるほど優れた説教者クリュソストモスが、人は地獄という最も恐ろしい聖書の教えに対してさえ、それが私たちを罪を犯すことから遠ざけるからという理由で、その存在に感謝できると教えた説教が残っています。そうやって色々なことに対して、例えば病気や災害に対しても、尚そこに知性を尽くして探し出して見つけられるであろう感謝の理由というのも、ないわけではない。でもこの御言葉は本当に、そういうことを教えるのでしょうか。違うんじゃないかという理解もあって、私はそちらのほうがしっくりくるのです。

そもそもここは、言わば這いつくばってでも感謝せえという、根性の如き信仰のスタイルをスパルタ教育しているのではありません。ここは聖霊様に満たされて主に倣って歩むには、つまりキリストの体の一肢として、キリストを証しする教会員として歩むにはどうしたら良いかという視点から語られている御言葉です。それにはこの四つだと、18節後半から、改めて省略して直訳するとこうなります。霊に満たされなさい。①賛美によって語り合いつつ、②主に心から歌いつつ、③父なる神様に感謝しつつ、④互いに仕え合いつつ。そうやって教会はその最初から、礼拝の中で共に賛美を捧げ、賛美で語り合ってきた。それだ。皆で賛美するんだ。しかも心から、言い換えれば自分のこととして賛美しなかったら、賛美にはやはりならんでしょうと、賛美の対象を、漠然と神様と言うのではなくて、に向かって賛美する、それが教会の讃美だと告げるのです。そして、そうやって私たちが自分のこととして賛美することのできる主とはどなたか。それは他でもない、私たちのために人となられて十字架で私たちの罪を負って死んで下さった、私たちの主イエス・キリストだ!そうだ、この方こそが私たちの主!父が私たちの主として与えて下さった私たちの主イエス・キリストのお名前を呼ぶ時に、私たちは、どんな状況にあったとしても、その状況によってダメにならない、無にならない、奪われてしまうことの決してない、常に父に感謝できる恵みの事実に立てる。私たちの主イエス・キリストの救いの事実に立てるじゃないか。神様の憐れみの現実はここにあるだろう、なあ、そうじゃないか、主は生きておられる!と御言葉は励ましを語るのです。

キリストの救いの事実に立つ。それが聖霊様に満たされるための立ち位置であり、土台です。あ、私ここに立たされていたと、感謝ができる自分の土台に立ち帰ると言っても良いでしょうか。

このことは実にこの手紙の3章16節以下で教えられてもいたのです。「どうか御父が…心の内にキリストを住まわせ…キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し…満たされるように。」

聖霊様によって、主の愛の現実、救いの現実に満たされるためには、キリストなしでは私は貧しいという、自分の貧しさに帰るのだと言ってもよい。心貧しき者が幸いなのです。その心にキリストは住んで下さるのであって、心がいつも感謝で満たされてなかったら、そんな家住めるかと主が出ていくのではない。人間はそうでも、私たちの主となるために人となられた神様はそうではない。神は愛です。その愛を、貧しき者を満たす神様の愛を、人は、十字架で死なれた主によって知るのです。

心の荒れる時があります。嵐の中に投げ込まれた小舟のように、心が状況に振り回され、何で私がこんな目にと思って荒れすさむ時、私には人から教わって自分に語りかける言葉があります。すさむ自分の心に向かってこう語るのです。私には地獄の裁きが相応しい。私が思い、また為したこと、語ってきた言葉は、神様の聖なる怒りにこそ相応しいと、謙遜ではなく、聖書の語る罪と裁きの教えを信じる信仰によって心からアーメンと思いつつ、私は荒れる心に唱えます。何度も唱えます。自分を裁くためではありません。そんな私のために自ら十字架で釘打たれ、私の地獄を引き受けて死なれたイエス様が、裁きにこそ相応しいこの私を、だからこそ愛して死なずにはおれないと、私の荒れた死を死んで下さった。その愛を知るため唱えるのです。その愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるか理解したつもりになっている私が、何度も何度でも、その愛の高さに向けて、キリスト以外の何者かによって満たされようとしていた心を、主にご支配して頂くためにです。その私たちの心を主に差し出して、心から主に向かって歌いつつ、主よ、私をあなたの僕に相応しくして下さい、私を憐れみ造り変え、あなたの愛によって満たして下さい、それがあなたに結ばれた私に、父の目から見て相応しいことですからと、私たちの主イエス・キリストの御名により、父よ、私を主によって赦し、あなたの子供として救って下さり、ありがとうございます、父よ、天にまします我らの父よと、どんな時でも感謝ができる。キリストはこの無条件の恵みを、十字架の死と引き換えにくださったのです。決して失われることのないこの愛による救いのゆえに、私たちは感謝を父に捧げるのです。キリストと言う救いの土台以外に、私たちはもはや立たされてはおらんからです。これが私たちに与えられている、揺るぎなき救いの土台、キリストが主でいて下さる憐れみです。

13/10/27朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙5章15-21節、エゼキエル書11章19-21節 「心の帆をはる賛美の風」

13/10/27朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙5章15-21節、エゼキエル書11章19-21節

「心の帆をはる賛美の風」

 

霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。この礼拝で、私たちが今まさに行っておりますのが、これです。神様の霊によって、私たちの命の最も奥深くで神様に造られた人として持っている渇きが、この世では満たされない欠乏、私が神様によって造られ生まれてきた目的が、神様の霊によって満たされる。しかも何か怪しい満たされ方をするってんじゃなくて、お~来た来たとかってだけじゃなくて、どの教会の礼拝でもそうでしょう、主に向かって、救いの主イエス・キリストに向かって心からほめ歌うとき、それは起こっているじゃないかというのです。

霊に満たされなさいという御言葉は、知名度の高い御言葉かと思いますが、ともするとそれが、何か特別な次元のキリスト者だけに、言わば霊的なキリスト者だけにアーメーンってくる御言葉に聞こえて、私にはようわからんのですと思われる方がおったら、どうぞ安心して下さい。きっと今までの礼拝生活の中で、この満たし、あるいは霊的満足という味わいは、それと気付かずに味わっておられるのではないかと思うからです。わかりやすく言えば、心がイエス様に向かうときがある。そしてイエス様の御言葉に、はい、アーメンとお応えするときがある。世の中の雑事に心奪われて、あれをせないかん、これもせないかん、そうせな生活も心もお財布も満たされないからと、自分や家族の人生を満たそうと、ついついあくせくする毎日が、ふとリセットされる時が来ると言いますか、むしろリセットしに来なさい、そのために礼拝はあるじゃないかと、主が安息日を用意して下さっている。そこで人間の生きる目的、生まれてきた目的に皆立ち帰って、そうだ、これが私だと、キリストの前で満たされる。これが私だ、神様の子、それが私だと満たされる。それを光の子として歩みなさいと、前の頁8節では言われたのですけど、同じことです。キリストの光のもとでわかるのです。これが私だ、また私たちなのだと、主に結ばれた家族としての私たちをも悟るのです。

それをどういうところで悟るのか。心から主を讃美するところで、光が心に満ちて、思いや考えが、あるいは人生に対する態度、心の根底、心のモードって言ったらよいのでしょうか、とにかく今朝の19節で心と言われている、私たち一人一人の存在の根底が、讃美の光の中で聖霊様のお働きを受けて、キリストの愛に触れるのです。賛美の中でそうした体験をされたことはないでしょうか。主の愛に触れて涙を流されたことはないでしょうか。説教はわからんかったけど、賛美に感動して教会につながったという人の数は、どれだけでしょうか。それはうんと単純に言うと、神様が私と共におられるという印象やイメージだとも言えるかと思います。もっとハッキリ満たされると、神様が私に語っておられるというイメージに心が成長していきます。しかもそれが説教を聴く中でじゃなくて、讃美の中で起こると語るのは、この聖霊様の御業を一週間の内のほんの一時間足らずに私たちが限定して考えてしまわんためでもあるでしょう。無論、御言葉の説教を通して主は語られますが、宗教改革者ルターの言った通り、讃美歌は信徒の説教です。説教は毎日の生活の中で歌われる賛美を通して終日鳴り響き続けるのです。皆さんが今朝起きて、頭に響いていた曲ってないでしょうか。もしそれが演歌やっても責めはしませんが(笑)、それが讃美歌であったらどんなに心が嬉しいでしょう。起き抜けの顔の表情も違ってくるのではないかと思います。

この辺りは、この手紙を書いた使徒パウロの牧会者としての細やかな配慮が表れるところでもあると思います。聖霊様に満たされる歩みは、まことに具体的なのです。なんか、お~来た来たってだけが満たしじゃなくて、ここを丁寧に説き明かしますと、今朝の御言葉の後半「霊に満たされ」という言葉の後に、四つの「~しなさい」という言葉が続きます。①語り合い、②ほめ歌い、③感謝しなさい。そして新共同訳は区切りましたが21節、④互いに仕え合いなさい。この四つは、霊に満たされなさい、じゃあ具体化にはどうしたらよいか、これだと語る内容です。省略して直訳するとこうなります。霊に満たされなさい。①賛美によって語り合いつつ、②主に心から歌いつつ、③父なる神様に感謝しつつ、④互いに仕え合いつつ。いずれも極めて具体的です。そしていずれもが神様の子供として具体的に歩むための急所です。これをしてないと世に流されて、心が世の楽しみに満たされ、あるいは世の語る充実や価値観に向かって心が渇くように影響されて、光の子としてどうやって生きたらよいのか、わからんなる。具体的な生活の急所です。例えば三つ目の父に感謝することをないがしろにしたら、恵みに生かされている感覚が麻痺します。自分で自分の人生を頑張って生きないかんピリピリした人間になるか、ピリピリする必要がないほど世では成功しているけれど、自分を満たすのは聖霊様でなく、自分に満足しているという自己満足に陥りやすい。詳細はまた次週説き明かしますが、霊に満たされるというのは、言わば自然体で毎日歩む姿なのです。イエス様をイメージしたら良いのです。何にも怪しい素振りとか妙な高揚感とかなく、天の父の前で父と共に生きる一人の人として、自然体で父に祈られ、自然体で人々に接して、父の愛の御心に生きておられたのが、私たちの代表として人となられた神の子イエス・キリストです。霊に満たされなさい、という招きは、言い換えれば、キリストに結ばれたあなたがたは、キリストに倣って自然体の神の子として歩みなさいという招きです。ただそれを、自分の力でやろうとする傾向、傾きが人にはあって、私たちを父の愛から引き離します。自分で自己実現をしたい、自分で自分を満足させたいという放蕩息子、放蕩娘の罪がある。それに対して、いや、自分で自分を満たすがじゃないがで、聖霊様によって満たされるがで、人は神様の霊の導きに従ってのみ、満たされ、御心に生きられるがやきに、わたしもそうやったがやきと、イエス様は、霊に満たされて歩むというのは、こういう風に歩むのだと、私たちの主として先に歩まれたのです。家族の歩みの先頭を、主として先んじて歩まれて、だから、わたしに従ってきなさいと、霊に満たされる歩みをこそ導かれるのです。

ですから、妙な霊的高揚感とかグッと来て心が熱くなるとか、そういう体の反応も副作用としては起こり得ますが、それイーコール霊に満たされるじゃないことは、ぜひご理解頂きたく願います。酒に酔いしれるのとは違うのです。痴れるとは愚かになることです。酔って高揚して、わけわからんなって、そのときは楽しいと思うておっても、それは結局そのすぐ前に戒められる、無分別になって、主の御心を考えれんなることなのです。御心を考えれんなったらどうなるか。身を持ち崩す。言い換えたら放蕩する。本来神様と共に生きるために受けている時間もお金も人生も、御心を考えんで無駄遣いして、ないなってしまうから、酔い痴れるがは、いかんと言う。いっときの満足はしますけど、問題は考えれんなるががいかんのです。大体酔うた人に、ちょっと飲み過ぎやないと聞くと、え?酔うちゅう?とか、酔うてないちやって怒られる(笑)。酔うちゅうか酔うてないか考えれんなるのと同じでして、感動しちゅうだけなのか本当に聖霊様に満たされているのか、自分を冷静に判断することができんほどに考えれん状態は、ここで命じられる霊による満たしとは異なるものです。酒と同じで自己満足なのか。あるいはキリストの満足に生きるのか。キリストとの関係を心から大切にして、キリストを賛美して生きる満足を求めているのか。そこが急所です。

霊に満たされるとは、言い換えれば、そうか、キリストに倣う、うん、これでえい、これが私の生きる道だ、イエス様ありがとうございます、御名を賛美しますと、主に結ばれて、主の招きに満足して歩めるということです。私に対する主の御心、愛が満ちる、関係が満ちると言っても良い。それが証拠に霊に満たされて歩む具体的内容は全て、自分のことではありません。語り合うのも、主に歌うのも、感謝するのも、仕え合うのも、決して独り善がりの感謝とか悦にいった賛美とかじゃなくて、相手あっての事柄です。愛は関係です。その関係が霊に導かれ、その導きに、はい、と応える愛で満たされるとき、愛のキャッチボールがなされるとき、そこに聖霊様による満たしがあります。キリストを下さった神様の愛の御心が満ちるのです。

そして神様の愛が満ちるところ、霊の満たしがあるところには、語り合いもまた生まれます。しかも賛美による語り合いがです。無論、先の交読文みたいに、Ⓐい~つくしみ、Ⓑ深~き、と順番にデュエットするわけじゃありませんが、デュエットで神様に歌うのが、この礼拝で捧げる讃美だと言ったらわかりよいでしょうか。礼拝に何しに来るか。一つには、讃美歌のデュエットしに来るがです。本当に(笑)。私たちは礼拝で父の前でデュエットするのです。父の右の座にはイエス様もおられて聴いておられます。どんな思いで今日の礼拝の賛美を聴いておられるでしょう。ああ、満たされるって思いで、ぜひ聴いて欲しい賛美を捧げるのです。心から。心を込めて。その賛美がまた、私たちに対しても語りかけ、そこに慰めが生まれるのです。寂しいとき、人は歌を聴きます。あるいは嬉しいときに口ずさむ。自分の今の気持ちを代弁してくれているような歌を聴き、また歌う。詩編の祈りや讃美歌は、私たちの神様に対する気持ちを代弁する祈りであり賛美です。重い気持ちを引きずるようにして礼拝に来るとき、家族が歌っている賛美の中で慰められる時があるのです。そこに聖霊様が働かれるからです。そこに三位一体の神様の御心が満たされているからです。世間一般が、今夜は飲みに行こう、カラオケに行こうって、気持ちを共有し、歌やお酒で何かを満たしたいのはわかります。それが人間だとも思います。だけどそれでは満たされない渇き欠乏を満たすため、神様は安息の礼拝をご用意して下さって、霊による満たしに招かれるのです。ここであなたがたは、本当の自分になりなさい、わたしは主、あなたの神、そしてあなたは、このわたしの命をかけて愛する子だと、神様が招いておられる礼拝で、私たちは霊的な賛美を捧げるのです。霊的な自分また家族として満たされるのです。聖霊様が満たされるこの救いに、歌いつつ身を置けばよいのです。

13/10/13朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙5章15-17節、詩編90篇 「奪われた時を取り戻す」

13/10/13朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙5章15-17節、詩編90篇

「奪われた時を取り戻す」

 

細かく気を配ることができる人というのは、確かに賢い人であるなとよく思わされます。それは人の気持ちがわかる愛の賢さです。誰かからそうした気配りの賢さを見させて頂くときに、惚れ惚れと感心することが、皆さんにもあるのではないかと思います。例えばこの教会堂に来るとき、坂を上がって、しかも途中で壁沿いに左に曲がるのですけど、これを車で上がるとき、壁沿いの左上から子供や他の歩行者が歩いて降りてくるんじゃないかと考えて、ゆっくり坂を上ってくる車を見ると、賢いと思います。また坂を今度は降るとき、今度は右下に向かって曲がるのですが、やはりその右側が壁で見えなくて、ひょっと車や人が上がってきよったら危ないと考えて道路の左側をゆっくり降りる車を見ると、やはり賢いとうっとりします。逆に歩行者や対向車が見えない坂の向こうから来ているとは考えないで、えいっと上ったり道の真ん中をシャッと降って、もし人身事故を起こしたら、取り返しのつかないことをしてしまったその後で、自分の愚かさを悔いると思います。

生々しい、免許証書き換えの時に見る映画みたいな話をしましたが、賢さってそういうことでしょう。人の気持ちがわかるかどうか。これをしたら、どんな結果になるかが見えるかどうか。もとの言葉でこれまた直訳をしますと、愚かな者、賢い者と訳された言葉は、知恵なき者、そして知恵ある者という言葉で、知恵、ギリシャ語でソフィアという言葉ですが、知恵のあるなしを問うのです。一体どこでわかるかというと、細かい気配りと配慮が、実際にできているかどうかに見えるのです。

この15節の翻訳は、だから配慮して歩みなさいという形で訳されておりますが、実は、歩みなさいという命令はもとの言葉にはありません。歩みなさいという命令は、既に何回も言われておって、主の招き、召命に相応しく歩みなさい、また光の子供たちとして歩みなさいと言われてきました。今度は、じゃあ私たちは今どんな歩みをしているか。招きに相応しい歩み、光の子供たちとしての歩みとは、知恵ある歩みであるのだから、自分たちの歩みをチェックしようと言うのです。言い換えれば今聴いた御言葉が、わかったつもりで終わらんように、実際にわかったかどうかは、配慮ある歩みの内に実際に見えるから、自分たちの歩みをよく見て、わかったつもりを超えて、実際にわかった歩み、賢く配慮する光の子たちとして歩もうと、極めて実践的な牧会指導がされます。

15節をまた直訳しますとこうなります。「見なさい、どのように注意深く、あなたがたが歩んでいるかを、知恵なき者たちとしてではなく、知恵ある者たちとして」これが直訳です。私たちの実際の歩みをよく見るのです。賢く配慮しているか、それとも愚かで軽率ではないか。ああ私は大丈夫というのは賢くないので、じっと目を凝らして、自分たちが実際に語る言葉や具体的な行動に、細やかな気配りがあるかを、見る。

そうすると見えてくる、言わば私たちの行動指針、ここを肝に銘じておればよいという、もう一つの具体的チェックポイントが見えてくる。私たちが時をよく用いているか、どうかがです。ただこれは、時は金なりとか光陰矢の如しという、時間を無駄にしたらいかんという教訓ではありません。少年老い易く学成り難しという、時間はあっという間に過ぎていくから、自分の人生を無駄にせんようにというのではなく、敢えて言うなら、こういうことです。キリスト者老い易く伝道成り難し。単なる時間じゃない。その過ぎていく、限られた人間の時間の中で、人が救われて、神様との永遠の家族の関係の中に移し入れられるかどうか。限られた伝道の時、救いの時を、軽率にも寝過してしまわんように、悪い時代の流れに流されて、時を失ってしまわんようにしなさい。直訳すると、時を贖いなさい、買い戻しなさい、何故ならば時代が悪いから。つい世の中の流れに流されて、永遠よりも今のニーズに押し流されて、あれがいる、これがいる、あれも欲しい、これも必要と、あくせく何かはしているが、つい永遠を忘れて神様に無配慮になって、愚かにも世の流れに飛び乗って坂道の真ん中をゴ~ッと駆け降り、道の上におられるキリストを車で轢いてしまうことがないように、というのです。

これまた生々しいイメージで語りましたが、イエス様は私たちと共に歩もうと、わたしのもとに来なさい、ついてきなさい、一緒に天の父の家族として歩んでいこうと、いつも招いておられますし、実際に私たちの滅びの道に立ちはだかって、ここで止まれと十字架で手を広げられ、死ぬな、滅びるなと、止めておられてもおるのです。十字架はそういう命の標識です。単なる時間の延長の命ではない、死を超えた命の標識、神様の家族として生きる永遠の命の標識は、十字架の死の標識でもあるのです。その死を過越していたる命の標識です。罪の道は死だから止まれと、立ち塞がられたキリストを、引き殺すような歩みはしてないか、自分たちの歩みを、じっと見る。単に人の気持ちを考えて生きているかだけを見るのではなくて、イエス様のお気持ちを考えて、私は生きているだろうか。神様のお気持ちを考えて一時一時を大切に生きているか。もしそうでなく人間のことだけ気にしておったら、ましてや自分のことしか考えてなければ、私は知恵を道端に捨てているのだと悟るのです。主の御心が何であるかを悟りなさいと17節が言うのは、そういうことです。十字架の主のもとで立ち止まり、私は誰であるのかを知るのです。赦された者であることを知るのです。命がけで主に引き止められ愛され生きられる者だと知るのです。そこに一番大切な、主の御心が見えてきます。主の御心は私たちを愛されることです。そして、その愛は極めて具体的で現実的で生々しいので、主は生々しくも人となり、ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、陰府に降り、そして生々しくも三日目に死人の内から甦らされて下さった。私たち人間の現実が生々しいから、罪が生々しいから、その罪と滅びと裁きから私たちを救い出すために、主は私たちの現実に生々しくも介入されます。それが神様の愛の現実だからです。

主は私たちの今の生き方に、介入して来られます。もし皆さんがこの説教を聴いて、何か私の生き方に介入してきゆうと感じられるなら、それは皆さんが主の御心を悟り始めておられるからだと言っても良いのです。主の私たちへの愛の御心は、私たちが天の父のお気持ちを考えて、父の御心に従って、具体的に父の喜ばれる歩みを歩むことだからです。それが共に歩むということでしょう。違うでしょうか。三位一体の神様が、私たちに愛の介入をなさること。共に生き、共に喜び、共に泣き、神様のお気持ちが私たちにわかって、神様と共に歩んでいけるよう、愛の介入をなさること。それが主の御心ですから、神様は冷たい自己責任主義者ではありませんから、だから神様は愛なのです。介入しない愛は自己責任のただの言葉です。しかし神の言葉は肉を取ります。そして私たちの現実の問題を引き受けて共に歩まれ、今も具体的に細やかな配慮をもって、御言葉によって指導して、わたしについてきなさいと、道を導いて下さるのです。

説教の題に、奪われた時を取り戻すとつけました。単に過ぎ去ったというのではなく、悪い時代に奪われたのです。神様と共に生きるために与えられた命を、時間を、一つ一つの出会いを、悪い時代の濁流に押し流されるようにして奪われて、神様と共に生きられなくなってしまう。主のお気持ち、お心、御心がわからいで、流され、あるいは自分主体で生きてしまう。無論それも流されているからです。自分勝手で何が悪いという悪い世の流れ、あるいは自分勝手はいかんけど、それは何も神様と結びつけなくてもよいと、造り主を無視した道徳の流れに流されてしもうたら、神様と共に歩む時が奪われるのです。キリスト者だけの話をしているのではありません。キリストが十字架で背負われた世界全体の時の強奪、神様と共に生きるために皆生まれてきたのに、なのにという礼拝生活の強奪、信仰生活の強奪、神様との愛の家族の生活の強奪を、この御言葉は真っ直ぐに見据えて、しかしその時を、贖いなさい、買い戻しなさい。そのための代価、贖いの身代は、十字架でわたしが支払いきったから、あなたは大胆にこう宣言したら良い。私たちに与えられている一日一日は全てキリストによって買い戻された神様との大切な時であるのだと。それがこの主の御言葉の命令です。

だから無分別にならず、と言われます。わかりやすく言えば、ゴミの分別と同じで、これはプラスチック容器、これはまだ着れるから衣類、これは穴が開いたから燃えるゴミいうて、これは何かがわかるのが分別があるということで、え?全部ゴミゴミいうて、何が何に属するかわからん、あるいはわかろうとせんのが無分別です。だからこれは神様と共に生きるための大切な時だと、神様のお気持ちも、自分が何者であるかもわからんで流される無分別な者には、なってはならないと言うのです。

むしろ主の御心が何であるかを悟りなさい。総合判断しなさいとでも訳し得る言葉です。私たちが知恵ある者か、そうでないかが、気配りをしゆうか、しやせんか、目に見えてわかって判断できるように、御心も色々と総合判断をしなさい。そのためには、これもやはりあちこちに目を配って、主は今何をなさろうとしておられるか、私の祈りはどのように導かれ、また答えられているのか、教会は今どういう方向に導かれて進んでいるのか、それら全てに御言葉は何と舵取りをしているか。全て総合判断材料です。人の気持ちがわかって配慮している知恵ある者は、主のお気持ちもわかって配慮できるはずです。注意して人の動向を見るように、例えば寒そうにしてないか、逆に暑そうにしてないか注意して見るように、神様が今どのように動かれ、介入をなさっているか、主の動向を注意して見て、総合判断するのです。無論、御言葉から離れたら遭難します。私たちの心の内に御心を示される聖霊様は、知恵と啓示の霊と1章で呼ばれていました。啓示された聖書の御言葉、主の御言葉を羅針盤にして、その方向にどんな雲が出ているか、イスラエルを導いた雲の柱が立ってはいないか、御霊の風は吹いていないか、どっちに帆を張って進めば良いか、総合判断する。そして主のご配慮、キリストの愛を私たちは身に着けて、伝道という主の御心に生きるのです。

13/10/6朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙5章11-14節、イザヤ書26章19節 「赦されたらもう光です」

13/10/6朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙5章11-14節、イザヤ書26章19節

「赦されたらもう光です」

 

キリストが私たちを照らされる、その光とは、優しい赦しの光です。間違っても、刑事ドラマで夜道、怪しい人を職務質問するときにピカーいうてライト当てて何ちゃあ見えんなるような光ではないし、警察署の取調べ室で容疑者に、お前がやったんだろう!言うてライト顔に当てるような、そういう光ではありません。暗闇の業を明るみに出しなさいとは、そうした律法主義的な暗い業ではありません。キリストを見えなくさせるこうした暗い業も、実を結ぶことはありません。

11節で「実を結ばない暗闇の業」と御言葉が語るときの、実って何でしょう。闇の行い、例えば陰口を言って、それが相手の耳に届いたら、信頼関係が壊れるなどの結果が結実します。仮に相手にばれなくても、天の父はそれを聴いておられますから、近い内か、遅くとも終りの裁きの日、自分の蒔いた種は刈り取ることになります。罪は必ず結果を結びます。でもそうした罪の果実など、父は私たちに味わってほしくないのです。そういうのを実りとは呼ばんだろう、違うかと、御言葉はここで暗闇のと敢えて言葉を変えます。父が求められる実とは、むしろ先週9節の御言葉を直訳して申しました、光の結ぶ実。これは吟味できる。食べて味わって、おいしいと、ますます光の実を結びたくなる。そしてその実は、自分だけじゃなく、隣人に食べて欲しいのです。キリストの光の実、赦された喜びは、他人が見よっても何となく味はわかります。何かあの人、自由な味を出しゆうと、一味違う。それをイエス様は、あなたがたは地の塩であるからとおっしゃいました。キリストの光のもとに我が身を置いて、世の光としてそこで結ばれていく生活の実、人格の実、その人から醸し出される味は、何か一味違うということを、私たちもイエス様を信じて洗礼を受ける前、キリスト者を見て感じておったんじゃないかと思います。そして礼拝につながって、洗礼に至り、教会の仲間、神様の家族に加わった。父が求められるのは、そういう実です。

ですから、実を結ばない暗闇の業には加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさいと求められます。加わらないでと訳された言葉は、一緒に手を繋いで楽しそうに仲良く話し合っているイメージの言葉ですが、そこでの話題は暗闇の業ですから、陰口とか、それの仲間はいかんと言われる。闇の業だからって、いつもその業に加わる人が暗い顔をしゆうのでもない。むしろ楽しそうに見えるときさえあるでしょう。そうした闇の行いに多いのですが、それらは密かに行われるのです。暴き出されては困る楽しみが人にはある。この手紙が届けられたエフェソの町の遺跡に行った方から聞いたのですが、図書館から秘密の抜け道があって、それが路地裏の売春宿に続いている。ガイドが言うには堂々と店に行けん人が図書館に行くふりをして通う秘密の抜け道だったそうです。現代の日本に住む私たちにも、様々な秘密の抜け道があると思います。人前ではどんな明るい顔をしておっても、その抜け道を通る時の顔は、きっと暗い欲望に引きずられておって、何か目つきも違うのでしょう。真剣な顔かもしれません。命を賭ける人だっておるかもしれない。でもその暗闇の業の果実は腐敗であり、裁きです。それでもかまんと態度も腐り、良心は麻痺して、トンネルの闇に、心の目が慣れてしまう。

そのトンネル仲間に、けれどもあなたは入り込まないで、むしろ以前は暗闇であったけど、今は光とされた者として、そのトンネルの出口に立って、キリストの光をそこに灯しなさい。あなたが置かれたその場所でキリストの光を灯しなさいと、御言葉は私たちに語るのです。暗闇の業を明るみに出すとは、その闇を白昼にさらけ出すという意味ですが、説教の冒頭でイメージしたように、その白昼とは、キリストの光の中にという意味であって、人間の好奇心や暗い正義感の前にさらけ出すのでは断じてありません。ただ罪を暴いて責めたてたり裁いたりするのでなくて、光に変えられなくては滅んでいくその死の闇を、キリストの赦しの光のもとに置くのです。そのためには先ず自分がその光のもとにおらな無理です。キリストの憐れみのもとに身を置く者だけが、人を憐れむことができます。

光としてのキリストのイメージを最も鮮やかに描くのはヨハネによる福音書ですが、その8章に姦通の現場で捕えられた女性が律法主義者たちによってイエス様の前に引きずり出されてきて、この女をどうせよと御言葉が語っているかと、イエス様に問う場面があります。イエス様はそこで地面に向かってかがみこんでしまって、顔をよう上げんのです。それでも律法主義者たちが余りにもしつこく、どやと問うので、やっと身を起して、あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、先ずこの人に石を投げなさい、と言われて、またかがみこんでしまわれた。きっとイエス様は罪の現場で捕えられたこの人を、しかもそれが人間の好奇心や醜い正義感の白昼にさらされてなぶられる姿を、直視できんかったのです。罪の取り扱いは、そうやってやるんじゃない、罪を神様の御前にさらしだすというのは、そんなにたやすいことではないと、イエス様はきっとその女性を既に十字架の上で担いつつ、そしてその罪を責めたてて自己正当化する律法主義者たちをも担いつつ、言わば両サイドの罪の暗闇が支配する人間の闇の只中で、そのどうしようもない人間を闇から救い出すための、赦しの光として立たれたのです。

そのキリストのもとに我が身を置くとき、人の押しつける正しさや、自分の良心の声じゃなく、イエス様のもとで、罪は光を受けるのです。光に罪が照らされるのです。そして、あなたの罪は赦された。もう罪を犯してはならないと、私たちを罪人としてでなく、赦された者として、愛されている者として、今もまたこれからもずっと招かれ続けている者として、私たちはキリストの光のもとで我が罪を知り、ごめんなさいと言えるのです。人にではなく、自分にでもなく、私を造られた神様に、ごめんなさいと悔い改められる。そして光となるのです。悔い改めて、キリストの赦しに照らされて立つ者は、キリストの光の証人として光るからです。キリストの光に明らかにされたら、全ては光となるのです。

人の罪を明らかにし、ごめんなさいと言わしめるのは、キリストの救いの業を私たちの内に執り成されるキリストの霊、聖霊様の業であって人間はできません。どんなに言わせたくても(笑)。人間ができるのは、その人とキリストの光のもとに立つことです。一緒にここに立ちましょうと、その人のために自分から立つ。あるいは私もその暗闇の中にいたのです。それは人にはよう言わんけど、口にするのも恥ずかしいけど、でもその罪をキリストの光のもとに置いて、私は今ここに立つ。あるいは再び倒れても、何度も何度でもキリストに照らされて、起きなさい、立ち上がりなさいとキリストの召しを聴き、はいと赦しに立つのです。そこに立つことができるのです。キリストの赦しの光のもとに何度でも立てる。そうして立つこと。隣人のためにも立つこと。それがキリストの光のもとに暗闇の業をさらけ出すことです。あいつ何で一緒にこれせんがやろうと思われるところで、いや~したいけど宗教的規定でって暗い顔じゃなく(笑)、朗らかな明るさで立つ。キリストの赦しに照らされた姿でトンネルの出口に立つときに、私たちは出口の明るさ、いや出口から差し込む光として用いられます。その光に照らされた心は、自分が密かに抱く闇に恥を覚えます。でも照らされた恥の自覚です。照らされて知る自覚は、キリストのもとに来るのです。私たちは皆そうした光、キリストの光に招く光として、必ず用いて頂けます。だから歩んでいくのです。キリストに結ばれた光の子として、一緒に歩んでいくのです。

13/9/29朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙5章8-10節、イザヤ書60章1-7節 「暗闇だったのが光に!」

13/9/29朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙5章8-10節、イザヤ書60章1-7節

「暗闇だったのが光に!」

 

何が主に喜ばれるか。主に結ばれて、キリストにギュッと一つに結ばれて歩むことです。それを光の子として歩みなさいと、御言葉は幾分かまぶしいイメージで私たちの生き方を確認させます。光の子。直訳は、光の子供たちです。なら一つのイメージは、今この礼拝堂の中が光っている。どんな光か。それも具体的にイメージしたら良いと思います。顔が光っているのか。心が光っているのか。生活が光っているのか。またどんな光でしょう。ギラギラ、あるいはサンサンと静かで柔和な光か。先日ある牧師と話をしておって、いや~最近の若い牧師は草食というか情熱が感じられないと言いますから、ん~言いたいことはわかるけど、賜物の違いもあるかもしれんし、言わば最近はLEDみたいなクールな光で人々を照らす牧師が多くて、俺らみたいな白熱電球のフィラメントがカー!いうて熱く光って、光だけじゃなく熱も出て、そのうちバチンてフィラメント切れて電球の底でシャリシャリ~いう、そんな召命だけやないいうことよ、と笑いながら話をしました。本当にそう思うのです。光=熱いではないと思います。熱さも賜物だと思いますけど、押しつけがましい熱さというのが、恵みの賜物の乱用であるというのは、私たちわきまえてなくてはならないと思います。明らかにこの光のイメージは後の14節で語られる、キリストの光のイメージから来ているからです。キリストを私たちはどんなお方だと信じるか。個人の好みで信じるのでなく、性格に合わせて信じるのでなく、何が主に喜ばれる光のイメージであるのかも、何が主に喜ばれるキリスト信仰であるのかも、御言葉の光に照らされて、信じさせて頂けることが大切です。自分が喜ぶ信仰のイメージが、熱いとか、ギラギラとか、自分にグッとくる信仰かどうかは二の次で、それこそ吟味せないけません。主に結ばれてこその光ですから、それがどういった光であるのか、恵みのキリスト、十字架のキリスト、赦しと招きのキリストの光に照らされることを改めて祈りつつ、御言葉に聴きたいと願います。ここで光っている私たち、あなたがたは主に結ばれて光となっていますと、御言葉が語る私たちが、どんな光としてこの礼拝堂を満たしているのか、共に見させて頂きたいのです。

私たちが光であるのは、主に結ばれているからです。フィラメントの光であれば、そこに電気としての光が流れてこんかったら冷たい金属に過ぎんのであって、結ばれて流れてピカーです。LEDがどんな仕組みで光っているのか全くわかりませんけれど、結ばれて光るのは確かです。あるいは光ファイバーのイメージであれば、あれファイバー繊維が全部光ってつながって、先端が美しく光りますから、電気が光になるというより、光がそのまま伝わってくる。イエス様の光がそのまま伝わって、私たちはイエス様が発する光を、これが私も受けた光ですと手渡ししていけばよいとイメージできます。無論、その場合には、ファイバー繊維の透明さ、あるいは清さ、自分の欲望という混じり気のない純粋さが、光をそのまま伝えるには要求されます。だから主が私たちに清さを求められるということも、わかりよいのではないでしょうか。キリスト者は清くないといかんから!というより、そうやって光が人々に届くことで人が救われていくことが、主の喜ばれることだからです。キリストもそのために光として来られたのです。だから、イエス様、私を清めて用いて下さいと、祈り努力する歩みもまた、主に喜ばれる光の歩みです。

そうやって祈るたび、ファイバーの結びが清められ、光の通り良き管になるとも言えるでしょう。その管または結びのパイプが、私たちと主を結ぶ聖霊様、三位一体の御霊なる神様です。その聖霊様が主の御言葉を心に届けて光らせて下さるので、私たちはそこでキリストの招きを聴くことができます。あなたはこの言葉を信じるか。わたしをあなたの主と信じるか。その主の招きに、はい、と応える、その応答が信仰です。そしてこの招きと応答が行き交いするのが、私たちが主に結ばれているという事実の一つの具体的現れであり、聖霊様のお働きです。ですからこの信仰の行き交いは、とても大切です。この行き交い、あるいは信仰の祈りとも言えるでしょうけど、これが具体的に私たちを光の子として清め、純粋にしますから、ぜひ御言葉に、はいと応え祈る生活、光の子として歩む霊的生活を、皆で大切にしていきたいと願います。

今ずっと具体的な話ばかりしていますが、今週の御言葉は相当具体的なのです。ま、ずっと具体的ですが(笑)、ここは特に強く、説得をしゆう御言葉です。あなたがたは以前には暗闇でしたと語る言葉は、単なる説明ではありません。もう違うでしょうと呼びかけているのです。ともすると光が暗闇のように生きてしまう厳しい現実があるからです。ですから、光のイメージだけ語って、ま、そうは言うけど…で終わらんようにしているとも言える程、強い言い方です。キリストに結ばれる以前、暗闇の中にいましたとは言わず、暗闇でしたと言います。じゃあ現在はどんな生活環境かと言えば、相変わらず罪に囲まれているとも言えるのです。家の外には、あるいは内にも罪へと誘う誘惑は多く、自分の心の内にさえ、主に喜ばれる歩みより、自分を喜ばせたいという暗い欲望がある。それが聖書の語る私たちの状況であり、光ファイバーとして歩むには清めが必要である理由です。ですから教会生活を、形成して、光の子供たちとして具体的に歩める神の家族の生活育んで、共に、一緒に歩みなさいと語られてきた。教会生活形成が、4章後半からずっと語られてきたのです、が、一番の問題は環境ではない。確かに環境は私たちの予想を遥かに凌駕して信仰を左右しますが、救いを左右するのは環境ではない。主に結ばれているかどうかなのです。逆に言えば、環境は私たちの信仰を左右しますが、救いを左右することはできません。環境が如何であろうと、どんなに素晴らしい環境であっても、どんなに最悪な状況であっても、主に結ばれているならば、私たちはもう暗闇でなく、主に結ばれて光なのです。闇はいつでも周りにありますし、自分の心にもあるのです。光しかない環境は天国に行くまでありえません。でも、ならばこそ天の父が、私たちの環境や状況に左右されることない絶対的救いの根拠として与えて下さった、キリストに結ばれているならば、人はそのままで光なのです。改めて言いますが、なおそこに、闇の影響はあり続けます。様々な問題を引き起こし、環境を暗くします。しかし、それでも人が救われるためにこそ、父はキリストに結ばれる救いをくださいました。払い除けきれず、払拭しきれない罪ならばこそ、赦す他に道はないだろうと、あなたに道を与えると、キリストを十字架に付けられて、わたしのもとに来なさいと、招き続けておられるのです。更には罪を赦すだけでなく、闇を完全に解決するため、今のままでは消えない闇も、闇は完全に消し去ってしまうと、罪の完全な克服である、復活に生きられる消えない希望を、父はキリストを通して世界に差し出して、あなたに救いの光を与える。あなたの全てを受け止めて、あなたと共にいる、あなたの救い主に、あなたは結ばれてしまいなさい。そしてあなたも光となって、闇の世に救いの道を照らす光の子、わたしの家族になりなさいと、皆を招いておられるのです。

闇はやがて消えます。私たちはそんなものに繋がれ結ばれてはおらんのです。御言葉は断言します。あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。私たちはキリストのもとに来たのです。もうこの道の上にいるのです。キリストが私たちを招いておられます。わたしに従いなさい。その道を、キリストに従って歩むとは、キリストの愛される人々のもとに、光を届けに行く歩みです。キリストの発する赦しの光、恵みの光、新しく生きられる復活の光を、キリストに結ばれた光ファイバーの先端として、誠実に歩めばよいのです。特別に何かをするのではありません。自分の受けているキリストの光、柔和で謙遜な恵みの光を、私はこれに照らされて歩んでいますと、置かれた場所で歩むのです。自分が毎日を歩んでいる、その半径何メートルか、何十メートルかの環境で、自分自身、恵みに照らされて歩めばよい。

今日の御言葉が語るのは、言わばそうした毎日の歩みの確認でして、その確認事項が、9節の―で挟まれた部分なのですが、訳の問題でわかりにくくなっています。直訳すると、―光の結ぶ実りは善と義と真理の内にありますから―何が主に喜ばれるかを受け止め納得しながら、あるいは味わい知りながら、光の子供たちとして歩みなさい。実りとは毎日の生活で私たちが実際に語る言葉や行いです。それを半径何メートルかの人々が耳にし目にする。それがキリストファイバーの先端として結ぶ実になっているのか、それとも続く11節で言われる闇の業になってないか、確認するのです。イエス様の良く知られた言葉で言えば、あなたがたは地の塩であるから、塩が塩気をなくさんように塩として塩気を保ちなさい。これに該当するでしょう。なら、どうやって光気を保つのか。自分の言葉と行いを知るのです。例えば今の言葉は、善と義と真理の内にあるか。人の気持ちを考えて、聴く人を建て上げる恵みの言葉、善の言葉を語ったか。そこに自分の正しさの主張とか自己正当化ではなく、キリストの義が現わされ、柔和で謙遜なキリストの光が照らされていたか。自己満足の義になってなかったか。キリストが、わたしは道であり真理であり命であると言われた、そのキリストの真理を求め、倣って、イエス様やったらどう言うろうかと、キリストすること、真理することを求めるときに、自分の歩みが、無責任な歩みにならなくてすみます。むしろ、主が喜ばれることが何であるか、考えるようになる。御言葉は何でこう…、あ、そうか。だから愛するのか。だから自分の力でなく、恵みなのか。そうか、そうかと一つ一つ、御言葉に納得するとも言えるでしょう。そして実際に主に従って、人を建て上げる恵みを語り、主の愛に生きる真理に努めるとき、拙い愛であったとしても、そこで味わい知るのです。これが光の結ぶ実かと、御言葉が語るのはこういうことかと、実体験として納得できるのが、主に結ばれての歩みだからです。また、そのための光の子供たち、という単位でもあります。独り善がりになり易い闇があればこそ、家族で、教会で光の束として歩むのです。礼拝で、ここに主の喜びがあることを味わい知りながら歩めるのです。

 

13/9/22朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙5章6-7節、詩編62篇 「避けたい言葉こそ必要」

13/9/22朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙5章6-7節、詩編62篇

「避けたい言葉こそ必要」

 

虚しい言葉と訳すより、中身を伴わない嘘の言葉と、少し丁寧な表現をしたほうが、わかりよいでしょうか。例えば薬局でよく見かける商品に、食べなかったことになる何とかっていう名前の、薬なのか何なのか目に飛び込んできます。ん、と思い留まって通り過ぎるのですが、魅力ある言葉だとは思います。そのうち、昨日あったことをなかったことにする記憶喪失ドラッグとかできるんでしょうか。ハリウッド映画の世界では、はい、これ見て下さい、ピカ!っていう光を見たら、さっき見たこと全部忘れているという装置が出てきますが、が、です。なくなるのは記憶だけで、事件はあったし、その事件によって引き起こされた結果は、やはり残ります。大切な何かを失ったなら、ピカッと光ったち戻ってきません。もうやったことを、なかったことにはできません。中身が伴わない、虚しいと聖書が語るのは、そういうことです。

でもその嘘を見破れんかったら、惑わされてしまう。偽札のようでもあるでしょう。見破れん人は皆本気にしますから、モノが買えたりします。まるで本物のように流通して、何年も誰も疑わなかったら、それが本物になるのでしょうか。でもそういうの案外あるのかもしれません。何年か前に流行った言葉、そういうときにも使ってよい言葉かもしれません。人間だもの。皆それでえいと思いよったがやき、皆やりよったがやき、しょうがないわえと言い訳ができるか言うたら、今週の御言葉が告げるには、惑わされてはならないと告げるのです。

虚しい言葉に惑わされてはなりません。ただ、こう訳してしまうと、勝手に流通している偽札のような言葉、考え、常識があって、はい、皆その言葉に惑わされていました。だから悪いのはその言葉…いや、でもやっぱり騙された方が悪いんでしょうか、神様の怒りがあるんでしょうか、って感じに、ひょっとなるかもしれません。幸い惑わされなかった偽札をつかまされなかった人は、そうよ、騙された方が悪いわと、人間お得意の自己責任にするのでしょうか。でも、むしろ、御言葉が注目をするのは、偽札のような言葉を語る相手なのです。直訳はこうです。誰であろうと、空虚な言葉であなたがたを騙すことをさせてはならない。その誰かに焦点があっていて、その誰かの顔を具体的に神様が、じっと見ておられると言ってもよいのではないかと思うのです。その誰かが、偽札の言葉であなたがたを騙すことがありうる。あなたがたとは無論、教会のことであり、キリスト者一人一人のことですが、その私たちに、誰かが偽札のような言葉を語ってくる。ないでしょうか。ここ、すごく具体的だと思います。それは、その誰かにとって意図的ではないかもしれませんけど、自分自身、偽札だとは微塵も思ってないのかもしれませんけど、でも嘘の言葉、中身の伴わない言葉、例えば、これこれって、やってえいがでねえ、やっても裁きはないがでねえ、だって皆やりゆうことやし、これってああでね、こうでねえと、それが人畜無害でむしろ良いモノだとばかりに、その誰かが私たちに語るとき、その時、偽札の言葉をもって語りかけるその人に、私たちを騙すことをさせたらいかんと言うのです。

それを更に積極的な言葉で言い換えたのが次の頁11節の言葉です。「実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。」詳しくはまたその時に説き明かしますが、主が私たちに求めておられることは一つです。その人とただ同調して同じように生きることでその人の生き方も行く末も、それでえいやかと保証せんこと。むしろその人の行く末が、あなたの行く先と同じ方向に向くために、その人の手助けをしなさい。そのまま行ったら、裁きがあるでと、その事実を明るみに出すのであって、一緒に同じ生活態度に留まることで、その人に自分を騙させたままにさせてはならない。それは、もっと厳しい言い方で言うならば、4章の後半で、私たち教会の歩みとは、イエス様によって与えられた真理を身に着ける、生活の中で真理して生きていくという歩みであると語られ続けてきた以上、その真理を他の人に隠して、偽札の言葉と生き方に同調して、そうやねえ、それでえいわえと歩むなら、むしろ私たちがその人たちを騙すことになるのです。もしそうならば、神様の怒りが不従順な者たちに下ると告げられる時、むしろそれが故の理由で、そうだ、だから神様は騙す私たちを裁かれるのだと納得できるし、不従順と呼ばれる態度が如何なるものかも納得できて、だから主がここで私たちにも全ての人にも、方向転換を求めておられるということが、納得できるのではないかと思います。

じゃあその神様の顔って、怒り心頭に極まって、激オコぷんぷん丸!って最近の子は言うらしいですけど、顔真っ赤にしてる顔で、御言葉に従わない人々を今、カッと睨みつけるように見ておられると、どうしてイメージできるでしょう。無論、御言葉が敢えて怒りというイメージしやすい表現を用いて神様をイメージさせている意図を、損ねるつもりはありません。が、そもそも怒りをイメージする時、人間の間違った怒りをイメージして、神様に押し付けることも多いのです。だから4章31節では人間の自分勝手で愛のない自己正当化するような無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどの類は、人間の悪意だから全部捨てろと言うのです。そんなのと神様の怒りとを一緒にしたらいかんのです。人間が神様の形に造られたのであって、歪んだ人間の形に模して神様を造るのが偶像なのです。とにかく、神様の怒りのイメージは大切です。その名を愛と呼ばれる神様が、それ故に怒られるというイメージでもよいし、だからと言って甘くはならず、ブチ切れはせんけれど、恐ろしいという畏れのイメージもまた真理です。十字架で御子が受けた神様の怒りを、御言葉からイメージしたらよいのです。十字架で人類の罪の身代わりの裁きを受ける前の晩、神の子が恐怖した怒りを思えばよいのです。その怒りを、どうかあなたは受けてくれるなと、そのために御子を十字架に付けられた父の思いを、神の怒りという言葉が出る度に、思わないままで想像する神の怒りは、どこか歪んでいるように思います。十字架を通して見るのです。不従順な者への神様の怒りを、十字架を通して見るのです。父は、刑に処されたキリストを不従順な者として裁かれて、あなたはなんてことをしてくれたのかと、怒られたのです。この神様の罪の裁きを、神の怒りと呼ぶのです。もし愛がそこにはなくて、法的な正義が全てであれば、淡々と裁きでえいのです。愛があるから怒るのです。自分が関わるから怒るのです。他人ではないから怒らずにはおれない。だから、あなたの身代わりに死んだキリストを、どうか他人事にはしてくれるなと、あなたはわたしの子じゃないのかと、父が怒りを通してもなお呼びかけておられると知れるのは、この愛の怒りが十字架を通して語られるのを、御言葉の内に見るからです。

だからこそ、です。じゃあ裁きが十字架で終わったがやったら、別にどうじゃちかまんとはならん。それが愛ではないことは、誰にでもおわかりになるだろうと思うのです。そこでこそ、何をやっても裁きはないなどという空虚で偽札の言葉や考えで、誰かが私たちを騙すことを、誰にもさせてはならんのです。

御言葉が語る通りに私も語ります。神様の怒りは下ります。やがて、終わりの裁きの日に、キリストご自身が、生きている者と死んだ者とを裁かれますと、使徒信条では告白しますし、それも無論、御言葉の真理ですが、ここで怒りが下ると告げられているのは、現在形、つまり、今もう怒りが下っているということでもあります。無論、だから将来は下らんというのではなく、むしろ将来の怒りがあることを予期させつつ、その将来の怒りから逃れさせるため、言うなれば今その怒りに向かっている方向からグルリとキリストの赦しに方向転換し、キリストの救いに従順な者として悔い改めさせるための恵みとしての怒りを、御父が、今下しておられるとも言えるのです。親なら、あるいは大人なら、そういう怒りがあることを、おわかりになるのではないかとも思います。子供であってもわかるでしょう。神の怒りが下るのは、それだけもう神様の愛が下っているからです。

だから、その愛に従わない者たちの仲間になるなと言われます。仲間と訳された言葉は面白い言葉で、この手紙を書いたパウロの造った言葉のようです。直訳すると、こういう言葉です。共に一緒に持つ者。他人じゃない。何かを共有し、それを一緒に持っている。同じ言葉が3章で異邦人がユダヤ人と共に一緒に約束に与る者となる、と言われるときに使われました。一緒なんだ。救いの約束を共有して、一緒に持っている仲間、家族だという意味合いです。キリストを一緒に持っているほどの仲間です。その同じ言葉を用いつつ、今度は、それほど強い共有を、あなたがたは、どうか偽札の共有なんかでしてくれるなと言う。裁きらぁないでねえ、これやったち、裁かれんし、赦されるし…と、そういう無責任な考えを共有するのではなく、あるいはそのことで下る裁きを共有するのではなく、どうか、その裁きから救われるために、十字架で死なれたキリストの救いの招きに、はいと応えて、お従いしていく共有を共に一緒に持つ仲間に、この救いの仲間へと人々を招きなさい。これこそが、御子を私たちの兄として、父が与えて下さった理由です。そして、キリストの、私たちに向けてのご命令なのです。あなたがたは行って、全ての民をわたしの弟子としなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたこと全てを守るように教えなさい。この教会の仲間、キリストの弟子として福音を共に一緒に共有する仲間、神の家族へと人々を招くこと、それが伝道するということです。お一人様の信仰などありません。あるのは家族の愛であり、その愛を喜ぶ父と子と御霊です。この愛は偽札でしょうか。偽札の言葉が横行し、まるで存在そのものが偽札のような世の中で、しかし、この家族は主の愛の火によって、あるいは裁かれ、試練を受けつつも、精練されながら練り清められながら、最後に残る真実の愛の家族として、歩み続けていくのです。だから、この愛の仲間にいらっしゃいと、一緒に笑い、また泣きましょうと、父の愛へと招くのです。この愛が永遠に残るのです。

13/9/8朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙5章3-5節、詩編12篇 「感謝で貪欲に終止符を」

13/9/8朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙5章3-5節、詩編12篇

「感謝で貪欲に終止符を」

 

では誰が受け継ぐのか。それもまた、わきまえていなければならないでしょう。受け継ぐのですから、勝ち取るのではありません。例えば、私の財産は、誰が受け継ぐのでしょうか。それはもちろん、保険の受取人でしょう、って考えた方はサスペンスドラマの見過ぎです(笑)。ま、牧師死なせても儲かりませんので心配いりませんが、それでも誰が受け継ぐかって言ったら、すぐ顔が浮かぶと思います。家族です。受け継ぐという言葉がここで用いられているのは、1節からの流れだからです。あなたがたは神に愛されている子供ですから、ですから受け継ぐのですよ。そのことをわきまえていなさい。そして、あなたは神の家族であるとわきまえるなら、ここに列挙されている生き方、神の家族に相応しくない会話の内容や、その態度は、あなたには相応しくないとわきまえられるはずだ。そう言い直したらわかりよいでしょうか。

今週の御言葉の冒頭では、それをこう言い直したのです。あなたがたの間では、聖なる者にふさわしく、これこれのことは口にせんように。聖なる、という言葉は、神様の、という専門用語です。聖書は神様の書ですし、聖霊は神様の霊です。聖なる者は神様の者、神様に属する神の家族だとも言われます。先に告白した使徒信条で、聖徒の交わりを信じますと告白したのは、神の家族の交わりがここに与えられている恵みを信じますという信仰告白です。その交わりの中で、下品な会話をすることは、神の家族に相応しくない。父がお喜びにならない。それはこの家ではしない。無論、外でもしない。だってあなたはわたしの子だから、うちの家族は、それはせんだろうと言われるのです。

別の言い方で言うと、聖なる者とはキリスト者、キリストの者です。最初に教会が始まった頃、ローマ帝国の大都市アンティオキアで呼ばれ始めた名前だと使徒言行録に記されます。例えば皇帝カエサルの兵士や僕をカエサリアニと呼んだように、あいつらキリストのために言うて、前は一緒にやりよったあんなことやこんなことせんなったぞ。まあ立派なクリスチアニ、キリストの兵士や、あるいはキリストの奴隷か、言うこときかないかんがやき、あっはっは言うて笑い物にしておったようです。最初は変なあだ名を付けられたと思ったかもしれませんが、けんど確かにそれが私たちだと、自覚するようになったのでしょう。私たちはキリストのもの。キリスト者なのだと、自分たちを呼ぶようになった。私たちに相応しい会話が、やはりあるなと襟を正す根拠があるのです。それは自分を誰だとわきまえるかです。主がおっしゃるのは、あなたは神の家族だろう、聖なる者じゃないかと言われるのです。だから家族に当然のこととして家族の受け継ぐものを受け継ぎます。それが神の国と呼ばれるだけでなく、「キリストと神との国」と言われるのは、キリスト抜きの家族はないことを強調しているからでしょう。キリストが私たちの身を引き受け、死なれ裁きを受けられたから、私たちも、キリストの身代わりによって神様の子とされる。三位一体の神様がそこまでして与えようと差し出されたキリストの身分、神様の子とされ家族として受け入れられるという聖なる救いを、受け継ぐことができるのです。

昔アンティオキアで、あいつらおかしいぞ、自分のために生きてないぞ、立派なキリストの兵士か、それか奴隷じゃ言うて笑われたように、以来、キリスト者はずっと、理解されにくいポジションに自らを置いて生きてきました。それは単に性的に乱れた世の風潮に身をさらさないというだけではありません。世の中で、それっぱあえいじゃか、皆やりゆうじゃかと言われる生活態度を避けるだけでなく、その根源に目をやるのです。それが貪欲、あるいは貪りと呼ばれる罪の力です。もっと欲しい。食べたらいかん果実をも食べたいのです。アダムとエバのように。食べたい欲求自体は父が人間にくださったもので良いものです。それを悪くするのが貪欲です。貪るのです。性的なことで言えば結婚関係以外で満たそうとする欲です。食欲も然り。もっと欲しいのです。あるいは今これが欲しいのです。よくわかることだと思います。

どうして貪りが天の父の家族に相応しくないか。その答えを御言葉はズバリこう言います。貪欲は、偶像礼拝だからだ。その貪欲が貪るものを神とするからだ。すごい言い方をすると思いますが、現代日本の若者文化は、この聖書の教えを学んだのでしょうか。インターネット文化で自分が欲しいものを与えてくれる提供者のことを、若者たちは神と呼ぶのです。それは若者だけのことでしょうか。フィリピの信徒への手紙はこう語ります。「彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。」そして続いてこう告げるのです。「しかし、私たちの本国は天にあります。」腹や下っ腹の貪欲などに仕え礼拝してはならない。そこに神様はおられない。人は自分の腹に支配され、うつむく生活をせいでもよいのです。むしろ私たちは天にこそ目を上げて、そこで私たちの戸籍を握りしめてくださっている、キリストにこそ目を上げてその名を呼ぶのです。キリストよ、私の戸籍を握りしめておられる主よ、憐れんで下さい。そして私が誰であるのかを名乗らせて下さい。私はキリスト者、あなたの命によって罪から買い戻された、あなたの家族、神の家族ですと、私たちには天に目を上げ祈れる家があるのです。その救いの恵みを、その慰めを、何度もわきまえ続けるのです。

目を天に上げ祈り、また腹に目を留めることを遮るようにして聖書を開く。そこに開かれる主の言葉をこそ、まるで貪るように没頭するところで、私たちは貪欲から解放される恵みをわきまえるでしょう。何を欲したら良いのか。どんな喜びと満足が私たちのものとして、もう用意されているのか。頭がクリアーにされると言いますか、貪欲の鎖がチャラチャラ落ちていくと言いますか、神の形に造られた人間本来の欲求が、貪欲から解放されて現れてくる。ああ、私は神様を求めているのだと、神様をもっと知りたくなる。私の渇きはどこから来るのか。主でないと私は満たされんのに、私は嘘の代替え品で、偶像で、自分を満たそうとしよったき、貪欲が更なる貪欲を呼んで、収拾付かんなっちょったがやと、本来の欲求をもわきまえられます。だから主の名を呼ぶのです。

だから御言葉が告げるのは、貪欲に替えて、むしろ感謝を口にしなさい。だってもう欲しいものが与えられているじゃないかと、キリストに目を向けさせるのです。もうキリストは来て下さった。少なくとも一つそこに感謝を口にする根拠があります。少なくともなんて言うとお叱りを受けるかもしれませんが、ここに描かれている人間の姿は理想主義や律法主義のまかり通る絵空事の人間ではなく、貪欲と戦わざるを得ない罪と弱さを持つ教会の姿です。以前のように歩んでしまう、いや歩みたくなる貪欲が、腹減った、満たしてくれ、これっぱあえいじゃかと誘惑する肉体を持っている教会です。その貪欲が、言わばちょっと品を良くした形で、教会で交わされる会話の中にも現れてくるのです。例えば、あの教会はあんなにお金持っちゅうに…とか、あんなに人がおるに云々とか。これはまだ上品な内の下品でしょうか。顔のことや見かけの魅力などはどうでしょう。それが伝道のお役にたてて感謝やねえ、となればよいのですが、それを口にすることで弱い人がつまずくのであれば皆で感謝できません。主は、自分のことだけ考えて感謝するファリサイ派の姿を描き出して、これは父の前で正しいと認められないと言われたこともあります。貪欲に終止符を打つ感謝は、隣人を建て上げる感謝です。教会がキリストの体として成長できる感謝です。隣人に不満を持つことはあるでしょう。家族にすら不満を抱き得る貪欲があるのです。なのに感謝ができるのです。その隣人のため、家族のためにキリストが死んでくださったのです。神の家族へと招かれたのです。わたしのもとに来なさい、不満から休ませてあげようと。そこでイエス様が招かれた柔和で謙遜な生き方を、自分で持ってない生き方とも言えます。コリントの信徒への手紙一の4章はこう語ります。一体あなたがたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。そうだ、父から頂いたのだと、天にまなざしを上げるとき、ありがとうございますと言えます。自分で得たと思うなら言えない。それ故、貪欲を脱ぎ捨て、感謝しなさいと御言葉が語るのは、あなたは自らを正しい場所に置きなさい、父の恵みのもとに自分を置いて、キリストの憐れみのもとに自らを置いて、神の家族に相応しい場所で、父の御前に歩みなさいという招きです。

父が私を見て下さっていると、まなざしを父に向けて人と語るなら、話題がもし不品行に滑り落ちても、すぐ、ごめん、今のいかんかったねと言えるでしょうし、下品な冗談も避けられて、むしろ皆で感謝できるような冗談すら言えるでしょう。冗談の全てが悪いのではありません。イエス様はユーモアがお好きでした。人が笑うのが好きだったとも思います。健全な笑いは心を和ます、食卓に飾られた一輪の花のようです。仮にいわゆるおやじギャグでも、一つぐらいなら和みます。が、多いと下卑る。と言うか、一緒にいる人の気持ちを考えない時、下品になってしまうのでしょう。うけてやろうとか。自分のことが中心になって貪欲になるのがいかんのです。

むしろ感謝できるポジションに自らを置き、また隣人をも感謝できるポジションへと、父の恵みへと招くのです。ここには神様がおられますと。ここには救い主が共におられて、見よ、世の終わりまで共におられて、父のみもとに歩めるのです。一緒に歩んでいきましょうと、家族の歩みをするのです。自分が自分がではない、恵みを受けるポジション。共に天の父の子供たちとして手を取り歩んでいくポジション。それが、聖なる者に相応しい生き方を営む場所、教会であり、それが父の招きに相応しく、はい、と返事する歩みです。改めて申します。皆、招かれているのです。キリストがもう来られたのです。罪は十字架に架けられたのです。今や赦しを携えて、復活のキリストが言われます。わたしのもとに来なさい。父のもとへと共に歩もう。その神様の招きに相応しく、はい、と返事する人の全ての戸籍は、天に保管されているのです。戸籍を天に持って歩みましょう。父の子として歩みましょう。笑いあり、涙あり、色々ある人生を、キリストが、一緒に歩んで下さるのです。

13/9/1朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙5章1-2節、レビ記19章1-2節 「愛を負う背を見る子供」

13/9/1朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙5章1-2節、レビ記19章1-2節

「愛を負う背を見る子供」

 

キリスト者の生活を何よりも特徴づけるキーワードは愛です。しかも神の子供たちの愛、家族愛だと言うのが、今週の御言葉の急所です。

神に愛されている子供ですからと訳されてしまうと、どうも個人主義的に、一人一人めいめい自己責任でやる愛みたいに、私には聞こえてしまうのですけど、もとの言葉は、子供たちです。2章で神の家族と言われていたイメージで考えたほうがわかりやすいでしょう。何で私たちの生活が愛に特徴づけられるか言うたら、わたしたちの父が、その名を愛と呼ばれる父であり、私たちはその子供たちなので、理屈でなく、そうだと言うのです。私の子供たちが牧師の子供なのと同じで、いくら理屈をこねても、そうであるものは、そうだと言うのが、あなたがたは神様に愛されている子供たちですから、ですから、という言葉の強さです。

もう大人になられたある牧師の長女の証ですが、小さい頃、運動会が日曜の朝からありますから、両親が運動会の午前中に来たことは一度もなかった。でもそんなの私は牧師の子供なんだから当たり前と思って、お昼、母親がせめてお昼を娘と一緒にとぜえぜえ言いながら走って来たら、お友達の家族と一緒にお弁当を囲んだのがすごく楽しくて、むしろお母さんが気の毒やったと言っておられました。私はその父親を知っておりまして、そうかすごい牧師だと思っていたけど、だからすごいのだと思いました。父として尊敬される歩み方を小さな子供にも分かるよう歩んでおられたのだと思います。自分は父に愛されているとの安心と、またそのための会話のやりとりとを、大切にされておったのでしょう。私たちは神様の子供たちであるという自覚も、家族の御言葉の交わりの中で養われ、保たれていくものです。そうか、私たちは神様の子供たちなのだという自覚が強くなるにつれ、生活も変わっていくものです。

その神様に倣いなさい。特に、愛に歩むことにおいて、あなたがたは神様の子供たちとして、神の家族として、神様の愛に歩みなさい。別の言い方をすれば、神の家族には、家族の生活スタイルがあるということです。子供たちは、その生活スタイルを、親に倣って身に着けていく。うちの例を上げると、皆さんも、ひょっと耳にしたことがあるかもしれませんが、私はよくうちの子供たちに、考えなさいと言います。今日、子供らがおらんので言えるのですが(笑)、親に似て、どちらとは言いませんが、思いつきでパッと行動した結果、怒られることが多い。ですので、これをしたらどうなるか、考えなさいと言う。で、考えたと言う。たぶん考えたのでしょうけど、でも、そしたらもっと優しい言葉で言えたがやない?考えるがは、人の気持ちを考えるがで。自分のことだけを考えるがは、何にも考えてないがで、と教えます。教えながら、いま私は子供の気持ちを考えながら、でも神様の前に責任ある親として教えたろうかと自問する時もあります。厳しくも優しく追い詰めることなく、むしろ導くことが出来たろうかと反省することも度々です。こうしたらえいがで、と実際に見て倣うのが一番ですから、いっつもお父さんもお母さんもやりゆうろうって、導くように心がけています。

そうやって神の家族の生活スタイルを、皆で身に着けていくのです。だって、他の家はこうやりゆうとか、子供だけでなく、大人も考えがちですけど、それならこう考えて自分たちに言い聞かせることもできるのです。だって、うちはお父さんがこうやりゆうき。親が牧師どころじゃない。天の父が私たちのお父さんですから、だから、愛に生きるがは、当たり前やき。そら辛いときもあるけど、だってお父さんの名前、愛やき。それが私たち、愛されている子供たちじゃないかと、御言葉は私たちが誰であるのか、改めて私たちの家の表札を示すのです。

さっき、愛に生きるのは、そりゃ辛いけどと言いました。それも含めて神様に倣うことを教えるため、またこの生活スタイルが、教会生活のスタイルであることをも強調するため、神様に倣う教会の歩みが、すぐさまキリストの愛に歩みなさいと具体化されます。キリストの愛に倣うとき、愛は綺麗事じゃないとすぐわかります。私たちの愛する相手が、じゃあ私たちを愛してくれるかと言うと、いつもそうではないのです。怒った眼差しが突き刺さる時もあるでしょう。無視されることなど度々でしょう。あんまり言うと辛くなるのでやめますが、それがキリストが私たちを救うため、十字架で自分を捨てられて、私たちを愛された愛である。ヨハネの手紙を引用すれば「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、私たちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」ハッピーラブラブなところよりもあるいは真実に、ここに愛がある!と語るキリストの十字架のもとで、私たちは、その名を愛と呼ばれる方を、真実、そのままに見るのです。そこでは愛の偶像も神の偶像も造らんでよい。自分の人生も偶像化せず嘘を歩むことから救われる道、それが十字架の愛の道です。イエス様はわたしを見た者は父を見たのだと言われました。私たちが真実、神様に倣いたい、父を父としてあがめたいと願うその道は、キリストの十字架のもとからスーッと伸びて、私たちをその道に招きつつ、天の父のもとに向かっています。この十字架のもとに立って父に祈るとき、あなたもわたしの愛する子だと、父の愛が染みてきます。私たちを御ふところに招いて語りかけて下さる父の喜びがわかるのです。

キリストに倣うところで父に倣える、その愛の道の急所を二つ、最後に説き明かします。一つは、私たちのためにと訳された言葉、これは、身代わりにと訳せる言葉です。それが自分を生け贄として捧げるという意味でもあります。愛は、自分を捨てるのです。イエス様もこう招かれました。わたしについてくる者は、自分を捨て、自分の十字架を負ってわたしについてきなさい。そこで愛の入口が開かれるからです。自分を考えないというのではありません。イエス様も十字架を前にして、私の願いはこうですと言われました。どうしても考えてしまうその自分を、でも、この人のためなら捨ててもよいと考えて、英語で言えばgive upする。自分をあきらめるとも訳せますけど、上に与えるのです。捧げると言ったほうがよいのです。私たちが自分をgive upして捧げる上は、虚しい空中ではありません。そこで父が、私たちを受け取って下さる。だから、その愛は虚しくならんのです。

だから愛は、父に捧げる。これが愛の二つ目の急所です。キリストは御自分を私たちに捧げたのでなく、私たちのために、父に御自分を捧げられました。どうぞわたしを犠牲として用いて、この人たちの罪を赦して下さい、わたしを用いて、どうか、父よと、父に捧げられたのです。人に捧げて裏切られない愛ってあるのでしょうか。でも父は人ではありません。神様は人ではありません。むしろ、愛を裏切る人を救うため、御子をくださった愛なる父です。その父を信じて、父にお捧げする愛の生け贄は、父が責任をもって受け取って下さいます。その父に向かって捧げるのです。私をこの人のために用いて下さい。この人が救われるためなら、救いに導かれるためであるなら、私は私の十字架を負います、私をあなたにお捧げします、父よ、聖別して下さい、聖めて御用に用いて下さいと、ここに捧げてしまうのです。人でなく父に捧げる愛であれば、私はあなたにこんなにもしてやっているのにという迷惑な愛にならなくてすみます。それは愛の自由な体験です。父もその愛の香りを喜ばれます。どんなに小さく拙くっても、父に捧げた私たちの愛は、決して無駄にはなりません。父が御自分の名にかけて、その愛に報いて下さいます。だからこの道に招かれたのです。そこまで愛されているのです。

 

13/8/18朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙4章31-32節、詩編103篇 「赦しに導かれる生活」

13/8/18朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙4章31-32節、詩編103篇

「赦しに導かれる生活」

 

先日、高知中央教会の会堂建築の参考にと、朝倉にあります高知喜びキリスト教会の会堂見学に行ってきました。大きさは大体ここと同じぐらいかと思いますが、会堂を立てるとき、あるコンセプト、うちはこういう会堂を立てるという考えに基づいて立てたそうです。椅子はベンチではなく、上に重ねてすぐ片付けられる椅子でして、それを重ねて端にザーッと置いたら、広い遊び場になる。下はビニールマットと言うのか拭いたら子供が座って遊べて、子供会に沢山呼んで、一緒に巨大カルタ取りゲームとかって、すべってカルタ取りできるよう、最初から計画、ヴィジョンがまずあって、それで会堂を建てている。素晴らしいと思いました。うちもいずれ開拓伝道し会堂建築するときは、まず駐車場側に流しそうめん用の蛇口を…(笑)。ま、妻が本気にして図面引いてしまいそうなので、このへんにしておきますが、本題はこうです。キリストも御自分の体、教会を建てるにあたって、とっても具体的なコンセプトを持っておられた。それがこの4章でずっと語られてきたのですが、今週の御言葉で言えば、こうです。ここにいると互いに親切でいることができる。憐れみの心で接し合うことができる。赦し合うことができる。それが教会だ。それが、わたしの体、あなたがたの家、神の家族である、教会であると主が言われる。アーメンって言えたら、こんな幸いなことはないと思います。主が、あなたがたもこの幸いに生きていこう、さあ一緒に、この教会を、幸いな救いの家として建てていこうと招いておられる。それが今週の御言葉です。

互いに親切にし、と訳された言葉。直訳すると、互いにしっくりくるようになりましょうという招きです。例えば、このベンチにしっくりとくる長座布団が教会員の素敵な奉仕によって与えられています。けれどもしこの座布団が、真っ赤なベルベットで、しかもスパンコールがちりばめられちょったら、しっくりこんですね。場違いという言い方がありますが、まさに場が違っていて、それでしっくりこなくなる。無慈悲や憤り、怒り、わめき等は、教会という場にしっくりきません。だから、それらは脱ぎ捨てて、キリストの優しさを着て、キリストの優しさに包まれて、互いにしっくりくる人になる。それが優しい人になりましょうというイエス様の招きです。親切だけど、距離があるっていうのではなくて、しっくりくる。家族の匂いがすると言ったら近過ぎでしょうか。

以前、同じ言葉がイエス様の招きで語られていると言ったのを覚えてらっしゃる方もおいででしょう。疲れた者、重荷を負う者は誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげようとイエス様が両手を拡げ、さあわたしと一つのくびきを負って、一緒に歩んでいこう。わたしのくびきは負いやすいからと招かれた。そこで、負いやすいと訳された言葉が、あなたにしっくりくるという言葉なのです。オーダーメイド仕立てのスーツのように、あるいは履き古したジーンズのように、しっくりくる。私の体の一部だって思えるほど、しっくりくる。教会で、互いに親切にしあうところで、私たちがどんな風に感じるかというと、互いにしっくりくるようになる。それがイエス様による教会形成のコンセプトです。初対面から親友っていうのは、難しいと思いますし、人間関係苦手な方もおられますから、これを律法主義的に、教会はしっくりこないかんという態度でおると逆にしっくりせんでしょう。最初からでのうてもよいのです。新品のジーンズ履くようなもんで、おおの窮屈なと思うのが、初めて出席した教会の礼拝の印象だってよいのです。私もそうでした。当時伝道所だったこの教会に初めて出席したとき、おおの窮屈なと思いましたが、教会員になって、皆の顔と名前とを覚えて、その顔の方から私は祈って頂いていて、いや、教会の神の家族によって私は支えられていると肌で感じるようになっていき、その優しさの中に身を置いて、まことこの教会が、私の一部となりました。そして私も、この教会の一部となった。今は天に召された金田さんや堀さん。ユニークな個性の持ち主でしたが、さあ、そうでない人が教会におるのでしょうか(笑)。個性の違いは当然あっても、一緒にイエス様の名を呼んで、教会はえいねえと一緒にお仕えして、それが互いにしっくりくる。そういう優しさに共に生きるイメージの方が、親切という言葉のイメージより、もっと教会の実際にしっくりくると思います。こう訳し直してもよいのです。互いにしっくりくる人になりなさい。そこを目指す。履き古されたジーンズになるまでには、時間がかかるかもしれませんけど、履き古すぐらいの沢山の時間を一緒に歩んでいきたいのです。一緒に歩んだその距離の分だけ、キリストの優しい弟子たちになれるからです。

その逆に、心の距離を遠ざけてしまうのが、先に言いました無慈悲や憤りなどの態度です。どうして前半後半で、これらの言葉が対比されるのか、よくおわかりになると思います。一方は互いの間に距離を作り、他方は距離を縮めてくれます。キリストの体である教会を一緒に建てていく時に、キリストが持っておられたコンセプトは、互いにしっくりくることなのに、そのしっくりを壊す態度が教会にもおこりうる。これらの態度は、でもキリストの憐れみのもとにしっくりこないので、だから脱ぎ捨てなさいと言われます。ですので、もしそういう態度が沸き上がってきたら、あ、私の心はいま真っ赤なベルベットを着ちゅう、なんやこのカラオケ衣装は、スパンコールまでついちゅう、はよう脱ごうと、キリストの憐れみのもとに急ぎ来て、イエス様、この変な衣装を脱ぎ捨てます、主よ、憐れんで下さいと祈るのです。

無慈悲と訳された言葉は、もともと奴隷をモノ扱いする態度を現わした言葉です。人扱いしない。私とは違うからと。だから同情もしない。厳しくして当然だという態度になる。その無慈悲な態度を、わたしの体にまとわせないで、すぐ脱いでくれと主は言われます。マザーテレサが愛の反対は無関心ですと言ったことも、これに当てはまると思います。私は関わりたくないと、自己責任にして放置する態度を、しかし教会は脱ぎ捨てて、私はキリストの憐れみのもとに、あなたと一緒に立ちたいと、自らキリストの憐れみに立ちつつ、キリストの憐れみの優しさを、その人のもとに運ぶのです。具体的には一言二言だけの言葉かもしれませんし、その勇気が出なくて、祈るだけかもしれません。でもそこで、主の憐れみのもとで祈るのです。あの人を、そして私を、どうか私たちを憐れんで下さいと、主の憐れみのもとに立つのです。そうやって祈る教会は、内々だけでしっくりくる仲良しグループにはなりえんでしょうし、伝道する教会に当然なります。ここに優しい憐れみがありますと、キリストの赦しと恵みがありますと、伝えたくなる優しさが心に湧き、その湧き出した優しさが、キリストを証しするのです。

続いて教会のしっくりを壊すリストに、憤りと怒りがあげられます。怒りについては、26節で取り扱ったはずなのに、また語らざるを得んというのは、これで教会を壊す事例が本当に多かったのだと思います。わめきというのは、大声を上げることですが、口論や言いあい、高知ではよく目にする光景かもしれませんけど、どうして大声になるかと言うと勝ちたいのだと思います。でもそこでキリストの憐れみに立ち損ねたら愛の闘いは負けになります。私たちは人に勝たなくてよいのです。自己主張する必要もありません。むしろキリストの憐れみをこそ主張して、しかも優しく主張して、この人おかしいと思われたら良いのです。その憐れみのおかしさが、人を自由にするのです。愛の愚かさと言ってもよい。人を本当に変えるのは、十字架で罪を負って赦す愚かな愛です。

そしりという言葉は、あまり使わんかも知れませんが、やってはいるかもしれません。悪口、陰口、無責任な批判。おんしはねゃとか、あの人はねぇとか。これも教会を壊します。陰口で盛り上がるしっくりは、キリストの憐れみにしっくりきません。十字架のもとに立ち損ねています。むしろ一緒に祈ったらよいのです。我らの罪を赦し給え。そしりの試みに遭わせず悪より救い出し給えと。そこには悪意があるからです。そこから私たちを救いだすために、キリストが死んで下さったのですから、主の憐れみのしっくりを破壊する、悪口、陰口は脱ぎ捨てて、もし図に乗ってやってしまったら、勇気を出してこう言ってもよい。一言お祈りしていい?って、今言った主の祈りを祈ればよい。そしたら、本当の言葉が、新しい言葉が、続いて出ると思います。しゅんとした雰囲気になるかもしれませんし、そういう雰囲気に慣れてなかったら、戸惑うかもしれませんけど、案外その前の陰口に傷ついて躓く寸前の人がおったかもしれんのです。そうやって主の憐れみのもとに一緒に立って、悪を脱ぎ捨て、古い言葉や態度を脱ぎ捨て、キリストの優しさのしっくりに生きる。こっちのほうがしっくり来るねぇと、しゅんとした気持ちでありながらも、不思議な自由が心にあるのを、それがキリストの平和であることを同時に体験もするでしょう。ごめんね、言い過ぎてと、悔い改めの言葉も出るかもしれんし、ごめんなさいという言葉って、こんなにしっくりくるのかと、こんなにも優しい言葉だったかと、改めて驚くのかもしれません。赦しもそうです。赦したら自分が負けだと思っていたのに、これは妥協できんと赦さないで、苦々しい思いであった私が、むしろどんなに不自由であったかと気付くのも、同じキリストの憐れみのもとでです。神様がキリストによって私たちを赦して下さった。その憐れみのもとに身を置いて、赦しの自由に生きられることが、こんなにしっくりくるなんてと、あの聖餐式の招きの言葉に導かれもする。主の恵み深きことを味わい知れ。そこで恵み深きこと、と訳された言葉も、しっくりくるという言葉です。赦しはしっくりくるのです。

キリストがその優しさと恵みに招かれます。赦せない思いに疲れた人も、自分の悪の重荷を負う者も、皆わたしのもとに来なさい。赦されて生きるいのちの自由を、互いに優しく生きられる平安の道を、わたしと一緒に歩んでいこう、家族みんなで歩んでいこうと、キリストが招いておられます。その恵みの召しに、皆でお従いしていくのです。

キリストの憐れみがしっくりとくる教会形成。それが、その名を愛と呼ばれる三位一体の神様の、救いのご計画であるのです。

13/8/11朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙4章29-30節、イザヤ書6章1-8節 「病んだ言葉を捨てよう」

13/8/11朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙4章29-30節、イザヤ書6章1-8節

「病んだ言葉を捨てよう」

 

イエス様は弟子たちにこう言われたことがあります。悪い実を結ぶ良い木はなく、また良い実を結ぶ悪い木はない。木はそれぞれその結ぶ実によってわかる。そうおっしゃって最後にこうまとめられました。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。悪い言葉が出るのは何故か。心が悪いからだとおっしゃった。無論そう言って人を追い込むのではなく、私たちの心にこそ問題があるのだと、向き合うべき問題の所在を問われたのです。今朝の御言葉も、例えばキリスト者に相応しくない悪い言葉リストと、キリスト者に相応しい良い言葉リストを作ったら、それですむような問題でないのは、おわかりのことだと思います。

悪い木、悪い実と、そこでイエス様が「悪い」と言われた言葉が、いま読みましたところで同様に「悪い言葉」と訳されています。直訳は、腐った言葉です。腐った言葉を一切口にしてはならない。あるいはこうです。枝から腐ってもげ落ちる言葉を、あなたがたの口からボタッと、もげ落とさせたり、プッと吐き出させてはならない。腐った実を人の口や耳に放り込むイメージを御言葉は用います。いじめにあって、海岸に打ち上げられていた腐った魚を食べさせられた少年を知っていますが、私たちが腐った言葉を口にするのは、それと同じだと言うのです。

そしてイエス様がおっしゃるには、それはその言葉が出てくる、心が腐っているからだ。腐った木から腐った実がもげ落ちるのだ。そう聞くと私はジメジメしたところで半ば腐っている木を想像するのですけど、陰湿な言葉など確かに腐っているというイメージがあります。陰湿な心の態度を、日本語でも腐るとか、ふて腐れると言うのです。ふて腐れて出てくる言葉は腐っている。よくわかることではないかと思います。

その罪に腐り、罪に病む私たちの心を癒し、心の底から新しく新鮮でフレッシュな実を結ぶ心へと新たにするため、イエス様が来て下さり、私たちと御自身を一つに結んで下さった。そのことをまた木のイメージでこうおっしゃいました。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。そうすればあなたがたは豊かな実を結ぶと。ヨハネによる福音書の言葉ですけど、そこでイエス様が、わたしにつながっていなさい、とおっしゃったことを、具体的に言い換えたのが22節以下の御言葉です。何度もここに帰りますが、改めて読みます「…」。これが、21節の言葉で言う、キリストに結ばれて教えられてきた救いの真理だからです。

古い人は滅びに向かっている。これも別の単語ですが、腐って朽ちて腐敗に向かっていく古い人という言葉が用いられます。木で言うなら、古い木。これが腐った木であり、腐った心、その腐った心の腐敗を保つ腐った考え方と腐った態度、腐った生き方が身についてしまった、罪の腐敗の生活パターンです。キリストは別にいらんしと、神様から離れて生きる罪のパターンです。その腐った木は、しかしキリストに結ばれたあなたにとって、もう古くなった木、本当のあなたではない、過ぎ去るべき古い木だから、真実のあなた、あなたの真理はそこにはないから、その腐った木、腐った心は脱ぎ捨てなさい。これはキリストに結ばれ繋がっている私ではありませんと脱ぎ捨てて、キリストの心に着替えるのです。私はキリストにつながって、キリストの赦しの言葉と恵みを受けて、私もまた、キリストの赦しの言葉、恵みの言葉を語る木の枝になります。私はキリスト者、キリストに結ばれた者です!と、祈って新しく立ち上がれる。それが実生活に及ぶキリストの救いの真理です。

そこで身に着ける、新しい言葉、キリストの言葉を言い直したのが、「聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げる」ための言葉です。キリストの言葉って、そうでしょう。恵みの言葉以外にキリストが一言でも語られた言葉があるでしょうか。裁きの言葉であってなお、その裁きをご自分で受ける覚悟をもって語られなかった裁きの言葉が、たった一言でもあったでしょうか。赦す態度での裁きの言葉と、私たちがよくやる裁く態度での裁きの言葉は別ものです。もし、いや私は赦しの態度で裁きを語っているのだと自分に言い聞かせながら、後はあなた次第だ、私はもう正しいことを語ったのだからと、その人の自己責任にして放置するなら、それが本当に十字架で死なれたキリストの態度であるのかどうか、その人の重荷を背負う態度がそこにあるかどうか、吟味する必要があるでしょう。恥を打ち明けますが、二十代半ば、神学校に行く少し前、ある教会の青年会で聖書の話をしておって、幸生さんの話は私の心にナイフのように刺さってくるよと言われたことがあります。私はそれを聖書の言葉は罪を切り裂く霊の剣だからと勝手に受け取って喜んでおったのですが、それから何年もたって、ふと気付いたのです。私はその人の罪を裁いたままで立ち去ったのではないか。自分の罪を示されたあの青年は、いま教会につながっているだろうかと。仮に聖書を用いても罪を暴くだけの正しい言葉は間違っています。態度が間違っているからです。そもそも三位一体の神様のお気持ちを汲み取っていません。キリストの憐れみのもとにおらんまま語る言葉は、キリスト抜きの裁きになり得る。あるいはキリストのもとに行きなさい、悔い改めよと言うだけで、悔い改める生活がどのようであるか、キリストが共にいて下さる歩みの香りがどんなであるか、キリストがそこで証しされないままで、キリストという言葉だけが語られるなら、教会が、もしそういう正しい集団になってしまって、そういう正しい言葉ばかり語っていたなら、そこには腐敗臭が漂っているに違いないのです。

無論その反対に、罪を犯すのは仕方ないという態度が蔓延し、だって他の人もやりゆうし、直そうとしてきたけど直らんしという態度もまた腐っています。その態度が言葉として口に出ようと出まいとです。

どちらの態度も、自己責任だと言えます。どういう言葉が腐った言葉かを今説き明かしているのですけど、自己責任の言葉は腐っています。悪いのはあなたの責任だと言う、正しいだけの言葉も、逆に、それぐらいいいじゃないかと罪の責任を曖昧にする言葉も。一方は責任を相手に押し付けることで自分は逃げる。もう一方は、責任そのものを曖昧にして責任から逃げる。どちらも相手の重荷を背負うことから逃げる態度です。自分はその人の連帯責任は負わんという態度です。それはキリストの十字架の態度ではないから、キリストが、わたしに従いなさいと招かれた召しに相応しい態度ではないから、どちらも無責任で腐っています。

無責任な言葉が人を腐らせ、人間関係を壊すとも言えるでしょうか。無責任な言葉が31節では無慈悲な言葉になったり、また下の段3節以下では、みだらで下品な言葉にもなります。あらゆる無責任な言葉が人を傷つけ、下品な言葉で、人が不愉快な思いになる時に、これっぱあえいろうという無責任な態度が、人を教会から離れさせることもあります。幸い教会に留まっても、そんなのは当たり前だという態度なら、やはり無責任であり、それが御言葉の語る通り、聖霊様を悲しませるのです。

いきなり聖霊様が出てくるようかもしれませんが、もう既にこの4章また4章以下全体が、この一言に集約されるとさえ言い得る御言葉が、既に3節で語られておりました。「平和の絆で結ばれて、霊による一致、聖霊様による一致を保つように努めなさい。」聖霊様が私たちをキリストに結び、キリストの体に結び入れ、神の家族とさえして下さった。そのキリストと一つであること、またキリストと結ばれた兄弟姉妹も同様に一つにキリストに結ばれて一つであること。これを聖霊様による一致と呼びますが、これを熱心に保てと言われているのであれば、この一致を見えなくさせるような一切の言動は無責任であり、聖霊様を悲しませると言うのです。私たちをキリストにギュッと結びつけ、たとえ私たちがその救いの絆が見えなくなって、もう父の子と呼ばれる資格はないのではないかと思う時にも、聖霊様が、わたしが保証する、あなたはあなたのために十字架で死なれたイエス・キリストのものである!わたしがあなたを主と結んでいる、わたしが保証だ!と言って下さる。父にも保証してくださる。この者はキリストに赦されていますと。そこまで聖霊様が私たちのために尽くされて、言わば、キリストが十字架で苦しまれることに全てをかけられたように、聖霊様が私たちをキリストと一つに結びつけ、キリストの体、教会の一致の帯となることに全てをかけておられる。その一致を、無責任にも軽んじて、霊による一致を保つことを軽んじる一切の腐った言葉と態度とは、聖霊様を悲しませる。あなたがたの救いに全てをかけるわたしたちの思いが、どうしたらあなたにわかるのかと、悲しまれると言うのです。

ならばこそ、私たちが腐った心を脱ぎ捨てられるように、主は私たちのもとに来られたのです。そのキリストの十字架のもとへと急ぐのです。そこでしか腐った心を脱げんからです。キリストの赦しの御言葉が語られる十字架のもと、そこが私たちの心の脱衣所です。そしてその赦しの言葉、恵みの言葉こそ、私たちが新しく身に着けて語り出す、恵みの言葉、その人を造り上げられる言葉です。

造り上げるという言葉は、もう何度も出てきた、キリストの体を建て上げる、教会をキリストの体として建て上げるという言葉です。ここで語られてきたのは、単なる心のモラルではない。キリストの体形成を、教会形成をどうしたらよいのか、どんな言葉を語ったら、教会が建て上げられるかを語るのです。そしてその恵みの言葉、教会を建て上げていく言葉とは、私はキリストのもとにあなたと一緒に立ちたいという言葉です。あなたと私がこの教会には必要ですという言葉です。アーメン、その通りだと思うけど、その言葉は少し恥ずかしくて日毎には語れないと思うなら、別の言葉を、同じ態度で語ったらよいのです。キリストの憐れみのもとに立って、キリストの憐れみがなかったら、私たちは今日を生きていくことができないという態度で、キリストの召しに相応しい謙遜と柔和を身に着けて、キリストの態度を身に着けて語る言葉は、人をキリストの体の肢として相応しく建て上げていきます。洗礼を受けておられない方に向かっても無論そうです。その人をキリストは招いておられます。私たちの言葉が、そのキリストの招きの言葉になるのです。