13/7/28朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙4章28節、レビ記19章9-12節 「喜びは泥棒せず分ける」

13/7/28朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙4章28節、レビ記19章9-12節

「喜びは泥棒せず分ける」

 

この御言葉を聴かれて、そうだ、その通りと思われる方は多いと思います。が、ああ、これは私のことだ、主は私のことを言っておられると聴かれる方は、多くないかもしれません。でも、そうなんでしょうか。いわゆる窃盗癖のある人に対して語られる特異なケースを、この御言葉は語りかけているのでしょうか。ここを説明して、最初の内の教会には奴隷身分の人々が多く、ちょっとくすねたり盗んだりするのは奴隷たちにとっては当たり前のことだったからと説明するものもあります。が、だったら6章の奴隷たちよと語りかける部分で言及しそうなものです。それにこの28節の前後を見ましても、嘘をやめよう、怒っても罪を犯さないように、悪い腐った言葉を口にするな、31節では無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなど全てを一切の悪意と一緒に捨てなさい、等々、そうした問題を特別に抱えている人々はこうだって話ではどうもない。そうだな、これは私に当てはまるな、ただ、盗みだけは別って話はしてないのです。こう言ってもよいでしょうか。ここで十戒が語り直されているのだと。隣人に関して嘘の証言をするな。怒りに関してはイエス様の山上の説教を思い出します。兄弟に腹を立てる者もまた人殺しと同様に裁きを受けると主は言われました。最後の線を越えなければというのは人間が勝手に考える言い訳で、そうやってアダムとエバも、駆け足で線を踏み越えていったではないか。怒りもそう。裁き主を無視した怒りはない。人間の勝手な線引きはまかり通らん。むしろそうやってあなたがたが神様の前に線引きをして神様との距離を勝手に置いてしまった、その線をこそ踏み越えて、あなたは神様の前に自らの身を置きなさいとイエス様が、ねんごろに親しく教えて下さった。その同じことが、ここでも語りかけられるのです。

盗みを働いていた者はという言葉。直訳は、盗む者よ。現在形です。いま現在盗んでいる者よ。もうこれからはその者に盗ませるな。そこで聴く人は、自分に当てはめて、あ、私だと聴くのですけど、もうその人に盗ませるな。ん?誰?私が盗みゆうのに、盗む人って誰?と思うかもしれません。そこが22節以下のつながりの大切なところです。22節をこう読むとわかりよいでしょう。だから以前の、人から盗む生き方をして盗む欲望に迷わされ滅びに向かっている盗む人を脱ぎ捨てること。これが今現在キリストに結ばれて生きているあなたの真理だと。現在盗みを働いているのは古い人だから、キリストに抱えられて十字架に一緒に付けられて一緒に死んだ、キリストと共にもう死んだ古い人だから、そんな死んだ古い人にもう盗ませるな。そんな人は脱ぎ捨てて、キリストに着替えて、新しい人を着て生きていくこと。それがキリストに結ばれてあるあなたの真理だから、盗む者にもう盗ませるな。むしろ、と言って、身に着けるべき新しい人の生き方、キリストして生きる生き方が、はいこれと、まるで誕生日に新しいドレスをプレゼントされたように、真新しいスーツ一式プレゼントされたように、新しい自分の姿が目の前に描かれる。これがあなたですよと。それが今週の御言葉です。

ただ、その御言葉の訳が、ま、わかりやすくと思って訳されたのでしょうけど、かえって元泥棒だけに向けられた言葉のようになってしまいましたので、これも直訳し直します。むしろその手をもって良い行いをなすことで労苦しなさい。そうしたら必要のある人と分かち合うために得ることができるのです。もう一回。むしろその手をもって良い行いをなすことで労苦しなさい。そうしたら必要のある人と分かち合うために得ることができるのです。

この御言葉は収入の話ではありません。盗みによる悪い収入と、汗水流して得る良い収入という話ではなく、あなたは何のために働いていますか、自分のためですか、それとも隣人と共に生きるためですかという具体的な生活の態度が問われるのです。この御言葉のために想定される奴隷であっても、しかも盗むのは当たり前、だって皆やりゆうし、他にどうしたらえいがでという奴隷の生活が、ここで想定されたとしても、奴隷ですよ、それだけで労苦じゃないんでしょうか。現代の日本に身分としての奴隷制度はありませんが、奴隷のようにこき使われている人はおるでしょう。貧しさの中で、だってしょうがないじゃかと思いつつ、汗水流して生きている人々は日本にも大勢いる。むしろお金があって、比較的楽な生活をして、自分のために時間を使って、自分のためにお金を使っている人々が、じゃあ自分の自由になるその時間とお金を、自分のための時間もお金もない隣人のために使っているかと考えるときに、それは搾取じゃないのか、泥棒じゃないのかと資本主義が批判される。その言葉には説得力があると思われたことは、ないでしょうか。難しい政治の話をしているのではありません。政治ではなくて、生活です。主が私たちの生活をご覧になって、あなたは誰のために生きているかと問われるのです。もし政治というのなら、私たちを治め、決まりを与え、その律法を基準にして裁きを行うのは、一体誰であるのかを、私たちは知らんわけではありません。奴隷のように貧しかろうと楽な生活をしておろうと、主が、あなたは盗んでないかと問われるなら、皆そこで自分に問わざるをえんのです。私は人から、また神様から盗んでないか。

もしそうなら、もう今から、古い人に盗ませてはなりません。むしろ盗みを働いていたその手をもって良い行いをなすことで労苦しなさい。そうしたら、必要のある人と分かち合うために得られるのです。得る、というのは、お金を得るだけじゃない。分かち合うものはお金だけという生活が、どんなに貧しいか。むしろ教会はその初めから、私たちには金銀はない。しかし私たちにあるものを与えよう。イエス・キリストの名によって立ちなさいと言って、手を差し伸べてきたのです。キリストが死者の中から立ち上がられたように、私たちもまた立ち上がらされて新しい人として歩めるから、さあと手を差し伸べてきた。傷つける古い言葉ではない新しい言葉を語り始め、新しい態度を身に着けて、教会は新しい人キリストに結ばれた者として、最初から共に歩んできました。

だからお金もあったら分かち合うし、力も時間も賜物も分かち合う。いやむしろ、私に与えられているものは全て、隣人と分かち合うために主から与えられた恵みの賜物であったのだと、自分を見る目が変わるのです。自分のものを見る目が、心が、心の底から、霊の根源から新たにされて、今まで自分のものだと見えていた自分の手の中にあるものが、また自分の手が、自分という存在そのものが、主からの恵みの賜物であることを知らされる。23節の説き明かしで少し触れましたが、これがコリントの信徒への手紙一2章で語られている神様の知恵、聖霊様によって心の目が開けて見えてくる新しい風景です。新約301頁。コリントの信徒への手紙一2章12節以下「私たちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それで私たちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。そして、私たちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、霊に教えられた言葉によっています。」云々と続いて、頁の最後にこう締めくくられます。「しかし、私たちはキリストの思いを抱いています。」世の霊は滑らかに教えます。自分のものは自分のもの。自分の自由にできるもの。恵みという言葉が用いられても、それは自分にとっての恵みでしょう。自分のため。それに対して聖霊様によって与えられるキリストの思いは、だからその自分の自由になるものを、隣人と分かち合おう、それは父からの恵みだからという思いです。恵みとは隣人と分かち合える自由な恵みだからです。

その恵みの眼差しをもって御言葉は、私たちの手を見つめさせます。その手を見てごらんと言うのです。その手は、自分のためだけにあるのだろうか。まして自分のため人から盗むためにあるのではない。自分のものではない隣人のものを隣人から盗むためにあるのではない。むしろ自分のものとして与えられている私たちの手は、隣人のためにある。この自分の手をもって働き得た自分の働きの実りを、その実りを必要としている、あなたの隣にいる人と分かち合うためにある。そうじゃないかと告げるのです。ただじっと手を見るだけで、そこから何も新しく生まれないという、貧しさの悲哀には留まらない。働けど働けど、なおわがくらし楽にならざり、ぢっと手を見るという歌がありますが、その詩人は友人からよくお金を都合してもらっては、女性遊びをしていたと、その友人のご子息が当時のことを述懐している記事を読みました。ひょっとこの人の先祖は大泥棒石川五右衛門じゃなかろうかと子供ながら思ったと言うのです。子供ながらに鋭いと思います。あるいは子供だからでしょうか。大人であった父親は大人の事情をわかって与えたのかもしれませんけど、少なくともこの詩人は自分の妻に対して結婚の真実を盗んでいます。遊び相手の貞操もです。大人であろうと、子供であろうと、貧しかろうと、自由があろうと、私たちがこの自分の手を、自分のためにのみ見るのであれば、そこに新しい生き方は生まれません。

しかし福音の真理はこれです。私たちの手は、キリストに結ばれて、もう新しい手になったのです。その手で何ができるでしょうか。どんな賜物があるのでしょうか。隣人の必要を満たすため働く手です。私には賜物がないからと、もし、じっと見つめてしまうなら、その手を組んで目をつぶり、隣人を執り成し祈ればよいのです。25節の説き明かしでも申しましたが、教会はあなたが必要です。私たちの手を必要としている隣人がいるからです。困っている人って訳されましたが、必要のある人という言葉です。必要のない人がおりますか。しかも恵みを必要としてない人が。キリストを必要としてない人が。私たちは互いにキリストの体として、互いに必要を満たし合い、互いに仕え合うのです。ある人は労苦して祈りに仕え、ある人は労苦して教会の汚れを清め、恵みの言葉を身に着けようと、御言葉を毎日労苦して読み、誰かに手紙やメールを書く時、そっと書き添えられるようにする。そうやって恵みを分け与えるのです。時間がかかり、労力がいります。自分の時間を割くのです。隣人のために割くのです。そこに十字架で肉体を裂かれた、キリストの思いが染みてくる。キリストの御業がそこでなされるのです。