13/7/7朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙4章22-24節、エゼキエル書11章19-20節 「キリストの思いが心に」

13/7/7朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙4章22-24節、エゼキエル書11章19-20節

「キリストの思いが心に」

 

これが教会生活の設計図だと先週申しました。古い人を脱ぎ捨てる。心の底から新しくされていく。そして新しい人を着る。この三つだと。キリストに、はいと言わなくて自分で生きていた古い人は脱ぎ捨てて、イエス様、あなたが必要です、とイエス様を信じるところで、その信仰でイエス様と私とがつながっている、その繋がりを与えて下さっている聖霊様に、いや、その繋がり・結びそのものであられる聖霊様によって心が新たにされていく。そして神様の形の新しい人、キリストを着て、具体的にキリストに従って、はいと返事して歩む。うんと短く言えば、キリストに着替えて歩むのです。キリストを信じて救われて歩むとは、生活を、毎日キリストに着替えて歩むのです。

ところが、私は上手う着替えれんと悩むこともあります。例えば主日には礼拝出席し、平日も祈るんですけど、祈りがぎこちなく感じたり、礼拝にも集中できんかったりすると、キリストに着替える努力はしゆうんだけれども、キリストがブカブカ過ぎるというイメージでしょうか。キリストを着る自分が逆にみっともなく、惨めに感じる時がある。

だからこそ、なんです。だからこそ、その惨めな心の底から、神様のご介入によって、聖霊様によって新たにされていく。これこそキリストに着替えて生きるために、一番必要な急所、また恵みなのです。

では、私たちが心の底から新たにされるとは、具体的には、どういうことか。何を目指して励みにして、聖霊様、私を新しくして下さいと、我が身を毎日献げればよいのか。それが説教題です。キリストの思いが心に。丁寧に言うと、キリストの思いが私の心、考え、思いの全てを、全部ご支配下さって、キリストの思いが私の思いになってしまう。私が思ったり願ったりするんだけれども、それがぴったりキリストの思いと同じように思ったり願ったりしておって、イエス様が、お、そうそう、その通り、そうながよ、それが天の父が喜ばれる、父の御心やきねえとイエス様ご自身喜んで下さる。となったら、これはもうキリストがブカブカじゃないのです。いや、きっとブカブカなんでしょうけど、小さな子供が親の服を着て、そりゃブカブカなんですけど、もうとっても嬉しそうな顔をして、見て見てって親に見せに来る。だから、いいんです。ブカブカで。ピッタリに向かって、一緒に成長していくのですから。

そうか、キリストの思いがなればよいのか、アーメンと思いが新たにされること、これが一つの具体的な「新たにされる」です。新共同訳で、心の底から、心と訳された言葉は感情というよりは、思い、考え、あるいは志すほうの意志という意味です。同じ言葉が17節3行目で考えと訳されました。愚かな考えと言うのは直訳すると虚しい中身のない思いですが、それはその思いや考えの中にキリストの思いがないからで、学力とか知能の中身ではありません。どんなに学力があっても、でもその思いや考えの中にキリストの思いがなかったら、神様のお気持ちはわからんのです。その赦しも愛もわからなくて、自分がどこに行くのかもわからない。だから私たちに問われるのは、あなたの心にはキリストの思いがありますか、それ故に、神様のお気持ちがわかりますかということなのです。(これはコリント書一の2章で丁寧に教えられています。)

もし心と訳すなら、心が定まるという言い方でイメージすればわかりやすい。心指すとも言います。私たちの心は、その心が向かう方向を指します。意志というのは、そこに心が定まって、例えば洗礼の意志とか言う。洗礼を受けたいと心が思い、よしと心が定まって、洗礼の意志を持つ。また、関心を持つ。心が関わると書きます。洗礼に思いを寄せるのです。そのように心が思いが意志が考えが新たにされていくのです。今まではちっとも関心がなかった神様の御心に、心が向く。新たに考え始める。そもそも考えるってのは、何かを考える。関心がないことは、考えようともせんし、考えても残らんし、何かが、へ~ってわかったとしても、自分のこととしてわからんので、残らん。残るのは自分に関心があること、自分事として心にあることです。皆さんは、何が心にありますか。何が自分の関心事ですか。そして、そのことに、どういう態度で関わって、どういう方向で考えていますか。自分のためでしょうか。神様のためでしょうか。そのことをキリストなら、どの方向に、どんな態度で、考えられると思われますか。そのキリストの思いと同じ方向へと、私たちの思いが方向転換されていき、方向が新たにされるのです。自分に向いちょったのが、天の父の御心に向くのです。しかもそれが、こんなことしたら神に裁かれるとか、そらこれが御心に決まっちょら!とかって態度でじゃない。神様を、第三者のように考えるのじゃない。むしろアダムとエバが考え損ねた、父のお気持ちがわかるようになる。神様のお気持ちがわかって心痛んだり、嬉しくなったり、父・子・御霊のお気持ちが心に染みてわかるようになるのが、心が新たにされていく救いの急所であるのです。父の子らしくなるとも言えます。

そしたら人生への眼差し、見方も新しくなる。例えばお金の見方も、ああ、イエス様が言いよったのは、こういうことか!とわかり、新たにされる。そしたら生き方が変わって行かざるを得ませんよ。献金の意味がわからんと、そりゃしんどいという思いがある。でもそれがわかるようになってくる。教会が神の家族ってどういうことか、イエス様の眼差しで、兄弟姉妹を見るようになる。当然、教会のありようが新しくなっていかざるを得なくなる。キリストに着替えるとはそういうことです。無理して嫌々キリストを着よったら、そりゃ続かんでしょう。そこまで私たちの心が古びておればこそ、聖霊様は、さあ、その心を思いを考えを、わたしに任せてごらんと、私たちをキリストに結ばれた方としての責任を持って、心を新しくして下さる。真に慰め深い助け主なのです。

心の底からと訳された言葉は、直訳すると心の霊においてという言葉です。文法や神学的に難しい議論は牧師の責任において消化して言いますと、人の心の一番底で人間を人間たらしめる人の霊がある。しかし、その霊を神様の形に新たに造り直し、新しい人、キリストに結ばれ生きる者として新たにされるのは、その人の霊の更に一番底にお住まいになることで、私たちを底辺から支え導き復活にまで至らせられる、聖霊様の他にはおられません。私たちには、この聖霊様が必要なのです。その必要をたとえ無視して、悲しませることになっておっても、ならばこそ聖霊様がいて下さらんかったら、教会も人生も古いままです。

その聖霊様が、父と子のお気持ちを私たちのもとに届け、住まわせ、理解させ、アーメン、私たちをそのお心の通りに歩ませて下さいと祈り願えるよう、心を新たにされるのです。そしたら私たちは今までの考えのパターンと生活のパターンを、神の形に、キリストのパターンに着替えられる。最初はブカブカです。その中で自分の古い考えが暴れ出して惨めになることも度々でしょう。でも、キリストの思いがあるのです!キリストに結ばれた者には、聖霊様によってあるのですから、そこで、何度でも祈るのです。イエス様、あなたの思いが勝って下さい!聖霊様、助けて下さい!と。それが祈れること自体が、新たにされている証拠です。だから祈ります。古い考えも態度も脱ぎ捨てて、主よ、あなたに、はいと言って従わせてくださいと、聖霊様のご介入を求めて、聖霊様の力を信じて、キリストに着替えてまた歩み始める。それが真理に基づいた正しい聖なる生活です。神様が、そう、その通りと喜んで下さる歩みのことです。その人は日々新しく、神の形に成長していきます。だからブカブカでもいいんです。その心はもう御国に定まっているからです。