13/7/28朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙4章28節、レビ記19章9-12節 「喜びは泥棒せず分ける」

13/7/28朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙4章28節、レビ記19章9-12節

「喜びは泥棒せず分ける」

 

この御言葉を聴かれて、そうだ、その通りと思われる方は多いと思います。が、ああ、これは私のことだ、主は私のことを言っておられると聴かれる方は、多くないかもしれません。でも、そうなんでしょうか。いわゆる窃盗癖のある人に対して語られる特異なケースを、この御言葉は語りかけているのでしょうか。ここを説明して、最初の内の教会には奴隷身分の人々が多く、ちょっとくすねたり盗んだりするのは奴隷たちにとっては当たり前のことだったからと説明するものもあります。が、だったら6章の奴隷たちよと語りかける部分で言及しそうなものです。それにこの28節の前後を見ましても、嘘をやめよう、怒っても罪を犯さないように、悪い腐った言葉を口にするな、31節では無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなど全てを一切の悪意と一緒に捨てなさい、等々、そうした問題を特別に抱えている人々はこうだって話ではどうもない。そうだな、これは私に当てはまるな、ただ、盗みだけは別って話はしてないのです。こう言ってもよいでしょうか。ここで十戒が語り直されているのだと。隣人に関して嘘の証言をするな。怒りに関してはイエス様の山上の説教を思い出します。兄弟に腹を立てる者もまた人殺しと同様に裁きを受けると主は言われました。最後の線を越えなければというのは人間が勝手に考える言い訳で、そうやってアダムとエバも、駆け足で線を踏み越えていったではないか。怒りもそう。裁き主を無視した怒りはない。人間の勝手な線引きはまかり通らん。むしろそうやってあなたがたが神様の前に線引きをして神様との距離を勝手に置いてしまった、その線をこそ踏み越えて、あなたは神様の前に自らの身を置きなさいとイエス様が、ねんごろに親しく教えて下さった。その同じことが、ここでも語りかけられるのです。

盗みを働いていた者はという言葉。直訳は、盗む者よ。現在形です。いま現在盗んでいる者よ。もうこれからはその者に盗ませるな。そこで聴く人は、自分に当てはめて、あ、私だと聴くのですけど、もうその人に盗ませるな。ん?誰?私が盗みゆうのに、盗む人って誰?と思うかもしれません。そこが22節以下のつながりの大切なところです。22節をこう読むとわかりよいでしょう。だから以前の、人から盗む生き方をして盗む欲望に迷わされ滅びに向かっている盗む人を脱ぎ捨てること。これが今現在キリストに結ばれて生きているあなたの真理だと。現在盗みを働いているのは古い人だから、キリストに抱えられて十字架に一緒に付けられて一緒に死んだ、キリストと共にもう死んだ古い人だから、そんな死んだ古い人にもう盗ませるな。そんな人は脱ぎ捨てて、キリストに着替えて、新しい人を着て生きていくこと。それがキリストに結ばれてあるあなたの真理だから、盗む者にもう盗ませるな。むしろ、と言って、身に着けるべき新しい人の生き方、キリストして生きる生き方が、はいこれと、まるで誕生日に新しいドレスをプレゼントされたように、真新しいスーツ一式プレゼントされたように、新しい自分の姿が目の前に描かれる。これがあなたですよと。それが今週の御言葉です。

ただ、その御言葉の訳が、ま、わかりやすくと思って訳されたのでしょうけど、かえって元泥棒だけに向けられた言葉のようになってしまいましたので、これも直訳し直します。むしろその手をもって良い行いをなすことで労苦しなさい。そうしたら必要のある人と分かち合うために得ることができるのです。もう一回。むしろその手をもって良い行いをなすことで労苦しなさい。そうしたら必要のある人と分かち合うために得ることができるのです。

この御言葉は収入の話ではありません。盗みによる悪い収入と、汗水流して得る良い収入という話ではなく、あなたは何のために働いていますか、自分のためですか、それとも隣人と共に生きるためですかという具体的な生活の態度が問われるのです。この御言葉のために想定される奴隷であっても、しかも盗むのは当たり前、だって皆やりゆうし、他にどうしたらえいがでという奴隷の生活が、ここで想定されたとしても、奴隷ですよ、それだけで労苦じゃないんでしょうか。現代の日本に身分としての奴隷制度はありませんが、奴隷のようにこき使われている人はおるでしょう。貧しさの中で、だってしょうがないじゃかと思いつつ、汗水流して生きている人々は日本にも大勢いる。むしろお金があって、比較的楽な生活をして、自分のために時間を使って、自分のためにお金を使っている人々が、じゃあ自分の自由になるその時間とお金を、自分のための時間もお金もない隣人のために使っているかと考えるときに、それは搾取じゃないのか、泥棒じゃないのかと資本主義が批判される。その言葉には説得力があると思われたことは、ないでしょうか。難しい政治の話をしているのではありません。政治ではなくて、生活です。主が私たちの生活をご覧になって、あなたは誰のために生きているかと問われるのです。もし政治というのなら、私たちを治め、決まりを与え、その律法を基準にして裁きを行うのは、一体誰であるのかを、私たちは知らんわけではありません。奴隷のように貧しかろうと楽な生活をしておろうと、主が、あなたは盗んでないかと問われるなら、皆そこで自分に問わざるをえんのです。私は人から、また神様から盗んでないか。

もしそうなら、もう今から、古い人に盗ませてはなりません。むしろ盗みを働いていたその手をもって良い行いをなすことで労苦しなさい。そうしたら、必要のある人と分かち合うために得られるのです。得る、というのは、お金を得るだけじゃない。分かち合うものはお金だけという生活が、どんなに貧しいか。むしろ教会はその初めから、私たちには金銀はない。しかし私たちにあるものを与えよう。イエス・キリストの名によって立ちなさいと言って、手を差し伸べてきたのです。キリストが死者の中から立ち上がられたように、私たちもまた立ち上がらされて新しい人として歩めるから、さあと手を差し伸べてきた。傷つける古い言葉ではない新しい言葉を語り始め、新しい態度を身に着けて、教会は新しい人キリストに結ばれた者として、最初から共に歩んできました。

だからお金もあったら分かち合うし、力も時間も賜物も分かち合う。いやむしろ、私に与えられているものは全て、隣人と分かち合うために主から与えられた恵みの賜物であったのだと、自分を見る目が変わるのです。自分のものを見る目が、心が、心の底から、霊の根源から新たにされて、今まで自分のものだと見えていた自分の手の中にあるものが、また自分の手が、自分という存在そのものが、主からの恵みの賜物であることを知らされる。23節の説き明かしで少し触れましたが、これがコリントの信徒への手紙一2章で語られている神様の知恵、聖霊様によって心の目が開けて見えてくる新しい風景です。新約301頁。コリントの信徒への手紙一2章12節以下「私たちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それで私たちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。そして、私たちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、霊に教えられた言葉によっています。」云々と続いて、頁の最後にこう締めくくられます。「しかし、私たちはキリストの思いを抱いています。」世の霊は滑らかに教えます。自分のものは自分のもの。自分の自由にできるもの。恵みという言葉が用いられても、それは自分にとっての恵みでしょう。自分のため。それに対して聖霊様によって与えられるキリストの思いは、だからその自分の自由になるものを、隣人と分かち合おう、それは父からの恵みだからという思いです。恵みとは隣人と分かち合える自由な恵みだからです。

その恵みの眼差しをもって御言葉は、私たちの手を見つめさせます。その手を見てごらんと言うのです。その手は、自分のためだけにあるのだろうか。まして自分のため人から盗むためにあるのではない。自分のものではない隣人のものを隣人から盗むためにあるのではない。むしろ自分のものとして与えられている私たちの手は、隣人のためにある。この自分の手をもって働き得た自分の働きの実りを、その実りを必要としている、あなたの隣にいる人と分かち合うためにある。そうじゃないかと告げるのです。ただじっと手を見るだけで、そこから何も新しく生まれないという、貧しさの悲哀には留まらない。働けど働けど、なおわがくらし楽にならざり、ぢっと手を見るという歌がありますが、その詩人は友人からよくお金を都合してもらっては、女性遊びをしていたと、その友人のご子息が当時のことを述懐している記事を読みました。ひょっとこの人の先祖は大泥棒石川五右衛門じゃなかろうかと子供ながら思ったと言うのです。子供ながらに鋭いと思います。あるいは子供だからでしょうか。大人であった父親は大人の事情をわかって与えたのかもしれませんけど、少なくともこの詩人は自分の妻に対して結婚の真実を盗んでいます。遊び相手の貞操もです。大人であろうと、子供であろうと、貧しかろうと、自由があろうと、私たちがこの自分の手を、自分のためにのみ見るのであれば、そこに新しい生き方は生まれません。

しかし福音の真理はこれです。私たちの手は、キリストに結ばれて、もう新しい手になったのです。その手で何ができるでしょうか。どんな賜物があるのでしょうか。隣人の必要を満たすため働く手です。私には賜物がないからと、もし、じっと見つめてしまうなら、その手を組んで目をつぶり、隣人を執り成し祈ればよいのです。25節の説き明かしでも申しましたが、教会はあなたが必要です。私たちの手を必要としている隣人がいるからです。困っている人って訳されましたが、必要のある人という言葉です。必要のない人がおりますか。しかも恵みを必要としてない人が。キリストを必要としてない人が。私たちは互いにキリストの体として、互いに必要を満たし合い、互いに仕え合うのです。ある人は労苦して祈りに仕え、ある人は労苦して教会の汚れを清め、恵みの言葉を身に着けようと、御言葉を毎日労苦して読み、誰かに手紙やメールを書く時、そっと書き添えられるようにする。そうやって恵みを分け与えるのです。時間がかかり、労力がいります。自分の時間を割くのです。隣人のために割くのです。そこに十字架で肉体を裂かれた、キリストの思いが染みてくる。キリストの御業がそこでなされるのです。

13/7/21朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙4章26節、詩編4篇 「怒りから解放される」

13/7/21朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙4章26節、詩編4篇

「怒りから解放される」

 

「怒ることがあっても」という訳を、「腹を立てても頭に来ても、罪に走ってはならない」と言い換えたら、もっと身近に感じるでしょうか。今日選挙ですけど、何でそんなこと平気で言うろうとか、腹が立って、悪口を人に聞かせたり。車の鍵がないと大声をあげたり。イライラして家族にあたったり、説教準備しながら、私、罪ばっかり犯しゆうと悔い改めておりましたが、じゃあ、そこで御言葉は何と言うのでしょうか。神様による解決があるのです。人間だものでは終わらない。それどころでなく悪魔が出てきます。直訳は罪の告発者、悪口を言う者、吊し上げる者。更に直訳すると、投げつけて貫く者。グサッとくる言葉を人に投げつけて、グサッどころか心に穴を開けてしまう者。こいつをあなたの味方につけるな。あなたの内に、そいつの居場所を設けるな。ずっと腹を立て続けて、問題を自分で抱えちょくというのは、それは自分だけでやりゆうのじゃないと言うのです。それは悪魔が味方の場所におって、人を裁く私をこそ肯定して、そうそうあいつが悪い、世間が悪い、神が悪いと。あの時、アダムとエバに嘘をついてそそのかした時のように、あなたが神のようになって罪に堕ちるのを待っているだけだ。怒り続け裁き続ける者は、悪魔によって神のようにされてしまう。いや、嘘の神にされてしまう。だって私たちを造られた神様は、その裁きをご自分で引き受けて死なれる、十字架の裁き主だから、あなたの罪を引き受けて死なれた神様だから、その神様の十字架から離れた裁き怒りは、私たちを神様から引き離そうとする悪魔の居場所になる。だから怒りを自分の内にとどめて悪魔の居場所にしてはならんと告げるのです。

じゃあ怒りをどうしたらよいか。それを告発者、悪魔の居場所にするのではなく、その怒りを神様の前に差し出して、今読みました詩篇で、裁きも自分の正しさも全部、神様の御前に持っていって祈ったように、父よ、正義をお与えください、私を憐れんで下さいと祈る。怒りを神様の御前に置いて、どうかこの怒りに、キリストの十字架を、あなたの裁きを、あなたの御国を来たらせたまえと、怒る自分自身をも神様の前に置くのです。それ以外に解決があるでしょうか。怒りを人間は持てあますのです。手に負えんところがあります。だからって放置しておくと、悪魔がそこを足がかりにして、それで家庭が壊されたり、教会さえ壊される。自分自身も壊れていく。で悪魔が笑っている。そうした悲惨があることを聖書は赤裸々に語るのです。怒りは怒りだけでは終わらずに、罪へと結びついていくのだと。

アダムとエバの息子たちに起こった悲惨がそうでした。聖書の語る第二番目の罪の悲惨は、実に怒りによって引き起こされます。創世記4章です。カインと弟アベルが主に献げ物を捧げるのですけど、主はカインの献げ物に目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。そこで主がカインに言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」正しさがどこでわかるかと言うと、主は、わたしに向かって顔を上げるか伏せるかでわかると言われるのです。カインの献げ物を捧げる態度に問題があったかどうかは、聖書はハッキリ言いません。よく推測されますけど、ケチったとか。それはここでは問われない。ここでの主題は怒りなのです。神様がハッキリ私たちに問うのは、怒りが正しい怒りなら、神様どうしてですかと顔を神様に向かって上げられる。すなわち神様との関係の正しさによって、聖書は怒りを問うのです。何か腹を立てるとき、そこであなたはわたしに顔を向けなさいと主は言われる。それがあなたの正しさだと。

人が怒るのは、だいたい自分の思い通りにならんときです。そうなって当然のことが、そうならん時に腹が立つ。それは正しくないと憤る。怒りとは、正義が踏みにじられたときの感情的判断とも言えます。正義でなく悪が行われていると判断し、そこで悪を裁き正義を執行する力と結びついているのが怒りですから、聖書では神様の裁きを神の怒りとも呼ぶのです。それが怒りであるのなら、その正しさを、じゃあ人はどこでこれは正義の怒りだと認め得るのか。今でなかったら世の終わりに、全てをご自分の正義によって裁かれる神様に向かって顔を上げ、主よ、私自身、あなたから裁かれる者でありますけれど、このことに関してはどうなのでしょうか、これはどうしたらよいのでしょうか、私はあなたの正義を行いたいのですと、神様に顔を上げて祈り礼拝するときに、怒りを自分で解決せんでもよくなるのです。そもそも解決できんのです。それを自分でやろうとするとき、カインは腹の立つ弟アベルを殺すという罪によって解決しようとした。だから御言葉は命じます。怒っても罪を犯してはならない。早急に、自分では解決できないその怒りの原因を神様の前に持って行き、顔を神様に向けて祈って、まことの裁き主である神様の名を呼んで、十字架でその怒りの原因も、私たちの中に住む罪の衝動も、即ち罪を犯してでも自分の正しさを貫こうとする傾向をも、そのために御子を十字架で死なせた天の父に取り扱ってもらうのです。その神様の御名を呼ぶのです。天にまします我らの父よ、願わくは御名をあがめさせたまえ、父よ、私たちの父として、私たちを憐れんで下さいと祈り、そこにこそ留まる。怒りの中には座り込まずに、父の憐れみの内にこそとどまる。そこでのみ、私たちは私たちのすきを狙う悪魔、いつまでも罪をつつき、怒りをそそのかす告発者とも戦い得ます。父の憐れみによってのみです。

罪と結びつきやすい人間の怒りは、私は正しいんだと、自分を守ろうとする自己防衛の傾向がありますが、自分を守らない怒りもあります。それがイエス様の怒りです。自分のために怒らないから、怒り続けない怒りとも言えます。怒りの問題においては、この怒りが24節の新しい人です。自分のための怒りは脱ぎ捨てて、父よ、と父の前に出て心の霊を新たにされて、そして3つ目がこれです。キリストの怒りに着替える。キリストのように怒り、そしてそれ故に怒り続けない。マルコによる福音書3章1節以下、新約65頁をお開き下さい。「…」。イエス様は怒られます。詳しく説き明かす暇はありませんが、イエス様を訴えるために、要するに、ほら見ろ、私は正しいと言うために、ファリサイ派の人々は礼拝に来た。父の御名をあがめる礼拝の只中で、その父の憐れみの心は脱ぎ捨てたかのように、自分の正しさを守るために黙っておった。主の招きに、はいと応えずに、黙っておった。それに対してイエス様が怒られて、どうしてそうなのかとじっと一人一人見つめて、なお招かれて、彼らの頑なな心を悲しまれた。それがイエス様の怒りです。イエス様の怒りは、罪で心が頑なになって、自分自分で凝り固まっている者たちへの悲しみと結びついている怒りです。ご自分に、また隣人に罪を犯す者たちへの悲しみと一緒になった怒り。それがイエス様を十字架に向かわせます。腹が立つ人々のために祈らせます。腹が立つだけではないからです。彼らの心の頑なさを思ったら、はらわたがわななき、悲しみが込み上げ、父よ、彼らを憐れんで下さいと祈らずにはおれん悲しみがあるからです。その怒りは、主と反対にずっとおし黙ったままイエス様への殺意を固めていくファリサイ派の怒りとは、さながら光と影のように対照的です。黙っている怒りは罪と結びつきます。無論だからってところ構わずぶちまける怒りも罪ですから(笑)、それを父の御前に差し出すのです。悪魔を味方になんかつけんのです。憐れみたまえと祈るのです。父よ、あなたが必要です!イエス様の十字架が必要です!聖霊様、私を新しく造り変えて下さい、私はこのままではいかんのですと、主の憐れみに自らを差し出して、なおそこで正しい怒りがあるのなら、イエス様が一緒に怒って下さる愛故の怒りがあるのなら、一緒に悲しめばよいのです。30節では聖霊様も、罪に悲しまれる助け主です。どうしてこんな罪があるのですかと、父よ、この罪の只中に、あなたの裁きを与えて下さい、御子の十字架の解決を与えて下さいと、聖霊様と共にうめきながら祈ればよいのです。それがキリストの怒りに着替えるという意味です。それは罪への悲しみを伴う怒りです。怒りが悲しみに飲み込まれるほど怒りが悲しみに溶け混ざり、ついには十字架の上に引っ張り上げられ、キリストの執り成しの思いに飲み込まれ、十字架につけられたキリストの思いへと、怒りが変革されるのです。救いの求めになるのです。

これは無数のキリスト者の証しです。私もまた自分の知らぬ悲しみをただ押し付けてはないつもりです。悲しみは、それが喜びに変わるまで悲しみであり続け、綺麗な悲しみなどありません。綺麗事の悲しみなどありません。聖霊様を悲しませてはいかんのです。でも悲しみがここになかったら、怒りの対象となる者を滅ぼす怒りの厳しさがあればこそ、神様が悲しまれるのです。どうしようもない罪のため、十字架を、私たちの解決とされたのです。厳しい言葉を用いますが、いなくなってほしいと思うほど怒りの対象となっている人を、そんな簡単に執り成すことはできんと思います。主の前にそれこそ黙ってしまう苦しみがあるでしょう。でもそこで同時に、そんなにも私たちを苦しませる罪そのものが滅びるように、こんな目に合わせる罪そのものを、主よ、あなたの御国を来たらせて、これを終わらせて下さいと、罪から私たちをお救い下さいと、罪への悲しみ故、祈ることはできます。早く来て下さい主よと、キリストの御名を呼ぶことはできるのです。そうやって床に就きます。就いては起きて御名を呼びつつ、また横になり、少しでも眠れて、あるいはほとんど眠れいでも、キリストはその床に共にいてくださって、わたしを着ていればそれでよいと慰めとなって下さいます。そうやって怒りからも救われていくのです。キリストが救って下さるのです。それがキリストの体、慰めの教会です。滅びからの救いがここにあるのです。

13/7/14朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙4章25節、ゼカリヤ書8章14-17節 「家族に嘘はいらない」

13/7/14朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙4章25節、ゼカリヤ書8章14-17節

「家族に嘘はいらない」

 

互いに真実を語り合う。お互い顔を見合わせて、まあ年取ったねえと言うんでしょうか(笑)。それは事実かもしれませんが、事実は言わば、上っ面だけで、その深みには真理があります。真実と訳したので事実みたいになりましたが、これは21節に語られた「真理がイエス様の内にある通りに学んだはず」の、真理です。主によって救いが私たちの真理となった、その互いの真理を、教会では互いに語り合いましょう。つまり具体的な教会形成を言うのです。のっけに「だから、偽りを捨て」と、だからと言うのは、これが21節からの続きだからです。真理を学んだのだから、だから、イエス様から教わった互いの真理を語り合おうと。

例えば、年取った事実の深みにも、キリストの真理がある。コリントの信徒への手紙二4章16節はこう語ります。「たとえ私たちの外なる人は衰えていくとしても、私たちの内なる人は日々新たにされていきます。」これがイエス様に結ばれている私たちの真理です。だから落胆しなくてもよいのです。むしろ御国を来らせ給えと、私たちは祈っている。それが真理です。いや~そこまで私は信仰が強くないので、それがピンときませんと思うところで、ええ、だからイエス様が共にいて下さり、そのイエス様が、その古い人、古い考え方はもう脱ぎ捨てて、キリストの思いによって心と思いを新たにされて、神の形に造られた新しい人、キリストの考え方、態度、生き方に着替えなさい、わたしについてきなさいと、恵みへと招き続けて下さっている。それが真理です。

そういう意味では、こう言い換えてもよい。恵みの御言葉を互いに語り合いなさい。互いに説教しなさいと。無論、お説教するのではありません。おんしゃ罪人ぞ。何、おんしゃこそ罪人よ。それは事実ではあっても真理ではないからです。態度が、真理じゃない。真理はイエス様によって学んだはずです。私たちの罪は赦された。キリストが背負って下さった。だからキリストに一緒についていこうじゃか。ありがたいねゃ新しくなれるらあて。これがイエス様の内にある真理です。

ん~、それ難しいと思われるなら、だからでしょう。御言葉は本当に丁寧です。だから偽りを捨て、と先ず言われる。裁き合う生き方は嘘の生き方だからです。まるでちゃんとやらんと愛してもらう価値がないような人の見方は、嘘だから、そこではイエス様が抜きになっちゅうき、そんな嘘の考えは捨てろと言われる。嘘とか偽りというのは、単に事実に反することではなく、聖書ではサタンが偽りの父と呼ばれますけど、嘘とは真理に反して語ること、イエス様抜きで何か一つでも成り立つかのように、イエス様抜きで語り得るかのようにして、真理を抜きにして語ることです。だから、先に言いましたように、ただ年取ったというのは嘘です。そこに悲しみがないと言っても嘘でしょう。苦しみや悲しみや悩みがある。永遠の御子はそれらを引き受け、人の代表イエス様となられ、悲しみの人、十字架を前に悩む人、苦しむ人となられたのですから、聖書には老いの悲しみが語られますから、それを抜きにするのもまた嘘でしょう。ただそこでなお、死の悲しみに飲み込まれなくてもよいという福音が、キリストに結ばれて教えられた私たちの真理なのです。抽象的な一般の真理とかじゃありません。真理は非常に具体的で、私に深く関わる私のいのちの真理です。私のいのちをキリストが負って下さって、私のいのちとなって下さった私の救いの真理です。

またそれは同時に、私たちの真理でもあります。私の真理が語られるところで、私たちの真理が語られないのも、また嘘だからです。だからここでは隣人が語られ、しかも互いに体の一部である隣人が語られる。そう、教会の兄弟姉妹のことです。それぞれがキリストの体の部分部分である教会の家族を、ここでは隣人と言う。それは先に読みました旧約のゼカリヤ書が、神の民、神の家族の生き方を語りつつ、それを隣人と呼んだのを引用したからです。だからこれまた一般的な隣人ではありません。キリスト者として隣人愛を語りながら、教会の兄弟姉妹を愛するのは、いや~ちょっと(笑)ではなくて、最初から教会形成が主題なのです。それをどう具体的にやるかという話が、これです。嘘は捨てて、イエス様に結ばれて学んだ真理を互いに語り合いなさい。だって私たちは一つの体の部分部分なのだから、一つの体である真理を互いに語り合うことで、また4章3節に戻りますけど、平和の絆で結ばれて、霊による一致を保つ。人間が決して造りも壊せもしない、私たちをキリストに結ばれて救われる聖霊様によって造られたキリストの体の一致、一つの体であることを、保つように努めなさい、熱心に全力を挙げて努めなさい。その保つ努力の具体化がこれです。互いにキリストの真理を語り合う。例えばコリントの信徒への手紙一12章で、こう譬えられる。目が手に向かって、この体にあなたは必要ないとは言えない。どうして言えるか。もしそんな風に言う人、思う人が仮におっても、その人は嘘を言いゆうのです。何故なら、教会、キリストの体には、あなたが必要だからです。もし誰かが私はここで必要じゃないと思うなら、それは嘘です。キリストにある真理は、あなたは必要だ。だってキリストがあなたを、ご自分の聖なる御体に結ばれて、あなたはここに必要だ、ここであなたに役割もまた与える、その任務を誠実に果たしなさい、よろしく頼むとキリストが召して下さったからです。

だから、私たちが互いに真理を語るというのは、あなたはキリストに召されていますと、互いに召しを語り合うのです。キリストが私たちを召して下さったと、私にはあなたが必要ですと、互いに必要を言いあうのです。ここに必要じゃない人はいません。何度でも言います。教会にはあなたが必要です。おべっかじゃない。人手が足らんからでもない。これが私たちの真理だからです。キリストに代わって申します。あなたが教会には必要です。

そう、たとえ老いて礼拝に出席できんなってもです。嘘の思いに汚染された人間の思いを遥かに超えたキリストの思いの内にあって、多くの意味で、歳を重ねられた家族が教会に必要です。キリストが全ての人々の救い主であることを証しするためにも、また敢えてそういう言葉遣いをしますが、教会が断じて動ける人、できる人の集団ではないことを証しして、嘘は嘘と捨て、キリストの愛の真理を証しするために、教会には高齢の兄弟姉妹が必要です。もっともっと言いたいのですけど、ここで最も大きな必要の一つを証ししますと、キリストの真理が証しされる、最も大きな証しの一つは、キリストが死に勝利された真理の証しです。誰もが死にます。それは事実ではあっても只の一般的な真理であって、それを言うだけならキリストは要りません。要らん?本当でしょうか。私たちは知っています。キリストが要るのです。必要なのです。だから教会は死の看取りをものすごく大切にしてきたのです。数日前も私が協力牧師をしている教会の老信徒の病床訪問をしました際、姉妹が病故というより、自分が病人であることの悲しみを嘆かれていました。そこで私は牧者として、キリストの愛するこの羊の慰めを主から託された牧者として、~さん、苦しいですね、悲しいですね、でもその悲しみも苦しみも、そんなに遠くなく終わりを迎えて、例えすぐじゃなくても決して遠くないうちに、キリストの全き平安と復活の喜びに全て変わりますと語って、先日天に召された南国教会の姉妹の証しを語りました。障害を負われつつもキリストに頼り、キリストの真理を我が身の真理とされて穏やかに召された姉妹の証しをしましたら、悲しみの表情が変わられました。自分の悲しみに閉じ込められておった表情が、神様の御前に立つ真剣な表情に変わられました。そして言語障害があって話ができないのですけど、私の手をぎゅっと握られました。しがみつくようにして、まるで姉妹が今キリストご自身に向き合って、よろしくお願いしますと、すがられるような思いが伝わってきて、一緒に祈りを捧げました。

教会は、死について曖昧にせんのです。死の備えをせないかんと語る人に、死ぬとか言わんといて下さいとは言わんのです。死をそのようにキリストから学んではないからです。私たちが聴いてきたキリストにある死の真理は、キリストが私たちの死を全部飲み干され、死はキリストの裁きと死によって消化され、裁きの死としての呪いはキリストの十字架で引き受けられて、死はキリストの勝利に飲み込まれてしまった。父がその勝利の宣言としてキリストを死から復活させられたとき、死はもはや死んだ死として、赦しの勝利に飲み込まれて死んだ死として、力を失った死とされた。死はキリストの恵みの勝利に、既に飲み込まれてしまったのだと、教会は高らかに語り続けてきたのです。それが私たちがキリストについて聴き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエス様の内にある通りに学んできた、主イエス・キリストの救いの真理です。

だから、私たちはこの真理を、私たちとあまり関わりのない一般的な真理とは決してせず、あるいは今までそうやってきた、キリストを知る前の、以前のような生き方、考え方、古い人はもう脱ぎ捨てて、それは私たちに対する嘘であるからと、嘘は脱ぎ捨て、古い人は脱ぎ捨てて、イエス様、あなたこそ私の真理です、私の真理として私の心を私の体を死にゆく身をさえ、あなたの霊によって新しくして造り変えて下さい、いのちの根底から新たにされて、復活の希望を身に着けて、キリストに着替えて歩ませて下さいと、私たちは祈って歩んでいけるのです。復活の門をくぐって永遠の喜びに至る道を、祈りつつ共に歩めるのです。

そしてこの希望の真理を、自分の内だけに秘めないで、互いに語り合うのです。復活への招き、キリストの招きに、応えて一緒に歩みましょうと、嘘の生き方は捨てましょう、嘘の考え方は脱ぎ捨てましょうと、キリストの恵みの生き方を語り、証しする。そこに自然と伝道もなされます。老いゆく身に真実に寄り添われるキリストの真理が、目に見えて説教されていくのです。この道は、キリストが召された道だからです。その召しに、はいと言って歩んでいくのです。

13/7/7朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙4章22-24節、エゼキエル書11章19-20節 「キリストの思いが心に」

13/7/7朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙4章22-24節、エゼキエル書11章19-20節

「キリストの思いが心に」

 

これが教会生活の設計図だと先週申しました。古い人を脱ぎ捨てる。心の底から新しくされていく。そして新しい人を着る。この三つだと。キリストに、はいと言わなくて自分で生きていた古い人は脱ぎ捨てて、イエス様、あなたが必要です、とイエス様を信じるところで、その信仰でイエス様と私とがつながっている、その繋がりを与えて下さっている聖霊様に、いや、その繋がり・結びそのものであられる聖霊様によって心が新たにされていく。そして神様の形の新しい人、キリストを着て、具体的にキリストに従って、はいと返事して歩む。うんと短く言えば、キリストに着替えて歩むのです。キリストを信じて救われて歩むとは、生活を、毎日キリストに着替えて歩むのです。

ところが、私は上手う着替えれんと悩むこともあります。例えば主日には礼拝出席し、平日も祈るんですけど、祈りがぎこちなく感じたり、礼拝にも集中できんかったりすると、キリストに着替える努力はしゆうんだけれども、キリストがブカブカ過ぎるというイメージでしょうか。キリストを着る自分が逆にみっともなく、惨めに感じる時がある。

だからこそ、なんです。だからこそ、その惨めな心の底から、神様のご介入によって、聖霊様によって新たにされていく。これこそキリストに着替えて生きるために、一番必要な急所、また恵みなのです。

では、私たちが心の底から新たにされるとは、具体的には、どういうことか。何を目指して励みにして、聖霊様、私を新しくして下さいと、我が身を毎日献げればよいのか。それが説教題です。キリストの思いが心に。丁寧に言うと、キリストの思いが私の心、考え、思いの全てを、全部ご支配下さって、キリストの思いが私の思いになってしまう。私が思ったり願ったりするんだけれども、それがぴったりキリストの思いと同じように思ったり願ったりしておって、イエス様が、お、そうそう、その通り、そうながよ、それが天の父が喜ばれる、父の御心やきねえとイエス様ご自身喜んで下さる。となったら、これはもうキリストがブカブカじゃないのです。いや、きっとブカブカなんでしょうけど、小さな子供が親の服を着て、そりゃブカブカなんですけど、もうとっても嬉しそうな顔をして、見て見てって親に見せに来る。だから、いいんです。ブカブカで。ピッタリに向かって、一緒に成長していくのですから。

そうか、キリストの思いがなればよいのか、アーメンと思いが新たにされること、これが一つの具体的な「新たにされる」です。新共同訳で、心の底から、心と訳された言葉は感情というよりは、思い、考え、あるいは志すほうの意志という意味です。同じ言葉が17節3行目で考えと訳されました。愚かな考えと言うのは直訳すると虚しい中身のない思いですが、それはその思いや考えの中にキリストの思いがないからで、学力とか知能の中身ではありません。どんなに学力があっても、でもその思いや考えの中にキリストの思いがなかったら、神様のお気持ちはわからんのです。その赦しも愛もわからなくて、自分がどこに行くのかもわからない。だから私たちに問われるのは、あなたの心にはキリストの思いがありますか、それ故に、神様のお気持ちがわかりますかということなのです。(これはコリント書一の2章で丁寧に教えられています。)

もし心と訳すなら、心が定まるという言い方でイメージすればわかりやすい。心指すとも言います。私たちの心は、その心が向かう方向を指します。意志というのは、そこに心が定まって、例えば洗礼の意志とか言う。洗礼を受けたいと心が思い、よしと心が定まって、洗礼の意志を持つ。また、関心を持つ。心が関わると書きます。洗礼に思いを寄せるのです。そのように心が思いが意志が考えが新たにされていくのです。今まではちっとも関心がなかった神様の御心に、心が向く。新たに考え始める。そもそも考えるってのは、何かを考える。関心がないことは、考えようともせんし、考えても残らんし、何かが、へ~ってわかったとしても、自分のこととしてわからんので、残らん。残るのは自分に関心があること、自分事として心にあることです。皆さんは、何が心にありますか。何が自分の関心事ですか。そして、そのことに、どういう態度で関わって、どういう方向で考えていますか。自分のためでしょうか。神様のためでしょうか。そのことをキリストなら、どの方向に、どんな態度で、考えられると思われますか。そのキリストの思いと同じ方向へと、私たちの思いが方向転換されていき、方向が新たにされるのです。自分に向いちょったのが、天の父の御心に向くのです。しかもそれが、こんなことしたら神に裁かれるとか、そらこれが御心に決まっちょら!とかって態度でじゃない。神様を、第三者のように考えるのじゃない。むしろアダムとエバが考え損ねた、父のお気持ちがわかるようになる。神様のお気持ちがわかって心痛んだり、嬉しくなったり、父・子・御霊のお気持ちが心に染みてわかるようになるのが、心が新たにされていく救いの急所であるのです。父の子らしくなるとも言えます。

そしたら人生への眼差し、見方も新しくなる。例えばお金の見方も、ああ、イエス様が言いよったのは、こういうことか!とわかり、新たにされる。そしたら生き方が変わって行かざるを得ませんよ。献金の意味がわからんと、そりゃしんどいという思いがある。でもそれがわかるようになってくる。教会が神の家族ってどういうことか、イエス様の眼差しで、兄弟姉妹を見るようになる。当然、教会のありようが新しくなっていかざるを得なくなる。キリストに着替えるとはそういうことです。無理して嫌々キリストを着よったら、そりゃ続かんでしょう。そこまで私たちの心が古びておればこそ、聖霊様は、さあ、その心を思いを考えを、わたしに任せてごらんと、私たちをキリストに結ばれた方としての責任を持って、心を新しくして下さる。真に慰め深い助け主なのです。

心の底からと訳された言葉は、直訳すると心の霊においてという言葉です。文法や神学的に難しい議論は牧師の責任において消化して言いますと、人の心の一番底で人間を人間たらしめる人の霊がある。しかし、その霊を神様の形に新たに造り直し、新しい人、キリストに結ばれ生きる者として新たにされるのは、その人の霊の更に一番底にお住まいになることで、私たちを底辺から支え導き復活にまで至らせられる、聖霊様の他にはおられません。私たちには、この聖霊様が必要なのです。その必要をたとえ無視して、悲しませることになっておっても、ならばこそ聖霊様がいて下さらんかったら、教会も人生も古いままです。

その聖霊様が、父と子のお気持ちを私たちのもとに届け、住まわせ、理解させ、アーメン、私たちをそのお心の通りに歩ませて下さいと祈り願えるよう、心を新たにされるのです。そしたら私たちは今までの考えのパターンと生活のパターンを、神の形に、キリストのパターンに着替えられる。最初はブカブカです。その中で自分の古い考えが暴れ出して惨めになることも度々でしょう。でも、キリストの思いがあるのです!キリストに結ばれた者には、聖霊様によってあるのですから、そこで、何度でも祈るのです。イエス様、あなたの思いが勝って下さい!聖霊様、助けて下さい!と。それが祈れること自体が、新たにされている証拠です。だから祈ります。古い考えも態度も脱ぎ捨てて、主よ、あなたに、はいと言って従わせてくださいと、聖霊様のご介入を求めて、聖霊様の力を信じて、キリストに着替えてまた歩み始める。それが真理に基づいた正しい聖なる生活です。神様が、そう、その通りと喜んで下さる歩みのことです。その人は日々新しく、神の形に成長していきます。だからブカブカでもいいんです。その心はもう御国に定まっているからです。