13/6/23朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙4章17-21節、詩編100篇 「明るく自由になる知識」

13/6/23朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙4章17-21節、詩編100篇

「明るく自由になる知識」

 

キリストが私の主であると知る前、私は暗かったです。今でも暗いと妻から言われそうですが、ま、性格はそう変わりませんし、暗い性格もまた神様からの賜物として、言わば物事を深く深く考えるとかですね、用いられるのです。私が以前暗かった暗さは、私が本当には誰であるか知らない暗さ、神様を父と知らなかった暗さです。父がどんな思いで私にキリストをくださったかなんて知りませんから、十代の頃は髪伸ばしてバンドでハードロックやって、その名も悪魔に向かって叫べっていう歌を本当に歌っていました。そんな男を牧師にしようなんて神様も大胆やなあと思いますが、おかげでイエス様を知って以来、詩編100篇が私の叫びとなりました。「全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。喜び祝い、主に仕え、喜び歌って御前に進み出よ。知れ、主こそ神であると。主は私たちを造られた。私たちは主のもの、その民、主に養われる羊の群れ。」この主を知る喜びの叫びが、私たちの歌う讃美です。

今週の御言葉は「そこで」と強く勧めます。すぐ前の16節までで、私たちが一体誰であるかが、ハッキリ明るく開き示されたからです。私たちはキリストに結ばれた、キリストの体、教会である。私たちは一人一人、その教会員であり、キリストに結ばれたキリストのものであるが故に、賜物を与えられ、キリストの体のかけがえのない一肢一肢として、共にキリストの体、教会を建て上げて、世界にキリストの救いを証しするのだ。そう一気に情熱的に語られて「そこで」です。この教会を忘れて、ああ道徳的な話ねとやってしまうと、うんと暗い話になります。

あるいは改めて1節に戻って、あなたがたは神様に招かれたのですから、その招きに相応しく歩み、その召命に相応しく歩みなさいという、キリストの召しに、はいと応える具体的な歩みが、別の角度から教えられたとも言えるでしょう。その角度とは、先に申しましたように、主を知る前の歩みと、後の歩みとの違いです。言い換えればキリストを主と信じ受け入れる前の歩みと、キリストを主と信じ洗礼を受けキリストの体、教会の一員として歩む歩みとの違いが、ここで語られる歩みです。ですから「もはや」と語られます。今までとは違うということです。前の訳では「今後」と訳されていました。今後これ以上は、以前キリストをあなたの主として知らなかった時のようには、もはや歩み続けてはならないと言うのです。ということは、うっかりしていると、つい歩んでしまっていることがあるからです。特に「そこで」という言葉が敢えて語られている理由からすると、私たちが教会の歩みを自分事にしてないと、つい以前の歩みに戻りやすいことを、御言葉は羊飼いの言葉として語るのです。あなたキリストの体の一部やきね。そこで、あなたに強く言うけど、もう前の歩み方はいかんぜ。あなたはキリストを知っちゅうがやき、そのキリストの召しに相応しく、はいと応えて、キリストの体を建て上げるために歩むがぜ、と言い直したらわかりよいでしょうか。

ですからここでの比較はキリスト者一人一人の洗礼前と後であって、いや、異邦人らあて、あんな歩み方しゆう、いやいや、と上から目線で差別しゆうがじゃありません。そもそも2章11節では「あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり…そのころはキリストと関わりなく…神を知らずに生きていました」と既に言われていたのですから、何も人と比べる必要はないのです。キリストを私の主として知る以前の私が一体どれだけの暗さにおったのか。キリストを救い主として知らず、十字架の執り成しも罪の赦しも自分事として知らず、どうやって自分で生きて行こうとしよったのか。その暗さに、けんど、もうこれ以上歩むなよ、もう歩まいでえいがぜよと、教会故の強い証言が語られるのです。

あなたは、今は、キリストを知っている。単なる知識としてでなく、自分を罪から救うことらあできん所詮他人事の知識ではなく、自分の事として知っている。イエス様、私はあなたが必要ですと、私の救い主としてキリストを知っている。そのキリストの知識は明るいのです。そのキリストの知識に照らされた私の知識もまた明るい。こう言い換えてもよいのです。あなたは自分が何者か知っていますか。これが私であるのなら、これが私の人生だと、これが私の歩み方だと、確信できるほどのあなたの真理を、あなたはどこに知っていますか。知っているはずだ。それはあなたの救い主、イエス様の内にあるのだから、あなたが本当に歩めるように、キリストの招きに従いなさい。召しに相応しく歩みなさいと、改めて御言葉は語るのです。

この召しに応えて生きるということを、高校生で洗礼を受けるときに考え抜いたという証しが、今日皆さんにお配りしました西日本教会青年同盟の機関紙『献身』にも載っています。東京神学大学教授で私の師匠でもある山口隆康教授が、高校生で洗礼を受けられたとき、私は何者であるのか、何をして生きればよいのかと考え抜かれた。因みに、今日は東京神学大学の高知地区後援会を、ここで午後2時半から行いますので、お昼を食べて、また集まって頂きたく願います。高知東教会がどれほど東神大を支えているか私も証をしますので、皆さんがおって下さると、証に説得力が増すんじゃないかと、随分プレッシャー(笑)をかけていますが。その東神大で実践神学を教えておられる山口教授も、洗礼の時必死で考えた。私は誰なのか。それは小さい頃家族がバラバラになり、家を転々とし、知らない人をお母さんとかお父さんと呼ばなくてはならない。自分の名前も変わる。その名前がずっと嫌だったそうです。私はそんな名前じゃないと。何一つ思い通りにならない暗い人生のトンネルの中で叫び続けていた。どうしてこんな思いまでして人は生きていかなくてはならないのか。それが、教会の礼拝に出席し始め、聖書を読み、キリストに出会って、よし洗礼を受けるというときに、じゃあ人が生きるということはどういうことか。私が本当に私として生きるというのはどう生きるのか。考え抜いた。そして洗礼を受けるとき、山口隆康、父と子と聖霊との御名によって洗礼を授けると、神様から名前を呼ばれて神様の子供となる洗礼を受けた。それからそれが自分の名前になった。神様に呼ばれた名前だから、神様に、あなたはわたしの子供になるのだと呼ばれた名前だから、それが私になった。私の名は山口隆康。神様が洗礼で呼んで下さった、それが本当の私だと、それ以来、歩むべき道は定まった。神様が召される、召しに向かって歩むのです。キリストが、わたしについて来なさいと召される。その御声に向かって歩むのです。それが神学することですと山口教授は言われました。ま、こういう証しが今日聴けるかどうかはわかりませんが、確かに東京神学大学で教わるのは、この神様の御声を聴いて、人はどう歩んでいけばよいのかという命の根本問題です。ですので是非これからも祈りお支え下さい。無論、神学の学は学問ですから、アカデミックな専門知識も学びます。神学は難しいという印象が、そこから生まれるのですけど、その学ぶ内容は、今週の御言葉でハッキリ語られているのです。私たちはキリストについて聴き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエス様の内にある通りに学んだはずです。そこから離れた神学は、只の学問に堕しています。しかし神様を学ぶというのは、こういうことです。神様が人となられたのは何故か。それは土から造られた人間を、神様の命に生きる者、神の子として歩むよう、しかも罪を犯して神様に逆らう人間をすら、神の子として生かすため、神様が、その滅ぶべき人間の罪を負って死ぬための代表責任者、人間イエスになって下さった。そのイエス様の十字架の死と、そのイエス様がなお私たちの代表責任者として死から復活させられて、わたしが生きるから、あなたも生きなさい。わたしがあなたの死を死んだから、あなたの罪は赦されたから、あなたはわたしの復活に結ばれて生きなさい。神の子としての命に生きよ!あなたはわたしに従ってきなさいと、私たちを召して下さっている。それが21節の御言葉の真理です。真理がイエスの内にある通りに、この通りに私たちが学んでこなかったことはないのです。

以前16節の説き明かしで「愛に根ざして真理を語り」という御言葉はキリストの愛をまとって真理すること、キリストの愛の真理そのものを生きること、一言で言うなら、キリストすることだと言いました。真理はイエス様の内にあるからです。例えば罪の真理とは何か。罪に無感覚になって、放縦な生活をしても別に大したことはないのか。イエス様の内にある罪の真理は、それはあなたを十字架に釘打って裁き死なせる死の刺だという真理です。そして同時に教えられるのは、その罪を神様が赦し終わらせてしまわれるために、神様が人となられた。そのイエス様の真理こそが、私たちに告げられ教えられている、罪の赦しの真理だというイエス・キリストの福音です。その福音を真理するために、教会を神様は立てられたのです。キリストを信じて洗礼を受ける全ての者が、キリストに結ばれ、キリストの体に組織され、皆一つになってキリストして生きていく。またキリストして生きられるように、キリストの霊、聖霊様が一人一人の内に宿られて、実際に神様の子供としての命、神の命に生かされるのです。離れてなんかない。その神の命はここにある!もはや我生くるにあらず、キリスト我が内にありて生くるなり、とは、そういうことです。

ですのでもはや今後一切、キリストを私の主として知らなかった以前のようには、歩む必要はありません。たとえ私の肉の情欲が、おい幸生ハードロックえいぞねゃ、どぎついやつやりたいぞねゃと誘惑をして、おおそうだ、それが俺だ、あの燃えたぎる怒りの叫びをシャウトするのが俺だったぜ~言うてのぼせ上っても、イエス様は、幸生、それが本当のあなたかえ。それが俺だというその知識は愚かやろう、直訳すると虚しいろう。中身がない。感情的で上っ面だけの、虚しい嘘の自分やろう。しかし、わたしが教えてきたのは、幸生、あなたはわたしのものだ。それがわたしの内にあるあなたの真理だ。あなたはわたしの血によって、全ての罪を赦された、わたしの愛する者、キリスト者、天の父に属する神様の子供。それがあなたの命の真理だと、キリストは私たち皆に語られるのです。この明るさ、救われる自由へと皆、召されているのです。