13/6/2朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙4章16節、歴代誌下35章10-15節 「愛の行き届いた組織に」

13/6/2朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙4章16節、歴代誌下35章10-15節

「愛の行き届いた組織に」

 

愛によって造り上げられるキリストの体。それを説教題で「愛の行き届いた組織に」としたのですが、組織と言うと何か悪い印象があるかもしれません。私は組織から遣わされてきた者だとか。こんなことをして組織が黙っちゃいねえぜとか。謎めいた黒幕、強大なバックと言いますか、英語で言うシンジケートですね。シンジケート。黒い雰囲気が漂います。一般には組織と言えばオーガナイゼイションと訳すのですけど、何でしょう、日本人って組織という考えが、そもそも嫌いなのかもしれません。組織人間だとか揶揄したりします。思うに、個人の確立が未熟な日本社会で、私が組織に属しているということは、どういうことか。私という存在が組織に飲み込まれてしまうんじゃないか。私がなくなってしまうんじゃないかと身構えてしまう傾向にあるのかもしれません。それは、自分が組織を受け入れられないということもありますし、またそれが逆に自分は組織に受け入れてもらえないんじゃないかという怖れになっているところもあるのかもしれません。実際、会社でも何でも、組織というのは大きくなればなるほど全体像がつかめなくなって、そこに自分は属していながらも、ここには安心して自分でおれる場所がないと感じると、組織って存在が自分に対して怖しい嫌なイメージになるのかもしれないし、あるいは、まあ当たり障りなく、まあまあそつなく、自分の居場所を確保しておればよいか、となるかもしれません。

じゃあ教会はどうか。4月の教会総会で、では最初に組織を致しますとか言うと、ビクッとして、え、教会にも組織が?とか(笑)。ま、黒いシンジケートではないので安心して頂きたいですが、婦人会でもやはり組織、委員長誰それ、書記誰それって、真っ先に組織がある。でもまだ役に当たっていなければ、組織という印象も薄いのでしょうけど、役に当たってしまったら、組織を意識せざるを得ません。責任が、組織から与えられますし、言い換えれば、私は組織に対して責任を持っているという事実がハッキリする。それで責任感が強くなる場合もありますし、あるいは組織への嫌悪感が強くなるケースもあるかもしれません、が!が、です。教会が、そうならないように、キリストの体である教会が、他の組織と同じような印象には決してなることがないように、教会は、今週の御言葉の冒頭です「キリストにより」体全体が組織されている。キリストにより!です。これが4章の冒頭から、相当具体的に教えられてきた教会形成の中枢軸です。キリストにより、体全体は組織されて、またその各々の部分も、キリストにより奉仕の活動を行うことで、体がキリストによって愛の自己形成をなしていく。これが今週来週の御言葉16節の見取り図です。キリストによる組織とキリストによる活動による自己形成。キリストによる、組織と活動!これです。

何かこれまた教会総会資料の順番みたいです。総会もまず組織があり活動報告また活動計画がある。そうやって、教会とは何の組織であるのかを、まとめてはっきりさせるのですが、この16節もまとめなのです。上の段11節からこの16節までが、実は途切れない一つの文であって、キリストの体たる教会形成をどう形成すればよいか、一気に語られた。それを最後に簡潔にまとめたのです。キリストによる組織と活動。それがキリストの愛による教会の自己形成、教会形成の見取り図であると。

今日はその前半。キリストによる組織。キリストによる組織ですので教会では、自己と組織が対立しなくてよいのです。もしそれがキリストによってなくて、誰かワンマンボスがおったら、あるいは組織に属する各々が、各々めいめい自分のボスだったら、そりゃキリストによっていません。いやキリストによる組織がそこになされているのに、キリストの召しに、はいと応えてない状態になっています。何度もここに立ち帰りますけど、4章1節で、キリストが私たち一人一人を教会に招き召し入れてくださった。その召し「招きにふさわしく歩み」教会はキリストの体として生きていくのです。キリストによる組織も活動も、その意味では自動的になされるものではありません。キリストが、わたしに従いなさいと召されるその召しに、はいと応えて、じゃあ、あなたはここで教会生活をし、この賜物を用いてここで仕えなさいと、キリストによる組織と活動がめいめいに与えられる。その召しに、はいと応えて教会の組織の一員、つまり教会員として奉仕する。先週お渡ししました祈りのリストを祈るのもそう。そうやってキリストの執り成しの業を、体全体で担っていくのが、キリストの体である教会です。そのためには、召しに日々、はいと応える。これが毎朝祈る根拠でもあるでしょう。短くても、イエス様、今日もお仕えいたしますと召しから始める。この朝召しは抜かんほうがいいですね(笑)。一年後の、体格が違ってくるきです。

そうやって自動的にではなく、召しに応えて組織を覚えるとき、祈りのリストにある教会員という空白に名前を入れて、そこで兄弟姉妹を覚えて祈ることが、キリストによる執り成しの業、牧会につながることを体で覚えるようにもなると思います。礼拝や祈祷会へと集うとき、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされるのを、体感するようにもなるでしょう。節々と訳された言葉は、出会いとも訳し得るようです。なら、あらゆる出会いがとなる。具体的に言えば、礼拝で、あの人とは挨拶を交わすけど、あの人はってことはなくなる。あらゆる出会いが、個人の選択によるのではなく、キリストによる出会いなのだと悟るなら、ここに与えられた、あらゆる節々の出会いは、キリストによるキリストの体形成のためなのだと、眼差しが変わってくるのです。その出会いにおいても、これは個人の愛の努力だけで何とかなるものではない。ここで、キリストによる補い合い、あるいは補給、提供を行うのです。出会いの中でキリストの体の組織の一人一人が、キリストによる提供、具体的にはキリストによる眼差しやキリストによる言葉を提供する。ここに先週共に聴いた御言葉の一つが具体化するとも言えます。「キリストが私の内に生きておられるのです。私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」(ガラテヤ2・20)。今週の御言葉の最後「自ら愛によって造り上げられていく」キリストの体の自己形成は、そうやって形成される他ない。一つ一つの出会いで、キリストの愛を提供する。そこで教会は自らが誰であるのか、信仰告白をするのです。一つ一つの出会いにおける愛が、私たちの信仰告白です。キリストは生きておられる。我が内に生きておられる。それを、個人としてではなく、体全体で行って体全体が成長するようにと、この組織は、キリストにより組織がされているのです。「キリストにより」とはそういうことです。

そしてその体は成長途上にありますから、まだ完全ではありません。だからこの組織、出会いは、キリストによる組織、キリストによる配置なのに、どうしてという痛みを覚えることもあります。だからキリストによる愛の補給、補い合いが必要なのです。自動的ではないからです。兄弟姉妹が必要です。そうやって、家族が形成されるため、キリストにより配置された組織でもあります。人の思いによってではない。だから思わぬ配置替えがおこって、主よ、って戸惑うこともあります。でも主がそう配置をなさるのなら、無論それで責任放棄はせず、その責任を引き受けて、主よ、あなたからこのことがおこるなら、主よ、御心がなりますように、私たちはあなたにお従いしますと、召しに応えて歩むのです。最初から教会はそうなのです。この信仰に立つことで、教会は自らを主の愛によって造り上げ、十字架の救いを伝えてきたのです。