13/4/28朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙4章13-15節、詩編12篇 「これ以外の私はない」

13/4/28朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙4章13-15節、詩編12篇

「これ以外の私はない」

 

キリストに向かって成長していきます。で、どうなるか。キリストのようになるのです。皆さん、みにくいあひるの子という童話をご存じかと思います。ご存じだと思うので、いきなり結末を申しますけど、え、誰、この白鳥?私?え~!!っていうハッピーエンド。私のアレンジも少し加わっていますが、あれって徐々に変化していかんのでしょうか。ある朝突然、え~?ってことはないと思うのですが、作者アンデルセンは敬虔なキリスト者だったと言われますので、そこにも信仰の思いが込められておったのかもしれません。復活を意識しておったのなら、全く想像もできない自分のゴールに出会うっていうのは、確かにそうです。キリストのようになるのです。それ以外の私たちはない。

あるいは、え?これ私?っていうのが、今の私たちに当てはまるとしたら、ぎっちり水面ばっかり見んということでしょうか。自分のことらあ見んなるほど、自分自分という意識から離れて、奉仕をしゆう間に、その当の自分が変えられている。そうした成長の恵みに当てはまるのかもしれません。わ、何か知らん間に、キリストに向かって成長しちゅうって、それも確かにある。優しさとか、また今朝の御言葉の語る「愛に根ざして真理を語る」とか。これ以外の私はないというキリストの姿に向かって、しかも「あらゆる面で」成長させられていく。それが確かに私たちです。キリストに向かっての、日々成長の途上にある教会です。

そしてやがてキリストが再び地上に来られる。私たちもキリストと同じように復活させられる。その時、既に召されたキリスト者たちが先ず復活させられると聖書は語るのですが、ひょっとアンデルセンが描いた白鳥の群れは、その群衆を描いたのかもしれんなあと思いました。まだ自分が白鳥だってわかってない時に、飛んできた白鳥の群れに出会うのです。で、わ~、白鳥たちに殺される!って、すごい勘違いするんですけど、それもまた信仰の姿と重なるのかもしれません。あの人たちは私とは違う別種のキリスト者で、私は救われんがじゃないかと思い悩むことがあるかもしれません。そんな時、何が必要か?今日の御言葉が語ります「神の子に対する信仰と知識」です。私たちが一体どんなであろうと、その私たちを完全に救われるため、人となられた神の御子への信仰と知識です。その信仰と知識を一言で言えば、私たちはキリストの恵みによって救われる!キリストが恵みによって救ってくださる。恵みによって!恵み深い、慈しみ深い神の子によって!その神の子信仰、そしてそのキリストの知識です。間違った知識が私たちを追い詰めます。わ~白鳥に殺される~!って、何で白鳥の子は思ったか。間違った知識の故です。知識は勉強好きのオプションじゃないと御言葉は語るのです。

私たちは、キリストを知っているでしょうか。え~と、たぶんこんなキリスト…ではない、主キリストを。私たちが日々その御姿に造り変えられ、成長させられていっている、私たちのゴールであるキリストを!皆で知りたいのです。キリストが牧師を立てられたのは、そのためであったと11節からの流れで学んできました。このキリストを皆で知って、ますます知って、その知ったお姿を求めて、目指して、主よ、造り変えてください、このお姿をこそ目指しますと、皆でイエス様についていくためです。礼拝で説教するのはそのためです。イエス様が、わたしについてきなさいと説教を通して招かれるからです。まだ洗礼を受けてない方は洗礼に向かって。洗礼を受けた者は、キリストのお姿に向かって。イエス様から、わたしについてきなさいと招かれている。その招きに、アーメンって、皆で相応しく歩み出す。それが礼拝です。この手紙自体最初から礼拝で読まれてきた御言葉なのです。

そうやって、皆でもう、とにかくキリストの知識を求めるところで、イエス様、イエス様って、信頼しながら、お委ねしながら、キリストを知りつつ歩むところで、教会は必ず成長します。人数は減ってもです。そこにもキリストの知識が関わってきます。この世の知識は、数の論理で人を惑わすところがあります。いやいや量よりも質、という知識を、言い訳にすることさえあるでしょう。じゃ、何?って思いそうなところで、とにかくキリストの知識なのです。質と言うなら、キリストらしくなるのです。キリストらしくなれば、伝道に力が増します。キリストの知識が、教会成長のヴィジョンです。そうやって使徒言行録そして手紙を読むと興奮します。ああ、そうかと。とにかく、キリストなのです。

こうして私たちはもはや未熟な者ではなくなりもします。この言葉も成長をうんと具体的にイメージさせます。未熟という訳だと、何か嫌な感じがしますけど、言い換えれば、幼児、小さな子供を表す言葉です。この教会にも小さな子供たちがいて嬉しいのですが、子供たちってのは大変な世界に生きています。例えば、お店に入って、うわ、何でここに置いちゅう!って場所に巧妙に置かれたガチャガチャに、子供はギュッと心鷲掴みされ、これ欲しい!ほら来た。アイス買いに来たがやろって言っても、やっぱりこれにする。んもう!って(笑)。こういうことでしょう。「人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりする」って。もう、目に入ってきたモノに心すぐ奪われんとってって思うんですが、それが子供だと御言葉は語るのです。これが大人になると、まあ、当然ここに置くわねゃ、置かいでかと、何ゆえ、ここにガチャガチャなのか、どうしてキラキラ可愛かったり、中身が微妙に見える仕組みなのかとか、知識を得て、おっと騙されんぞと思いますから、まだ誘惑に立ち向かえる術を知識として身につけている。のですけれど、それでもコンビニのレジに巧妙に置いちゅう肉まん買いますから、大人げないと言うか、知識だけでもダメ。だから信仰と知識とセットで必要だ、キリストを信頼しての知識でないと、知識だけだと負けるからというのも、本当に聖書は人間を知り尽くしているなと思います。もう、この御言葉自体が、キリストの知識に裏打ちされた知恵だとも言えます。

ここでの悪賢い人間の教えについては、次月二週続けて幾分か丁寧に説き明かします。それもまたキリストの知識に従うところがあります。一回の説教で、まあ知識としては語ったつもりに私もなりがちなのですが、じゃあ、それが教会として身に付いたかとイエス様に問われたら、主よ、やっぱりそこですよねって悔い改めざるを得ません。人間の知識としては、一回聴いたらもうかまんと思いがちなのですが、イエス様がじゃあどういう風に弟子たちに教えられたか。また教会がどうやって、そのイエス様の知識に従って、愛に根ざして真理を語ったか。福音書や手紙を読んで証しされているのは、とにかく聴いた人の自己責任にせず何度も何度でも思い起こさせることを常とするのです。皆さん思いませんでしたか、何で福音書4つもあるが?一つでえいやかって。教会は、そうは考えなかった。無論、神様がそうお考えでないので、また教会もそのことにアーメンですと。繰り返されたら嫌になるのは、いつの時代でもそうなのでしょうけど、キリストの知識に従って、そこで謙遜を身につけるのです。武道でも何の道でもそうでしょうけど、さっさあ進むと良くないのです。ピアノとか、子供は例えばエリーゼのためにを弾きたいんですが、先生はやらさんでしょう。繰返し基本を身につけます。14節の「人々を誤りに導こうとする」と訳された言葉。人を迷わせる道によって、騙す方法によって、とも訳し得ます。今の日本の教会では、聖書を順番に説き明かしていくスタイルが主流ですが、前はそうではありませんで、教会が知るべきテーマにじっくり取り組むスタイルも少なくなかったようです。それが電子レンジでチーンの時代と言いますか、はい次、え、まだこれやるがって、時代の知識と言いますか、そこでもキリストの知識を知る。またそのキリストを信頼することで、私たちは確かな成長を得るのです。どれだけ知っているかではなく、律法学者のようにではなく、何を本当に知っているか。しかもキリストの何を本当に知っていて、それが教会の身についているか。それが教会の成長記録です。どこがキリストに似ているか。本当に知っていて、身についておれば、似るのです。夫婦もまたそういうとこがあるなと思うのですが、教会はキリストの花嫁ですから、しかもキリストの体そのものでもあるのですから、似んはずがない。この似るというのが成長です。神の御子であられる方が、ヨセフとマリアに育てられ、むしろ二人をお造りになられて、命をお与えになられた方が、二人の子供として学ばれた。聖書は、イエス様は従順を学ばれたと証しします。そのために謙り、謙遜になられた。そして私たちを招かれるのです。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしに倣いなさいと。改めて上の段2節でも、キリストの招きに相応しく歩むとは、具体的には謙ること、全ての謙遜を身につけることだと語られました。頭で学べる知識ではなく、まず謙る従順を身につけるキリストの知識は、実際に謙って歩む他ない。そもそも人は歩んでいるから、道が急所になるのです。道を迷わせる偽りに心惹かれ、やっぱりガチャガチャにするってなって、キリストに従っているつもりが、何かおかしなことになりやすい。ならばこそと、今日の御言葉は励ますのです。私たちは皆、ついにはキリストへの信頼と知識において一体となって、皆キリストの体として、まことにキリストに似た者となって、キリストの満ち溢れる豊かさになるまで成長するから、その謙遜にも、また従順にも、豊かな謙遜と従順に成長するから、とにかくひた向きにキリストを目指そう。キリストが、わたしに倣いなさいと招かれた、ついてきなさい、わたしが道であると招かれた、その道に、とにかく皆で歩もうと、主の約束の招きが語られるのです。

人はしょっちゅうブレます。でもキリストは決してブレません。最初から最後まで優しくて、洗礼受けたら途端に厳しいとか、そんなカルトの教祖みたいじゃない。そのキリストに倣うのです。最後まで優しく、かと言って罪は放置せん。でも責めないし見捨てない。徹底的に赦して招いてくださって、凛として、でも限りなく優しく、あなたはその罪を捨てて、わたしについて来なさいと。もう全くブレない恵みの態度で、私たちを成長に導かれます。そのお姿が、私たち皆の目標なのです。