13/4/14朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙4章12節、イザヤ書53章 「仕えます、これが愛!」

13/4/14朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙4章12節、イザヤ書53章

「仕えます、これが愛!」

 

先の讃美歌で「仕えたてまつれ」と歌いました。ご年配の方はすぐにおわかりになるかと思いますが、たてまつるを漢字で書くと奉仕の奉。ですので「仕え奉れ」と讃美するとき、主のために奉仕しましょうと、そのまま理解してよろしいかと思います。今日の御言葉の教えにまさにピッタリの讃美歌です。そしてこの讃美は続けて、なら奉仕とは何か。それはイエス様が示して下さった「しもべの道」、隣人に仕える僕として歩むことだと歌います。ルターは讃美歌とは信徒の歌う説教だと言いましたが、この歌はまさしくアーメンと思います。今日の御言葉が語る、「奉仕の業に適した者とされ」というのは、イエス様に倣う「僕の道」を皆で歩めるようになることだと、言い直してもよいのです。

このイメージを、ぜひ皆さんの魂に焼き付けて頂きたいと願います。奉仕するとは、僕になることである。ですから皆さんがこれから教会で奉仕なさるとき、よし、私はここで僕の道を具体的に歩むのだと、ぜひご自分の魂に言い聴かせて下さい。私は僕だ。もっと僕になるんだと。そこにイエス様の愛が実を結びます。神様の愛は、僕によって運ばれるからです。説教題に込めたメッセージもそこにあります。

もう一つ、この愛を歌う讃美歌、二編112番の讃美歌も、クリスマスカロルですが、心に留めたい讃美歌です。半音が入る特徴的メロディーで「しもべのかたちを取りて」と歌います。2番の歌詞はこうです。「なげきの地は主の愛うけ、希望の光さしきぬ。しもべのかたちを取りて、おのが身を与えたもう、とうとき御子、救いの君。なげきの地は主の愛うけ、希望の光さしきぬ」。三位一体の御子が、僕の形を取られて、ご自分の身を与えて下さった。私たちを罪の滅びから救うため献身して下さった。私たちに奉仕して下さった。ここでもイエス様のイメージは、僕として印象づけられます。強烈な印象です。イエス様は僕の形を取られた!罪に嘆く地は、そこでこそ主の愛を受けた。そこに希望の光が差し込んだと歌うのです。僕が、暗闇に光を持ちこんだ。

先に読みましたイザヤ書53章のイエス様を預言する御言葉も、父が「わたしの僕は」と語られて、御子の愛の業を語られます。僕でないと運べん愛があるのです。僕にならんと、できん働きがあるのです。それが今日の御言葉で語られる、奉仕の業、僕の働きです。

もし!です。もしイエス様が僕の形を取られなかったら、嘆きの地は主の愛をどこに受けたと歌い得たでしょう。どこに神様の愛の形を見、どこに希望の光を見出し得たでしょう。皆さんは、どこに愛の形を見られますか。どんなところに、ああ私はここに愛の形を見たという印象を受けられますか。誰かが自分自身の損得など省みず、むしろ自分を捨てて僕の形を取り、己が身を差し出してしまっているところにではないでしょうか。そして教会が、私たちはそうした自己犠牲を捧げますと、僕の形をした愛の業、奉仕の業に生きるとき、イエス様はその僕の手に、ご自身の愛を手渡されるのです。世界はそこに神様の愛を見る。それが主の伝道方策です。私たちもまた、そうやって神様の愛を教会に見て、洗礼を受けたのではなかったでしょうか。

無論、完全ではないので、なんだ、やっぱり愛がないと思われたり、私たち自身思ったりすることもあります。そして、それが事実だと思います。だから!です。だから今日の御言葉が、それを前提に語るのは、そうだ。教会の愛は完全じゃないので、だから復活・昇天のキリストは教会に御言葉の奉仕者を立てられて、こうしてキリスト者一人一人が、奉仕の業、僕の業に適した者とされていくのだ。僕に適してない者で、自分勝手なところがあるから、だから、御言葉の力で造り変えられて、僕の形に造り変えられ、僕の業に適した者とされていく。そして不完全な教会が、なお罪が残りつつ、しかしその罪と戦い、自分を捨て、自分の十字架を負いながら、僕の形を取られた三位一体の御子に、主よ、私たちの羊飼いよ、私たちを僕の道に導いて下さい。あなたに仕えます。そしてあなたが命を投げ出して愛された、隣人たちに仕えます。僕の業をなさせて下さい!と、主の名を呼んで、仕え奉る。それが教会です。御言葉によってキリストの体に造り上げられている教会は、その形が、僕の形を取っていきます。それが教会の健康診断になるのです。

ところで、その教会の一人一人が「聖なる者たち」と呼ばれているのも、誤解されやすい言葉でしょうか。完全な愛の僕をイメージされるかもしれません。が、その愛は不完全です。それでも聖なる者と呼ばれます。神様が呼ばれるからです。わかりやすく言えば、私が不完全でも、妻が私を、我が夫と呼ぶのと同じです。聖なる者とは、神様の者という意味です。所有権を表す言葉です。聖書は神様の書であり、人間が勝手な解釈で好きにできる権利はありません。私が妻の手を離れて好きにできる権利を持たないのと同じです。聖なる者が不完全でも、愛に欠けた所ばかりでも、それでも聖なる者と呼ばれ得るのは、その愛に欠けた者のために流されたキリストの血潮が完全だからです。その償いが完全だからです。こんな私たちが、そのイエス様の名を呼んで洗礼を受けたとき、イエス様が、そうだ、あなたはわたしのものだ、そしてそれ故に、父の子であり、あなたは神の家族の一員だと約束された、そのキリストの愛が完全だから、恵みによって神の家族とされた私たちを、御言葉は聖なる者たちと呼ぶのです。前にも言いましたが名字と同じです。その人の生き方も欠けも失敗も、その人の名字を決定しません。むしろその名字が、その人の生き方を決定づけていくのです。聖なるキリストの者とされた、聖なる者たち!それが私たちの名字であるので、キリストに倣って僕として生きる。その他の生き方は、虚構だとさえ言い得ます。聖なる者としての生き方が嘘にならんように、御言葉に聴いて、召しに相応しく歩んでいく。御言葉に仕える賜物が、まず教会に与えられているのは、その故です。

ですので、先に奉仕=僕の働きというイメージを焼き付けたように、聖なる者=僕というイメージを焼き付けて頂ければと願います。聖なる者が聖なる者らしくなるというのは、具体的に言うと、僕らしくなるのです。このイメージを忘れないで下さい。らしくなくても僕ですけど、僕らしくない者であればこそ、らしくされ、適した者とされるのです。御言葉のもとに身を置く僕は、必ず、僕らしくなっていきます。これが教会のゴールです。僕の形をお取りになったキリストの体らしくなる。奉仕の業に適した者とされることで、僕となられたキリストの体を皆で造り上げていくのです。

そこで更に具体的な御言葉の教えに、グッと入っていきます。適した者とされていくと訳された言葉。これは例えば関節から外れていた骨を本来の場所にカコッと戻すという言葉です。外れている状態は適してないので、本来の適した関係に戻すとも言えるでしょう。教会員一人一人がそうした教会の本来の持ち場にカコッと戻されて、そこで僕の働き、奉仕の業を行っていくよう、言わばリハビリを受けるという言葉です。例えば野球選手が肩を脱臼すると、病院でリハビリを受ける。リハビリという言葉は英語ですが、職場に復帰するという時に、職場にリハビリテイトすると言います。聖書のもっとよく知られた言葉で言い換えれば立ち帰ると言ってもよいのです。神様に造られた本来の私として、本来の場所、神様のもとに立ち返る。その神様のもとが、具体的には教会の一員、キリストの体の一肢として、カコッと教会につながるということなのです。ですので、洗礼を受けて、その教会の教会員になるというのは、そこからリハビリが始まるということでもある。そういう意味では皆まだ病院にいるという言い方もできます。イエス様の御言葉を思い出します。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」そのイエス様の招きに相応しく歩む時、悔い改めもまた相応しくなされます。それが教会にカコッとつながり、聖なる者、本来の私としての僕の働きに立ち帰るリハビリです。今、主の御言葉に共に心を傾けて受けているのが、そのリハビリのメインの一つです。だから司式者が御言葉に先立って祈る時、悔い改めに導いて下さいと祈るのは召しに相応しい祈りです。初めて聴いた人はびっくりするかもしれませんけど、私たちには医者が必要です。必要だから、御言葉のもとに身を置きます。

そして教会が必要なのです。ここが病人に用意されている本来の場所であるからです。ここに来なさいと主が招かれたのは、ご自身の御体であったからです。そしてこの本来の場所に立ち帰ったところで、僕の形に造り変えられるリハビリを受ける。繰り返し聴いてきた1節からの御言葉がそれです。教会の兄弟姉妹たちとの御霊による一致、つながり、家族の関係を改めて覚え、これを保つよう熱心に努力する。それが僕の形の取り方です。個人の意志では取れません。それだけ深い病です。優しい人にはなれたとしても、僕には主人がいるのです。その主人が主治医として私たちに言われます。あなたにはリハビリが必要だ。神の家族として生きるため、聖なる兄弟姉妹が必要だ。聖なる者としての本来の形、僕の形に生きられるよう、神の家族のファミリービジネス、永遠の命を人に手渡す、キリストの働きを行えるよう、聖なるリハビリを受けなさい。聖なる者の奉仕の業に適した者とされなさいと、主治医であるイエス様が言われます。救い主として言われるのです。

僕という言葉で語ってきましたが、別の言葉で言えば奴隷です。奉仕の業と訳された言葉も、訳し直すと奴隷の仕事です。力があってお金のある人が、自分がしたくないことを、人が嫌がる面倒なことを、教会は僕となって行ってきました。主そうされたから。三位一体の御子が、主である方が僕となられて、仕えられたから。その愛で私たちは救われたから。だから教会も仕えます。主に従って、僕となります。そもそも僕であるのです。本来の私たちになるのです。その私たちをイエス様が、聖なる者と呼んで下さる。キリスト者と、ご自身の名で呼んで下さる。その名に相応しくリハビリを受けて、キリストの御業となるのです。