13/4/7朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙4章11-12節、エレミヤ書1章4-10節 「神様の愛を手渡す人々」

13/4/7朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙4章11-12節、エレミヤ書1章4-10節

「神様の愛を手渡す人々」

 

ここには復活の主が立てられた教会指導者たちが描かれます。どんな人々か。最も重要な説明は、主がそうされた、キリストが召された人。これです。11節は10節の続きでして、主語は「この降りて来られた方」キリストご自身です。復活の主がペトロに、わたしの羊たちをよろしく頼むぞと、ご自分の羊たちを託されたように、主から召され選ばれ立てられた人々が、教会の指導者たちです。だから牧師になるというとき、召命を受けたとよく言います。それは、牧師とされるよう主から召命が与えられてなかったら、なれんし、なったらいかんからです。自発的に教会指導者にはなれない。また逆に言うと、キリストに、あなた牧師になりなさいと召されたら、なる他ない。この中にも、子供たちを含めて牧師に召されている人がいるかもしれません。そして教会は、その召命の思いが本当に主からのものかを確かめるのです。

言いかえれば、この人たちが本当に主からその働きに相応しい賜物を与えられているかを確かめます。7節の「私たち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って」恵まれている賜物が、その人の場合、本当に牧者・教師の賜物であるかをです。

教会指導者の召命に関して重要なのは、この賜物を恵まれた人々は、ただそういう恵みを受けた人々であり、その人々自身は、何ちゃあ偉くないということです。何故、教会指導者に選ばれたか。わかりません。キリストの自由に属する問題です。何故、救われたかと同じです。ただ一つだけわかっているのは、恵まれたからです。何の功もない者が恵みを受けた。功とは功績のことです。何かを得ようと自分の力でやって、力が認められ、それを得たとき、その自分でやったことを自分で誇ってよい。それを功、功績と言う。でも、救いも賜物も、恵みです。だから自分を誇れません。ですから牧師をその賜物で評価して、すごいとか、偉いとか、持ち上げてもなりません。それはその賜物を「高い所」からその人に恵まれたキリストを無視することになります。もしすごいならキリストの恵みがすごいのですから、キリストに栄光を捧げ賛美する。その栄光をキリストから盗むのは、むしろその牧師の恥でしょう。

かと言って教会指導者を、その相応しい扱いから引き下ろすことも、その賜物を恵まれたキリストの目的を無視することになる。ああ牧師は扱い難い(笑)。なら相応しい扱いとは何か。教会に教える主の言葉を、主の言葉として聴き従うことです。そのための賜物授与だからです。

先々週の説教で、教会はキリストを頭とする三角形の図で表すとわかりやすいと言いました。その間に、上から使徒、預言者、福音宣教者、牧師という権威が、キリストから託されているとも言えますが、誰一人その座に、昇った者はいません。会社で言う昇進とかは一切当てはまりません。教会にあるのは選びの恵みです。昇進はない。召された。それだけです。教会で尊敬に値することがあるなら、その召しに、相応しく歩むよう努力しているかどうか。その召しをキリストの召しとして尊んで、努めて主の前に謙り、またそれ故に人々に対して謙遜に、キリストの恵みを証しする努力をしているかどうかです。その努力は自分を高めることなどとは、一切の関わりを持ちません。そしてそのことは、別の賜物を受けた一人一人にも、全く同じように当てはまります。一人一人が受けた賜物を用いて、その召しに相応しく、努めてキリストの栄光のために歩むとき、いと高き所に昇られたキリストの、恵みが輝きます。どんな賜物、召しであろうとも、その召しと賜物を恵まれたキリストの栄光を皆で讃える!それが恵みの恵みたる所以です。教会、最高(笑)。もう全部恵みですから、本当、教会最高!です。

で、そのように自己実現とは一切関わりないところで、キリストが、教会指導者を召された目的は、12節「こうして聖なる者たち(一人一人のキリスト者たち)は奉仕の業に適した者とされ、キリストの体(教会)を造り上げて」ゆく、これが指導者の賜物の目的です。一人一人が奉仕の業に適した者とされてゆく。そしたら牧師ワンマン教会ではなくて、キリストの体が造りあげられる。どうやってか。ここが今日の御言葉の急所です。主の御言葉によってです。これらの教会指導者たちは皆全員御言葉の奉仕者です。御言葉は語れんけど、バリバリ人を引っ張っていけるとか、そんな指導者じゃない。むしろそういう人が教会を台無しにしてきた歴史を教会はずっと持ってきました。それを繰り返すのはもうやめにしたい。恵みによって造り上げられる教会を、恵みのキリストの教会を、御言葉に聴き従って建てたいのです。

その御言葉の奉仕者として、ここに挙げられた4つの賜物を簡単に説明します。使徒は、復活のキリストの目撃者であり、そのキリストから教会はこう建てるのだと直接召された人々です。預言者は特に新約聖書が正典として整う以前に、御言葉を語ってきた人々と言えます。福音宣教者は、言わば使徒の補佐役として各地の教会を整え、教会は福音によって生きるのだ、他によってじゃないのだと、使徒が据えた福音の土台を固め整える働きを担った人々だと理解されます。復活の主の目撃体験がないので使徒の召命ではないけど、働きは同じとも言えるでしょう。そして牧者・教師とセットで語られるのが、今で言う牧師です。教師という働きは、例えば教会学校教師も含み得ます。教師のみという賜物はあります。が、牧者だけど御言葉は教えん。これはない。優しい世話役が牧者じゃないからです。牧者はキリストの羊を預かる者として絶対に大牧者キリストの御言葉で導く他はないからです。でないと一生懸命に世話するそのことで羊泥棒になることもあり得ます。だからもし牧師が優しいなら、キリストの言葉が優しいからです。また厳しくするなら、キリストの言葉の厳しさがあるからです。もし魅力があれば、キリストの言葉の魅力を語るからです。使徒も預言者も福音説教者も皆同じ。

そこで、あれ?でもそれは、キリスト者全員に当てはまることではないですかと思われるなら、そう!その通りなのです。そのように牧者は大牧者キリストの言葉に、キリストの羊として聴き従うところでしか、キリストの言葉を語り得ません。だから偉いとか全く関係ない。召されて語りつつ聴いている御言葉の魅力に、先ず捕らわれてしまっただけ。御言葉はすごい!この御言葉の魅力に、どうぞ人生を奪われて下さい。

またそういう魅力ある教会の頭、キリストの御言葉を牧師が取り次ぐとき、それは教会の立ち位置を示す務めをも担っています。キリスト者として、教会の一肢として、こういう時は、こうすべきだという言葉を牧師はキリストの言葉の代弁者として聖書から教えます。それ故、人生を左右すること、命を左右することもあります。そんな言葉をどうして語れるか。キリストの言葉が命じるからです。その召しに相応しく葛藤しながら語ります。取り次ぐ御言葉自体が、預言者はたいがい嫌われると語りますから、ますます葛藤するのですけど、人は、そのキリストの言葉に生きる以外に、神様の祝福には生き得ないと知っているから、その祝福を得て欲しいから、ただただ御言葉に聴く他ない。共に御言葉に聴く他ない。そしてそれが、キリスト者一人一人の歩みなのです。

そのように一人一人を、キリストの奉仕の業に相応しく整えるための御言葉を、主の御言葉を取り次ぎます。聴く人また聴かん人の自己責任だと逃げないで語ります。私たちの全責任を取られて死なれたキリストの言葉ですから。自己責任にせず、甘やかしもされない、厳しく優しい十字架の言葉、赦しと復活の恵みの言葉を、教会は語り伝えるのです。キリストの体はこれに生きる。それが私たち、恵みの教会です。