13/3/31朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙4章9-10節、詩編23篇 「全てを満たす主の復活」

13/3/31朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙4章9-10節、詩編23篇

「全てを満たす主の復活」

 

私たちの教会は数年前から先に天に召された兄弟姉妹を記念して召天者記念礼拝を、イースター、復活祭の礼拝で行っています。それはこの兄弟姉妹たちの死が、死で終わってないことを記念するためです。その一人一人の死を、イエス様が十字架で背負って、その代表として死なれて、更にまた代表として甦らされた。そして今日の御言葉が語ります、高い所、神の右の座にイエス様は昇られ、昇天された。そこでの漢字は天に昇ると書きます。先の兄弟姉妹たちが天に召されたという漢字とは敢えて違う字を用います。たまに新聞の死亡記事欄に、間違って昇る天で、誰それが昇天しましたと書かれることがありますが、聖書の告げる昇る天の昇天は、その天から降って来られた主イエス・キリストにしか用いることはできません。だって私たち、誰も天から降って生まれたわけではないからです。むしろ葬儀でいつも聴く言葉は、私たちが土から造られた者であり、それゆえ土を土に、灰を灰に、塵を塵に返しますという厳粛な言葉です。その私たち、土に返る者、地の塵に返る者が、です。ただ、その霊がフワフワ天に昇るなんてのではなくて、召されるのです。招かれるのです。ここに来なさいと、神様に召される。天に召される召天というのは、場所のことを言うのではなくて、神様に召されることの言い換えです。

今日の御言葉は4章1節からの一連の続きです。神様に召されたあなた方は、召されたその召しに相応しく歩みなさいと招かれている。招かれてない人、召されてない人はおりません。皆が神様に召されている。だから、その召しに相応しく歩みなさいと。その歩みが終わるときも、その召しに相応しく終わればよいのです。御手に委ねて、神様よろしくお願いしますと、キリストの復活に抱かれて、私も復活させて頂けると信じて歩みを終えればよい。それが召しに相応しい歩みです。それだけ安心して歩める救いを、キリストは天から携えて降って来られました。人となられた神様は、わたしがあなたと一緒に死ぬから、むしろあなたを代表して死ぬから、あなたも一緒に復活させられるんだと、その覚悟で、十字架の死の覚悟だけじゃない、その先にある私たちの代表として復活させられる覚悟とヴィジョン、希望と喜びとをもって、キリストは天から飛び降りられた!私たちは、そのキリストの復活を信じる!復活を信じて、これを祝うとは、そういうことです。私たちが、その復活の御手に抱かれて、一緒に復活させられるから、教会は主の復活を、私たち自身のこととして祝う。罪赦されて、一人フワフワ昇っていったりはせんのです。歩み終えて、目を閉じて、そして目が開いたら、キリストの腕の中で目覚める。そう言ったって良い。一つのイメージですけど、御言葉の約束するキリストの救いは、そういう復活の救いなのです。

いや~、今日は復活のイースターの礼拝なのに、なんか死ぬ話が多いなあとか思われるかもしれませんが、御言葉自身が、そういう構造なんです。キリストの復活と昇天を語るのには、どうしてもそのキリストの天から降られた降誕と、十字架の死による陰府降りをセットで語る以外には語り得ない。でないと、呑気な復活信仰になると言いますか、まあ何か知らんけど復活するんだなと、自分事にならん恐れがある。自分事にならんかったらどうなるか。救いが他人事になるんです。教会生活をしておってもです。自分事に思える人生の部分だけ思ったり悩んだりして、で、死が自分事にならんかったら、死の先のことに無関心になってしまいやすい。あるいは避け易いとも言えるでしょうか。自分の信仰の悩みも含めて、今のことだけになりやすい。私たちの人生は、その先に向かって招かれているのに、復活の希望が救いであるのに、それが見えにくくなるのです。

先日、西日本教会青年同盟の春の献身修養会でも、まさにそのことが語られましたので、紹介したいと思います。私の師匠でもある東京神学大学の山口教授がこう言われた。私たちは人生の問題を頑張って解こうと、言わば色んな数式、方程式を当てはめて、ああやったから失敗したとか、こうすれば成功する、こうしたらもっと良い人生が送れるとか、メソッドを当てはめ、法則を見出し、人生の問題、命の問題を、複雑にあるいは単純に解いてやろうと考えてしまう。でもその人生の問題全部が大きな( )の中に一括りに入れられてグッと“-”がつく、死の問題を無視して、( )の中身だけ解こうとしてないか。でも( )の中身をどんなに解いても、その今までの苦労も成功も何もかも全部が、はい全部なくなりましたと言わば強制終了させられる死の問題を飛ばして、人生問題の( )の前につく“-”問題の無視をして、( )の中身だけ解こうとしたって、結局は全部がマイナスになってしまうじゃないか。なら、と高校生時代の山口教授は思われた。なら、徹底的に、そのマイナスの問題に向き合ってみようと、教授は、そのマイナスを永遠のプラスに変えるために、天から飛び込んで来られたキリストの死に向き合われた。その講演を聴きました後、一人の青年が、私は( )の中身だけしか考えてこなかった。色々悩み苦しんで、でも全部( )の中だけやった。( )に閉じ込められて人生の問題を解こうとしていた。でもこれからはその( )の外に向き合っていきますと言われました。要するに、イエス様に自分の( )の中身、人生を預けて、全てのマイナスを永遠のプラスに変えられるイエス様の救いを、自分事として向き合っていくと言われた。ああ、本当に良かったと思いました。

私たちも一人一人、色々な人生を送ってきました。そしてその全ての人生が( )で括られて、その前にマイナスが付く日をやがて迎えます。人生の中身がどんなであろうと、その最後の式は変わらんのです。でもその変わらないマイナスを永遠に変えられるために、神様がご自分を変えられたのです。永遠の聖なる神様が、始まりもなく終わりもない唯一の三位一体の神様が、その永遠の御子を、人として、私たちの代表として死んで、また復活させられる私たちの主として、贈られた。その肩に全てのマイナスが負わされたのです。全ての罪とそれ故の死のマイナスが主イエス・キリストの肩に負わされて、十字架で私たちの永遠のマイナスを負われて死なれた。神様が全代表として死んでしまわれた。そのキリストが、私たちの人生の( )の前に来られたのです。そして私たち全員を招かれるのです。誰でもわたしのもとに来なさい。わたしに従いなさい。わたしがあなたのマイナスを負う。わたしがそのマイナスを、十字架で負って、永遠のプラスに変えてしまう!わたしに従いなさい。永遠の復活のプラスに導かれて、わたしについて歩んできなさいと、主は全ての人を招いておられる。このキリストの福音の招きに、招かれてない人はおらんのです。どんな人の人生をも永遠のプラスに変えられる輝くキリストの十字架の光、輝くキリストの復活の光に飲み込まれない闇はないのです。キリストがその私たちの前に立って招いておられる。その召しに、相応しく歩んでいくのです。

そして、そのキリストに従う歩みの中に、洗礼があり、教会の家族の交わりがあり、一人一人への賜物がある。それがこの4章で語られてきたことですが、今日はもう多くは語りません。どうしてもしかし語りたいのは、その一つ一つ、洗礼に、交わりに、賜物に、奉仕に、キリストの復活の光が輝いているということです。全部キリストの復活を証しする、輝くプラスのしるしなのです。そこに歩んでいく時に、( )の束縛からも自由になります。キリストの光が全てになります。やがて永遠に満ち満ちるその光の中を、教会は今共に、歩み始めているのです。