13/3/24朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙4章7-8節、詩編122篇 「個人じゃなくみんなで」

13/3/24朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙4章7-8節、詩編122篇

「個人じゃなくみんなで」

 

イエス様が高い所に昇られた。天の父なる神様の右の座に昇られて、その高い所から、聖霊様によってご自分と結ばれた一人一人に、賜物を恵んで下さった。一人一人にです。その目的は、先週のおさらいですが12節「こうして、聖なる者たち(一人一人のキリスト者)は奉仕の業に適した者とされ、キリストの体(教会)を造り上げて」ゆく。そのための一人一人への賜物です。その私たち一人一人を、ザーッと一列横に並べて、その私たちが皆で高い所を見上げたら、イエス様が、さあ、皆で教会を建て上げていくぞと招いておられる。それを三角形の図で表すとわかりよいでしょうか。高い所にイエス様が教会の頭としておられる。その頭と結ばれた一人一人がキリストの働きをなしていく。そのことが1章の22節では、既にこう語られていました。「神はまた、全てのものをキリストの足元に従わせ、キリストを全てのものの頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、全てにおいて全てを満たしている方の満ちておられる場です。」

イエス様が頭。教会はキリストを頭とした体である。その頭が体全体に、一人一人にこう言われます。わたしに従いなさい。あなたがた一人一人、体の一部一部に大切な機能、賜物を恵んでいるから、一人一人、部分部分、わたしの命令に従って、わたしの体を造り上げ、世にわたしの働きをなしなさい。わたしが十字架で成し遂げた救いを、世界に伝えよう。さあ、行こう、わたしの体よ、というのが教会です。私たちは、その大切な一人一人として、体の各部署を、頭から任されています。

ま、組織と同じです。会社とか。体自体も組織です。組み合わさって皆でやっていく。でないと、社長の言うことを聴かん組合だと、組織とは言えん。いや組織なのに組織として病んでしまうことがある。教会は組織です。その頭はイエス様。教会のお頭です。頭取も頭と書きます。昔は首と書いてかしらと読みました。首領と書いてかしらと読む当て字もあります。英語だとヘッドですね。昔の暴走族みたいですけど。親分はイエス様という本、また映画もありました。イエス様がわしらの親分じゃ。親~分のためならえ~んやこ~ら。わかりやすいイメージです。が、やっぱり頭なんです。イエス様は。三位一体の神様の伝道計画では父なる神様こそが親分です。父親ですから。その親分のために組織されている子分全体の筆頭、または若頭がイエス様なんです。人を救うため神様がとなられたとはそういうことです。永遠の御子なる神様は、私たちが本当に父の子となるために、私たちの代表として人となられて、子分代表となられて、さあ皆、わたしに続け!と先頭切って引っ張ってくれて、皆で、子分・子供たち全員で、代表のイエス様に従って、父の計画に従うのです。一家全員で父に従う。それが教会です。その教会がキリストを頭として、キリストの体として造りあげられて、伝道体制が整えられて、世界にキリストの救いが証されていく。これが三位一体の神様の伝道計画、聖なる伝道方策だからです。

ですから、教会が家族としての交わり、つながりを具体的に形成していくというのは、単に皆で協調してやっていきましょうというのではありません。協調性があるとかないとかは、問題の表面に過ぎません。だから、もっと協調しましょうとか、皆で協力しましょうとか言っても、かけ声で終わると言いますか、私たち一人一人の中身は何も変わらないまま、ただ個人個人が協力しゆうだけってことになる恐れもあります。そんな個人的協力姿勢の根本問題を、御言葉は実に真っ先に指し示し、お頭の招きに従うとはどういうことかと、2節でこうやって語り出したのです。一切の謙遜をもって。この翻訳は、一切高ぶることなくと訳しましたが、これを高ぶり、プライドの問題にしてしまうと、どうも個人の問題で終わってしまいやすい気がします。あの人はプライドが高いとか、個人の性格みたいに勘違いしやすい。しかし謙遜というのは、個人の性格や気質の問題ではありません。謙遜は、権威の問題です。主が、わたしに従いなさいと招かれて、そこで主を、私たちのと認めて、主が私の頭であって、この私はその僕ですと自分の頭は下げて、ひれ伏して拝む。教会の頭、私たち一人一人に賜物を恵まれた私たちのお頭に、はい、主よと、イエス様の招きに相応しく歩もうと、お従いしていく。それが謙遜です。そしたら続いて言われるように、違うタイプの性格や自分とは違う意見の人にも寛容な心で、愛をもって互いに忍耐して、主を頭として共に歩んでいこうと思います。思えないところでは、祈る他ない。だってイエス様が、わたしに従いなさいと言われるのです。個人の問題ではないのです。主と私の関係の問題であり、いつも聖霊様によって主が共におられて、主に結ばれていて、ああ、もう一人にしてって逆らってしまうとき、あなたはどこにいるのかって語りかけて下さり、わたしについてきなさいと招いて下さる。頭が待っておられる。信仰とは、そのような頭となられたイエス様の招きに、はいと謙遜に応えて、父が立てられた若頭の後に従って、イエス様と一緒に、はいと父の御心に応える歩みです。主の名によって、イエス様と一緒に、父に、はい。これが信仰です。一人じゃない。お一人様の信仰などありません。

イエス様の最も愛される譬え話の一つに、父を捨てた放蕩息子の話があります。その息子には、兄もいる。イエス様の譬では、その兄も父の気持ちがわからない兄で、あんな弟、放っておけばよいと、自己責任で愛のない兄でしたが、教会の事実はそうではない!その放蕩息子、また娘が私たちであるなら、私たちの兄はイエス様です!人となられて、兄となられた、地上で唯一、父の御心に完全にお従いになられた完全な兄です。その兄は、父の御心に背いては、お一人様の人生を歩もうとする放蕩息子また娘に向かって、ねゃ、弟、妹、お父さんには、はいやろ。ねゃ、そうやお。はいって一緒に言おう。一緒に言うちゃうき、一緒に言おう、わたしに倣って、わたしに従って、ほら、父よって、兄は必死に執り成し助けて下さる。私たちの兄となられた方はそうして下さる。それをさえ嫌がる私たちでも、父よ、この子は、はいと言います、必ずはいと言いますきと、執り成し、愛して、あきらめることを決してしないで、弟、妹を教えて導き、ときには叱ってくださりさえする。兄にはその権威が与えられているからです。高い所に昇られたとは、そういうことです。先に1章の御言葉で聴きました、父がキリストを全てのものの頭として教会にお与えになられたとは、そういうことです。兄には、私たちの対しての権威が与えられています。

それは確かに裁く権威でありますけれど、それがどういう裁きであるか、今週、受難週を歩む私たちには、それがはっきりわかるはずです。兄となられた永遠の御子は、私たち父に逆らう肉なる者を、本当に永遠の弟妹とするために、私たちの罪を全部一身に引き受けて、兄弟姉妹の代表として、頭となって、父に裁かれ死なれた兄です。兄が受けられた裁きの権威とは、そのように、父にご自分が裁かれることで、人間の罪を一手に引き受けて、赦してしまわれる権威です。それが私たちの兄、教会の頭となられたキリストです。罪人の兄と呼ばれることを、決して恥とされない兄です。

その兄が、私たちの代表として、死から、陰府から、罪の結果から、甦らされた。聖霊様の力によって父に復活させられて、天に昇らされ、今、あらゆる権威と支配の上に置かれた神の右の座で、私たち教会の頭として、弟と妹一人一人に言われるのです。わたしに従いなさい。あなたも復活する。わたしのようになる。だからわたしに従いなさい。あなたの罪は赦されたから、わたしはその束縛と支配の上にいるから、あなたは罪にじゃなく、世間にじゃなく、自分にじゃなく、あなたはわたしに従いなさい。一緒に父に、はいって言おう。父の御心にお従いして生きよう。わたしの弟、わたしの妹よって、一人一人を招かれる。それが高い所に昇られたキリストに、父から与えられた権威です。私たちを兄として救い導かれる権威なのです。

その権威、言わば牧会の権威、羊飼いの権威とも言い得る権威をもって、キリストは教会を一つとし、また一つに導かれます。そしてそれがまたお一人様の信仰にならんよう、極めて具体的に皆を一つにまとめて牧会する賜物も、教会に恵まれました。それが11節の人々です。「…」詳しくは11節の説き明かしでまた語りますが、この人々が教会を頭に従わせるために、教え導く賜物であり、そしてどうなるかが11節以下で、言わば手段と目的として教えられます。取り急ぎ11節12節を見ます。これが賜物の一番基本となる目的、ゴールだからです。「…」。キリストの体として、教会が造りあげられる。他の会社組織のようにではなく、上に立つ者が何ら偉そうにすることが不可能で、一人一人が重んじられて、しかし個人の自己主張を受け入れあうというのではない。教会は、互いに仕え合うのです。あなたと私が、共にキリストの招きに従って、父の御心に従えるようにと、お互いに仕え合います。それは優しい人だからではなく、教会の価値観だから仕えるのでもなく、キリストが、わたしに従いなさい、そうやって父に一緒に従っていこうと招かれるから互いに仕え合うのです。謙遜が優しさに先立つのです。無論その中で、聖霊様の御力によって、キリストの心の姿勢、また生き方に造り変えられていって、事実キリストに似た者に造り変えられていく聖化のお働きによって、兄に似た優しい人になってもいきます。教会の価値観と言うならそこです。キリストが全てだからです。何で教会は仕え合うのか。十字架のキリストが頭だからです。そのキリストの体だからです。一人一人がキリストに結ばれ、キリストの体の部分部分として賜物、機能、働きが、あなたにはこれ、あなたはこの部署、あなたにはこの働きを、よろしく頼むよ、一緒にそうやって父の御心に従って、世界に父の救いを示して行こうと、キリストが一人一人に、奉仕の業、キリストの働きを下さったからです。だから皆でやっていきます。そのためのキリストの人事です。キリストが選ばれたその部署で、キリストに託されたその賜物を皆で用いて仕え合います。キリストの体を、そうして建て上げ、父の御心がなされるところに、私たちの頭、兄の満足があるのです。

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