13/6/30朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙4章22-24節、創世記35章1-7節 「ライフスタイルの土台」

13/6/30朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙4章22-24節、創世記35章1-7節

「ライフスタイルの土台」

 

これは教会生活の設計図です。無論、教会生活の基本は何かと問われたら、礼拝だという答えになりますが、じゃあ礼拝出席して、礼拝で何をするのか。何を期待して礼拝にのぞめばよいかと言うと、これです。うんとシンプルに絞って三つ。一つ目が洗礼を受ける前の古い生き方を脱ぎ捨てること。二つ目が心の底から新しくされていくこと。三つ目が神の形に造られた新しい生き方を身につけること。この三つです。讃美と祈り、御言葉と聖礼典、感謝と献身の徴としての献金、そして祝祷、全部この三つを目指しての礼拝行為です。え、じゃあ礼拝って自分たちのためで、神様のためにじゃないがと問われるなら、いえいえ、それが神様の願いだから、私たちが新しくされることが神様の喜びであり、そこに献身することが神様の御名をあがめることだから、この三つの急所を、神様のために、礼拝においても目指すのです。

そういう意味では、先にこれは教会生活の設計図だと言いましたが、礼拝生活の設計図と言ってもよいのです。この設計図に従って、礼拝を捧げる生活を営むとき、教会生活が形成をされていくのです。ちょっとおさらいになりますが、このエフェソ書の4章全体が教会形成の設計図だと前に申しました。どうやって教会をキリストの体として建て上げていくのか、それがこの4章に啓示されている。その教会形成の、態度と組織と活動に関する設計図が、16節までの前半で語られておりました。そして先週の17節からの後半では、そこで組織されたキリスト者たちが実際にどういう生活を営んでいくのか。教会活動が営まれる実際の現場では、じゃあどんな問題が生じやすくて、その問題の中で何を心がけてキリストの召しに、はいと従って歩めば良いのか。その要点がこの三つです。キリストに従わん古い生き方を脱ぎ捨て、心の底から新しくされ続け、神の形に造られた新しい人を身につける。言い換えればキリストを身につける。生き方をキリストに着替える。キリストするとは、そういうことです。そうしたキリスト者としての生々しい生活が、一歩一歩形成されていくことで、教会が形成されていくのです。生活形成のない教会形成はありません。ですので、この三つを覚えて下さい。心に刻んで下さい。ここが教会生活の基本です。どんな生き方を今していても、これを基本にして歩んで下さい。そしたら教会が形成されます。

まず一つ目。以前の、キリストを主としない古い人を、言い換えればキリストの召しに、はいと言わない古い生活を脱ぎ捨てる。何故なら、それは滅びに向かっているからと訳されましたが、直訳するとこうなります。以前の生き方に従って、すなわち、あざむきの欲望に従って腐り腐敗してゆく古い人を、あなたが脱ぎ捨てること。ことっていうのは、それがすぐ前21節で言われるように、私たちがキリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にある通りに学んだはずのことだからです。22節冒頭に、だからという言葉がありますが、これは無理につけた言葉で、本来は、この三つのことがそれ即ちイエス様の内に学んだ救いの真理そのものだと御言葉は告げます。真理がこうだからこうしなさいじゃなくて、これが真理だ。そうやろ。あなた、そう学んだはずやおと、教会生活の基礎の基礎、生活の真理が、これ!この三つだと告げられるのです。

以前は情欲に迷わされておったというのは、相当昔からで、アダムとエバにまで遡るほど古い。そんな古い人の生活パターンをまだ繰返しておるほど人間の心は古ぼけているのですけど、じゃあどうやってアダムたちが迷わされ、欺かれたか。へびがこう言うたんです。え、神様そう言った?本当?でもホントは食べても死なんから。むしろ目が開けて、神のようになれると。言い換えれば、あなたが真理を決めるんだ。自分で。そうだろ?で、いかんと命じられておった木の実を見たら、ご存じの通り、私たちが自分らの生活でもよく知っちゅう通り、死に至る木の実が、おいしそうに見えたんです。これがあざむきの欲望です。情欲って何でそう訳したのか。訳した人もそこがウィークポイントだったのかわかりませんが、直訳は欲望です。欲のすべてが悪いわけではありません。何々したい。それが欲です。例えば天の父を礼拝したい。その欲が悪いはずがない。でもそれが、自分の好きなように礼拝したい、となるのが、あざむきの欲望です。人を愛するのだって同じです。俺の好きなように愛したい。相手の気持ちはそっちのけ。それが愛でしょうか。

そうした、あざむきの欲望に従って腐り腐敗してゆく古い人。アダムも実際に、このあざむきの欲望に従って、腐り腐敗して死ぬ人になったのです。いかんと命じられておった木の実を食べたら、死ぬと言われておったのに、いや~、えいがやないろうか、死ぬゆうたち、そんなねえと、欺きの欲望に欺かれて、御言葉の通り、真理の通り、彼は朽ちて、その体は腐り腐敗して死にました。が、その腐敗とは単に体が腐敗するだけを言うのではないでしょう。心や態度も腐るのです。自分の思い通りにならんと、よく腐ります。ふて腐れるとも言いますが、小さな子供だけではない。キリスト者であっても自分の思い通りにならんと、真理がイエス様の内にある通りになっているのに、そこで自分が間違っているということが明らかにされてしまうと、腐ってしまうということが起こるのは何故か。キリスト者であっても、私たちの肉の内に住んでいる古い欲望、欺きの欲望に従ってしまうとき、御言葉の真理が告げる通り腐っていく古い体質が残っちゅうからです。そんな古い態度や生き方、考え方、総じて古い人をそのままにして放っちょったら、腐敗が進んで当人も辛くなりますし、教会も辛いですから、だって一つのキリストの体ですから、だから、その古い生き方、古い考え方、古い態度は、脱ぎ捨てる。それがイエス様の内にある真理です。

それは教会形成の真理でもあります。無論それを律法主義的に、あんた腐っちゅうでと裁き合いよったら、教会が形成されるどころか壊れますから、と言うより、その律法主義の態度自体が、欺きの欲望そのものですから、律法主義でやりよったら、教会が腐っていきます。そのことは29節で具体的に取り上げられていますから、そのとき丁寧に取り上げます。もうね、本当に多かったのだと思います。裁きの言葉、悪い言葉で、直訳すると腐った言葉によって、教会が腐っていく。その教会の腐敗のただ中で、聖霊様が悲しまれるから、聖霊様を悲しませてくれるなと続く30節で語られる。改めて申しますけど、17節以降の御言葉は、キリスト者個々人の道徳の話ではないのです。教会を具体的に建て上げていくための、教会形成の御言葉です。そのキリストの体として形成されるべき教会は、キリストの召しに、はいと言う以前の、古い旧態依然とした態度、古い考え方や古いしゃべり方、総じて腐りゆく古い人を、キリストの体は脱ぎ捨てるのです。既にその人はキリストと共に十字架につけられて、死んだのですから、キリストが自らの内において裁かれ葬られたのですから、その古い人は脱ぎ捨てる。罪の態度を皆で捨てる教会になる。しかも恵みの態度で、キリストの態度で、共に脱ぎ捨てに励む。これが教会形成における、まずは脱ぎ捨ての部分です。

次に二つ目の、心の底から新しくされ続ける、ですが、ここサラッと行かんほうがよいのです。短い言葉ですが、ここが一つ目の脱ぎ捨てと三つ目の身につけが、連続してセットになるかならんかの急所になります。ここをサラッと忘れて、よっしゃ、古い生き方を脱ぎ捨てて、新しい生き方を身につけたらえいがやねと思って頑張っても、これ、皆さん体験があるのじゃないかと思いますが、そんなにうまくいかんのです。教会で学ぶ新しい生き方、考え方、態度を、そりゃ皆、身につけようとするのですけど、なかなか身につかんばかりか、古い態度にすぐ戻る。ああもう嫌って、ふて腐れることが多いのです。その急所が、真ん中の二つ目。心の底から聖霊様によって新しくされ続けること。これです。

ですので次週もここから説き明かしを続けますけど、そもそも古い人の本性からして、私には聖霊様の働きが必要だとわからんのです。脱ぐと身につけるを頑張ってやるのですけど、それを古い態度、自分の力で私たちは頑張ってしまいやすい。で、その結果、自分の思い通りにいかなくて、ああもうってなる悪循環がおこりやすい。その悪の循環を断ち切って新しい循環を造っていくのが、心の底、考えの底、態度の底が、聖霊様によって新しくされていくという、神様ご自身の介入なのです。

この神様の介入をこそ古い人は嫌うのです。自分の力で自分を救いたい。赦しはイエス様が必要だって、それはわかって洗礼受けたけど、後は自分でって、キリスト者になっても、神様の介入にふて腐れるのが、腐りゆく古い人なのです。その古い人を引きずっている私たちが、なおキリストと同じ姿に、新しい人に造り変えられていく途上においては、やはり私たちは日々こう祈らざるを得ない。父よ、この私の傲慢の罪を赦して下さい。聖霊様、私のこの古い心、考え方、あなたの介入なしで自分でやりたいという、古くて腐った考え方を、新しくして下さい。フレッシュで活き活きと新鮮な、新たな思いで、むしろこう祈らせて下さい。イエス様、私はあなたが必要です。聖なる三位一体の神様、私には今日も明日もずっと毎日、あなたが一番必要です。私には、あなたの介入が必要です。自分で自分を新しくできません。私を古い人の腐敗から救って下さい。私の心も態度も考えも、イエス様のようにして下さい。新しくイエス様の心と態度と考え方で、神様にも人にも向き合うことができるよう、心の底からキリストして生きられるように造り変えて下さい。そう祈る。また祈ることができるようにして下さる。それが心の底から新しくされ続けるという、教会生活の真理です。

これは皆さんの今の心の願いでしょうか。そうであれば、そこにもう聖霊様の新鮮な働きが起こっています。もしそうでないとしても、神様が介入されるなら、もうその古いままではいられません。キリストは、もう来て下さいました。神様の介入はもう始まっています。人間がそれを望まず、自分で腐っておればこそ、憐れみ深い三位一体の神様ご自身が、救いを始めて下さったのです。そこに身を置けばよいのです。御国は来ます。人は恵みによって救われます。その救いこそ必要なのです。

13/6/23朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙4章17-21節、詩編100篇 「明るく自由になる知識」

13/6/23朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙4章17-21節、詩編100篇

「明るく自由になる知識」

 

キリストが私の主であると知る前、私は暗かったです。今でも暗いと妻から言われそうですが、ま、性格はそう変わりませんし、暗い性格もまた神様からの賜物として、言わば物事を深く深く考えるとかですね、用いられるのです。私が以前暗かった暗さは、私が本当には誰であるか知らない暗さ、神様を父と知らなかった暗さです。父がどんな思いで私にキリストをくださったかなんて知りませんから、十代の頃は髪伸ばしてバンドでハードロックやって、その名も悪魔に向かって叫べっていう歌を本当に歌っていました。そんな男を牧師にしようなんて神様も大胆やなあと思いますが、おかげでイエス様を知って以来、詩編100篇が私の叫びとなりました。「全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。喜び祝い、主に仕え、喜び歌って御前に進み出よ。知れ、主こそ神であると。主は私たちを造られた。私たちは主のもの、その民、主に養われる羊の群れ。」この主を知る喜びの叫びが、私たちの歌う讃美です。

今週の御言葉は「そこで」と強く勧めます。すぐ前の16節までで、私たちが一体誰であるかが、ハッキリ明るく開き示されたからです。私たちはキリストに結ばれた、キリストの体、教会である。私たちは一人一人、その教会員であり、キリストに結ばれたキリストのものであるが故に、賜物を与えられ、キリストの体のかけがえのない一肢一肢として、共にキリストの体、教会を建て上げて、世界にキリストの救いを証しするのだ。そう一気に情熱的に語られて「そこで」です。この教会を忘れて、ああ道徳的な話ねとやってしまうと、うんと暗い話になります。

あるいは改めて1節に戻って、あなたがたは神様に招かれたのですから、その招きに相応しく歩み、その召命に相応しく歩みなさいという、キリストの召しに、はいと応える具体的な歩みが、別の角度から教えられたとも言えるでしょう。その角度とは、先に申しましたように、主を知る前の歩みと、後の歩みとの違いです。言い換えればキリストを主と信じ受け入れる前の歩みと、キリストを主と信じ洗礼を受けキリストの体、教会の一員として歩む歩みとの違いが、ここで語られる歩みです。ですから「もはや」と語られます。今までとは違うということです。前の訳では「今後」と訳されていました。今後これ以上は、以前キリストをあなたの主として知らなかった時のようには、もはや歩み続けてはならないと言うのです。ということは、うっかりしていると、つい歩んでしまっていることがあるからです。特に「そこで」という言葉が敢えて語られている理由からすると、私たちが教会の歩みを自分事にしてないと、つい以前の歩みに戻りやすいことを、御言葉は羊飼いの言葉として語るのです。あなたキリストの体の一部やきね。そこで、あなたに強く言うけど、もう前の歩み方はいかんぜ。あなたはキリストを知っちゅうがやき、そのキリストの召しに相応しく、はいと応えて、キリストの体を建て上げるために歩むがぜ、と言い直したらわかりよいでしょうか。

ですからここでの比較はキリスト者一人一人の洗礼前と後であって、いや、異邦人らあて、あんな歩み方しゆう、いやいや、と上から目線で差別しゆうがじゃありません。そもそも2章11節では「あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり…そのころはキリストと関わりなく…神を知らずに生きていました」と既に言われていたのですから、何も人と比べる必要はないのです。キリストを私の主として知る以前の私が一体どれだけの暗さにおったのか。キリストを救い主として知らず、十字架の執り成しも罪の赦しも自分事として知らず、どうやって自分で生きて行こうとしよったのか。その暗さに、けんど、もうこれ以上歩むなよ、もう歩まいでえいがぜよと、教会故の強い証言が語られるのです。

あなたは、今は、キリストを知っている。単なる知識としてでなく、自分を罪から救うことらあできん所詮他人事の知識ではなく、自分の事として知っている。イエス様、私はあなたが必要ですと、私の救い主としてキリストを知っている。そのキリストの知識は明るいのです。そのキリストの知識に照らされた私の知識もまた明るい。こう言い換えてもよいのです。あなたは自分が何者か知っていますか。これが私であるのなら、これが私の人生だと、これが私の歩み方だと、確信できるほどのあなたの真理を、あなたはどこに知っていますか。知っているはずだ。それはあなたの救い主、イエス様の内にあるのだから、あなたが本当に歩めるように、キリストの招きに従いなさい。召しに相応しく歩みなさいと、改めて御言葉は語るのです。

この召しに応えて生きるということを、高校生で洗礼を受けるときに考え抜いたという証しが、今日皆さんにお配りしました西日本教会青年同盟の機関紙『献身』にも載っています。東京神学大学教授で私の師匠でもある山口隆康教授が、高校生で洗礼を受けられたとき、私は何者であるのか、何をして生きればよいのかと考え抜かれた。因みに、今日は東京神学大学の高知地区後援会を、ここで午後2時半から行いますので、お昼を食べて、また集まって頂きたく願います。高知東教会がどれほど東神大を支えているか私も証をしますので、皆さんがおって下さると、証に説得力が増すんじゃないかと、随分プレッシャー(笑)をかけていますが。その東神大で実践神学を教えておられる山口教授も、洗礼の時必死で考えた。私は誰なのか。それは小さい頃家族がバラバラになり、家を転々とし、知らない人をお母さんとかお父さんと呼ばなくてはならない。自分の名前も変わる。その名前がずっと嫌だったそうです。私はそんな名前じゃないと。何一つ思い通りにならない暗い人生のトンネルの中で叫び続けていた。どうしてこんな思いまでして人は生きていかなくてはならないのか。それが、教会の礼拝に出席し始め、聖書を読み、キリストに出会って、よし洗礼を受けるというときに、じゃあ人が生きるということはどういうことか。私が本当に私として生きるというのはどう生きるのか。考え抜いた。そして洗礼を受けるとき、山口隆康、父と子と聖霊との御名によって洗礼を授けると、神様から名前を呼ばれて神様の子供となる洗礼を受けた。それからそれが自分の名前になった。神様に呼ばれた名前だから、神様に、あなたはわたしの子供になるのだと呼ばれた名前だから、それが私になった。私の名は山口隆康。神様が洗礼で呼んで下さった、それが本当の私だと、それ以来、歩むべき道は定まった。神様が召される、召しに向かって歩むのです。キリストが、わたしについて来なさいと召される。その御声に向かって歩むのです。それが神学することですと山口教授は言われました。ま、こういう証しが今日聴けるかどうかはわかりませんが、確かに東京神学大学で教わるのは、この神様の御声を聴いて、人はどう歩んでいけばよいのかという命の根本問題です。ですので是非これからも祈りお支え下さい。無論、神学の学は学問ですから、アカデミックな専門知識も学びます。神学は難しいという印象が、そこから生まれるのですけど、その学ぶ内容は、今週の御言葉でハッキリ語られているのです。私たちはキリストについて聴き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエス様の内にある通りに学んだはずです。そこから離れた神学は、只の学問に堕しています。しかし神様を学ぶというのは、こういうことです。神様が人となられたのは何故か。それは土から造られた人間を、神様の命に生きる者、神の子として歩むよう、しかも罪を犯して神様に逆らう人間をすら、神の子として生かすため、神様が、その滅ぶべき人間の罪を負って死ぬための代表責任者、人間イエスになって下さった。そのイエス様の十字架の死と、そのイエス様がなお私たちの代表責任者として死から復活させられて、わたしが生きるから、あなたも生きなさい。わたしがあなたの死を死んだから、あなたの罪は赦されたから、あなたはわたしの復活に結ばれて生きなさい。神の子としての命に生きよ!あなたはわたしに従ってきなさいと、私たちを召して下さっている。それが21節の御言葉の真理です。真理がイエスの内にある通りに、この通りに私たちが学んでこなかったことはないのです。

以前16節の説き明かしで「愛に根ざして真理を語り」という御言葉はキリストの愛をまとって真理すること、キリストの愛の真理そのものを生きること、一言で言うなら、キリストすることだと言いました。真理はイエス様の内にあるからです。例えば罪の真理とは何か。罪に無感覚になって、放縦な生活をしても別に大したことはないのか。イエス様の内にある罪の真理は、それはあなたを十字架に釘打って裁き死なせる死の刺だという真理です。そして同時に教えられるのは、その罪を神様が赦し終わらせてしまわれるために、神様が人となられた。そのイエス様の真理こそが、私たちに告げられ教えられている、罪の赦しの真理だというイエス・キリストの福音です。その福音を真理するために、教会を神様は立てられたのです。キリストを信じて洗礼を受ける全ての者が、キリストに結ばれ、キリストの体に組織され、皆一つになってキリストして生きていく。またキリストして生きられるように、キリストの霊、聖霊様が一人一人の内に宿られて、実際に神様の子供としての命、神の命に生かされるのです。離れてなんかない。その神の命はここにある!もはや我生くるにあらず、キリスト我が内にありて生くるなり、とは、そういうことです。

ですのでもはや今後一切、キリストを私の主として知らなかった以前のようには、歩む必要はありません。たとえ私の肉の情欲が、おい幸生ハードロックえいぞねゃ、どぎついやつやりたいぞねゃと誘惑をして、おおそうだ、それが俺だ、あの燃えたぎる怒りの叫びをシャウトするのが俺だったぜ~言うてのぼせ上っても、イエス様は、幸生、それが本当のあなたかえ。それが俺だというその知識は愚かやろう、直訳すると虚しいろう。中身がない。感情的で上っ面だけの、虚しい嘘の自分やろう。しかし、わたしが教えてきたのは、幸生、あなたはわたしのものだ。それがわたしの内にあるあなたの真理だ。あなたはわたしの血によって、全ての罪を赦された、わたしの愛する者、キリスト者、天の父に属する神様の子供。それがあなたの命の真理だと、キリストは私たち皆に語られるのです。この明るさ、救われる自由へと皆、召されているのです。

13/6/9朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙4章16節、詩編127篇 「自己責任にせん主体性」

13/6/9朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙4章16節、詩編127篇

「自己責任にせん主体性」

 

キリストにより。これがこの御言葉の中枢軸です。またこの御言葉を聴く私たちが、最後まで心を貫かれるべき中枢軸であり、この御言葉が全体重をかけて語る、教会形成の中枢軸です。キリストにより!これが私たちの教会を貫くとき、教会はキリストの体として成長します。教会を貫くというのは、先週のおさらいになりますが、私たちの教会の組織と活動が、キリストによって貫かれるということです。言い換えると、教会全体はキリストにより組織され、またその各々の部分が、キリストにより奉仕の活動を行うことで、教会の自己形成が、キリストによってなされていく。これが教会形成とは何ぞやを、ズバッとまとめた16節の見取り図です。キリストによる組織と活動による自己形成。

おさらいはそれまでにして、今日はその後半。キリストによる活動。とは言うものの、です。教会の活動というのは、組織なき活動ではありません。でないと、私たちの体でイメージするとすぐわかりますけど、私がコップの水を飲みたいと体に指示を出すとき、指に、つかめと指示を出し、手首にはぐにゃぐにゃせんと固定しちょけと指示を出し、肘に曲がれ、肩に上腕を縮めて…そんなことしません。無論、一つ一つの体の部分の活動を、個別に見れば、そういうことになりますけれど、頭が水を飲みたいと欲すれば体は一体となって動く。キリストの体なる教会も同じで、頭なるキリストが望まれることを、私たち教会は組織一体となって活動する。一体となって。それが3節で教会全体に命じられている霊による一致、聖霊様による教会の一致を熱心に保ちなさい、の理由でもあります。単に仲良うしなさいというのじゃない。でないと活動ができんからです。個人活動はできても、また個人の個と同じで個教会の活動はできても、それが個人主義的、個教会主義的になっちょったら、キリストの活動にはならんのです。そこにはキリストが貫かれておらんからです。だから「キリストにより」組織がなされているその通りに、「キリストにより」活動がなされる。そしたら「自ら」と教会は言えるのです。その自らというのは、自分自分の自らではありません。まして自発的な活動でないと自分の気がすまんというような、自意識過剰では到底ない。そんなナルシシストの「自ら愛によって」というのじゃありません。この自らは、キリストがご自身の体を愛の内に造り上げられるキリストの体形成の自らです。私たち一人一人をご自身に召し入れ一体とすることで、キリストが自らを建て上げられるのだと語る自らです。教会の組織と活動がキリストに貫かれるとき、そこまで自分をキリストと自己同一化して語り得る。いやキリストご自身が、それがあなたがた教会だ、あなたがたはわたしの体だと宣言して下さっているのです。

その教会の活動ですから、一体となって活動します。水を飲む譬えで言えば、体の部分の各々が、自分が何をしたかにこだわらんでもえいのです。水が飲めたら。やがてその水が自らを潤し、各々の部分も益を受け、でも何よりも、キリストご自身が喜んでおられる。それで満足じゃないですか。ああ、そのために私はこの教会の一部として組織されちゅうがやと潤されながら感じれるように、私たちは「あらゆる節々の補い」を通して組織されています。この節々というのは出会いとも訳し得ると先週申しましたが、つながりとも訳し得ます。それで直訳するとこうなります。「あらゆる補給のつながりを通して」。体で言えば、体中を巡っている血管のつながり、リンパ腺のつながり、神経のつながり。これらがつながってなかったら、補給が断たれ、部分部分が活動できんなる。

以前、私は右手の人差指の先を、神経が切断されるほどに深く切ってしもうて、おそらく何年も指先に何も感じなかったように記憶しています。指先って感覚の鋭くあるべきところなのに、ここが何も感じんと、すごく違和感があります。教会組織で言うと、指先ってどんな活動をする部署でしょうか。その人々は特に補給のつながりを必要としていると言えるかもしれません。何の補給か。キリストの愛の補給です。あらゆるつながりを通って流れて、補給されるのは、ご自分を十字架で犠牲にされたキリストの愛です。単なる愛の補給ではない。それは改めて確認したいと思います。皆さん、伝言ゲームってご存知でしょうか。例えば10人一列に並んで、ジェスチュアのほうが面白いのですが、最初の人が次の人にだけ、弟子たちの足を洗うイエス様のジェスチュアを見せる。それを順に一人一人伝えていく。すると最後、シンデレラの靴がぴったり合っておめでとう、なんてのに変化してドッと笑うのですけど、さて教会が、キリストの愛により互いに仕え合い、愛の補給、主の愛を伝えていく途中で、でもいつの間にか単なる仲良し内向きグループ愛になって、伝道活動というキリストの体の愛の根本が、変化というか劣化することもある。逆に、だから伝道だけしよったらえい、とかってキリストの愛を伝えるつもりが、愛が体内で根詰まりしちょって、伝道活動のつもりで律法主義しか伝わってなかったということもあり得ます。単なる内向き活動ではない、伝道のつもりの律法主義活動でもない、キリストに貫かれたキリスト活動を、じゃあどうやって教会は行い得るか。だから御言葉は「あらゆる補給のつながり」を、活動の絶対条件として語るのです。教会組織にキリストによって与えられたあらゆるつながりが、キリストによる補給のつながりとして、そのつながりを通して体全体にキリストの愛の補給がなされていく。すると部分部分が活動できるだけでなく、それが一体を貫くキリスト活動となる。教会活動とは、全てのつながりを通してキリストの補給が体中に行き渡り、そこで教会の部分部分が、しかし一体として、補給されているキリストの愛の活動を行うキリスト活動です。だから途中で血管が詰まらんように、キリスト補給が詰まらんように、地の果てにまで福音を宣べ伝えよとのキリストの愛と御命令が、地の果てにまで伝わるよう、つながり、活動しますのが、キリストの体である教会です。

教会の活動、教会員個々人でなす活動も、教会全体としての活動も、すべからくキリストの体としての教会の活動は、キリストの愛を源泉とし、キリストの福音を伝える活動です。教会の全ての活動はキリストの福音伝道活動の様々なバリエーションであり、また一言で言うならば、とりなしの愛に貫かれている。十字架の愛。人々の救いのために生きて死ぬ愛。自分を捨てて執り成す愛、いやそのために生まれてきたという生きる目的を達成する愛であり、私たちの内には誰ひとり自分のために生きる人も死ぬ人もないと、教会がキリストの体であることを断言するロマ書14章の御言葉の真理が証しする、十字架のキリストの執り成しの愛です。教会はキリストの執り成しの活動をするのです。

そしてその執り成し活動そのものが、体の成長につながります。興味深いのは、教会組織を語っている「しっかり組み合わされ、結び合わされて」と訳された「結び合わされて」という言葉。これはぴったり馴染んでいって、という意味の言葉です。先に指先の神経が断たれた譬えをしましたが、だんだんつながっていったのです。いきなり、ヒャッではありませんでした。キリストの愛の補給のつながりも、ああ、今日この説教を聴いたから、じゃあってんですぐに光ケーブルのようなつながりができるか言うたら、まあそうじゃないでしょう。その努力は無論必要ですし、そこで各々キリストの召しを聴いておられると思います。はい主よって、愛の召しに応えていく。あの人の執り成しに生きようって、そうだ、今日帰ったら、あるいは今聖書に挟んである教会祈りのリストに、あの兄弟、あの姉妹の名前を書き加えて祈ろうと、具体的に召しに応えて歩み出す。そのところで、でもジワジワと、つながりがぴったり馴染むようになっていく。キリストの意図された組織通りに、だんだん馴染んでくるのです。皆さん、教会外でも愛されるコリント書13章の愛の御言葉が、どんな言葉で始まるか。愛は忍耐強い。これですよ。愛はすぐには実を結ばなくても、つながりがすぐには見えずとも、忍耐強くつながるのです。そのつながりへと、この組織へと召して下さっているキリストが、忍耐強く召されるからです。わたしに従いなさい、この人をよろしく頼む、そして教会をよろしく頼むと。主への畏れを抱きつつ申しますけど、皆さんに、キリストに代わってお願いします。この教会をよろしく頼みます。辞めるんじゃないですよ(笑)、いつも言いますけど。でも御言葉を託された者として、皆さん一人一人にキリストに代わってお願いします。この教会をよろしく頼みます。この教会のあの人をまたこの人を、よろしく頼みます。そしてまだ教会につながってない、しかしキリストが十字架で命を捨てて下さった愛するこの人この人を、よろしくお願いいたします。つなげてください。そしてつながった一人一人として、キリストにつながった、キリストの体として、伝道活動に従事しましょう。各々教会の頭なるキリストから賜った賜物に応じて、できるところに従って、つながりを重んじて、執り成しの愛に生きる。できることがない、あるいは、できんなってしもうたのであるならば、できん自らを主に差し出して、まるで十字架に架けられた主ご自身のように、釘に打たれて何もできない私そのものを、聖なる生ける執り成しの生け贄として、キリストは用いて下さると信じましょう。教会全体で信じましょう。そこでこそ執り成しの愛により祈りましょう。

先日、教団21で証を聴きました。京都の洛北教会に高齢の信徒がおられた。毎週礼拝を楽しみに、前から三列目の席で主を仰いでいた。晩年は聴力をほぼ失ったが、それでも共に主の名を呼んで礼拝されていた。教会まで徒歩5分の家に住まれ、ある日、先生、足がこんなにむくんでと見て牧師はドキッとした。その朝は30分かけて来られたと言う。でもいつも通り礼拝前に来られた。30分は掛かると見越して早く出られた。そしてこの3月の受難週に天に召された、その兄弟は、皆さんの教会にもおられるでしょうとの言葉に、私は襟を正してアーメンと主の御名を崇めました。その通りです。だから教会がここにあるのです。だから私たちはキリストにつながり、そしてキリストを礼拝することができるのです。私たちがこの兄弟であり姉妹です。そしてキリストの執り成しの業をなすのです。キリストが召された僕です。必ず用いられるのです。

13/6/2朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙4章16節、歴代誌下35章10-15節 「愛の行き届いた組織に」

13/6/2朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙4章16節、歴代誌下35章10-15節

「愛の行き届いた組織に」

 

愛によって造り上げられるキリストの体。それを説教題で「愛の行き届いた組織に」としたのですが、組織と言うと何か悪い印象があるかもしれません。私は組織から遣わされてきた者だとか。こんなことをして組織が黙っちゃいねえぜとか。謎めいた黒幕、強大なバックと言いますか、英語で言うシンジケートですね。シンジケート。黒い雰囲気が漂います。一般には組織と言えばオーガナイゼイションと訳すのですけど、何でしょう、日本人って組織という考えが、そもそも嫌いなのかもしれません。組織人間だとか揶揄したりします。思うに、個人の確立が未熟な日本社会で、私が組織に属しているということは、どういうことか。私という存在が組織に飲み込まれてしまうんじゃないか。私がなくなってしまうんじゃないかと身構えてしまう傾向にあるのかもしれません。それは、自分が組織を受け入れられないということもありますし、またそれが逆に自分は組織に受け入れてもらえないんじゃないかという怖れになっているところもあるのかもしれません。実際、会社でも何でも、組織というのは大きくなればなるほど全体像がつかめなくなって、そこに自分は属していながらも、ここには安心して自分でおれる場所がないと感じると、組織って存在が自分に対して怖しい嫌なイメージになるのかもしれないし、あるいは、まあ当たり障りなく、まあまあそつなく、自分の居場所を確保しておればよいか、となるかもしれません。

じゃあ教会はどうか。4月の教会総会で、では最初に組織を致しますとか言うと、ビクッとして、え、教会にも組織が?とか(笑)。ま、黒いシンジケートではないので安心して頂きたいですが、婦人会でもやはり組織、委員長誰それ、書記誰それって、真っ先に組織がある。でもまだ役に当たっていなければ、組織という印象も薄いのでしょうけど、役に当たってしまったら、組織を意識せざるを得ません。責任が、組織から与えられますし、言い換えれば、私は組織に対して責任を持っているという事実がハッキリする。それで責任感が強くなる場合もありますし、あるいは組織への嫌悪感が強くなるケースもあるかもしれません、が!が、です。教会が、そうならないように、キリストの体である教会が、他の組織と同じような印象には決してなることがないように、教会は、今週の御言葉の冒頭です「キリストにより」体全体が組織されている。キリストにより!です。これが4章の冒頭から、相当具体的に教えられてきた教会形成の中枢軸です。キリストにより、体全体は組織されて、またその各々の部分も、キリストにより奉仕の活動を行うことで、体がキリストによって愛の自己形成をなしていく。これが今週来週の御言葉16節の見取り図です。キリストによる組織とキリストによる活動による自己形成。キリストによる、組織と活動!これです。

何かこれまた教会総会資料の順番みたいです。総会もまず組織があり活動報告また活動計画がある。そうやって、教会とは何の組織であるのかを、まとめてはっきりさせるのですが、この16節もまとめなのです。上の段11節からこの16節までが、実は途切れない一つの文であって、キリストの体たる教会形成をどう形成すればよいか、一気に語られた。それを最後に簡潔にまとめたのです。キリストによる組織と活動。それがキリストの愛による教会の自己形成、教会形成の見取り図であると。

今日はその前半。キリストによる組織。キリストによる組織ですので教会では、自己と組織が対立しなくてよいのです。もしそれがキリストによってなくて、誰かワンマンボスがおったら、あるいは組織に属する各々が、各々めいめい自分のボスだったら、そりゃキリストによっていません。いやキリストによる組織がそこになされているのに、キリストの召しに、はいと応えてない状態になっています。何度もここに立ち帰りますけど、4章1節で、キリストが私たち一人一人を教会に招き召し入れてくださった。その召し「招きにふさわしく歩み」教会はキリストの体として生きていくのです。キリストによる組織も活動も、その意味では自動的になされるものではありません。キリストが、わたしに従いなさいと召されるその召しに、はいと応えて、じゃあ、あなたはここで教会生活をし、この賜物を用いてここで仕えなさいと、キリストによる組織と活動がめいめいに与えられる。その召しに、はいと応えて教会の組織の一員、つまり教会員として奉仕する。先週お渡ししました祈りのリストを祈るのもそう。そうやってキリストの執り成しの業を、体全体で担っていくのが、キリストの体である教会です。そのためには、召しに日々、はいと応える。これが毎朝祈る根拠でもあるでしょう。短くても、イエス様、今日もお仕えいたしますと召しから始める。この朝召しは抜かんほうがいいですね(笑)。一年後の、体格が違ってくるきです。

そうやって自動的にではなく、召しに応えて組織を覚えるとき、祈りのリストにある教会員という空白に名前を入れて、そこで兄弟姉妹を覚えて祈ることが、キリストによる執り成しの業、牧会につながることを体で覚えるようにもなると思います。礼拝や祈祷会へと集うとき、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされるのを、体感するようにもなるでしょう。節々と訳された言葉は、出会いとも訳し得るようです。なら、あらゆる出会いがとなる。具体的に言えば、礼拝で、あの人とは挨拶を交わすけど、あの人はってことはなくなる。あらゆる出会いが、個人の選択によるのではなく、キリストによる出会いなのだと悟るなら、ここに与えられた、あらゆる節々の出会いは、キリストによるキリストの体形成のためなのだと、眼差しが変わってくるのです。その出会いにおいても、これは個人の愛の努力だけで何とかなるものではない。ここで、キリストによる補い合い、あるいは補給、提供を行うのです。出会いの中でキリストの体の組織の一人一人が、キリストによる提供、具体的にはキリストによる眼差しやキリストによる言葉を提供する。ここに先週共に聴いた御言葉の一つが具体化するとも言えます。「キリストが私の内に生きておられるのです。私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」(ガラテヤ2・20)。今週の御言葉の最後「自ら愛によって造り上げられていく」キリストの体の自己形成は、そうやって形成される他ない。一つ一つの出会いで、キリストの愛を提供する。そこで教会は自らが誰であるのか、信仰告白をするのです。一つ一つの出会いにおける愛が、私たちの信仰告白です。キリストは生きておられる。我が内に生きておられる。それを、個人としてではなく、体全体で行って体全体が成長するようにと、この組織は、キリストにより組織がされているのです。「キリストにより」とはそういうことです。

そしてその体は成長途上にありますから、まだ完全ではありません。だからこの組織、出会いは、キリストによる組織、キリストによる配置なのに、どうしてという痛みを覚えることもあります。だからキリストによる愛の補給、補い合いが必要なのです。自動的ではないからです。兄弟姉妹が必要です。そうやって、家族が形成されるため、キリストにより配置された組織でもあります。人の思いによってではない。だから思わぬ配置替えがおこって、主よ、って戸惑うこともあります。でも主がそう配置をなさるのなら、無論それで責任放棄はせず、その責任を引き受けて、主よ、あなたからこのことがおこるなら、主よ、御心がなりますように、私たちはあなたにお従いしますと、召しに応えて歩むのです。最初から教会はそうなのです。この信仰に立つことで、教会は自らを主の愛によって造り上げ、十字架の救いを伝えてきたのです。

13/5/26朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙4章15節、イザヤ書52章7-12節 「キリストするって何?」

13/5/26朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙4章15節、イザヤ書52章7-12節

「キリストするって何?」

 

先週はペンテコステ合同礼拝で一週とびましたが、改めてエフェソ書に帰り、教会形成の奥義を身につけてまいります。

教会形成、形成と無造作に言いましたが、形が成ると書いて形成ですね。人格形成とか言います。人格は粘土をこねるようにしては、とても形成できない。教会もまた然り。しかもキリストの形が形成されていくのが教会形成ですから、そりゃもう一朝一夕では成りません。ローマも一日にして成らずと言います。でも成った。ならどうやって成ったか。毎日コツコツ形作られて成ったに違いないのです。

なら教会は、何をコツコツやったら良いのか。これだ!と教えられていますのが今週の御言葉です。愛に根ざして真理を語る。これに限る。皆さんもどうぞ覚えて下さい。キリストの体の一部なる教会員として、私たちが毎日コツコツやるのは、これです。愛に根ざして真理を語る。もっと直訳で言いますと、愛の中で真理する。愛の中でというのを更にイメージすれば、私たちの上からキリストの愛をまとって、その愛の中で真理するとも言えるでしょう。この二つがセットです。どっちかだと愛が自己中の愛でおかしくなったり、真理が自己中で鼻に付く正しさになったりしがちです。変な熱心さや冷たい正しさ。どっちも教会が陥りがちな14節で警告されている嘘の形です。だからキリストの愛をまとって、キリストの愛の中で、とにかくキリストキリストって、キリストの真理に生きようと歩む。それを「キリストする」と説教題にしました。以前にも同じキャッチフレーズで説教しましたが、改めてご自分の言葉にしていただきたいフレーズです。キリストする。何をするのか。愛に根ざして真理するのです。

真理すると、これまた妙な言い回しをしてますが、これが直訳です。聖書の教える真理というのは、それを生きて歩んで実行してこその真理なのです。例えば道が歩んでこその道であり、命は生きてこその命だと言えるなら、真理は、真理してこその真理である。イエス様の御言葉を思い出されるでしょうか。わたしは道であり、真理であり、命である。そのイエス様についていく時、どうやって歩めば良いか、どう真理して生きればよいかがわかるのです。聖書の正しい知識を知っているだけは律法学者の罪と同じで、そんなのは鼻に付く正しさです。傲慢になる。傲慢にならないためには、イエス様の愛をまとって真理する。具体的なイメージで言えば、あ、この時に私は何をすべきか、どう振る舞えばよいかという瞬間瞬間で、イエス様のお姿を思い浮かべて真理する。真理なるイエス様、あなたに従いますと、イエス様のなさるようにすればよい。そのためには無論イエス様の勝手なイメージにならんよう、御言葉が告白するイエス様を知る必要があります。キリスト者が聖書を読み、礼拝で説教を聴くのはそのためです。でないと、キリストの招きがわからんなって、唆す教えに引き回されてしまいます。キリストの愛を身にまとって真理するとは、その意味では、キリストの愛の御言葉に、はいと応えて御言葉に生きる。御言葉するとも言えます。自分勝手な考えで生きがちな私たちであればこそ、その私たちを包み込み、考えも態度も変えて下さるキリストの愛をまとって、その御言葉に生きる。私たちは御言葉することによって、安心してキリストできるのです。

そうやって御言葉して歩む道というのは、例えば食前にお祈りとかもするのですけど、自然体で、へえ、キリストさんって、そうやってご飯食べるがや、うん、そうながよって、自然体で会話できるような歩みです。洗礼受けたばかりだと、まだ板についてないところがあるかもしれませんが、だんだん板についてくる。それが身につくってことですし、キリストの弟子らしくなるとも言えるでしょう。だんだん師匠に似てくる。イエス様すーごい自然でしたから。そうなってくる。歩き方も姿勢も態度も、キリストする生き方をしていると、キリストに似てくる。

では、どのへんが似てくるか。どんな歩き方、つまり生き方の態度が似てくるか。そこが急所です。愛に根ざして真理して、キリストの愛をまとってキリストしていると、どうしたってここが似てくる以外はないってところがある。キリストの全てを貫く姿勢、態度、キリストの中心軸があって、それが私たちの生き方の軸になってくる。皆さんは、それはどこだと思われるでしょう。それなら愛だ、キリストらしいと言えば愛だというのは真理です。そして今週の御言葉の急所でもあります。

ならそれはどんな愛か。十字架で、私たちの罪を背負われた愛です。これも短いキャッチフレーズにすると、とりなしの愛。神様の前に立ち誰かをとりなす愛。それがキリストの愛です。キリストするとは、人々の救いのため、執り成しに生きるという愛の真理です。cf.ステファノ

これは先の14節で、悪賢い欲望に引き回されてしまう未熟さが、結局は自己中心で、自分を軸にして考え生きることであったのと比べると、非常に対照的でよくおわかりになると思います。15節冒頭の「むしろ」というのは、そうした比較をガツンとしている言葉です。キリストする生き方は、欲望がグルグル回る自分という軸に、言わばキリストの軸を移すのです。キリストを主としてお招きし、自分にキリストの軸を頂いて、軸をキリストに担って頂く。そうやって、執り成しを自分の生活軸にする生き方です。家族を執り成し、愛する者たちを執り成し、隣人を執り成し、皆をキリストの名によって執り成して生きる。それが私たちの生き方全編を貫く態度になります。「あらゆる面で」とあるように、私たちの生活の全てが、執り成しという一本の軸に貫かれるようになっていく態度。それがキリストするという真理です。キリストの愛をまとって真理する生き方は、人々を執り成す生き方に成長していく。

今朝は、その成長の糧として、いつもより御言葉を一緒に開きたいと願います。できれば栞をはさんで反芻して頂き、キリストする生き方の糧、励ましとして頂きたいと、キリストに代わってお願いします。

まずはガラテヤの信徒への手紙2章19節以下、新約聖書345頁上段。「私は、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」私たちの軸がどこにあるか、はっきり言い表している御言葉です。軸はキリストにあり。キリストが私の内に生きておられる。キリスト我が内に在りて生くるなり。

次にコリントの信徒への手紙二5章13節以下、330頁下段。元旦礼拝で与えられた御言葉でもあります。「私たちが正気でないとするなら、それは神のためであったし、正気であるなら、それはあなたがたのためです。なぜなら、キリストの愛が私たちを駆り立てているからです。私たちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。」それで、と具体的な生き方が示されます。「それで、私たちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通して私たちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務を私たちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉を私たちにゆだねられたのです。ですから、神が私たちを通して勧めておられるので、私たちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。」和解のために執り成して生きる。これがキリストを知る新しい生き方です。

最後にローマの信徒への手紙14章7節以下、294頁上段。これは先の復活節の礼拝招詞でもありました。「私たちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。」それなのにと具体的になります。「それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。私たちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。こう書いてあります。「主は言われる。『私は生きている。すべてのひざは私の前にかがみ、すべての舌が神をほめたたえる』と。」それで、私たちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです。従って、もう互いに裁き合わないようにしよう。むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい。」

ここでも「むしろ」と勧められます。キリストが主となって下さった兄弟姉妹を、けんどあの人は主のために生きてないと裁くより、むしろだからこそ主がその人の主となられ、すぐ裁く私たちの主とさえなってくださったのだから、その主の願い通りに生きようじゃないか。教会は人々の執り成しに生きようじゃないかと、招かれるのです。

さあ教会員の皆さんには、今朝新しい試みとして祈りのリストをお渡ししました。そのリストの空欄に祈り執り成す方々のお名前を書いて、日々の祈りの手助けにして頂ければと願ってのことです。祈るとき、今開きました御言葉を読むのもよいでしょう。そうやって毎日キリストの愛をまとって、コツコツ祈り執り成して生きる日々の先に、教会の形が成るのです。十字架のキリストの形が成っていきます。その執り成しに生きるところで、キリストの救いは成るのです。

13/5/12朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙4章13-15節、詩編140篇 「教会探しの急所」

13/5/12朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙4章13-15節、詩編140篇

「教会探しの急所」

 

何かまた妙な説教題やと思われるかもしれません。ま、時期的に学校や仕事で高知に引越しされて、教会を探しておられる方も…という時期的なこともありますが、も一つは清和学園の新入生のことを考えたのもあります。色んな教会があるけれど、それをどう判断したら良いのか。例えば名前で判断してよいのか。教会という名前があったらよいか、というと先週お話しましたが、異端も教会という名前を使うので、高知東という名前さえ使うので(笑)、名前は判断基準にならない。まあ、なりません。先日、日本基督教団と漢字で書きましたら、えー、日本キトクですか?と、何か危うい呼ばれ方をされました。漢字で書くと古めかしく堅苦しいというのもありますが、何より読めんので、うちはカタカナでキリストと看板にも書いています。私たちは一体誰なのか、はっきりわかるというのは大事です。何年も礼拝に出席しているのに、教会って要するに何をするところですかとわからんかったら、その教会が、教会として成熟してないと言わざるを得んのじゃないかとも思います。

教会に来るとキリストがわかる。キリストがどんな救い主かわかる。そして、あ、皆キリストに向かって成長して、とにかくキリストに向かって歩んでいるんだとわかる。その教会は健康優良教会でしょう。教会探しの急所があるとすればそこだと思います。私たちの教会が目指すのもそこ。そこだけです。

念を入れて言えば、これは健全な教会探しの急所でして、コツではありません。コツというのは、まあ、参考にして下さいとう程度ですが、急所は、いのちそのものに関わります。異端になったりする。あるいは異端でなくても、というのが今日のテーマですが、14節で語られている「人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりする」。これにキリストの体も陥りやすい。教会の歴史は常にこの人間のズルさ、狡猾さとの闘いであったとも言えるのです。誰かズルイ人がおって、というより、人間の中にそういうズルさがあって、それはキリスト者、教会であっても例外ではないという意味です。私たちの内にある罪の狡猾さにスルッとやられて、キリストを礼拝しているつもりが、何か違うキリスト像を造り上げてしまい、違う何かが自己主張する教会になってしまいやすい。

その狡猾さを新共同訳は「悪賢い」と一言で訳したのですが、もとの言葉は二つあって、訳し直すとこうなります。人間のサイコロインチキと、スッとその気にさせる巧みさによって、誤った手立てに引きずり込まれてしまう。そういう教えの風に、教会も、もてあそばれ、引き回されやすい。サイコロインチキというのは、上手な人は好きな目が出せるそうで、あるいはイカサマサイコロを使うんですけど、何がズルイかというと、お、これなら俺も勝てそうかなと思わせるのがズルイ。人間の得をしたいという欲望を巧みに操作するのが、悪賢いのです。お金の話が出ましたからついでに言いますが、怪しいカルト気味の教会あるいは米国のテレビ伝道者とかって職種がよく陥っておったのですが、献金をしたらあなたの財布が祝福されますとかって、やはり欲望に訴えかけて献金アピールをする。これが例えばここで語られる人間を操る巧みさの一つでしょう。私たちの教会でも献金アピールはいたしますけど、欲望には訴えません。献身のしるしとしてでしか、献金の招きをしたことはないはずです。献身ですから、言わば経済の価値基準で言えば、損するのです。人のために自分を献げるのですから。この地にキリストの福音を宣べ伝えるため、その伝道の働きを支えるために、キリストに倣って献身をする。具体的に。その一つが献金です。祈りもそう。献身の一つの形です。だから、自分のためにあれが欲しい、自分のためにこれが欲しいという祈りは、少なくとも教会の礼拝や祈祷会で聴くことはないと思います。無論、祈りは願いですから、あれを下さい、これが欲しいですと祈りますけど、おもに自分のためだけでしょうか。むしろイエス様が教えて下さった祈りは、最初から、我らの日用の糧をと願うのです。我だけ、自分だけというのはない。それはキリストに向かって成長する教会の祈りでは、少なくともない。こういう具体的なところで教会探しの急所が現れ見えてくるのです。

先週も触れましたが、14節の「変わりやすい教えに」というのは教えがコロコロ変わるのでなく、人間が心変わりをするのです。が、改めて考えてみますと、もとの言葉は「あらゆる教えの風に」とありまして、それを変幻自在に変わりやすいと解釈したのかもしれません。まあでも色々な教えの風と訳したほうがよいでしょう。人の欲望、自我に訴える教えの風は色々なタイプがある。例えば、律法主義と呼ばれるタイプ。つまり、私はこれをしているから大丈夫だ。私はこの教えにこだわっているからと、その教えを与えられたキリストよりも、それにこだわっている私とか、その私がこだわっているこの教えとか、やはり軸がズレている。キリストという中心軸からブレてしまう。この律法主義という風は、割とよく皆さんも説教で聴かれる言葉だと思います。本当にたちの悪い教えなので、しょっちゅう言及するのですけど、別名ファリサイ派の教えとも呼ばれます。人間の心には、このファリサイ派の小人が住んでいるとイメージしてもよいぐらいです。その小人をミニファリサイ派と私は呼んでいますが、まっことたちが悪い。例えば、私たちの教会は教会の代表者たちを役員でなく長老と呼ぶ、長老制度の伝統に従って、教会を牧会していますが、もしそれを私たちが自己絶対化して、長老制の教会以外はダメな教会だと裁くなら、この教会はミニファリサイ派の律法主義の風に引き回されてしまうでしょう。

じゃあ、教会の組織なんて、どうでもよいのか。結局は大きな声では言わんけど、個人主義の寄せ集めで、要するに自分のことは自分でやる自己責任で、律法とか決まりとか別にえいやか…という教えもあって、それを無律法主義と呼びます。聖書で明らかに命じられている、例えば結婚以外での性的関係は姦淫だから、姦淫をしてはならない…とかって言うけど、そんなこと言いよったら教会に若い人来んなるでとかって、ま、何やっても赦されるがやきという考えだと言えば、わかりよいかと思います。特に私が生まれた世代ぐらいから日本の教会でも吹き荒れてきた教えの風の、単なる一側面ですが、礼拝出席の態度でも何にでも、この態度は当てはまる。これまた私たちがドキッとするような、人間の欲望に訴える巧妙でヘコスイ教えの風です。

風は大体この二つのミックスだと言ってもよいのですけど、共通点がどれにもある。それはどれも見事、キリスト中心からブレているという点です。キリストに向かって成長していくための、神の子の信仰と知識という急所を外しておって、だがしかし、非常に面白いことに一つの別の軸を貫いています。それが自分という軸です。どんな教えの風であろうと、まるで風見鶏みたいに、あらゆる風にクルクルもてあそばれようとも、その風見鶏の自分という軸はブレんのです。それがこれらの教えの、人間という存在をよくよく知っている巧妙さでしょう。単なる悪賢さではない。人間を操る巧妙な狡さです。耳に痛い言葉ですが、どれにも共通する幾つかのキーワードをあげても、わかりよいでしょう。自己中心。自己満足。自己正当化。自己実現。とにかく自己、自分。

そしてここが、本日の御言葉の急所です。そんな自分自分の人間が、なのに皆、皆、13節です。神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になる。成熟した人間です。それがキリストの満ち溢れる豊かさになるまで成長する、キリストの体としての人間だ!それが、私たちがキリストに向けて成長させられる成熟した人間の姿、キリストの姿だと語るのです。そのキリストの知識こそ、十字架で自分をお捨てになられた私たちの代表としてのキリストです。このキリストの満ち満ちた豊かさに向かって、私たちは、しかも皆で成長するように結ばれている。それがキリストの体、教会です。そのキリストの姿が、教会のあらゆる面で、現れているか。教会の組織の形や活動内容という制度においても、またその制度をキリストの制度たらしめるキリストの態度が、その制度から見えるかどうか。例えば長老は権威を振り回すのでなく、むしろ献身的に牧会し、群れの模範となりなさいと、ペトロの手紙一で語られる。その牧会の模範に倣って教会全体が互いに牧会し、キリストの愛を思いつつ、また祈りつつ、キリストの愛を私が今この人に向かって言葉にしたら、こういうことだろうなと、ミニファリサイ派ではなく、むしろミニキリストとしての思いで、イエス様なら、ここでこう微笑むだろうな、ここでは言葉を控えるだろうな、ここでは大胆にしかし謙遜に、愛に根ざして真理を語る、それがキリストの体の一部である、私のなすべき業であると、あらゆる面でとにかくキリストの態度と言葉と行いを求める。それが主の成熟に向かっての道なのです。

そして、そうした教会を探す人も、自らキリストの謙遜によらなければ、まあ、どこの教会員にもなれんのじゃないかと思います。だからと言って、教会がそれで自己正当化をして、もっと謙遜に教会を探しなさいとも言えません。むしろ、ああ、こうやって探すのかと、教会を求めている人が、キリストの体に出会えるように、キリストの謙遜を身にまとうのです。私自身、前に証で言いましたけど、この教会に結ばれたのは、教会を探しておった時、話を鈴木牧師に聴いてもらって、一言も先生は、うちにおいでとか、あそこはねえとか言わないで、謙遜に話を聴いて下さって、じゃあ祈りましょうと祈ってくださった。あの出会いがなかったら、私は今どこをフラフラしよったろうと思うのです。あのとき私は、教会に出会ったのです。これがキリストの体ということかと、キリストの知識を体で知りました。そういう出会いを、全ての人に得て頂きたい。いや、そのためにこそ、教会がここに立てられて、私たちはここに遣わされているのです。キリストを紹介するために。人々が教会によって、神の子キリストに出会って、そうか、救いとは、自己実現でなく、私の内にキリストが実現されることであったのかと、キリストの救いが実現されていく。そのために、教会はここにあるのです。

13/5/5朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙4章13-1節、列王記上12章28-33節 「異端って何が違うが?」

13/5/5朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙4章13-1節、列王記上12章28-33節

「異端って何が違うが?」

 

頭であるキリストに向かって成長していく。それが教会です。そしてそこが教会と、異端の違いなのです。今日の説教題は変な題をつけたなと思われた方もおられるでしょうか。私も色々考えてつけたのですが、やはり変かなと金曜日あたりに思いました。が、純朴に、異端って何が違うがって思われている方々も存外いらっしゃるのではないか。なら、それを明確にする責任を教会は持っていると思ったのです。聖書自身、これは決してないがしろにして良い問題ではないと厳しく語るところがいくつもあります。一つ上げますと、ペトロの手紙二の2章にこう語られます。「かつて民の中に偽教師がいました。同じように、あなたがたの中にも偽教師が現れるに違いありません。彼らは、滅びをもたらす異端を密かに持ち込み、自分たちを贖って下さった主を拒否しました。」ここに異端という言葉が出てまいりますが、元の意味は、自分で選ぶという意味から転じて、自分勝手に自分の意見で自分の道を選んで分離していき、結果それが異端になる、という言葉だそうです。では、何を勝手に選ぶかと言うと「自分たちを贖って下さった主を拒否しました」。これが異端の本質だと御言葉は告げるのです。

自分を贖ってくださった主を拒否する。贖うという言葉も難しい言葉ですが、身代金を払って買い戻すという言葉です。キリストが、ご自分の命を身代金として差し出してもかまんきと、私たちが神様の子供となれるよう、神様のもとに、ご自分のもとに買い戻して下さった。それを贖うと言う。救うと言ってもよいのです。それ以外の救いを教えるのが異端だと言えばわかりよいでしょうか。

日本での代表的異端は三つの宗教団体がありまして、モルモン教、エホバの証人、統一教会。その教えの内容を詳しく説くいとまはありませんが、三団体ともイエス・キリストの名を出しながら、キリストの教えをとか言いながら、わたしのもとに来なさいと、巧みに聖書の引用さえしながら、最後のところで、キリストの救いでは十分ではないと教えるのです。プラスαがいる。家々を回ったり、教団の命じる義務を果たさんと救われん。要するに、やっぱり行いが必要。彼らのキリストは救いの呼び水のような途中までの救い主だという点で共通します。そうしてキリストを完全な贖い主としては拒否する。それが異端です。

皆さんが、これまで異端の方々と面識があるかどうか存じませんが、私は小学生の頃、英語を教えてもらえとモルモン教の宣教師のところに通ったことがあります。ユタ州ブリガムヤング大の秀才が日本に派遣されるのですが、ロンさんというお兄さんで、すごく良い人でした。え、野口先生、騙されちゅうがやないがと思われるかもしれませんが、本当に良い人で、というのは、次に来た宣教師が優しくなくて、それで行くのやめたのです。教会もそういうところがありますから難しいんですけど、皆さん、考えて頂きたいのは、良い人かどうかで、異端かどうかは決まらんということです。確かに、異端団体の布教方法として、例えば高知の統一教会は、高知教会、高知東教会、高知中央教会という名前でやっておりまして(笑)、え、それは狡いろうって思うのですけど、頑張って布教しなくてはという思いは、嘘も方便と言いますが、きっと純粋なんじゃないかと思うのです。因みに、これ何でわかったかというと、花屋から電話があって、高知東教会さんですか、すみません間違って花を渡しましたと言われるのですけど、誰も買ってない。でも高知東教会の名でいつも週末に買いに来て、他に高知東教会ってあるのですか?と問われて調べたら、わかった。唖然としました。ま、この類の話をしているときりがないのでやめますが、救いを求めてそういう団体に入ったけど、何か違うと気付いて脱会し、教会に来られる方々は少なくありません。牧師になった人も何人か知っています。皆良い人ばかりです。

良くないのは教えなのです。そこで教えられている彼らのキリストが歪んでいるのが異端なのです。モルモン経典とか原理講典という、聖書以外の異なる教えを聖典として、これぞ隠されていた救いの真理だとやるパターンもあれば、聖書でキリストが神様であることを教える箇所を全部違うように訳した新世界訳聖書を用いるパターンもあります。更に似たパターンで、聖書の訳はそのまま、でもその権威を骨抜きにして、聖書って昔の人の神話と同じだから、神はいるけど、キリストが神の子とか、復活とか、それはないよ、でも神はいるよね、道徳は大事よねっていう、いわゆる合理主義キリスト教という教えや団体も、昔から存在します。代表的なのはユニテリアンという宗派が明治に日本にも入ってきて、え、これもキリスト教会?って、混乱を巻き起こしていました。文明開化で、急激な近代化の中で、え、復活を信じなくてよくて、でもキリストの道徳的な教えはそのまま?これだ!と。このパターンもまたよくおわかりになるのではないかと思います。そしてこれもまた、異端なのです。教えがキリストを拒否するからです。

ですので教会って何?と思う人にとっては、宗教団体としての異端というのが、うんとわかりやすい区別の目印になるのですけど、その団体の人々や性格で、異端のラベルを貼るのではない。異端の本質は、その教えにある。団体としての異端より、教えとしての異端。そもそも異端は偽教師の教えだからです。偽教師が指導者になってできた組織を異端とも言いますが、そもそもはキリストを贖い主としては拒否する教え、今朝の御言葉で語られる「神の子に対する信仰と知識において」一つのものとなることを拒否する教えが、異端なのです。

教会は頭であるキリストに向かって成長していきます。それは教会に結ばれている一人一人が、一人一人キリストに結ばれているからです。そのキリストから復活の力が聖霊様によって注がれて、キリストのように造り変えられるからです。それがキリストに向かって成長する唯一の理由です。無論、キリストに倣って生きていき、成長しようという努力はします。でもキリストに向かって成長できるのは、教会がキリストに結ばれて、キリストの体であるからです。

私たちの頭はどなたか。そこが文字通り急所です。頭はどなたか。それ故に13節の「神の子に対する信仰と知識」が急所なのです。急所だから、自分が選んだ信仰と理解を主張した時、いつでも教会は異端化する傾きに傾いたのです。詳しくはまた次週お話しますが、14節2行目で「人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、ひきまわされたりすることなく」と新共同訳で訳された、この“変わりやすい”という言葉は原典にはありません。原語は「教えの風」で、教えがコロコロ変わるんじゃない。自分の耳に心地よい教えに、自分の心が波に揺れ変わるのです。悪賢いと訳された言葉の意味も、スッとその気にさせる巧みさという意味です。心の向かう先を、キリスト以外に、スッと向けさせる巧みさを言うのです。

しかしキリストを主と証しする、御言葉が指し示す私たちの行く手は一つしかない。十字架で私たちの過去も現在も未来の罪も全ての責任を引き受けて、裁かれ死んで下さった贖い主、そして私たちの代表として父により復活させられたキリスト、ただキリストを仰ぐのみです。その他の誰に対しても、私たちは結ばれてないのです。それ以外の洗礼を、私たちは受けてはないからです。私たちを完全に買い戻してくださった贖い主、キリストがご自身の御体に、私たちを結んでくださったから、キリストが救いのゴールなのです。

異端のゴールは違う。でもならばこそ、あなたもキリストに招かれていますよと、キリストによる救いの真理を「愛に根ざして」語るのが、十字架のキリストの体です。その人々をも背負われて死なれたキリストの体、教会は、裁くのが仕事ではない。その裁きを自ら引き受けられたキリストを告げ知らせ、紹介するのが教会であり、頭から託された責任です。裁きは十字架の主のものです。私たちのものは愛に根ざして真理を語り、伝道すること。愛に根ざしてキリストを皆に紹介すること。その態度が、キリストに向かっての、成長の目印でもあるでしょう。とにかくキリストに向かって成長していく。キリストの信仰と知識において皆で一つに成長する。そうしてキリストの満ち溢れる豊かさになるまで皆で成長するのです。

13/4/28朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙4章13-15節、詩編12篇 「これ以外の私はない」

13/4/28朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙4章13-15節、詩編12篇

「これ以外の私はない」

 

キリストに向かって成長していきます。で、どうなるか。キリストのようになるのです。皆さん、みにくいあひるの子という童話をご存じかと思います。ご存じだと思うので、いきなり結末を申しますけど、え、誰、この白鳥?私?え~!!っていうハッピーエンド。私のアレンジも少し加わっていますが、あれって徐々に変化していかんのでしょうか。ある朝突然、え~?ってことはないと思うのですが、作者アンデルセンは敬虔なキリスト者だったと言われますので、そこにも信仰の思いが込められておったのかもしれません。復活を意識しておったのなら、全く想像もできない自分のゴールに出会うっていうのは、確かにそうです。キリストのようになるのです。それ以外の私たちはない。

あるいは、え?これ私?っていうのが、今の私たちに当てはまるとしたら、ぎっちり水面ばっかり見んということでしょうか。自分のことらあ見んなるほど、自分自分という意識から離れて、奉仕をしゆう間に、その当の自分が変えられている。そうした成長の恵みに当てはまるのかもしれません。わ、何か知らん間に、キリストに向かって成長しちゅうって、それも確かにある。優しさとか、また今朝の御言葉の語る「愛に根ざして真理を語る」とか。これ以外の私はないというキリストの姿に向かって、しかも「あらゆる面で」成長させられていく。それが確かに私たちです。キリストに向かっての、日々成長の途上にある教会です。

そしてやがてキリストが再び地上に来られる。私たちもキリストと同じように復活させられる。その時、既に召されたキリスト者たちが先ず復活させられると聖書は語るのですが、ひょっとアンデルセンが描いた白鳥の群れは、その群衆を描いたのかもしれんなあと思いました。まだ自分が白鳥だってわかってない時に、飛んできた白鳥の群れに出会うのです。で、わ~、白鳥たちに殺される!って、すごい勘違いするんですけど、それもまた信仰の姿と重なるのかもしれません。あの人たちは私とは違う別種のキリスト者で、私は救われんがじゃないかと思い悩むことがあるかもしれません。そんな時、何が必要か?今日の御言葉が語ります「神の子に対する信仰と知識」です。私たちが一体どんなであろうと、その私たちを完全に救われるため、人となられた神の御子への信仰と知識です。その信仰と知識を一言で言えば、私たちはキリストの恵みによって救われる!キリストが恵みによって救ってくださる。恵みによって!恵み深い、慈しみ深い神の子によって!その神の子信仰、そしてそのキリストの知識です。間違った知識が私たちを追い詰めます。わ~白鳥に殺される~!って、何で白鳥の子は思ったか。間違った知識の故です。知識は勉強好きのオプションじゃないと御言葉は語るのです。

私たちは、キリストを知っているでしょうか。え~と、たぶんこんなキリスト…ではない、主キリストを。私たちが日々その御姿に造り変えられ、成長させられていっている、私たちのゴールであるキリストを!皆で知りたいのです。キリストが牧師を立てられたのは、そのためであったと11節からの流れで学んできました。このキリストを皆で知って、ますます知って、その知ったお姿を求めて、目指して、主よ、造り変えてください、このお姿をこそ目指しますと、皆でイエス様についていくためです。礼拝で説教するのはそのためです。イエス様が、わたしについてきなさいと説教を通して招かれるからです。まだ洗礼を受けてない方は洗礼に向かって。洗礼を受けた者は、キリストのお姿に向かって。イエス様から、わたしについてきなさいと招かれている。その招きに、アーメンって、皆で相応しく歩み出す。それが礼拝です。この手紙自体最初から礼拝で読まれてきた御言葉なのです。

そうやって、皆でもう、とにかくキリストの知識を求めるところで、イエス様、イエス様って、信頼しながら、お委ねしながら、キリストを知りつつ歩むところで、教会は必ず成長します。人数は減ってもです。そこにもキリストの知識が関わってきます。この世の知識は、数の論理で人を惑わすところがあります。いやいや量よりも質、という知識を、言い訳にすることさえあるでしょう。じゃ、何?って思いそうなところで、とにかくキリストの知識なのです。質と言うなら、キリストらしくなるのです。キリストらしくなれば、伝道に力が増します。キリストの知識が、教会成長のヴィジョンです。そうやって使徒言行録そして手紙を読むと興奮します。ああ、そうかと。とにかく、キリストなのです。

こうして私たちはもはや未熟な者ではなくなりもします。この言葉も成長をうんと具体的にイメージさせます。未熟という訳だと、何か嫌な感じがしますけど、言い換えれば、幼児、小さな子供を表す言葉です。この教会にも小さな子供たちがいて嬉しいのですが、子供たちってのは大変な世界に生きています。例えば、お店に入って、うわ、何でここに置いちゅう!って場所に巧妙に置かれたガチャガチャに、子供はギュッと心鷲掴みされ、これ欲しい!ほら来た。アイス買いに来たがやろって言っても、やっぱりこれにする。んもう!って(笑)。こういうことでしょう。「人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりする」って。もう、目に入ってきたモノに心すぐ奪われんとってって思うんですが、それが子供だと御言葉は語るのです。これが大人になると、まあ、当然ここに置くわねゃ、置かいでかと、何ゆえ、ここにガチャガチャなのか、どうしてキラキラ可愛かったり、中身が微妙に見える仕組みなのかとか、知識を得て、おっと騙されんぞと思いますから、まだ誘惑に立ち向かえる術を知識として身につけている。のですけれど、それでもコンビニのレジに巧妙に置いちゅう肉まん買いますから、大人げないと言うか、知識だけでもダメ。だから信仰と知識とセットで必要だ、キリストを信頼しての知識でないと、知識だけだと負けるからというのも、本当に聖書は人間を知り尽くしているなと思います。もう、この御言葉自体が、キリストの知識に裏打ちされた知恵だとも言えます。

ここでの悪賢い人間の教えについては、次月二週続けて幾分か丁寧に説き明かします。それもまたキリストの知識に従うところがあります。一回の説教で、まあ知識としては語ったつもりに私もなりがちなのですが、じゃあ、それが教会として身に付いたかとイエス様に問われたら、主よ、やっぱりそこですよねって悔い改めざるを得ません。人間の知識としては、一回聴いたらもうかまんと思いがちなのですが、イエス様がじゃあどういう風に弟子たちに教えられたか。また教会がどうやって、そのイエス様の知識に従って、愛に根ざして真理を語ったか。福音書や手紙を読んで証しされているのは、とにかく聴いた人の自己責任にせず何度も何度でも思い起こさせることを常とするのです。皆さん思いませんでしたか、何で福音書4つもあるが?一つでえいやかって。教会は、そうは考えなかった。無論、神様がそうお考えでないので、また教会もそのことにアーメンですと。繰り返されたら嫌になるのは、いつの時代でもそうなのでしょうけど、キリストの知識に従って、そこで謙遜を身につけるのです。武道でも何の道でもそうでしょうけど、さっさあ進むと良くないのです。ピアノとか、子供は例えばエリーゼのためにを弾きたいんですが、先生はやらさんでしょう。繰返し基本を身につけます。14節の「人々を誤りに導こうとする」と訳された言葉。人を迷わせる道によって、騙す方法によって、とも訳し得ます。今の日本の教会では、聖書を順番に説き明かしていくスタイルが主流ですが、前はそうではありませんで、教会が知るべきテーマにじっくり取り組むスタイルも少なくなかったようです。それが電子レンジでチーンの時代と言いますか、はい次、え、まだこれやるがって、時代の知識と言いますか、そこでもキリストの知識を知る。またそのキリストを信頼することで、私たちは確かな成長を得るのです。どれだけ知っているかではなく、律法学者のようにではなく、何を本当に知っているか。しかもキリストの何を本当に知っていて、それが教会の身についているか。それが教会の成長記録です。どこがキリストに似ているか。本当に知っていて、身についておれば、似るのです。夫婦もまたそういうとこがあるなと思うのですが、教会はキリストの花嫁ですから、しかもキリストの体そのものでもあるのですから、似んはずがない。この似るというのが成長です。神の御子であられる方が、ヨセフとマリアに育てられ、むしろ二人をお造りになられて、命をお与えになられた方が、二人の子供として学ばれた。聖書は、イエス様は従順を学ばれたと証しします。そのために謙り、謙遜になられた。そして私たちを招かれるのです。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしに倣いなさいと。改めて上の段2節でも、キリストの招きに相応しく歩むとは、具体的には謙ること、全ての謙遜を身につけることだと語られました。頭で学べる知識ではなく、まず謙る従順を身につけるキリストの知識は、実際に謙って歩む他ない。そもそも人は歩んでいるから、道が急所になるのです。道を迷わせる偽りに心惹かれ、やっぱりガチャガチャにするってなって、キリストに従っているつもりが、何かおかしなことになりやすい。ならばこそと、今日の御言葉は励ますのです。私たちは皆、ついにはキリストへの信頼と知識において一体となって、皆キリストの体として、まことにキリストに似た者となって、キリストの満ち溢れる豊かさになるまで成長するから、その謙遜にも、また従順にも、豊かな謙遜と従順に成長するから、とにかくひた向きにキリストを目指そう。キリストが、わたしに倣いなさいと招かれた、ついてきなさい、わたしが道であると招かれた、その道に、とにかく皆で歩もうと、主の約束の招きが語られるのです。

人はしょっちゅうブレます。でもキリストは決してブレません。最初から最後まで優しくて、洗礼受けたら途端に厳しいとか、そんなカルトの教祖みたいじゃない。そのキリストに倣うのです。最後まで優しく、かと言って罪は放置せん。でも責めないし見捨てない。徹底的に赦して招いてくださって、凛として、でも限りなく優しく、あなたはその罪を捨てて、わたしについて来なさいと。もう全くブレない恵みの態度で、私たちを成長に導かれます。そのお姿が、私たち皆の目標なのです。

13/4/21朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙4章13節、創世記1章26-27節 「ここに将来の私がいた」

13/4/21朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙4章13節、創世記1章26-27節

「ここに将来の私がいた」

 

今日は清和学園の生徒さんたちがいつもより多くいらっしゃって共に礼拝を捧げられること嬉しく思います。って原稿に書いて、おらんかったら寂しいんですけど(笑)、説教のタイトルにしましたように、教会につながったら、将来の私を発見するがやって、ご一緒に聖書の御言葉に聴けたら嬉しいです。将来の私が、ここにいる。言い換えれば、本当の自分らしさって、あ、こういうことなのかとわかって、その目標に向かって前進していけるとも言えるでしょう。そういう意味では説教題を、ここに本当の自分らしさがあったにしても良かったと思います。

自分らしさのことを個性とも言います。わかっているようでわかりにくい言葉です。個というのは個人、あるいは個の体と書いて、個体という言葉もあります。性格の個人的特徴だけを個性というのではなくて、顔や背の高さや手の指の長さなど、一人一人違いがある。それが個性。また自分らしさです。何で違うか。生物学的に言えば、一人一人、違う遺伝子DNAプログラムが一人一人の体に書き込まれていますから、当然違う人になる。そして、です。一卵性双生児の双子であっても、まるでロボット、あるいはお金みたいに、皆、判でガッチャンガッチャンって押したように同じ単純なデザインではありません。生きていますから、お腹の中から一人一人への命が与えられていますから、それをロボットみたいに皆同じだなんて言うのは、乱暴を超えて、神様への冒瀆です。神様は一人一人に、違う命を与えておられます。無論、価値は等しい。でもだからって、お金みたいに扱われたりしない。もっとわかりやすく言えば、私たちは換えがきかない。お金はヨレヨレは嫌と思えばピン札に換えられます。しかし神様がお造りになられた人間は、決して換えがききません。こいつ使えんから、別の人にっていう言い方は、神様に唾を吐くのと同じです。使えんとか言っちゃいけない。紙切れじゃないんですから。命の価値は、消費価値や利用価値じゃない。じゃあ、どんな価値なのか。一言で言えば、愛し愛される価値。それが、すべての命に神様から与えられている目的であり価値です。神は愛なり。すぐ下の岩に刻まれた聖書の御言葉です。神様に愛され、神様を愛し、その神様に命を与えられたすべての人を愛して生きる。私たちは、その神様の形、愛の形に造られている。神は愛です。私たちも、だから愛に生きます。そうやって私たちの命が愛に輝くとき、それを聖書は神の栄光と呼ぶのです。もう、一気に言いましたけど、それが私たち皆の命です。

そして、その命には、個性がある。一人一人違う。それを御言葉は、体と同じだと言います。指には指の個性があります。足の指と手の指とまた違います。小指と親指も違います。指だからって、一括りにできんとこもある。親指なんかと一緒にしないで、私、鼻ほじれるのよなんてことを小指は思っているかもしれない。あるいはそれがコンプレックスになって、何で隣の薬指は指輪なんかはめてもらって、ずるい、とか。で、もっと細かく言えば、小指だって関節で分かれる。おいおい、指先だけが指じゃないろう。根元で指先を支えゆう俺があっての指先じゃいかと思ってるかもしれない。でも、そうやって互いに自分の個性ばかり気にせず、じゃあ何のために、何の目的を与えられて、私たちは、この体の部分部分として生まれてきたのか、どんな命を生きればよいのかと考えるとき、御言葉は、私たちは皆!皆で一つの体となって、成熟した人間になるんだと語るのです。皆!そりゃそうです。指先だけ成長して太い小指って、そりゃおかしい。足の小指が親指より太かったら、靴、右左逆さに履かないかんなる。だから皆で成熟し、成長するんだと神様はおっしゃる。あなたに与えた個性はあるけど、それは体全体、皆のことを考えて、じゃあ、あなたにはこれって与えたものだからと。

ラグビーの精神で、あるいは憲法、マグナカルタって言ってよい程の言葉で、One For All、All For One。一人は全員のために。全員は一人のためにという言葉があります。でも、あ、そうですか、じゃあでそうなれるわけじゃない。何でお前ばっかりボール持ってとか、最初はそう思うのが、皆で一緒に走るなかで、走って走って、怪我して、泣いて、またまた走って、一緒に走って、皆で走っていると、ボールがつながるようになってくる。あ、俺ら一つやって瞬間が来る。体も同じ、教会も同じです。だから御言葉も「ついには」って言います。最初っからは、できんがです。でもできる。必ず、俺ら一つや!私たち一つだ!って、もう嬉しゅうてたまらん、涙が止まらんなる日が来る。ついには、必ずやってくる。信じて、皆で走って下さい。無論、走るというのは、比喩です。愛して生きることの比喩です。走るよりしんどいかもしれない。しかもラグビーと一緒で、一人で走るんじゃない。愛は尚更、一人では愛せない。神様を愛することもです。だってその神様が、あなたは体の部分だとおっしゃる。しかも皆!大切な部分だと。一人でも欠けると、体が欠けてしまうからです。

だから、誰かと愛でつながっているところで、私たちは本当の自分らしさをも発見するのです。本当の自分らしさって、要するに、他の人との違いを、あ、これが私かと、受け入れることです。必ず人とは違う個性を、これが私かと受け入れる。納得するとも言えるでしょうか。でも自分ばかり見ていると、って言っても、実際は人と見比べるわけですから、意識の問題ですね。自分のことばかり考えていると納得できない。嫌だと思うことがある。でもそれが体全体に向けて目が開けて、あ、私が違っているのには目的があるがや。この人や、あの人のためであり、体全体のためながやと、自分の殻がピキッと割れて、光が差し込んできて、殻から、カラダ全体が見えてくるとき、自分に納得するんです。これで良いんだと思える。むしろ、この私本来の私として、この体全体の中での私として、One For All、All For Oneの私として、もっと皆のために生きよう、皆を愛して一緒に生きていこうって、神様の大きな命のデザインの中で、自由に息が出来るようになる。無理な自分らしさから自由になる。無理に違わなくてもよくなって、同じとこが見えてくる。しかも、あ、こういうところが同じなのか。あ、こういうところこそ、同じじゃないといかんがやってところが見えてきます。体ですから、そりゃ部分部分違うんですけど、その私たちを流れる血は同じでしょう。右半身A型で左はBってAB型の人はいません。体でも共通するところはある。むしろないといかん。あるから、そこを目指す時、One For All、All For Oneで、皆が成熟した体に成長していく。

そこが今日の御言葉の第2のポイントです。しかも一番の急所です。これはまた来週も続けて説き明かしますので、簡単にお話しますけど、簡単だけれども、一番大切なところです。聖書の御言葉が、私たちは皆一つだと語る時、じゃあどの共通点を目指すのか。具体的には、どんなゴールを目指したらよいのか。それが「私たちは皆」、の後に語られます「神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり」です。つまり人となられた三位一体の御子、イエス・キリストの信仰と知識が一体となるよう、そこをゴールにして皆で走るとき、あ、私たち一つだ!って体全体として成熟し、キリストのようになるまで成長するのです。

わかりやすく言うと、こういうことです。人は皆、神の形に造られたのです。あなたも私も皆、その命の深い所に、神様の形が刻まれています。愛の形が刻まれている。でもそれを知らんのです。でもその形があるから、そりゃ愛は必要だって思うし、ないと命が命でなくなってしまう。人を大切にしない時、その形が傷ついて、命も傷ついて、本来の私からドンドン遠のいて、悲しくなって自暴自棄になったり、でもそれは私たちが神様の形に生まれてきたのに、その愛の形に生きないところで自分も人も神様も傷つけてしまう。それが聖書の語る罪です。神様の形ゆえに大切な命を、お金みたいに消費したり、利用したりして、大切にされずに傷ついて。その罪から、私たちを救いだすことを神様は決意されたのです。罪で崩れて壊されて、ガタガタになっていた神様の形を、完全な神の形として再び造り直され、しかも神様ご自身が人となられることで、神の形の人としてお生まれ下さった。それが神の子と呼ばれるイエス・キリスト、人となられた神様です。そして私たちを招いて下さった。わたしのもとに来なさい。わたしが将来のあなただ。あなたが、あなた本来の形、神の形に回復されるために、わたしはあなたの救いとしてきたと、ただ私たちの罪を赦すだけでなく、壊れた神の形を直し、回復するために来て下さったのが、神の子イエス様なのです。

だから、です。ここが御言葉の急所です。そのイエス様を信じる時、またもや自分勝手な救いのイメージ、キリストの形を造ってしまって、自分勝手に信じても、また本来の私として生きられんなる。それだと悲し過ぎるでしょう。神の子の信仰と知識はセットです。これが私の生きる目標か、私も神様の子供として、神の形に生きられるって、そうか、こうやって生きればよいのかと、キリストを知るとわかるのです。そこを皆で目指すのです。個性は一人一人違いますけど、目指すところは皆同じ形。キリストの愛の形です。

今は清和を寿退社って言うか、会社じゃないから寿退学?それも響きが悪いですけど、前に清和の先生をされていた方が、マラソンの補習というのでしょうか、生徒に付き合って放課後ずっと走ってるんですね。その先生の顔を今でも覚えています。こんな優しい顔を人はできるのかという顔で、べそをかいている生徒を慰めて、ほら、先生も一緒に走るきって、生徒に寄り添って走っておられた。私は、その人にイエス様のお顔を見たような気がしました。いつもそんな顔じゃないんです。怖い顔の時もあります。でも、あ、あれが神の子の知識、イエス様を知っている顔だと心に焼きつきました。私たち、そうやって生きていけるんです。イエス様は、こうやって私たちを愛して一緒に走って下さっているんだっていうイエス様の優しさで、イエス様の悲しみで、イエス様の愛で、その愛の形に、皆で一緒に回復されながら一緒に走って、キリストの体として、皆で成熟するのです。キリストみたいになれるのです。皆で。皆が、この愛と救いに向かって、神様に招かれているのです。

13/4/14朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙4章12節、イザヤ書53章 「仕えます、これが愛!」

13/4/14朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙4章12節、イザヤ書53章

「仕えます、これが愛!」

 

先の讃美歌で「仕えたてまつれ」と歌いました。ご年配の方はすぐにおわかりになるかと思いますが、たてまつるを漢字で書くと奉仕の奉。ですので「仕え奉れ」と讃美するとき、主のために奉仕しましょうと、そのまま理解してよろしいかと思います。今日の御言葉の教えにまさにピッタリの讃美歌です。そしてこの讃美は続けて、なら奉仕とは何か。それはイエス様が示して下さった「しもべの道」、隣人に仕える僕として歩むことだと歌います。ルターは讃美歌とは信徒の歌う説教だと言いましたが、この歌はまさしくアーメンと思います。今日の御言葉が語る、「奉仕の業に適した者とされ」というのは、イエス様に倣う「僕の道」を皆で歩めるようになることだと、言い直してもよいのです。

このイメージを、ぜひ皆さんの魂に焼き付けて頂きたいと願います。奉仕するとは、僕になることである。ですから皆さんがこれから教会で奉仕なさるとき、よし、私はここで僕の道を具体的に歩むのだと、ぜひご自分の魂に言い聴かせて下さい。私は僕だ。もっと僕になるんだと。そこにイエス様の愛が実を結びます。神様の愛は、僕によって運ばれるからです。説教題に込めたメッセージもそこにあります。

もう一つ、この愛を歌う讃美歌、二編112番の讃美歌も、クリスマスカロルですが、心に留めたい讃美歌です。半音が入る特徴的メロディーで「しもべのかたちを取りて」と歌います。2番の歌詞はこうです。「なげきの地は主の愛うけ、希望の光さしきぬ。しもべのかたちを取りて、おのが身を与えたもう、とうとき御子、救いの君。なげきの地は主の愛うけ、希望の光さしきぬ」。三位一体の御子が、僕の形を取られて、ご自分の身を与えて下さった。私たちを罪の滅びから救うため献身して下さった。私たちに奉仕して下さった。ここでもイエス様のイメージは、僕として印象づけられます。強烈な印象です。イエス様は僕の形を取られた!罪に嘆く地は、そこでこそ主の愛を受けた。そこに希望の光が差し込んだと歌うのです。僕が、暗闇に光を持ちこんだ。

先に読みましたイザヤ書53章のイエス様を預言する御言葉も、父が「わたしの僕は」と語られて、御子の愛の業を語られます。僕でないと運べん愛があるのです。僕にならんと、できん働きがあるのです。それが今日の御言葉で語られる、奉仕の業、僕の働きです。

もし!です。もしイエス様が僕の形を取られなかったら、嘆きの地は主の愛をどこに受けたと歌い得たでしょう。どこに神様の愛の形を見、どこに希望の光を見出し得たでしょう。皆さんは、どこに愛の形を見られますか。どんなところに、ああ私はここに愛の形を見たという印象を受けられますか。誰かが自分自身の損得など省みず、むしろ自分を捨てて僕の形を取り、己が身を差し出してしまっているところにではないでしょうか。そして教会が、私たちはそうした自己犠牲を捧げますと、僕の形をした愛の業、奉仕の業に生きるとき、イエス様はその僕の手に、ご自身の愛を手渡されるのです。世界はそこに神様の愛を見る。それが主の伝道方策です。私たちもまた、そうやって神様の愛を教会に見て、洗礼を受けたのではなかったでしょうか。

無論、完全ではないので、なんだ、やっぱり愛がないと思われたり、私たち自身思ったりすることもあります。そして、それが事実だと思います。だから!です。だから今日の御言葉が、それを前提に語るのは、そうだ。教会の愛は完全じゃないので、だから復活・昇天のキリストは教会に御言葉の奉仕者を立てられて、こうしてキリスト者一人一人が、奉仕の業、僕の業に適した者とされていくのだ。僕に適してない者で、自分勝手なところがあるから、だから、御言葉の力で造り変えられて、僕の形に造り変えられ、僕の業に適した者とされていく。そして不完全な教会が、なお罪が残りつつ、しかしその罪と戦い、自分を捨て、自分の十字架を負いながら、僕の形を取られた三位一体の御子に、主よ、私たちの羊飼いよ、私たちを僕の道に導いて下さい。あなたに仕えます。そしてあなたが命を投げ出して愛された、隣人たちに仕えます。僕の業をなさせて下さい!と、主の名を呼んで、仕え奉る。それが教会です。御言葉によってキリストの体に造り上げられている教会は、その形が、僕の形を取っていきます。それが教会の健康診断になるのです。

ところで、その教会の一人一人が「聖なる者たち」と呼ばれているのも、誤解されやすい言葉でしょうか。完全な愛の僕をイメージされるかもしれません。が、その愛は不完全です。それでも聖なる者と呼ばれます。神様が呼ばれるからです。わかりやすく言えば、私が不完全でも、妻が私を、我が夫と呼ぶのと同じです。聖なる者とは、神様の者という意味です。所有権を表す言葉です。聖書は神様の書であり、人間が勝手な解釈で好きにできる権利はありません。私が妻の手を離れて好きにできる権利を持たないのと同じです。聖なる者が不完全でも、愛に欠けた所ばかりでも、それでも聖なる者と呼ばれ得るのは、その愛に欠けた者のために流されたキリストの血潮が完全だからです。その償いが完全だからです。こんな私たちが、そのイエス様の名を呼んで洗礼を受けたとき、イエス様が、そうだ、あなたはわたしのものだ、そしてそれ故に、父の子であり、あなたは神の家族の一員だと約束された、そのキリストの愛が完全だから、恵みによって神の家族とされた私たちを、御言葉は聖なる者たちと呼ぶのです。前にも言いましたが名字と同じです。その人の生き方も欠けも失敗も、その人の名字を決定しません。むしろその名字が、その人の生き方を決定づけていくのです。聖なるキリストの者とされた、聖なる者たち!それが私たちの名字であるので、キリストに倣って僕として生きる。その他の生き方は、虚構だとさえ言い得ます。聖なる者としての生き方が嘘にならんように、御言葉に聴いて、召しに相応しく歩んでいく。御言葉に仕える賜物が、まず教会に与えられているのは、その故です。

ですので、先に奉仕=僕の働きというイメージを焼き付けたように、聖なる者=僕というイメージを焼き付けて頂ければと願います。聖なる者が聖なる者らしくなるというのは、具体的に言うと、僕らしくなるのです。このイメージを忘れないで下さい。らしくなくても僕ですけど、僕らしくない者であればこそ、らしくされ、適した者とされるのです。御言葉のもとに身を置く僕は、必ず、僕らしくなっていきます。これが教会のゴールです。僕の形をお取りになったキリストの体らしくなる。奉仕の業に適した者とされることで、僕となられたキリストの体を皆で造り上げていくのです。

そこで更に具体的な御言葉の教えに、グッと入っていきます。適した者とされていくと訳された言葉。これは例えば関節から外れていた骨を本来の場所にカコッと戻すという言葉です。外れている状態は適してないので、本来の適した関係に戻すとも言えるでしょう。教会員一人一人がそうした教会の本来の持ち場にカコッと戻されて、そこで僕の働き、奉仕の業を行っていくよう、言わばリハビリを受けるという言葉です。例えば野球選手が肩を脱臼すると、病院でリハビリを受ける。リハビリという言葉は英語ですが、職場に復帰するという時に、職場にリハビリテイトすると言います。聖書のもっとよく知られた言葉で言い換えれば立ち帰ると言ってもよいのです。神様に造られた本来の私として、本来の場所、神様のもとに立ち返る。その神様のもとが、具体的には教会の一員、キリストの体の一肢として、カコッと教会につながるということなのです。ですので、洗礼を受けて、その教会の教会員になるというのは、そこからリハビリが始まるということでもある。そういう意味では皆まだ病院にいるという言い方もできます。イエス様の御言葉を思い出します。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」そのイエス様の招きに相応しく歩む時、悔い改めもまた相応しくなされます。それが教会にカコッとつながり、聖なる者、本来の私としての僕の働きに立ち帰るリハビリです。今、主の御言葉に共に心を傾けて受けているのが、そのリハビリのメインの一つです。だから司式者が御言葉に先立って祈る時、悔い改めに導いて下さいと祈るのは召しに相応しい祈りです。初めて聴いた人はびっくりするかもしれませんけど、私たちには医者が必要です。必要だから、御言葉のもとに身を置きます。

そして教会が必要なのです。ここが病人に用意されている本来の場所であるからです。ここに来なさいと主が招かれたのは、ご自身の御体であったからです。そしてこの本来の場所に立ち帰ったところで、僕の形に造り変えられるリハビリを受ける。繰り返し聴いてきた1節からの御言葉がそれです。教会の兄弟姉妹たちとの御霊による一致、つながり、家族の関係を改めて覚え、これを保つよう熱心に努力する。それが僕の形の取り方です。個人の意志では取れません。それだけ深い病です。優しい人にはなれたとしても、僕には主人がいるのです。その主人が主治医として私たちに言われます。あなたにはリハビリが必要だ。神の家族として生きるため、聖なる兄弟姉妹が必要だ。聖なる者としての本来の形、僕の形に生きられるよう、神の家族のファミリービジネス、永遠の命を人に手渡す、キリストの働きを行えるよう、聖なるリハビリを受けなさい。聖なる者の奉仕の業に適した者とされなさいと、主治医であるイエス様が言われます。救い主として言われるのです。

僕という言葉で語ってきましたが、別の言葉で言えば奴隷です。奉仕の業と訳された言葉も、訳し直すと奴隷の仕事です。力があってお金のある人が、自分がしたくないことを、人が嫌がる面倒なことを、教会は僕となって行ってきました。主そうされたから。三位一体の御子が、主である方が僕となられて、仕えられたから。その愛で私たちは救われたから。だから教会も仕えます。主に従って、僕となります。そもそも僕であるのです。本来の私たちになるのです。その私たちをイエス様が、聖なる者と呼んで下さる。キリスト者と、ご自身の名で呼んで下さる。その名に相応しくリハビリを受けて、キリストの御業となるのです。