13/1/13礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙4章1-3節、イザヤ書57章14-21節 「この安らぎへようこそ」

13/1/13礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙4章1-3節、イザヤ書57章14-21節

「この安らぎへようこそ」

 

神様から招かれた、その招きに相応しく歩みなさい。以前の訳では、召されたその召しに相応しく歩みなさい。召された者としての命を生きる、と書いて、召命。先週の礼拝で、ぜひ今年一年この言葉に向き合い続けて頂きたいとお願いしました言葉です。召命。皆、神様に召され、召命を頂いているからです。その召命に相応しく歩みなさい、あなたに与えた召命にと、主が、一人一人に、そして全体に対して言われます。じゃあその主からの召命に、どう相応しく歩めばよいか。今日の御言葉は、その召命に対する具体的相応しさを教えます。

相応しいって、どういうことか。別の言葉で、お似合いだと言い得る言葉です。例えば私が、この礼服を着て、ああ、これは似合うちゅうとニコニコしながら、ショッキングピンクのネクタイで礼拝に臨んだら、おはようご…牧師に何が起こったのか?と思われるでしょう(笑)。何故か。似合わんからです。この地味な顔にというのではなく、それもそうですが、この教会の礼拝で、牧師が礼服を着て、そこまでは似合いますけど、そこにショッキングピンク!(笑)。全部台無し。

それが2節で言われます、高ぶりの不似合いさ加減だと言えばわかりよいでしょうか。神様が招いてくださった!この救いに、イエス様に、十字架に、罪の赦しに、復活の希望に、神の家族に。そこに高ぶった心や発言。これは似合わんというのはおわかりでしょう。

前にテレビでやっていたのですけど、喫茶店のモーニングで、パンにコーヒー、サラダに加えて、味噌汁がつくのは高知だけらしいですね。県外の人は、え、他全部洋風なのに味噌汁?て思う。でも慣れってのは怖いもので、そういうものだと思ってますから、相応しくないという、センスが身についてないのです。そういう意味では、相応しい相応しくないというのにはセンスの問題が関わってくる。モーニングのセンスは別にかまいません。問題は、召命のセンス、教会のセンスです。神様がお与えくださった、この召命に相応しい教会的センスを、あなたがたはここで身につけなさいと語られたのが、今日の御言葉です。今までは、もしかして、与えられている召命に似つかわしくないセンスを、知らずうち身につけてきてしまったということもあるかもしれません。味噌汁がモーニングについちょって何が悪いと思うように、センスというのは日本語にすると感覚ですから、感情に直結しているとも言えるのです。うわ、こんなセンスで恥ずかしいと思いもすれば、カチンとくるときもあるかもしれません。ならばこそ言われているということでもあるのでしょうか。一切高ぶることなく、柔和でと。それが自らの教会的センスをチェックする、試金石としての御言葉です。

一切高ぶることなく、柔和で。直訳は、全ての謙遜と柔和をもって。何故か新共同訳は高ぶることなくと消極的に訳しましたが、もとは積極的な言葉です。積極的に、全ての謙遜と柔和を身につけることで、既に主から頂いている召命に、相応しく歩めるようになるというのです。

この謙遜と柔和はセットだとも言えます。もとの文章でも一端ここで切れます。イエス様から招かれた、あの招きへの相応しさをも思い出させます。「疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」マタイによる福音書11章でイエス様が、わたしのもとに来たら、謙遜と柔和がわかるからと招かれた、そしたら安らぎが得られるからと招かれた、主の安らぎへの招きです。くびきとは、畑を耕して歩む二頭の牛を首で繋ぐ木のことで、要するに、一緒に歩もうという招きなのです。神様が私たちに与えてくださったこの召命は、あなた、一人では歩めないじゃないかと、イエス様が一緒に歩まれる召命なのです。主と共に歩む召命です。それを一人で歩むとき、私が私がって歩むとき、高ぶりが調和を壊してしまい、命に不似合いな生き方になってしまう。その罪の重荷をキリストは背負って下さったのです。それはわたしが背負うから、あなたは召命という、わたしの軽い荷を負いなさいと。罪と裁きを負うのでなくて、赦しと恵みを負いなさい。わたしはそのために来たのであるから、あなたを目指して来たのであるから、わたしと一緒に歩みなさいと安らぎへの召命をくださった。その道中で、イエス様と一緒に歩むことで学んでいくのが、この謙遜と柔和です。

わたしに学びなさいと言われます。だから毎日の普段の歩みに、どうかイエス様を見て下さい。イエス様ならどうなさるかと、御言葉の語るイエス様から目を離さずに学んで下さい。そしたらセンスが身についていきます。教会の歩みを見ておっても、あ、これがイエス様に学んで身につけられた謙遜なんだな、これがイエス様に倣って実践している優しさ、柔和なのだなと、わかるセンスも身についていく。逆に、ん?これはイエス様の臭いとは違うぞと、違和感が直感でわかるということもあるでしょう。その基準がしかも、前の教会はとか、私のセンスが基準でなく、聖書の証するキリストが基準、キリストの香りが基準になる。それがキリストの体である教会的センスの身につき方です。

そして、その教会的センスは、それがまだ身についてない人に対して高ぶることにも敏感です。あなたのセンスはおかしいと批評したいときは、自分のセンスがピンクっぽくなって罪の異臭を放ってはいないか、イエス様の謙遜と柔和がそこに香っているかどうかを、嗅ぎ取るセンスが必要です。

そこで教会の歩みの相応しさ、キリストに従って歩むなら、互いにはどうやって歩むべきかが身についてきます。身に染みるとも言えるでしょう。柔和で謙遜なイエス様が、どうやって私の隣におられるのかが、わかる言葉が次に続きます。「寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。」これも直訳すると、こうなります。「寛容と互いに愛によって耐え忍ぶことを身につけることで、聖霊様による一致を、あの平和のきずなによって熱心に保ちなさい。」直訳は、あの平和のきずなです。その絆によって、聖霊様による一致を熱心に保つとはどういうことかは、来週、再来週に説き明かしますけど、一言で言えば教会の一致です。それを熱心に保つのが、キリストの召命に相応しい歩みだと言うのです。なのに自分の正しさに熱心になったり、じゃあそんな私たちが一体どうやって召命に相応しく歩めるか。あの平和のきずなによる他ない!と御言葉は断言するのです。それが既に聴いてきた前の頁、2章14-22節の御言葉です。「実に、…」。アーメン!キリストがわたしたちの平和なのです。あのキリストの十字架に、御子は私たち罪人を結びつけ、ご自分の体に私たちをギューッと一つに結びつけ、この者の裁きを全部、わたしが身代りに引き受けますから、この者の裁きをわたしにくださいと、身代りに死んでくださった。そのキリストに結ばれて、私たちはもう既に陰府にくだって、そのキリストに結ばれて共に復活させられて、天の王座につかせて下さってまでいる。そのキリストに結ばれている絆によって、キリストが私たちの平和となられた、あの絆によって、あなたがたも互いに結ばれているではないか、わたしがあなたがたの平和の王である!と、キリストはその体としての教会に、私たちを招かれた。この召命に相応しく!です。その絆、あるいはくびきに一つに結ばれて歩む私たちをご覧になって、キリストは、お似合いだと喜んで下さるのです。