13/3/10朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙4章6節、詩編33篇 「皆同等に特別な父の愛」

13/3/10朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙4章6節、詩編33篇

「皆同等に特別な父の愛」

 

唯一の父なる神様がおられる。教会が自らの一致を熱心に保つためには、本当はこのことを思うだけで十分なのだと思います。別に八百万の神々でえいやかと、俺はこの神、私はこの神と、好きな球団やアイドルを自分で選べるような神なら、唯一と言われても、ま、あなたはね、私はそうは思わない、で終わるのでしょうけど、この御言葉を聴いているのは教会です。教会に向けて、神様は唯一って語られたら、何の説明も必要なしに、アーメンって、一致ができるはずです。教会は唯一の神様をあがめるために、ここに集っておるのですから、他の理由ではないのですから、教会の一致をアピールするなら、これが一番わかりやすい。そういう意味では、この手紙を書いた使徒パウロは、4節から一つ一つと続けてきた一致の根拠のリストの最後に、一番大御所を持ってきた。真打、大取りです。主が、祈るときは、こう祈りなさいと教えて下さって、天にまします我らの父よと必ず祈る、その父。父の御名こそあがめられますように。その父なる神様の御名のもと、その神様の教会は一つであると、教会であるなら、アーメンと一致できます。

できるだけじゃない。可能だ、というのじゃなくて、そもそも神様は教会を一つだと見ておられる。それ以外のものとして父は教会を造られてないし、御子も御霊も与えられてはおらんのですから。その父の御心が天でなる如く、今ここでなされるように、祈り求めて、従うのです。もし教会に不一致や不和があれば、悔い改める他ない。父を無視はできない。全くの父の恵みによって、教会に既に与えられている御霊の一致を保つよう努めなさい、熱心であれと命じられているのを、私たちは、ここでこそ心して聴きます。そういう真打、父なる神様の登場です。

少し前にも紹介しましたサラリーマン川柳で、こういうのがありました。電話口、何様ですかと、聞く新人。本来どちら様でしょうかと尋ねるべきところを、何様ですかと言うのは大変な勘違いですが、案外似たようなことを、神様にしているのかもしれません。父なる神様は、全ての上にあられる方です。その方のもとで、私たちは皆、本来畏れを持つべきである。そういう方です。神様なのです。人間ではない。神様が、あなたがたは一つだと言われたら、一致を保ってない現状に、ごめんなさいと一切の高ぶりを捨てて謙遜にひれ伏す他ない。その神様の御名が最後の最後に挙げられて、父なる神様は唯一だ!その神様の教会は一つである以外にはないだろうと、一致の根拠、決定的根拠が挙げられる。神様の御名が登場する。ここで教会が、自分を誰だと思っているのか、それとも何様だと思っているかがわかるのです。それが続けて「すべてのものの上にあり」と御言葉が続く理由でしょう。単に、ま、神様やきねと、神とは理屈上そういうものだと説明しているのではないのです。説明ではなくて、説得です。あなたがたは神様に招かれたのですから、その招きに相応しく歩み、一切高ぶることなく、と言われた。直訳は、全ての謙遜をもって、と命じられた。それが教会の一致を保つ相応しさでしょうと。そして説得のクライマックスで、あなたがたをここに招かれた父なる神様は唯一です、神様がです、と迫られます。神様の御前に引き出される思いがあります。しかも、私たちの上にあられる神様ですから、その下に、私たちがひれ伏す以外の姿勢でおるなら、何様ですかって話に、やっぱりなってしまうのです。それは教会が一致を保つ努力を怠るときに、何様になってしまっているんだと思うのです。

その私たちの上におられる神様を、絶対なる神様は、とは、ここでは言わない。言っても間違いないのですけど、その絶対なる神様が、ならどうして教会の一致に、こんなにこだわられるかと言うと、父だからです。神の家族の父だからです。この手紙は実にこの祝福の言葉をもって始まったのです。「私たちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」私たちの父です。無論、私たちが生まれる前から、永遠の御子の父であられた永遠の父ですし、それこそが父の父たる所以ですけど、その父が、です。神様を神様とも思わず、自分が何様かになったつもりで我欲を押し通したい私たちを、子として望まれ、滅ぶなと望まれ、その代わりに永遠のわたしの御子を人として罪の世に送り、あなたがたの罪の裁きを引き受けさせると、御心をお決め下さった。その父です。その御子を信じる全ての者を、御霊によって御子に結びつけ、私たちを神様の子供として新しく生まれさせてくださることで、正真正銘、私たちの父となられた神様が、その子供に要求されるのです。あなたがたがわたしの子供たちなら、一つだ。一つの神の家族だ。わたしの家族の間に不和があってはならんと、父として当然の要求を求められる。そのの御名があがめられるように祈りなさいと、御子も教えてくださったのです。我らの父よと、祈るのです。その我らに対する父の愛を思うとき、その我らの間に、もし赦してない敵対心があるなら、父はどんな思いだろうか。父の名が、我らの父の名が、我らの間で聖なる名として崇められているだろうかと、父のお気持ちに思いを寄せるとき、その父の招きに相応しく歩める一歩を、初めて踏み出すとも言えるのです。形式主義ではない。我らに罪を犯す者を我らが赦す如くって、どうして祈るのか。我らの父が望まれるからです。それが、その名を愛と呼ばれる、私たちの父の家族のルールだからです。

私たちが神様を、父よと呼んで礼拝するとき、私たちは、自分たちが誰であるのかをも、同時に表明しているのです。御霊によって御子に結ばれ、新しく生まれた父の家族です。御言葉が「すべてのものの父である神様」とここで語るとき、その全てとは、家族全員という意味です。家族全員を等しく同等に愛される父の愛のもとでは、一つになって聖なる御名を呼ぶ以外に、皆等しくその恵みを受ける以外に、一体何があるだろうかと、私たち全員の父である神様は唯お一人であられ、家族全員の上に、家族全員を通して、家族全員の内におられる。その父なる神様の御心は、その家族全員、教会を、一つのキリストの体として世に遣わして、世界を救うことであられる。その教会の招きに私たちは相応しく歩んでいく他はないと、御言葉は説得するのです。

そして、そのように教会が招かれておればこそ、神様をまだ父として持っておられない人々もまた、ここに招かれているのです。キリストはそのために父から遣わされ、私たち教会もまたそのため遣わされているからです。教会がキリストの体として、家族全員を通して働かれる父の御業にお従いするとき、世界も父を無視できんなり、私も家族に招かれているのか、この神様を私も父と呼んでかまんのだろうかと、知るようにならざるを得んからです。伝道は技能や実力ではなく、誠実さです。父がその教会を用いられるからです。それは父の招きへの誠実な生き方であり、そこでは自分の心が誠実かどうかと自意識過剰になるというより、父のお気持ちに意識が注がれる、御名をあがめる誠実さです。全員を通して働くことを、喜びとされる父への誠実さは、その招きへの忠実さに直結します。招きに忠実な教会を通して、父は救いを行われます。それが伝道です。誠実にやっている私の名とか、別にどうだってよいのです。その私を常に気にかけられ、そして一人一人を愛してやまない、父の名があがめられますようにと祈り、父の御心をただ求める。父のお気持ちを第一として、主の愛の御業に自分を捨て励む。それだけです。そこに教会の家族への愛があります。父が招かれる人々への愛があります。神様を神様として畏れ敬い、神様は生きておられると、唯一の父の名をあがめる教会を通して、世界はその救いを得るのです。