13/3/3礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙4章5節、申命記7章6-8節 「天国は幼子のものです」

13/3/3礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙4章5節、申命記7章6-8節

「天国は幼子のものです」

 

先々週お約束しました通り、今朝は幼児洗礼について少し丁寧にお話します。私たちの教会員にも、幼児洗礼を受けた教会員がおられます。教会の家族の一員です。教会はそうやって、約二千年間、幼児に洗礼を授けてきました。聖書には幼児洗礼という言葉はありませんけど、ま、三位一体という言葉もありませんので、言葉がどうというより、信仰の中身、神様の何を信じちゅうかに、主はこだわられるのだと思います。記録としてはっきりとしている限り、二世紀には幼児洗礼の記録が教会に残っています。早ければ使徒たちから洗礼を受けた信徒のひ孫の世代になります。ひじいちゃんは使徒ヨハネ先生から洗礼受けたがよというような会話のあった世代です。それから千年以上たって宗教改革の時、洗礼を魔術的自動的な救済の手段にしているというような批判がありました。幼児洗礼受けても全然イエス様信じてない大人がいるような時代でしたから、今の欧米なんかもそうですけど、幼児洗礼はいかんという主張が出てきた。その人の信仰の中身がはっきりせんと。もっともな話です。信仰は一つ、洗礼は一つと告白する、信仰の中身、洗礼の中身であるキリストによる救いと全く無関係に生きていて、まあでも洗礼受けているからと、中身でなく外側だけ出されても、良く知られた替え歌と同じで、キャラメル拾ったら箱だけ~(笑)ってことになる。

ただ、中身が問われるのは成人洗礼でも同じなのです。そして中身、キリストに聖霊様によって結ばれているという中身それ自体は、見えんのです。聖餐式に即して言えば、中身を食べて確かに主と結ばれて栄養を受けて造り変えられて成長してっていうのは、全く見えないわけではありません。むしろ主の恵み深きことは味わい知るべきなのです。が、信仰体験は中身そのものではない。ここは急所です。でないと中身そのものでなくて、その体験が、私はこんな味わいを体験したけど、あなた違うでしょってやってしまうと一致を熱心に保てなくなる。これ、幼児洗礼でも同じなのです。自覚的体験は大事ですけど、体験という外側にこだわるのも、等しく信仰の足元を弱くしてしまいます。自分の信仰、キリストに立つ足元!って、その足を支えている土台、恵みのキリストより自分の足元を見ていると、足がむくみます(笑)。足の太さ、信仰の太さで、自立しちゅう人などおらんからです。

洗礼を体験としてこだわるならば、私は21歳で受洗しましたが、実は期待しておったような感動はありませんでした。正直、え、これだけ?って感じでした(笑)。感動的な回心体験もありますが、20年経って、感覚は、ほとんど覚えていません。もっと最近の恵みの味わいのほうがもっと実感できるのです。そして、もっと味わいたいのです。生きておられるキリストの恵みを、日々新たなる主の憐れみを、です。体験は望ましい喜びではありますが、それを洗礼に強制はできません。体験を求めて受洗して感動がなければ、おそらく悩むと思います。野口牧師じゃパワー不足なんじゃないかとか(笑)。いや~、その人の責任でしょうってことでもない。そもそも洗礼体験に対する責任なんて、誰も取ることはできんのです。洗礼は聖霊様の御力の内にあるからです。三位一体の聖霊様によって、三位一体の御子なる主イエス・キリストに結ばれる。それが洗礼の中身であって、そこに神様の御力があります。その御力の現れとしての体験を、洗礼に強要せいでかまんのです。大切なのは歩みです。キリストの招きに相応しく、洗礼の中身を歩むかどうか。

その歩みは、自分で満足できるほどの信仰の強さに相応しく、ではありません。招きに相応しくです。だから信仰の歩みと言うより、従順な歩みのほうがわかりやすい。そもそも信仰も自発的、自分発ではなく、キリスト発の恵みの呼びかけ、招きに、はいと応える、従順な応答ですから、私たちが信仰と呼んでいるものの多くは、従順と言い直したほうがわかりよいのだと思います。ただ、その従順は、一切高ぶることなくとの招きへの従順ですから、私はこんなに従順だからと、自分の手柄には当然ならない。手柄にしたとたん不従順です。信仰ってそういうものでしょう。手柄にしたい罪人へのキリストの恵みを信じるのですから。

その恵みの主が、招きに相応しく歩みなさいと招かれるとき、それは主の恵みに相応しい、家族の歩みであり、自己責任にはならんのです。むしろ愛で罪を覆うような歩みです。自己責任では歩めない赤ちゃんは歩めないのも自己責任か。今も貧しい国では幼児の死亡率が高い。昔は尚更です。残念ながら歩めるようになる前にってことでしょうか。そういう人の責任だけイエス様は特別にもっともっと背負われたのだという理解でしょうか。むしろそうした赤ちゃんを抱き上げて、手を置き祝福されながら、子供たちをわたしのもとに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできないと言われたのです。どうしたって自己責任にはできない幼児が神の国を受け入れる人の模範だと、この幼児の責任を負うのと同じように、わたしはあなたがた全員の責任を負ったのだから、だから自己責任で誰をも放置せず、わたしのもとに来させなさいと主は言われた。その招きはこっちに置いといて信仰を問うのは、信仰を他人事にする無責任な信仰になるでしょう。むしろ責任ある信仰というのは、イエス様に、はいと返事して、イエス様のもとに来させる従順な応答です。主の招きに相応しく歩む教会は、自己責任では歩めない者をおぶって、具体的には、祈り執り成し、そしてキリストの救いを証しすることで、共に歩んでいく教会です。誰の手柄にもならない信仰は、そもそも自発的に湧いてもきません。私たちが主の恵みの御言葉のもとで、その信仰を、はいと受けるように、幼児も成人もどんな人をも、キリストの前に来させるのです。礼拝に来ることが出来んかったら、その人のもとでキリストの名によって祈ればよい。牧師を連れてって御言葉を共に聴き、キリストのもとに置けばよい。そしてその人が、はいと応答するように、祈って執り成し、おぶり続ける。幼児洗礼において信仰が問われなければならないとするなら、幼児に信仰がないのは当前ですから、むしろ問われなければならんのは、その幼児を恵みとして神様から与えられた教会が、幼子をわたしのもとに来させなさいと言われるイエス様に、はいと応答しているかどうか。その信仰でしょう。無論その信仰を、親の自己責任にすることもまたおかしいというのも、もはや自明のことと存じます。もちろん親は祈りますし、キリストの恵みを証しするため奮闘します。それを孤軍奮闘にさせんようにする教会の従順、神の家族の責任こそが信仰の責任として問われるのです。宗教改革時も現代の欧米でも、幼児洗礼が問題化するのは、いつでもその教会が、キリストのもとに連れていくこと、伝道することの責任を、洗礼を授けることで回避しようとするときです。その人をおぶって主の前に歩まんときにそうなるのです。この問題に取り組んできたドイツの神学者の言葉が心に残っています。洗礼が指し示すキリストの救いを、親に明確に語り伝道するのだ。そしたら親は、果たして自分達は、そんな洗礼をこの子に願っているだろうかと決断を迫られ、私もまた、そのような洗礼を受けていたのかと決断を迫られる。教会が彼らに福音を宣べ伝えることによる他はないと。

大変デリケートな問題です。それは命にかかわる問題だからそうなのです。病床洗礼もそう。いつも判断は難しい。それでもはっきりしているのは、人は皆キリストに結ばれて救われる他ない。この洗礼を告げるのです。この洗礼に生きるのです。恵みによる救いの洗礼は一つです。