13/1/6朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙4章1節、創世記12章1-4a節 「神様に呼ばれたから」

13/1/6朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙4章1節、創世記12章1-4a節

「神様に呼ばれたから」

 

歩みにも色々な歩みがあります。一歩また一歩と大地を踏みしめていくような歩みもあれば、さっさー歩みゆく歩み、あるいは車いすに乗っての歩みもあります。もとより、これは生きるということを表す一つの比喩ですが、日本語でも他の言語でも、生きることの比喩として、歩むイメージが選ばれるのは興味深いです。食べるとは言わん。去年一年の歩みを振り返りとは言っても、去年一年の食事を振り返るとは言わん。カレーばっかりとか(笑)。食事のほうが生存を繋ぐイメージにも思えますけど、そうは言わない。それは生きることが、単に生存するということだけでなく、食事よりも更に深い根源的な場所で、目的地に向けての旅をイメージさせるからでしょう。皆そうやって今日を歩んでいるのです。たとえ床に横たわって肉体は歩けない人も、皆、歩んでいる。それがこの新しい一年の歩みでもあるのです。皆、歩んでいる。

その歩みを、「相応しく歩み」なさいと語るのです。何に相応しくか。招きに、です。直訳は「あなたが招かれた、その招きに相応しく歩み」。英語で言えばthe calling。召されたその召しに相応しくと先の口語訳は訳しました。召しに相応しく歩んでいく命に生きる。それを召命とも言います。私たちが一つの目的地ゴールに向かって歩んでいくこの命は、神様から召された命、召命であると聖書は語ります。そして神様の前でわかるのは、本当はそれ以外の命なんてのはないという現実です。

召されたその召し、招かれたその招きって、どうしてそんな言い方で言うのでしょう。招きが、招かれた招きであるって、そんなの当たり前で、他の招きなんてないでしょうって思えますのに、なのに私たちが今生きているこの歩みを、招かれてない方向に向かって、自分の生きたい方向に人生は生きていくものでしょって、勘違いし易いからじゃないでしょうか。だから敢えて重ねて強調し、招かれた招きに、しかも「その招き」に相応しく歩みなさいと、命がそのゴールに向かって以外はその行き先をもってない、その唯一の招き、the calling、主が「わたしに従ってきなさい」と招かれた、その招きに向かって、招かれたその招きに相応しく歩みなさいと、歩みのゴールが示されるのです。

それは更に具体的なイメージで言うと、神様と共にゴールに向かって歩んでいくイメージであり、神様と共に生きるということです。それは単に神様のことを時々思いながら生存して、死んだら神様のもとに行くということではなく、今、神様と共に、キリストと共に生きる歩みです。そのために神様が人となって下さって、十字架で私たちの罪を背負って下さった。その背におぶられて、復活のキリストと共に生かされ歩んでいくという命を、その召し、召命に相応しく歩みなさいと語るのです。

この召命、召された命と漢字で書く召命という言葉は、私の手持ちの国語辞典には載っていませんが、英語辞典でcallingという言葉を引くと、最後の5番目の意味として、神のお召し、召命と書いてありました。教会用語なのかなと思いますけど、教会用語としても勘違いされやすい言葉です。召命と聞くと、神様から牧師になりなさいと召されることに限定して用いられることが多々あります。でもそれは聖書の語る召命を狭めていますし、宗教改革者たちや、その後のピューリタンたちが正しく理解した召命でもありません。ちょっとお勉強になりますが、これを正しく理解するなら、人生が本当に変わるのです。召命はcallingとも訳されますがvocationとも訳されます。一般には職業と訳されることが多いようですが、先の手持ちの英語辞典では…これ牧師用とかじゃなく普通の英和ですが、vocationの最初の意味として、特に聖職や信仰生活への神のお召しと書いてある。二番目の意味として天職、使命、任務、また一般に、職業とあります。この順番が正しいのです。もともとは、ラテン語でvocatio、呼びかけ、特に神様から呼ばれ、招かれ、召されること、召命を意味していた言葉が、宗教改革を経て天職を意味するようになった。それは神様から、この働きをしなさいと召されているのは牧会者だけでは無論ない、どんな職業であろうとも、あるいは職に就くことのできない人でも、皆、神様から、神様のための働きをするように召されているじゃないか、そのために賜物を頂き、命を頂いて、祈り、人々のため仕え、生活を営み、教会を営む。それが神様から地上に命を与えられた全員に呼びかけられている、神様からの呼びかけである、vocationである。だから神様から呼びかけられてない人などおらんなら、その呼びかけ、招きに、相応しく生きて、歩んで行こうじゃないかと、生活の全ての場面が、具体的に神様に従って歩む命だと理解して、その実践を努力してきた。それが神様からの招き、召命です。

先に、この召命を正しく理解するなら人生が変わると言いましたが、そりゃそうでしょう。学生で考えるとわかり良いでしょうか。職を選んだり、そのための進路を選ぶとき、自分の好みや自己実現のためという基準で選ばんなるのです。神様は私をどの道に招かれているか、どこに私のvocatio、callingがあるのだろうかと考える。その視線で私に与えられている賜物は何だろうと考え、私が置かれている環境は、何故この環境なのだろうかと考える。自分が主語になるのではなく、私は賜物を与えられ、この環境に置かれ、ここに遣わされてと、受身で、しかも、積極的受身で考える。それは主の祈りでイエス様が教えられた立ち位置でもあるのです。御国を来らせて下さい、御心をなして下さい、日毎の糧を、罪の赦しを、与え給え!と積極的受身で神様の前に出る。これが神様と共に生きるように神様から召された、召命に生きる生き方です。無論、学生だけじゃなく、全ての人が、この積極的受身で、その召命に相応しく歩むよう、召され、呼ばれているのです。わたしのもとに来なさいと、キリストが呼んでおられるのです。

あなたは召されていますか。います。皆、神様から召されています。先に言いましたように、召されてない人はおらんのです。その感覚がない人、あるいは何となく感覚はあるけど知識がなくてさ迷う人、または知識もあるのだけれど、召命に相応しく積極的受身で歩み切れていない人ならいるでしょう。そして多かれ少なかれ、誰しもそういうところがある。ならばこそ、この召命をご自分のものとして下さい。今年一年、召命にとことん向き合って下さい。キリストから呼ばれているその召命に相応しく歩ませ給えと、積極的受身で、主にお求めください。それが自分に何を意味するかわかっているという賢い人がおられるならば、主に結ばれて囚人となっている使徒パウロに代わってお願いします。主のために、また主があなたの周りに置かれている人々のために、愚かになって下さい。イエス様ご自身、愚かなほどに人となられて、十字架を前にしたゲツセマネの園では、父から与えられたキリストとしての召命が何を意味することになるかを賢くも知っておられて悩まれて、この杯を取り除けて下さいと祈られて、しかし、わたしの願うようにではなく、人々がこのことで救われていく、御心をなし給えと祈り抜けられた。私たちはその愚かさによって救われたのです。その愚かさによって招かれたのです。教会よ、わたしの体に招き入れられた者たちよ、わたしに従ってきなさいと、あなたも愚かになりなさいと、キリストが招いて下さいました。他の救いではなく、この救いへと、この愚かなるキリストの体の一肢一肢として、キリストの体の部分部分として、私たち一人一人が、しかし全体として、十字架の愚かな愛によって共に祈り抜き、歩み抜きなさいと招かれた。この招き、十字架の愚かな愛で人が救われる、教会への招きに相応しく歩みなさい。この歩みが根源的な命なのです。