12/12/30朝礼拝説教@高知東教会 エフェソノ信徒への手紙3章20-21節、ゼファニア書3章17節 「何を願ってきましたか」

12/12/30朝礼拝説教@高知東教会

エフェソノ信徒への手紙3章20-21節、ゼファニア書3章17節

「何を願ってきましたか」

 

クリスマスが過ぎますと、世間では、まるでクリスマスなど最初からなかったかのように過ぎていきますが、教会の暦では一月の第一主日までをクリスマスの季節として祝います。あるいは二月に受難節が始まるまでを降誕節として覚えますので、皆さんには世間と流れを共にしないよう是非お勧めをいたします。それは別に正月を祝わんとかいうことではなくて、キリストを頂いた喜びから目を離さないということです。特にクリスマスに祝います主のお名前、インマヌエル、神様は私たちと共におられるというお名前を心から祝い、じゃあ神様が共におられるのであれば、私は今日の日をどう過ごせばよいかと考える。またその考えに導かれ祈る。そうやって一日を始め、また一日を終わる。神様が共におられるから、今日はこのことをしよう。神様が共におられて今日はこのことができました、ありがとうございます、明日もお導き下さいと祈り願って一日を終える。この祈りの基本、神様と共に生きる基本を改めて身につける季節が、クリスマスだと言ってよいのです。ですので基本を改めて各自チェックして、せめて後七日はお過ごし下さい。年末年始の落語の番組とかチェックするのもよいですが、私もたぶん元旦礼拝の準備が終わったらチェックするんじゃないかと思いますが、それと共に、またそれも神様の栄光のために過ごす時間となるために、神様と共に過ごす基本を身につけるクリスマスをまだ過ごしましょう。

特に私たちの救い主として人となられた神様、イエス様を私の救い主として受け入れ、洗礼を受けたキリスト者は、神様が共におられると言うときに、より一層うんと近いイメージを持てるのです。もし持ってなかったら持てるようにする信仰の基本トレーニングを積むというのも、クリスマスに与えられた恵みだと言えるでしょう。キリストを受け入れたキリスト者は、今日の御言葉で「私たちの内に働く御力によって」ということを感謝できるようになるほどまでに、神様が共に、いや、内におられて働いておられるからです。それがすぐ前の16・17節で言われております使徒パウロの祈りの根拠です。待降節を経て、この御言葉に帰ってくるのも相応しいことだと思います。「どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」教会の言葉、神学用語で、内に住むと書いて内住、キリストの内住と言います。私たちの内にキリストが内住される。神様が人となられたのも神秘ですが、その人となられた神様が、三位一体の聖霊なる神様によって、信じる者の内に住まわれるというのも、また神秘です。この神様は近い。すごく近く私たちの内で、共におられる神様なのです。

思い出して頂きたいのは、イエス様が処女マリアの胎に人として肉を取られて宿られるとき、聖霊様によって宿られたことです。三位一体の御子なる神様は、聖霊様によってマリアの内に人として宿られた。先に読んだ16節でも「その霊により」と言われます。キリストが私たちの内に住まわれるのも、三位一体の聖霊様によるのです。

私たちが罪と裁きから救われるために、三位一体の神様が総動員で働かれています。その神様が、私たちと共におられて、私たちを救われると言うとき、その神様は単にどっか上のほうで祈りを聞いて、ちらちらとマジックハンドを動かしてなんてことではありません。あるいはまるでゴーストのように、見えないけれども側にいて、千の風のように見守っているから精神的に慰められるというのでもない。それなら十字架は必要ないし、その十字架で罪を償う犠牲として、人となる必要もないのです。クリスマス礼拝でも申しましたが、クリスマスに輝く主の栄光は十字架の主の栄光です。神様が私たちの罪から私たちを救うためには、その私たちの罪の責任を身代わりに引き受けて、裁かれ死ぬための真の人として生まれてこなければなりませんでした。そして私たちの代表となり、死ぬべき人間が復活させられ永遠の命に生きるため復活させられねばなりませんでした。そのクリスマスの御子、十字架の償い主、復活させられた愛の勝利者が、私たちの内に、聖霊様によって住まわれて、人はキリストに結ばれて救われる。キリストがその愛する者をご自身の形へと日々造り変え続けて下さって、ついにはキリストと同じ復活に、死んだ後、完全に至らせて頂ける。洗礼準備会で必ず学ぶ、救いの基本理解です。そして洗礼を受けたら忘れてもかまん基本などないのと同じで、クリスマスをお祝いしたら、そのクリスマスの喜びに忠実に生きていくのです。それが教会の、クリスマスの過ごし方です。

神様が私たちと共におられるというクリスマスの喜びをお祝いして、そこから教会が進んでいく道は、その共におられる神様と、私たちの内に住まわれるキリストと、どう共に生きていくことを求め願うか。これに尽きます。あるいはこう考えたほうがわかりよいでしょうか。どうして神様は遠くから共におることを求めずに、私たちの内に共におられて住まわれることを求められたか。神様のお気持ちから考える。でないとクリスマスの意味もわからんことにならんでしょうか。あたかも子供がクリスマスプレゼントをもらって喜んで開いた後で、あれ、何か思っていたのと違うなあと、私が求めたり思ったりしたのは、こういう幸せだったか、こういう形での「神様が共に」を、私は求めたり思ったりしてはなかったがと、まあ私も含め大概の人が思わんでしょうか。じゃあ誰がそんな「共に」を求められたかと言うと、私たちの内におられる神様です。イエス様が求められたから、その求めが叶うのならば、わたしはあなたのために死んだって良いのだと、求めて人となられたからです。そして聖霊様によって私たちの内に住まわれる内住の救い主となられたからこそ、私たちは、ともすると私たちが罪深く求めたり、自分勝手に思ったりすること全てを遥かに超えて、私たちの内に、聖霊様によっておられるキリストの力によって、救われる。それが神様の求めです。それが私たちの内で、神様が働かされる、御力なのです。

その御力によって、求めを叶えることができる、叶うと翻訳されてしまうと、何か初日の出に柏手打って世界が平和に…というような印象を私は持ってしまうのですが、直訳は単に、行う、働くという言葉です。叶うと言うと、まず求めや思いがあって、それを神様が受け入れて下さるかどうかということになりますが、そもそも御子は人間が求めた救いではありません。救いを求めたとして、どんな救いを求めたでしょう。人が自分に対する神様の求めでなく、自分のしたいことを求めて神様に背を向け、あるいは偶像を造り、罪に堕ちたとき、その自覚すらない時に、その私たちを罪と裁きから救うことを神様が求められて、その求めを実行なさったのです。御子を人として十字架で裁き捨てられて、陰府にまで降らせ、裁きを実行して下さった。そして御子を復活昇天させられて、御子を受け入れる全ての者の内に、聖霊様を内住させられ、御子を住まわせて下さった。そして、です。先の17節以下が語りますのは、その内住される御子の御力によって、私たちがキリストの愛の形へと造り変えられ、内なる人を強められ、自分自分の外なる人、肉の人が求めたり思ったりすることなんかは遥かに超えて、キリストの住まわれる内なる人が、キリストの愛に生きる新しい人へと救われていってしまう。私たちが、内に住まわれるキリストによって、内側から救われるという救いの基本です。問題は、その基本が、まるでクリスマスのように信仰生活から過ぎ去ってしまいやすいということです。

しかし、です。私たちを内から造り変える救いの御力は、私たちの求めに応じて働くのではない。私たちの信仰の力とか頑張りゆうきとか、そんな一切の私たちの力に応じてではなく、内住されるキリストによって、キリストの十字架の愛の御力に応じて、神様が私たちを罪から救い造り変えることがおできになる。それが教会だ、それこそ神様に栄光を捧げることを可能とされた教会なのだとパウロは語ります。アーメンと強調をしてまで語るのです。それが神様の求めであるからです。

だから、ここで御言葉が語るのは、私たちの求めを叶える力を神様が十分に持っておられるというより、もちろん持ってはおいでですけど、それを決められるのは神様ですから、それは力がどうのという問題ではありません。力が遥かに大きいから何でも願いをしたらよいというのではなくて、そんなにも大きな力で神様はあなたを造り変え、そのあなたが置かれている教会によって人々がキリストを知って救われていくため働いておられる方だから、今のあなたの生活が、あるいはあなたの周りの世界が、あなたの思い通りになっていず、神様は祈りを聞いてくれんとか、自分が思っている生き方はこうだからとか、そういう自分のことはさておいて、自分のことでジタバタすることはもう止めてしまって、あなたの内で、あなたをキリストの形に造り変え救うために働いておられる神様に、全部おまかせしてしまったらよいと御言葉は語るのです。それこそが、キリストによって救われた教会によって、神様が栄光を受けられるということであるからです。

その教会の幻、神様に栄光を捧げる教会こそが、次週からエフェソの信徒への手紙4章で緻密に語られる、教会の設計図、ヴィジョンです。神様の求めが、ここに情熱をもって描き出されます。その情熱を感じ取って頂きたいと願います。この教会を建てられることによって、栄光を求められる神様なのです。御子のみによってじゃない。教会によって、神様は栄光を受けられることを求めておられます。その情熱をご自分のものとして下さい。それが私たちを内から変えます。それがキリストのパッションだからです。それ故に私たちも、この栄光の教会を求めるのです。自分の好きな教会を勝手に思い描くのではなく、都合で求めるのでもない。そもそも教会を求めるよりも、個人的にプライベートに救われて生きて死にたいと思いやすい人間が、なのにキリストに結ばれて、その体である教会に、互いに結ばれ組み入れられて、神の家族と呼ばれてしまうのは何故か。それを栄光の神様が死ぬほど求めておられるからです。その神様の愛に応えて、私たちは栄光の教会として歩むのです。