12/11/18朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙3章18-21節、イザヤ書40章9-11節 「家族で参加できる喜び」

12/11/18朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙3章18-21節、イザヤ書40章9-11節

「家族で参加できる喜び」

 

アーメンというのは、ユダヤの言葉ヘブライ語で、その通りです、という意味の言葉です。教会で誰かがお祈りして、アーメンと皆が返事するのは、その通りです、私たちもその思いで一緒に祈っていますと神様に皆で返事をしているのです。ですので、もし誰かが、神様、私たちは皆キャリーぱみゅぱみゅの大ファンですと祈ったら、あちこちで咳払いとか聞こえるかもしれません。あるいは優しく、アーメンそうですね、誰かわからんけんど、その思いを受け止めたいと思いますアーメンと、すごく優しいアーメンが聞こえるかもしれません。そうありたいと思いますが、皆が皆に同意するというのは、確かに難しいこともある。

今日は清和一斉出席日ですが、高知中央教会では召天者記念の礼拝で既に天に召された兄弟姉妹を記念する礼拝です。高知東ではイースターに行っていますが、多くは11月第一の日曜日に行います。古くからカトリック教会で11月1日を聖人の日として守ってきましたので、プロテスタント教会もその直後の主の日に行うところが多いようです。

聖人というのは、聖なる人と書きます。今読みました御言葉の「すべての聖なる者」という言葉がそれです。全てキリストに救われた人は、キリストに結ばれて聖なる関係に入るので、聖なる者と呼ばれる。別名キリスト者ですが、それを聖書では聖なる者と呼ぶのです。右の頁2章19節では、聖なる民とも神の家族とも呼ばれます。家族と言ったほうがわかりやすいのです。別に罪なき生き方を全うした人を聖人と言うのでなくて、聖なる神様との家族関係に入れられたから聖人であると。ま、名字だと言ってもよいでしょう。私なら、聖なる幸生ですと自己紹介する。言いづらいですけど、名字なら仕方ない。と言うかありがたい。罪を犯したとき、それがよくわかる。もう自分は聖なるとか呼ばれる資格はないと思うとき、父が、いや、それでもお前はわたしの愛する子だ、家族だろ、名字じゃないか、お前はわたしの聖なる子だと言って下さるときに、く~と泣けるほど嬉しいのです。こんな私がと自覚するとき、その私の罪を赦すために人となられた神様の愛がわかる。十字架の上で私なんかの身代わりとなられた、キリストの愛の広さがわかるのです。

この聖人という言葉の使い方からして、人間は神様の思いを誤解して言わば罪を犯さない聖人君子が聖人だと思いやすいところがあります。神様が、私たちの思ったりする全てを遥かに越えているのは、そういう誤解のレベルでも起こることでしょう。プロテスタント教会が始まった宗教改革も、そういうとこで起こった一つの出来事です。難しく感じるかもしれませんが、中身は簡単です。当時ありがたい聖人を拝んだら、そのご利益で罪が赦されて、天国に行ける切符が手に入ると、いわゆる免罪符と呼ばれるものですけど、それは聖人を拝んで、お賽銭をしたらよいと教える人々がおった。それを知ったルターという大学教授が、それは違うろう、聖人の意味が違うと異議を申し立てたのが、歴史を揺り動かしてしまったのです。その中心にあるのは、人を拝んだち、ご利益もなければ赦しもない。拝むなら罪を赦してくれるため身代わりに死んでさえ下さった神様を拝まないかんという聖書の教えです。そして同じことが、実は日本の先祖崇拝にも繋がるのです。

これはある小冊子に証しされていた実際にあった話ですけど、ある家でおばあちゃんと一緒に暮らしている孫が教会に行き始めて、イエス様を信じて洗礼を受けた。そしたらおばあちゃんが毎日拝んでいる仏壇を一緒に拝まなくなったので、おばあちゃん孫に言った。ちゃんとご先祖を拝まんとバチが当たるぞね。そしたら孫が悲しそうな顔をして、こう問うた。じゃあおばあちゃんが死んで私が拝まんかったらおばあちゃん私にバチ当てるが?そ、そんなことあるかね、可愛い孫にどうしてバチらあ当てるかね。けんどおばあちゃん今そう言うたやか。それを聞いておばあちゃんハッとした。確かにそうや。考えんずつしよったけんど、ほいたらどうしたらえいろうか。考え込んだおばあちゃんの顔を見て孫が、おばあちゃん、悩みがあったら一緒に教会行こうって誘った。それでおばあちゃん、イエス様信じて、十字架の赦しと永遠の命を信じて、これもイエス様のおかげです言うて証しをされていた。私はそれを見て私自身洗礼受けたばかりだったのですけど、アーメン、それが私たちの父なる神様やと、励ましを受けたのを覚えています。

本当に父の愛は私たちの思うところを越えています。私たちの教会で起こったことで言えば、2年前に天に召された堀さんのことを思います。娘時代に洗礼を受けておったのですが、お母さんに反対されたばかりか、お寺の住職に嫁がされた。それで30年以上教会から離れておったのが、一人になって、お母さんと高知の高齢者施設に入ったら、うちの教会員と出会って礼拝に来れるようになった。しかもお母さんを導いて100歳でお母さん洗礼を受けた。今でもそのときお母さんを導いた堀さんの姿を覚えています。まるでベテラン牧師のように救いの急所を突いた福音を的確にお母さんに語っておった姿は、いつもの堀さんとは違っていました。今日の御言葉で「私たちの内に働く御力によって」と言われるように、これは神業だ、神様が堀さんを通して語っておられるとしか言いようのない姿であり、その後、お母さんイエス様信じて洗礼を受けますかと問うたら、いつもは反応のないお母さんが手を握って答えられた。もう本当に「私たちが求めたり、思ったりすること全てを遥かに超えて叶えることのおできになる方に」、堀さんによって、また堀さんをそのように見事に用いられたキリストによって、栄光があった出来事でした。

今はお二人ともイエス様のもとに召されましたが、さあ、どんな笑顔でお互いおられるろうと思うのです。実は私もお母さんの笑顔は見たことがないのです。洗礼の時、きりっとしたお顔をしておった以外は正直コミュニケーションがほぼ取れない認知状態でしたので、互いに笑顔で会話したことはありません。私の笑顔は届いているかなと、いつも讃美して御言葉を読み、イエス様のお話をして祈っていましたが、いつか私も主のもとに召されるとき、今度はお互いに笑顔ですよ。すごい笑顔ですよ。天国での涙は全部イエス様がぬぐって下さるって約束されてますから、すごいイエス様に手を動かしてもらうぐらいに涙を流しながら、笑顔で握手する日が来るって、心から楽しみにしています。

教会が召天者記念礼拝を行うって、そういう喜びと希望に溢れた礼拝を捧げるのです。私たちの願いや思いを遥かに超える救いを、神様が、ご自身の力でなさるから、その神様に栄光があるのです。十字架の神様に愛の栄光が輝いているから、ああイエス様、って信じられるのです。そのイエス様を信じられるようさせてくれる力、またそのイエス様の愛を悟れるようにしてくれる力そのものが、人間の力ではありません。その力を、聖書は先の1章で復活の力とも言うたのです。そうでしょう。人間の誰が自分の力で復活できるでしょう。自分で自分を思い通りにすることさえもできんのに、死んだら人間の力はそれで終わりです。その人間を、神様が復活させて下さるのです。それが思いを超えるのです。

復活というのも誤解が多いようですが、復活は修復ではありません。死んだ人が元通りになるのは蘇生です。復活は、もとを超えます。もう死にません。それは、もう罪を犯さんほどに、本当に聖なる体と心に、全く新しく造り変えられるのです。金曜日に清和学園のチャペルデイでティーンチャレンジの木崎さんという方の話を聴いて、改めて復活の力とは何であるかを学ばされました。それは修復ではないと言われたのです。ティーンチャレンジでは薬物依存で苦しむ方のための一年間の回復プログラムを日本でも始めたのですが、そこにまず相談に来る方々は、色々と心や人間関係に傷を負っていて、言わば何もかもが壊れている。人間関係が壊れて、人生が壊れて、人間性さえも壊されてしまった方に木崎さんはこう言うそうです。あなたのその傷を治す方法は私たちにはわからない。ごめんなさい。私たちはその壊れた人生を修復することはできない。でももしあなたがそれを捨てて新しい別人として生きたいと願うなら、そのお手伝いはできる。壊れた命を治すことはできんけど、あなたがイエス様によって新しく造り変えられるお手伝いなら、私たちはできる。だから、今までの自分はもう死んだことにして、この一年間やっていきましょう、イエス様に新しく造りかえられてもらいましょうと説得をする。そうやって、もう何人も別人になっている。その話を聴いても、アーメンと思いました。また牧師として目を覚まされました。アーメン、私も治すことはできんと思いました。私なんかには治せんのはわかっておったのに、何をしよったろうとも思わされました。自分の力によって、あるいは心理学などの知識によって、私は人の願いを叶えようとしておったのではないか。また治せる自分という幻想に踊らされておったんじゃないかとハッとしました。無論、学ぶのは大切ですが、それが神様の、復活を目指される愛と、同じ方向を見ておったろうか。私たちが滅びから救われるのは、キリストを死から復活させられた神様の御力による!と改めて救いのゴールを示されました。そうです。神様は壊れた古い人を治すのでなく、私たちを新しい人に造り変えられるのです。だから傷を負った過去に向くより、私たちがやがて完全に造り変えられ、傷一つない笑顔でお互いに喜びあえる復活の将来に向かって、キリストがそこから来られる前に向かって、私たちは前進することができるのです。召された愛する人たちとの思い出も、もちろん大切です。でもその愛する者たちと、共に御力によって復活させられるのが救いですから、やはり私たちが本来待ち望むのは、神様の栄光を共に笑顔で讃える復活の日です。その希望が現在を照らし、過去をも照らし始めるのです。思い通りにならなかったこと、願い通りじゃなかった悔しさがあっても、その人間の限界を超えて、人の願いや思いの全てを、遥か天にまで突き抜けたところから、キリストの救いが来るのです。神様が救ってくださるのです。キリストがすべての人のためにご自身を生け贄として捧げられたのは、主が私たち全員を死ぬほど愛されているからです。その愛にアーメンと答えて、神様の救いを求めればよい。その愛を求める願いや思いをも、十字架の愛は遥かに超えているからです。