12/10/28朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙3章16-17節、エレミヤ書31章1-14節 「心、キリストの住まい」

12/10/28朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙3章16-17節、エレミヤ書31章1-14節

「心、キリストの住まい」

 

父が私たちの心に、聖霊様によってキリストを、住まわせて下さる。定住させて下さる、本拠地として下さるとも言えます。私たちが我が家を住まいとし、本拠地として、働きに出かけたりするように、イエス様も別に私たちの心の中に閉じこもっておられるのではありません。救いを確保するとか、そういうのではありません。自由に出歩いておられるというイメージも面白いかもしれません。心の中からひょいっと顔を出されて、自由に恵みの働きをして下さる。いいですね。決してイエス様を心に飼っているわけではない。むしろイエス様が私たちの主として、私たちの毎日の日常を導くために、心に住んでくださるのです。

私の信仰の先輩は、そのことをまことイメージ豊かというのか、霊的センスと言いますか、やはり、信仰でしょうか。道を歩いている時に、電柱とかあると、すっとよける。いや、別にあたる距離じゃないろうと言うと、え?あ、うふふ、イエス様に当たると思って、つい…。聞くとイエス様がいつも彼女の右側を歩いて下さっているというイメージがあると言うのです。イエス様がわからない人からすると気味悪いとか思うのかもしれませんけど、私はうらやましいなと思いました。イエス様に対する純愛と言いますか、教会の歴史には、そういう愛に根ざした信仰のモデルは、確かに少なくないのです。教会が教会らしくなる時には、いつもそうした愛のモデルが力強くなるのです。

私は、どうかなと考えまして、ふと思いましたのは、私は苦しみが余りにも強くなって祈るとき、祈るのも辛くなるとき、父よと呼びかけるより、イエス様と呼びかける、いや、イエス様としか祈りようがないときがあるなと思いました。すがらずにおれないとき、イエス様と呼ぶ。呼び続ける時があります。そういう時、イエス様が私の心の中から外に出て来られてなのか、心から体全体に大きくなられて包み込んで下さってなのか、もうそうなるとイメージなんかでは追いつかない、キリストによる救いの現実がある。イメージは追いつかないのだけれども、確かに、イエス様が共にいて、御名を呼ぶ者を救われるのです。

キリストが住んで下さるというのは、もう一人にはさせんということです。イエス様が私たちをご自分の羊として飼ってくださると言ってもよいかと思います。そうするとイエス様の心の中に私たちがいるとも言えるでしょう。じゃあ、心のどこか。隅っこか。一応心がけて下さっているという程度か。いや、私たちをおぶって十字架に架かるほどに心の中心で、イエス様は私たちを愛して下さっているということを、私たちは信じてよいのです。神様が死なれるというのは、そういうことです。親が子のために死ぬ理由でさえ、一体他にあるのでしょうか。

なら、私たちは自分の心の中の、どこの部分に、イエス様を置いているでしょうか。置いているというのはおかしいですけど、あるいはそう思わずにはおれんときさえ、あるのかもしれません。心の一等席は誰に座らせているのでしょうか。洗礼準備会をしますとき、私は毎回、私もそれで導かれた、ある小冊子を用います。そこに二つの丸い絵が書いてあります。私たちの心を表す○なのですが、その中心に王座の絵があって、一つは心の王座に自分が座っている。そしてイエス様を表す十字架は○の外にあるのです。もう一つの○の王座にはイエス様が座っておられて、自分は○の中の下に、ちょこんと座していて、でも何だかホッとして嬉しそう。それで、その二つの絵を指して、こう書いてある。あなたの心の状態は、どちらですか。そして、どちらを望みますか。随分、ストレートな表現ですけど、この問を避けて通ると、洗礼を受けた後で相当苦労するのではないかと思うのです。信仰の悩みって、そこじゃないでしょうか。王座はイエス様に座っていただいて、自分はその足元でホッとして、お従いしている。でも、それが中々そういかない。だから続きの小冊子も実はありまして、聖霊様によって生きよう、という冊子がある。そこには別の○が登場します。○の中にイエス様はいるのですけど、主と信じて、お迎えしましたから、住んで下さってはいる。でも心の下に、ホントまるで置いてあるように十字架があって、王座には、自分が座っている。自分が主になっていて、主は、黙って十字架として置かれている。いや、でも本当は、その王座を盗んでいる私を、黙って背負われているのだと思います。幸生、わたしはあなたを背負っているぞ。そうじゃないとあなたは救われないから、わたしはあなたを背負うけど、でもそのままだとあなたは、愛に根ざした歩みができんだろう、愛にしっかりと立てんじゃないか。パウロが祈っているのは、そういう教会の現実があることを、よく知っているからだと思うのです。

信仰によって、キリストが心に住まわれるというのは、やはり信仰によってということであって、信じて洗礼を受けたら機械的に、自動的にキリストが心に宿られて、救いが確保されるということとは違う次元の事柄なのです。住まわれるというのは深いのです。同居ではない。単に私の心の中にキリストが霊的におって、で、それでどうなるのか。そもそも何で住まわれ、定住され、本拠地になさるのか。何故か。私たち、教会が、キリストの体になるからです。本当になるのです。キリストが教会の心の中から自由に現れ出でられて、例えば牧師が説教するとき、キリストが自由に私を用いて語られて、それで誰かが救われるのです。例えば誰かが、優しい声をかけてくれて、そこにキリストが御声を重ねられて、それで誰かが導かれるのです。誰かが受付奉仕をされて、最近マイク渡されるから緊張して恥ずかしいと思いながらも献金の祈りを捧げる時に、あるいは聖餐を受ける時、その純真な姿にキリストがご自身の純真を重ねられ、そのキリストに触れた方が、何に触れたかわからんけれど、そこで永遠の愛に触れてしまう。そのようにキリストが私たちと共に住まわれ、ここをご自身の本拠地とされるため、ここにキリストは住まわれることを、キリストの方で決められたのです。ここがわたしの王座だと。わたしはあなたがたに言うたではないか。神の国はあなたがたの心の中にあると。だから、ちょっと先に飛びますけれど、パウロは20節でこう祈って締めくくります。私たちの内に働く御力によって、私たちが求めたり、思ったりすること全てを遥かに超えて叶えることのおできになる方に、誰によってか?教会により、またキリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。こんな弱い頼りない、なのに自分を頼ってしまう困った私たちだけれども、そんなあなたから、わたしは栄光を受けたいと、父はキリストを私たちの心に住まわせて、キリストがあなたの人生の中心だ、そのキリストを主とするあなたから、わたしは栄光を受けたい!と父が求めて下さった。あなたはこれを信じるか、わたしの愛を信じるかと、信仰によってキリストを心に住まわせられることを決められた。それを信じて、イエス様、それは私には荷が重すぎるけど、それがあなたの御心であるなら、私はあなたを信じます。父のご計画はなると信じます。私をキリストの体の枝として用いて下さい。捧げます、主よと、心の王座を主に明け渡す時、きっとそれは、そんなに見事ではなくて、葛藤とかもあるのですけど、イエス様、あなたが主です!助けて下さい!と祈る時、そこに私たちは自分に根ざさず、主の愛に根ざせるのです。でないと、自分に根ざしてしまいやすい。自分を根拠にしてしまい、王座を盗んでしまうのです。

皆さん、私たちの心は誰のものでしょうか。来週は聖餐の礼拝です。洗礼式もあります。そのために洗礼準備会をしてきて、受洗者は小冊子に描かれた二つの○の絵を見つめて、私はこっちを求めます、こっちが私の望む心ですと、イエス様を心にお受け入れしました。相応しい準備をしてきました。聖餐準備というのも、またあるのです。相応しくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主の体と血とを犯すのである、と語られ、悔い改めが求められ、信仰と真実とをもって聖餐に与りましょうと勧められます。じゃあそのときに、あるいは今これを聴きながら、キリストに王座を明け渡してない私は相応しくないから、もう聖餐受けないでいよう、来週の礼拝休もうということでしょうか。断じてそうではありません。それが自分ではできんから、キリストを王座に就かせるということを、罪ある人間はできんから、だからこれは神様がなさるのです。御父が、聖霊様によって、御力によってキリストを心に住まわせて下さる。それは三位一体の神様の御業です。だから聖餐の勧めでも、悔い改めを求めます。助けて下さいと共に祈るのです。自分の力や良い意志、グッドウィルでは、ましてや自分の人々への愛や神様への愛では全然相応しくなれんから、だからキリストが来られたからです。十字架で罪のすべてを赦して下さった、そのキリストの、赦しが私には必要です、罪深い私を助けて下さい!と、キリストの足元にすがりつく時に、相応しい信仰を主はそこに見られて、あなたの信仰があなたを救ったと笑顔で言って下さいます。そうだ、わたしがあなたの主なのだからと、王座についてくださるのです。そうやって、聖餐準備をしましょう。主に、私たちの日常の、あらゆる場面での主となって頂きましょう。私がイライラする場所で、イエス様、主となって下さいと。それですぐイライラせんなるか。するかもしれません。罪は手ごわいです。自分というのは死ぬまで死にません。王座に未練たらたらです。でも主はその罪を赦されて、そこに尚、向き合う力を下さいます。目に見えている自分の姿は、罪に負けている嫌な姿です。でも父は目には見えない内なる人を見つめられます。キリストにすがって、助けて下さいと、自分の力への信頼を放棄して、もうこれ捨てたいがです、助けて下さいと、主の名を呼び求める内なる人を強くされます。そうやって、キリストが主であるという証の業をなさるのです。愛に根ざすということは愛が見えない愛の荒れ野で、キリストに根ざすということです。イエス様助けて下さい!と、キリストに立つということです。それをするのが、イエス様!という信仰です。愛がなくても大丈夫です。その私を愛されるキリストに根ざして、その足元におれば、やがて愛は実る。キリストが実らせて下さると信じて待てばよい。愛の主の、キリストを信じればよいのです。そのために、父はキリストを、心に住まわせてくださるのです。