12/10/21朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙3章14-16節、イザヤ書65章17-25節 「御父なる神様!」

12/10/21朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙3章14-16節、イザヤ書65章17-25節

「御父なる神様!」

 

イエス様が教えて下さったことで、最も栄光に富んだことの一つは、あなたがたは神様を、父よと呼んで祈りなさい、と言われたことです。想像してください。皆さんがやがて天国で神様と顔をあわすとき、何と呼びますか。またそのとき隣にいてくださる御子イエス様は、何と呼ぶことを期待しておられると思われますか。この幻、ヴィジョンを今日家に帰るとき、また帰った後も、ずっと思い描いて欲しいのです。そして実際に呼んで頂きたいと願います。神様を、父よ、と呼ぶことのできることが、どれほどの栄光であるか、お考えください。難しいと思われるなら、永遠を想像して下さい。永遠。今、は過ぎ去ります。今若い人、若くなくなります(笑)。若くない人、そういう若い若くないということ自体が、そんなに遠くないうちに過ぎ去ります。そして永遠です。永遠を考える時、人は真剣に神様を考えずにはおれません。神様をこの目で見て、お会いするのです。その時、神様から名前を呼ばれた時に、では神様を何と呼びますか。そのリアルな関係をお持ちですか。

ここでパウロがひざまずいて祈っているのは、この関係を、神様の力によって持って欲しいからです。まだ洗礼を受けておられない方は先ず信じることによって持ってほしい。そしてもうキリスト者であられる方は、神様を父と呼ぶリアルな関係を更に深めてほしい。それが、では、どういう生き方を意味するのか。その生き方がここで祈られています。まさにこう生きてほしいと、そして、その生き方は、祈る以外には生きられないからと、パウロは祈っているのです。これは神様の力によらずしては、どうしようもないことであるからです。

もう少し、永遠の幻をのぞき見たいと願います。先週の説教題でもありましたが、覚えてない?ほら、過ぎ去るのです(笑)。私たちはここ、教会で、永遠に触れます。教会では永遠のことが語られるのです。神様が語られるからです。それを忘れたら、私たちは何をして生きればよいのか、わからんなってしまいます。特に神様を礼拝するときには、私は今、永遠に触れているのだということが重要です。その境、今と永遠の境が、ある意味曖昧になるのが、教会という存在でもあるのです。

今読みましたところで、天にある家族と呼ばれているのは、先に天に召された兄弟姉妹たちです。その数は想像を絶します。色んな時代、色んな国でキリストの恵みによって救われて、現在、地にある全ての家族も、日本の教会のスケールから考えたら、想像を絶する数ですが、天にある家族はもっとです。その圧倒的な家族は既に父のみもと、救い主のみふところにいて、罪から事実上解かれて、悪魔の誘惑も関係ない。いいですね。教会は、その天の家族のことを勝利の教会と呼び、また地上にいて罪と誘惑と戦っている私たちのことを、戦っている教会と呼んできました。私は弱虫なもんですから、勝利の教会に憧れます。戦うのは辛いですよ、正直。でも勝つんです。キリストが罪と死に勝って下さって、キリストを信じる者はすべからく、死んだとき、そのキリストの腕の中に倒れこんで、他のとこには倒れんからです。キリストがその人と共にいてくださいますから、必ずキリストの腕の中に倒れこむのです。その私たちをキリストが、よし、受け止めた、勝利の中に受け止めたぞと、キリストの復活の勝利に起こされます。だから先に召された家族を勝利の教会と呼ぶのです。私たち、そこに行きますから、だから準備をするのです。一人でも多くの人々と一緒に、キリストの腕の中に倒れこんでいきたいからです。それが準備です。嫌でしょ、一人で天国に行くの。主も嫌ですし、そのお心を啓示によって知らされたパウロも、だから祈っているのです。戦っている教会が、真実の愛の戦いを戦い抜くことが出来るようにと、祈って戦っているのです。

しかし、その愛の戦いは、人間の力によっては不可能です。似たことはできます。人間が人間的能力の範囲内で優しくしたり、自分を犠牲にしてでも誰かのために生き、命を捨てることだってできます。すごいと思うこと、また思われることを、それぐらい人間だってできます。ただし、そこで真実、思い込みじゃなくて神様の愛に触れ、ああ本当に神様はおられるのだと、神様の愛がそこから流れ込んできて、永遠が流れ込んできて、私はこの神様を信じなければならない、というか、もう信じるも何も、私は神様を疑えない、神様は生きておられて、しかも私を愛しておられる、私は神様に立ち返らなければならない!と、人が救いに巻き込まれて行くような出来事が起こるのは、神様の力によるしかないのです。

教会とは、その神様の愛の出来事が起こるところです。神様に向き合うとも言えます。見えない神様に、どうして向き合えますか。でも向き合っているなら、そして愛の戦いがそこで起こっているのなら、神様の力としか言いようがありません。戦いですから、苦しいだけのこともあります。負けることもあります。イエス様の腕に倒れこんで死ぬまで、負け続けって人がおってもよいのです。そりゃ勝ちたいと思いますし、父もまた、勝ってほしいと願っておられるに違いないのですけれど、それでも負け続けってことないでしょうか。でもそこでやめないで、神様助けて下さい!と戦っているのは、それこそ御父の力が働いているからです。愛に生きてくれ、わが子よって、父が抱きしめておられるから、やめるにやめようがないのです。そして必ず、どんな戦いをしても必ずキリストの勝利の御腕に倒れこみ、私が勝ったとか負けたではなくて、キリストは勝利された!と賛美する勝利に入れられます。何という自由でしょう。自分がどうのでなく、キリストが全てになる。そのまったき勝利が、神の家族全員を待っているのです。

神の家族が、あるいは父の子どもたちが、神の家族として生きるためには、私たちを父の子として救うため、御子イエス・キリストを下さった父の力が必要なのです。人が自分らしく生きようと思ったら、自分探しして、適当に見つけて頑張るだけです。出来る人がいて、できない人がいる、ただそれだけです。しかし神の家族として生きるには、自分の力では不可能です。神様の力が必要です。そして、その力に寄り頼んで、主よ、助けて下さいと祈って、神の子の愛の格闘をする時、人は本当に自分らしくなります。造り主の愛に立ち帰るところで、人は本当の自分に向き合えるのです。だからパウロは祈るのです。どうか御父が、その霊により、力をもって!と。父がその子たちにお与え下さった聖霊様によって働く力が、私たちに、父の家族としての戦いを可能にさせるからです。それが教会の戦いです。キリストが教えて下さった戦いであり、私たち本来の生き方です。父の愛に応えて、父が愛される人々を愛して生きる。神様の愛に生きるとは、そういうことです。

ただ、罪がありますから、地上においては、まだ勝利の教会ではありませんから、愛が格闘になるのです。罪人を愛するからだけではありません。ま、それだけで格闘です。聖書が語る神様の愛の格闘とは罪人を愛することが如何に大変かという苦しみです。三位一体の神様は、楽勝で愛したりしていません。それは大いなる間違いであり、悪魔の大ウソに過ぎません。罪人を愛する、あるいはうんとわかりやすく言えば、人が自分勝手、自己中心になっている時に、その人を愛するのは、困難です。その困難を神様は十字架で成し遂げられたのです。その愛に生きるというのが、父の家族の格闘ですが、そこにはさらなる困難があって、自分の罪とも闘わないかん。相手どころか自分が自己中心になって、罪に負けて、愛したくない。愛しなさいと言われる神様に敵対心をすら抱きかねない。そうした罪との格闘が未だ継続中の私たち戦っている教会が、歴史上、罪と悪魔に大敗を喫したなんてことはいくらでもある。個人の問題だけではない。教会がここでは問われるのです。

その教会、自分勝手の罪をめいめい持っている者たちが、ただ恵みによって救われて神の家族とすらされても、なお罪の戦いの中にある、その教会が、しかし、一つのキリストの体に組み入れられて、後の4章で言われますけど、体は一つ、聖霊は一つだ!皆、神の家族じゃないかと力強く断言される。それは、全くもって御父が、それが家族ではないかと、その豊かな栄光に従って、教会を勝利させて下さるからです。それがキリストの勝利です。十字架の赦しであり、死の扉、陰府のかんぬきを打ち破る復活の勝利です。この勝利者キリストの御腕の中に天と地にあるすべての家族が一つに抱きかかえられているのです。

パウロが、ここで祈っているのは、悲観的に絶望的に祈っているのではありません。むしろやっぱり嬉しいのです。こう祈るのです。どうか御父が、その豊かな栄光に従って!言いかえれば、御父の豊かな栄光に比例して!パウロは勝利の教会の幻を見ていますから、悲観的ではないのです。無論、戦いはありますし、この時パウロは囚人で苦しい。でもその苦しさに比例してじゃない。こんなに苦しんでいるのですからと、父に訴えているのではない。あるいはそれを功績のように、自分の手柄のように持ちだして、こんなに頑張っているのですからと、自分の栄光に従っても祈らんのです。ただ、御父の栄光に、わたしはあなたがたの父であり、あなたがたはわたしの子どもだと言われる、父の栄光の豊かさに比例して祈るのです。父よ、このことは全て、あなたから始まったことです。あなたが始められた救いです。だから大胆に祈れるのです。父よ、天にまします、我らの父よ、私たちの度重なる負けにも、罪にもかかわらず、ただキリストの恵みによって、十字架の赦しの勝利によって、私たちを罪と死から救われる栄光の父よ、その愛の栄光の豊かさに比例して、私たちの内なる人、目には見えない、しかし存在する内なる神の子を強くして下さい!あなたを信じ、あなたを愛し、キリストの愛で互いに愛し合う、神の家族としての歩みを、どうか地上で全うさせてください!と祈る。見える人間の誇りとか弱さに従ってではなく、見えない御父の栄光に従って、父よ、その罪人をキリストの犠牲によって救う栄光に従って、全くその栄光のすごさに従って、私たちをキリストの愛のお姿に造り変えて下さいと祈るのです。見える人間によってでなく、見えない御父の栄光に従って、救いは見えるようになるのです。