13/3/10朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙4章6節、詩編33篇 「皆同等に特別な父の愛」

13/3/10朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙4章6節、詩編33篇

「皆同等に特別な父の愛」

 

唯一の父なる神様がおられる。教会が自らの一致を熱心に保つためには、本当はこのことを思うだけで十分なのだと思います。別に八百万の神々でえいやかと、俺はこの神、私はこの神と、好きな球団やアイドルを自分で選べるような神なら、唯一と言われても、ま、あなたはね、私はそうは思わない、で終わるのでしょうけど、この御言葉を聴いているのは教会です。教会に向けて、神様は唯一って語られたら、何の説明も必要なしに、アーメンって、一致ができるはずです。教会は唯一の神様をあがめるために、ここに集っておるのですから、他の理由ではないのですから、教会の一致をアピールするなら、これが一番わかりやすい。そういう意味では、この手紙を書いた使徒パウロは、4節から一つ一つと続けてきた一致の根拠のリストの最後に、一番大御所を持ってきた。真打、大取りです。主が、祈るときは、こう祈りなさいと教えて下さって、天にまします我らの父よと必ず祈る、その父。父の御名こそあがめられますように。その父なる神様の御名のもと、その神様の教会は一つであると、教会であるなら、アーメンと一致できます。

できるだけじゃない。可能だ、というのじゃなくて、そもそも神様は教会を一つだと見ておられる。それ以外のものとして父は教会を造られてないし、御子も御霊も与えられてはおらんのですから。その父の御心が天でなる如く、今ここでなされるように、祈り求めて、従うのです。もし教会に不一致や不和があれば、悔い改める他ない。父を無視はできない。全くの父の恵みによって、教会に既に与えられている御霊の一致を保つよう努めなさい、熱心であれと命じられているのを、私たちは、ここでこそ心して聴きます。そういう真打、父なる神様の登場です。

少し前にも紹介しましたサラリーマン川柳で、こういうのがありました。電話口、何様ですかと、聞く新人。本来どちら様でしょうかと尋ねるべきところを、何様ですかと言うのは大変な勘違いですが、案外似たようなことを、神様にしているのかもしれません。父なる神様は、全ての上にあられる方です。その方のもとで、私たちは皆、本来畏れを持つべきである。そういう方です。神様なのです。人間ではない。神様が、あなたがたは一つだと言われたら、一致を保ってない現状に、ごめんなさいと一切の高ぶりを捨てて謙遜にひれ伏す他ない。その神様の御名が最後の最後に挙げられて、父なる神様は唯一だ!その神様の教会は一つである以外にはないだろうと、一致の根拠、決定的根拠が挙げられる。神様の御名が登場する。ここで教会が、自分を誰だと思っているのか、それとも何様だと思っているかがわかるのです。それが続けて「すべてのものの上にあり」と御言葉が続く理由でしょう。単に、ま、神様やきねと、神とは理屈上そういうものだと説明しているのではないのです。説明ではなくて、説得です。あなたがたは神様に招かれたのですから、その招きに相応しく歩み、一切高ぶることなく、と言われた。直訳は、全ての謙遜をもって、と命じられた。それが教会の一致を保つ相応しさでしょうと。そして説得のクライマックスで、あなたがたをここに招かれた父なる神様は唯一です、神様がです、と迫られます。神様の御前に引き出される思いがあります。しかも、私たちの上にあられる神様ですから、その下に、私たちがひれ伏す以外の姿勢でおるなら、何様ですかって話に、やっぱりなってしまうのです。それは教会が一致を保つ努力を怠るときに、何様になってしまっているんだと思うのです。

その私たちの上におられる神様を、絶対なる神様は、とは、ここでは言わない。言っても間違いないのですけど、その絶対なる神様が、ならどうして教会の一致に、こんなにこだわられるかと言うと、父だからです。神の家族の父だからです。この手紙は実にこの祝福の言葉をもって始まったのです。「私たちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」私たちの父です。無論、私たちが生まれる前から、永遠の御子の父であられた永遠の父ですし、それこそが父の父たる所以ですけど、その父が、です。神様を神様とも思わず、自分が何様かになったつもりで我欲を押し通したい私たちを、子として望まれ、滅ぶなと望まれ、その代わりに永遠のわたしの御子を人として罪の世に送り、あなたがたの罪の裁きを引き受けさせると、御心をお決め下さった。その父です。その御子を信じる全ての者を、御霊によって御子に結びつけ、私たちを神様の子供として新しく生まれさせてくださることで、正真正銘、私たちの父となられた神様が、その子供に要求されるのです。あなたがたがわたしの子供たちなら、一つだ。一つの神の家族だ。わたしの家族の間に不和があってはならんと、父として当然の要求を求められる。そのの御名があがめられるように祈りなさいと、御子も教えてくださったのです。我らの父よと、祈るのです。その我らに対する父の愛を思うとき、その我らの間に、もし赦してない敵対心があるなら、父はどんな思いだろうか。父の名が、我らの父の名が、我らの間で聖なる名として崇められているだろうかと、父のお気持ちに思いを寄せるとき、その父の招きに相応しく歩める一歩を、初めて踏み出すとも言えるのです。形式主義ではない。我らに罪を犯す者を我らが赦す如くって、どうして祈るのか。我らの父が望まれるからです。それが、その名を愛と呼ばれる、私たちの父の家族のルールだからです。

私たちが神様を、父よと呼んで礼拝するとき、私たちは、自分たちが誰であるのかをも、同時に表明しているのです。御霊によって御子に結ばれ、新しく生まれた父の家族です。御言葉が「すべてのものの父である神様」とここで語るとき、その全てとは、家族全員という意味です。家族全員を等しく同等に愛される父の愛のもとでは、一つになって聖なる御名を呼ぶ以外に、皆等しくその恵みを受ける以外に、一体何があるだろうかと、私たち全員の父である神様は唯お一人であられ、家族全員の上に、家族全員を通して、家族全員の内におられる。その父なる神様の御心は、その家族全員、教会を、一つのキリストの体として世に遣わして、世界を救うことであられる。その教会の招きに私たちは相応しく歩んでいく他はないと、御言葉は説得するのです。

そして、そのように教会が招かれておればこそ、神様をまだ父として持っておられない人々もまた、ここに招かれているのです。キリストはそのために父から遣わされ、私たち教会もまたそのため遣わされているからです。教会がキリストの体として、家族全員を通して働かれる父の御業にお従いするとき、世界も父を無視できんなり、私も家族に招かれているのか、この神様を私も父と呼んでかまんのだろうかと、知るようにならざるを得んからです。伝道は技能や実力ではなく、誠実さです。父がその教会を用いられるからです。それは父の招きへの誠実な生き方であり、そこでは自分の心が誠実かどうかと自意識過剰になるというより、父のお気持ちに意識が注がれる、御名をあがめる誠実さです。全員を通して働くことを、喜びとされる父への誠実さは、その招きへの忠実さに直結します。招きに忠実な教会を通して、父は救いを行われます。それが伝道です。誠実にやっている私の名とか、別にどうだってよいのです。その私を常に気にかけられ、そして一人一人を愛してやまない、父の名があがめられますようにと祈り、父の御心をただ求める。父のお気持ちを第一として、主の愛の御業に自分を捨て励む。それだけです。そこに教会の家族への愛があります。父が招かれる人々への愛があります。神様を神様として畏れ敬い、神様は生きておられると、唯一の父の名をあがめる教会を通して、世界はその救いを得るのです。

13/3/3礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙4章5節、申命記7章6-8節 「天国は幼子のものです」

13/3/3礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙4章5節、申命記7章6-8節

「天国は幼子のものです」

 

先々週お約束しました通り、今朝は幼児洗礼について少し丁寧にお話します。私たちの教会員にも、幼児洗礼を受けた教会員がおられます。教会の家族の一員です。教会はそうやって、約二千年間、幼児に洗礼を授けてきました。聖書には幼児洗礼という言葉はありませんけど、ま、三位一体という言葉もありませんので、言葉がどうというより、信仰の中身、神様の何を信じちゅうかに、主はこだわられるのだと思います。記録としてはっきりとしている限り、二世紀には幼児洗礼の記録が教会に残っています。早ければ使徒たちから洗礼を受けた信徒のひ孫の世代になります。ひじいちゃんは使徒ヨハネ先生から洗礼受けたがよというような会話のあった世代です。それから千年以上たって宗教改革の時、洗礼を魔術的自動的な救済の手段にしているというような批判がありました。幼児洗礼受けても全然イエス様信じてない大人がいるような時代でしたから、今の欧米なんかもそうですけど、幼児洗礼はいかんという主張が出てきた。その人の信仰の中身がはっきりせんと。もっともな話です。信仰は一つ、洗礼は一つと告白する、信仰の中身、洗礼の中身であるキリストによる救いと全く無関係に生きていて、まあでも洗礼受けているからと、中身でなく外側だけ出されても、良く知られた替え歌と同じで、キャラメル拾ったら箱だけ~(笑)ってことになる。

ただ、中身が問われるのは成人洗礼でも同じなのです。そして中身、キリストに聖霊様によって結ばれているという中身それ自体は、見えんのです。聖餐式に即して言えば、中身を食べて確かに主と結ばれて栄養を受けて造り変えられて成長してっていうのは、全く見えないわけではありません。むしろ主の恵み深きことは味わい知るべきなのです。が、信仰体験は中身そのものではない。ここは急所です。でないと中身そのものでなくて、その体験が、私はこんな味わいを体験したけど、あなた違うでしょってやってしまうと一致を熱心に保てなくなる。これ、幼児洗礼でも同じなのです。自覚的体験は大事ですけど、体験という外側にこだわるのも、等しく信仰の足元を弱くしてしまいます。自分の信仰、キリストに立つ足元!って、その足を支えている土台、恵みのキリストより自分の足元を見ていると、足がむくみます(笑)。足の太さ、信仰の太さで、自立しちゅう人などおらんからです。

洗礼を体験としてこだわるならば、私は21歳で受洗しましたが、実は期待しておったような感動はありませんでした。正直、え、これだけ?って感じでした(笑)。感動的な回心体験もありますが、20年経って、感覚は、ほとんど覚えていません。もっと最近の恵みの味わいのほうがもっと実感できるのです。そして、もっと味わいたいのです。生きておられるキリストの恵みを、日々新たなる主の憐れみを、です。体験は望ましい喜びではありますが、それを洗礼に強制はできません。体験を求めて受洗して感動がなければ、おそらく悩むと思います。野口牧師じゃパワー不足なんじゃないかとか(笑)。いや~、その人の責任でしょうってことでもない。そもそも洗礼体験に対する責任なんて、誰も取ることはできんのです。洗礼は聖霊様の御力の内にあるからです。三位一体の聖霊様によって、三位一体の御子なる主イエス・キリストに結ばれる。それが洗礼の中身であって、そこに神様の御力があります。その御力の現れとしての体験を、洗礼に強要せいでかまんのです。大切なのは歩みです。キリストの招きに相応しく、洗礼の中身を歩むかどうか。

その歩みは、自分で満足できるほどの信仰の強さに相応しく、ではありません。招きに相応しくです。だから信仰の歩みと言うより、従順な歩みのほうがわかりやすい。そもそも信仰も自発的、自分発ではなく、キリスト発の恵みの呼びかけ、招きに、はいと応える、従順な応答ですから、私たちが信仰と呼んでいるものの多くは、従順と言い直したほうがわかりよいのだと思います。ただ、その従順は、一切高ぶることなくとの招きへの従順ですから、私はこんなに従順だからと、自分の手柄には当然ならない。手柄にしたとたん不従順です。信仰ってそういうものでしょう。手柄にしたい罪人へのキリストの恵みを信じるのですから。

その恵みの主が、招きに相応しく歩みなさいと招かれるとき、それは主の恵みに相応しい、家族の歩みであり、自己責任にはならんのです。むしろ愛で罪を覆うような歩みです。自己責任では歩めない赤ちゃんは歩めないのも自己責任か。今も貧しい国では幼児の死亡率が高い。昔は尚更です。残念ながら歩めるようになる前にってことでしょうか。そういう人の責任だけイエス様は特別にもっともっと背負われたのだという理解でしょうか。むしろそうした赤ちゃんを抱き上げて、手を置き祝福されながら、子供たちをわたしのもとに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできないと言われたのです。どうしたって自己責任にはできない幼児が神の国を受け入れる人の模範だと、この幼児の責任を負うのと同じように、わたしはあなたがた全員の責任を負ったのだから、だから自己責任で誰をも放置せず、わたしのもとに来させなさいと主は言われた。その招きはこっちに置いといて信仰を問うのは、信仰を他人事にする無責任な信仰になるでしょう。むしろ責任ある信仰というのは、イエス様に、はいと返事して、イエス様のもとに来させる従順な応答です。主の招きに相応しく歩む教会は、自己責任では歩めない者をおぶって、具体的には、祈り執り成し、そしてキリストの救いを証しすることで、共に歩んでいく教会です。誰の手柄にもならない信仰は、そもそも自発的に湧いてもきません。私たちが主の恵みの御言葉のもとで、その信仰を、はいと受けるように、幼児も成人もどんな人をも、キリストの前に来させるのです。礼拝に来ることが出来んかったら、その人のもとでキリストの名によって祈ればよい。牧師を連れてって御言葉を共に聴き、キリストのもとに置けばよい。そしてその人が、はいと応答するように、祈って執り成し、おぶり続ける。幼児洗礼において信仰が問われなければならないとするなら、幼児に信仰がないのは当前ですから、むしろ問われなければならんのは、その幼児を恵みとして神様から与えられた教会が、幼子をわたしのもとに来させなさいと言われるイエス様に、はいと応答しているかどうか。その信仰でしょう。無論その信仰を、親の自己責任にすることもまたおかしいというのも、もはや自明のことと存じます。もちろん親は祈りますし、キリストの恵みを証しするため奮闘します。それを孤軍奮闘にさせんようにする教会の従順、神の家族の責任こそが信仰の責任として問われるのです。宗教改革時も現代の欧米でも、幼児洗礼が問題化するのは、いつでもその教会が、キリストのもとに連れていくこと、伝道することの責任を、洗礼を授けることで回避しようとするときです。その人をおぶって主の前に歩まんときにそうなるのです。この問題に取り組んできたドイツの神学者の言葉が心に残っています。洗礼が指し示すキリストの救いを、親に明確に語り伝道するのだ。そしたら親は、果たして自分達は、そんな洗礼をこの子に願っているだろうかと決断を迫られ、私もまた、そのような洗礼を受けていたのかと決断を迫られる。教会が彼らに福音を宣べ伝えることによる他はないと。

大変デリケートな問題です。それは命にかかわる問題だからそうなのです。病床洗礼もそう。いつも判断は難しい。それでもはっきりしているのは、人は皆キリストに結ばれて救われる他ない。この洗礼を告げるのです。この洗礼に生きるのです。恵みによる救いの洗礼は一つです。

13/2/17礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙4章1-5節、エゼキエル書36章25-28節 「受けましょう、洗礼」

13/2/17礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙4章1-5節、エゼキエル書36章25-28節

「受けましょう、洗礼」

 

洗礼は一つ、…ん?バプテスマは一つ?読み仮名が括弧つきで振っちゅうがは、これはどっちで読んだらえいが?って、何かもうその辺で、一致してないやかって思いそうなところですが、ここは、今まで繰返し述べてきました、どっちじゃちかまんこだわりの部類に入る一例です。教会では洗礼準備会とか受洗記念とか言いますので、教会に始めて来られた方にも、そっちで統一したほうがわかりよいかなという理由で洗礼と私は読みますが、ま、どっちでもかまいません。もし誰か間違えて、先生、私トースターにブダペスト受けたいんですけど(笑)って希望されても、ちゃんと受け止めますから安心してください。大切なのはその中身の一致です。愛さえあれば、外側、呼び名は別にかまいません。

じゃあ洗礼の中身、洗礼によって現わされている教会の一致、御霊の一致って何か。聖霊様によってキリストに結ばれて、キリストのものとなることです。直接目には見えないけれど、聖霊様によってキリストと一つに結ばれて、キリストのもの、キリスト者とされる。それが洗礼の中身であって、それが4節以下、一つ一つと重ねられてきた共通の一致です。聖霊様によってキリストに結ばれてキリストのものとなる。それ以外の道でキリスト者になる者はおりません。洗礼の中身、洗礼が指し示しているのは、このキリストとの一体です。

そして、この中身を理解するためには、バプテスマという言葉、また行為を何故神様が用いられたかを理解するとわかり良いかと思います。バプテスマというギリシャ語は、何かを液体にドプッと浸ける行為を意味します。大きな水がめから水を汲むとき、コップをドプッと浸ける。例えば福音書でのバプテスマはヨルダン川とかにドプッと全身を浸けられたようです。そこにこだわって、全身を水に浸けないかんという主張もあります。わかりやすい理由だと思いますが、それだけが唯一洗礼の手段なんだと、中身より外側にこだわると、御霊の一致を熱心に保つことができんなるというのも、またわかりよいのではないかと思います。

なら洗礼の中身、聖霊様によってキリストに結ばれてキリストのものとなるという神様の行為が、どう洗礼と結びつくかというと、当時、布を色水、染料に、ドップリ浸けて染めるとき、この言葉が用いられた。洗礼の中身の、一番中心にあるのはこれです。キリストにドップリ浸けられ、キリストの色に染められて、キリストのものとなるのです。

じゃあ、キリストの色ってどんな色でしょう。それが、信仰は一つと公同の信仰が告白する、十字架の死と復活のキリストの色です。主が、私たちの代表として人となられて、全ての罪の裁きを引き受け死なれ、そしてまた代表として聖霊様によって復活させられた。その死の色と、復活の色に染められる。二色ってツートーンカラー?ってわかりにくいなら、こうイメージしたらよいでしょうか。復活させられたイエス様には十字架の跡が残されていました。その釘の穴に指を入れてもかまんから、信じない者でなく、信じる者になりなさいと主は弟子のトマスを優しく招かれた。罪の裁きという厳しい十字架の傷跡が、しかし復活の主の優しい招きとなる。このキリストの色、キリストの愛すべきご人格と姿勢、命の色と言ったほうがわかり良いでしょうか。そのキリスト色に染まるのが洗礼です。洗礼式は一回限りしか行いませんし、その水が実際に体に染み込むわけでもありません。しかしその洗礼の中身である、聖霊様によってキリストご自身に結ばれるという聖霊様による洗礼は、私たちを一生涯、いや永遠にキリストと結びっぱなしです。結婚式にも似ています。教会がキリストの花嫁と呼ばれる所以です。式はすぐ終わりますが関係は結ばれっぱなしです。人間の関係には破れがあっても、十字架で自らの命を破いて下さったキリストと結ばれる関係は、三位一体の神様によって永遠に破れることはありません。それが一つの洗礼の中身、キリストと一つに結ばれる一致です。だからこのキリストと一つに結ばれた教会が、招きに相応しく歩みなさいと言われるとき、そりゃもうキリスト色に染まって歩む他はない。最初はギコチナイ歩みでも、だんだん染まっていくのです。染まらずにはおれん洗礼の歩みです。

それを別の御言葉ではこう語ります。長い御言葉ですので、できればご一緒にお開き頂きたいと願います。ローマの信徒への手紙6章の3節から11節です。新約聖書280頁です。「それとも…考えなさい」。この色です。私はキリストに結ばれて、罪の支配に対しては、キリストと共に死んだんだ。そして神様に対して生きている。復活の命を生かされている。キリストに結ばれ、キリストと一つにされる洗礼を、聖霊様によって受けた結果として、もはやキリスト色に生きる他はなし。これです。洗礼は一つ。こんなすごい救いを与えて下さった主はお一人だと公同の一つの教会の信仰は告白します。これが洗礼の中身です。

ですので、今更なんですが、洗礼という日本語訳。この訳はイメージを固定化しやすいかもしれません。罪から洗い清められるというイメージだけをイメージするなら、イメージだけで言えば、キリストなしでもイメージできる。そうなると危険です。洗礼の中身、キリストと一つに結ばれるという中心の中の中心を抜き取り換骨奪胎して、まあえいき、洗礼を受けましょう、神は愛ですから罪は洗い清められます、だけだと異端になりやすいというのは、おわかりいただけるかと思います。だからって洗礼という訳をやめましょうとは言いません。どこにこだわるかです。洗礼の中身、キリストにこだわればよいのです。

洗礼式で行われる洗礼そのものは、だからキリストと結ばれるという中身を表す外側、あるいは徴だとよく言われます。例えば信号の青は、進めという徴で、青い光そのものが車を進ませるわけではありません。いや青い光が!と幾ら信じても、後ろから、早う行けって言われるだけです。洗礼も、それ自体は人を救いません。キリストが救って下さる!だから、キリストに飛び込んでいきなさい、そして飛び込んだら、もう主のものだから、主の色に染められて歩みなさい、主に背負われて、主に導かれ、わたしについてきなさいと招かれる主と一つとなって歩みなさい、あなたはキリストの体の大切な一部だと指し示す徴が洗礼です。キリストに結ばれたんだというサイン、徴が、洗礼です。

また洗礼自体が自動的に魔術的に人をキリストに結びつけたりもしません。結ぶのは聖霊様です。御人格があります。洗礼授けましたからって、操作することはできません。もし操作できるなら、私毎日温泉やプールに行っては、小さな声で、父と子と聖霊の名によって洗礼を…ってやりますよ(笑)。洗礼が自動的に聖霊様を呼びつけることはない。

むしろキリストが、全ての人に向かって呼ばわれます。わたしのもとに来なさいと。そして教会に向かっては、全ての民を、わたしの弟子にしなさい。父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、命じておいた全てのことを守るよう教えなさいと伝道命令が与えられています。そしてこうも言われる。幼子をわたしのもとに連れて来なさい。妨げてはならん。

だから教会も、全ての人に呼び掛けるのです。キリストが約束して下さった救いの洗礼を受けましょうと。キリストが呼ばわれるからです。主が一人一人を招かれるからです。その招きに相応しく歩みましょう。洗礼、受けましょう。それは自発的、自分発の思いではなく、キリストが呼んで下さっている、キリスト発の思いなのです。その呼びかけに、はいって応えられるよう聖霊様が来て下さって、キリスト発で、聖霊様という結びを通って、はいって応えられる信仰が与えられて、キリストと一つに結ばれる救いがなる。その徴が洗礼です。

だから、受けます。洗礼を自分でゲットする(笑)とは言いません。受ける。そこで受けた、公同の信仰も、自分発、自発的ではないので、御霊の一致の言わば証拠としてここでリストに挙げられるぐらいです。このリスト、全部が受けます。信仰だけ自分発ってことはありません。だから、これだけ信じたら救われるとか、信仰の実感、手ごたえがあるとか、逆にないからダメだとか、自分で線引きはできません。御言葉をアーメンと受けられるかどうか。そこが公同の信仰の急所であり、そこが洗礼のゴーサインでもあるのです。キリストに、はい、と言うなら、受けましょう、洗礼。これは主イエス・キリストの招きです。

またこの呼びかけは子供たちにも与えられています。子供の皆さん、洗礼受けましょう。もう洗礼を受けた子供たち、イエス様は私の救い主ですって告白しましょう。楽しみに祈っています。

この呼びかけに応えることのできない幼児に対しては、幼児洗礼とか小児洗礼と呼ばれる洗礼もあります。それは洗礼として認めんという主張もありますから、いや、これが真理だ!とか外側にこだわると、御霊の一致を保てんなります。ので、洗礼の対象をどこまでに線引きするかより、洗礼の中身で、キリストと結ばれることでアーメンと霊の一致を保つことが重要です。この幼児洗礼に関しては、丁寧に考える必要があるので、また説き明かしをいたしますが、幼児であろうと成人であろうと、どこから中間の線引きをしようと、線引きが救いの条件ではないことは確認しましょう。徴も救いの条件ではありません。イエス様の隣で十字架につけられたあの罪人が、もはや洗礼を受けることなど不可能であった罪人が、主に迎えられ、主に結ばれて救われたことを疑う人は、一人もおらんと思います。救いの条件はキリストに結ばれることです。誰が救われるかより、誰が救ってくださるか。救いはどなたの手にあるかです。主は一人、その主を信じる公同の信仰は一つ。その主に聖霊様によって結ばれる洗礼は一つです。主が救って下さいます。だから、主の招きに、あなたもわたしのもとに来なさいと招かれる、主の召命に、相応しく歩んでいくのです。

13/2/10礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙4章1-5節、ハバクク書2章1-4節 「信仰という名の間柄」

13/2/10礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙4章1-5節、ハバクク書2章1-4節

「信仰という名の間柄」

 

教会の一致をテーマにしばらく説教をしています。その中でもともと私は日本基督教団の教会員ではなく、米国の教会で救われたということを例話として何度か持ち出してきましたが、私は教団に教会籍を移すことに対して、相当心配がありました。一致できんのじゃないかと思っておりました。教団には復活を信じてない牧師がいるとか聴いていましたので、そりゃ異端じゃないかと。ところが前任の鈴木先生から日本基督教団信仰告白を見せて頂いたところ、あれ?教団として復活を信仰告白しているばかりか、なんと見事な信仰告白をされていることかと、心をわしづかみされた思いでした。ならこの教会の一員になれる。後は謙遜と柔和、寛容と忍耐の問題だと、霊の励ましを受けました。主は一人、信仰は一つだと。復活を信じない異端信仰を持っている個人が教団に何人おろうと、それで教団の教会全体を十把一絡げに理解しておった私の理解が間違っておったと反省しました。言うなれば高知の男は皆イラレじゃと思うようなもんです。皆じゃない。9割だけです(笑)。

こうした個人の信仰よりも大きな信仰、教会の信仰、救いの信仰を、公同の信仰と言います。そもそも神様が求められ認められる信仰です。福音信仰って言ってもよい。人が救われるために、神様が、ここだ!と集中されたところを信じる救いの信仰。ですから、キリスト信仰です。イエス・キリストを主と信じるか否か。十字架のキリストの赦し、復活による罪と裁きからの完全な解き放ち、解放、救いを信じるか否か。主がこだわっておられるところにこだわるのが、教会の一致を保つ熱心さだと言ってきましたが、このキリストへの熱心さを欠いて、他のところにこだわるところで、教会はおかしくなるのです。

この言わばシンプルで公同、つまり皆がアーメンと言える信仰、御子による完全な犠牲と復活の救いへのアーメン。このアーメンがどうしてアーメンか、つまり、そうです、その通りですって言えるかと言うと、それが聖書に啓示される神様のアーメンだからです。その信仰は一つ!

その公同の信仰を、こう理解することもできるでしょう。キリストの招きに、はいと応えるとき、聖霊様がその人とキリストを結ぶくびき、へその緒、パイプとして来られて、事実、霊的にキリストと結ばれる。そのパイプを通してキリストと愛の対話、信頼の対話を交わすのです。わたしについてきなさいとイエス様が言われる。はいと応える。それが信仰です。どっちからもつながっています。これが救いの信仰だと以前にも申しましたが、この聖霊様による結びと、そこを通いあう信仰の対話のイメージは、全てのキリスト者に共通します。それ以外の救われ方をする人はないので、聖霊様の一致とも呼ばれますし、それを信仰という側面から見るとき、信仰は一つと言うのです。またそれが皆イエス様と結ばれているから一つだという面で言えば、体は一つ、です。

その聖霊様によってつながれた信仰のパイプを公同の信仰のイメージとするなら、そのパイプの周りに、自分なりの信仰や、勘違いや間違いがドロドロと、あるいはこびりついたさびのように、まとわりついて、それが言わばこだわりになって、公同の信仰を詰まらせたり、私のこだわりとあなたのこだわりと同じやねえ、同志よ!てな具合で、違う一致を造ったりする。そうした個人的というよりは自己中心的信仰によって教会が混乱することの何と多いことかと思います。信仰には無論個人的側面があります。一人一人の個人が主と結ばれるのですから、それを否定したらイエス様にも父にも怒られます。主の名によって個人が捧げる密室での対話、祈りを、父は望んでおられますから、その個人的関係を無視しても信仰はおかしくなります。が、それは個人主義では、ない。個人を無視する全体主義でもない。キリスト主義!教会はキリスト中心とはそういうことです。そして信仰もキリスト中心でしかないのです。主は一人、信仰は一つ、と続けて語られる所以です。

信仰は聖霊様によって、もっとザックリ言うと恵みによってキリストと私の間にあるパイプです。無論、自分とつながっていますが、だからといって、まるでそれが自分の功績、俺信じちゅうき、俺偉い~とは、決してならないのが信仰です。それを説教題では間柄と言いました。間にあるのです。それを自分の中に手中に収めているかのように勘違いしてはいけません。相手あってのものであり、愛の関係を結ぶ、続き合いですから、それを自分の手柄のように私物化するとき、傲慢になって、相手との関係もおかしくなる。こういう間柄を続き柄とも言いますが、以前こういうサラリーマン川柳がありました。続き柄、慌てて妻を毒と書き。慌て過ぎです。妻から夫じゃなく犬(笑)って書き間違われないよう努力が必要かもしれませんが、どんなに書き間違えようと、法的に宣言された関係、間柄は決して揺らぐことはありません。イエス様と私たちの関係も同じです。主はご自分に身を寄せ、救いを求め、その御名によって洗礼を受けた者を見捨てることは決してありません。何故なら救いの主は何があっても救いの主として留まられるからです。裏切ることはないからです。仮に、あってはならないことであるにもかかわらずたちの側での裏切りがあっても、むしろイエス様はこう言われます。あなたはわたしのものだ!わたしはあなたの夫であり、主であり、あなたの義であり救いである!あなたにはわたしをおいて他に主があってはならない。あなたはわたしのものだと、ご自分が私たちの主であられることを宣言して下さる。主は一人です。この主を信じて救われる関係、聖霊様によって主に結ばれて主のもの、キリスト者とされる関係を結ぶ信仰は一つです。それがキリスト者をキリスト者たらしめ、キリストの体の肢たらしめる間柄たる信仰です。この間柄。聖霊様により全くの恵みによって結ばれた間柄。聖書によって啓示される主イエス・キリストとの真実の間柄を、実体化すべく求められている私たちの側での、はいという応答が信仰です。イエス様への愛の返答です。その第一の返答がイエス様を私の救い主として信じますという、救いの招き、プロポーズへの返答です。誰もがそうやって応えます。

だからこの間柄に結ばれたばかりのときは、まだよくわかってないとも言えます。夫婦関係と同じです。驚きをもって後でわかっていくのです。例えば三位一体がわかってから洗礼受けられた方は、ここにどれくらいおられるでしょうか。大胆な告白をしますけど、私が洗礼受けた後しばらくして、こういうことかなと自分なりにイメージした三位一体の理解は、代表的な異端的理解でした。言わば私が子供たちに対しては父であり、妻には夫であり、皆さんには牧師であり、でも一人の野口幸生であるという、神学用語で様態論と呼ばれる異端理解を二年ぐらいしておりました。ところが導かれて聖書の教え、教理の本を読んで初めて、うわ、俺異端になりよった、危なと、それから真面目に公同の信仰内容を学び始めたことを覚えています。

聖書に啓示されたキリスト信仰、つまりは受肉と受難、復活と昇天、再臨と審判、そのように三位一体の御子が救いの主となられたという、公同の信仰が、まだ理解としては十分でなくても、その公同の信仰に、留まることが大切なのです。むしろ留まっていることで、そこに信仰があるかどうか、公同の信仰が与えられているかどうかもわかるのです。説教の準備で導かれた言葉があります。「わたしの言葉に留まるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」ヨハネによる福音書8章31-32節です。十分理解して知って弟子になるというより、留まることで、あ、そうかと知っていく。教会の交わりの中で、聖霊様によって結ばれたキリストの体、聖い公同の教会に、既に与えられている聖徒の交わりを信じて、そこに留まっていくところで、あ、そういうことかとわかって、しかも自由にされるのです!留まって知って自由です!無理解、誤解、自分の枠、自分のこだわり、自分からの自由って言ってもよいのです。無論、罪からの自由であり、罪の結果としての裁きからの自由でもあり、最終的には、やがて来る最後の審判において本来受けるべき有罪判決からの自由でもある。そうした自由を一つ一つ体験するとも言えるでしょう。そうか、私が頑張って信じて理解して私が私がって、信仰って、そんな個人主義的なことでなくて、聖霊様がくださった公同の教会の信仰に、アーメンって留まることなのかと。それが、ああ、本当にそうだなあ、アーメンって思えるところで、また一つ、あ、自由だって体験される。公同の信仰が自分の言葉でわかって、例えば復活は、うわ、私のためにイエス様は復活させられたんだって自分事になるところで、アーメン!ありがとうございますって、自由なイエス様への愛が溢れる。

ごく最近まで洗礼準備会をしますとき、かなり丁寧に、この公同の信仰の内容について学んで洗礼の準備としました。が、子供の頃から聖書に馴染んでいる方は別にして、初めて聖書を開きましたという方には、やっぱり難しいなあと反省しまして、丁寧な学びは受洗後勉強会でやることにして、洗礼のための準備会は、とにかく私たちのために人となられて十字架で死なれ復活させられたキリストを信じることに、集中することにしました。キリストに結ばれるとは、どういうことか。どうしてキリストなのか。ここだけに集中することにしました。そこに賭けることにしました。私にはこのキリストが必要です、アーメン!そこだけに絞って、後はそのキリストに留まれるように、御言葉によって、教会の家族愛を皆で実践し、導き続ける。そうやって皆で、主の御言葉と愛に留まる。そして皆でどんどん自由になっていくんです。私たち、本当にキリストによって救われて、キリストによって一つなんですね、ああ、本当ですね、アーメンです!主は一人です!ってイエス様の弟子として皆でお従いする。信仰を自己責任にしない。救いを自己責任にしない。体は一つ、聖霊様は一人です。それは、私たちが一つの希望にあずかるようにと召されているのと同じです。主は一人、信仰は一つです。あなたがたは一つだと主は言われる。そこに留まりましょう。そして皆で、恵みの御言葉に留まって、キリストの招きに相応しく歩むのです。

13/2/3礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙4章1-5節、詩編16篇 「キリスト?そこだ!」

13/2/3礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙4章1-5節、詩編16篇

「キリスト?そこだ!」

 

米国に留学中、宗教学の一クラスにキリスト教入門というクラスがありました。これなら単位が取れそうだと思って取ったのですが、最初の授業で腰を抜かしました。教授が、クリスチャンとは自分をクリスチャンだと思う人のことであって、何を信じているか、また信じてないかは別にかまんと言って授業が始まったからです。キリスト教主義大学ではなかったからですけれども、それでも乱暴すぎるでしょう。その論理で言うとこうなります。日本人とは自分を日本人だと思う人のことで国籍は別にかまんと。これだと入国管理局は大変です。要するに国家の存在を無視して成り立つ論理です。同じことがキリスト者、そして教会にも言えます。生きておられるキリストの同意アーメンが必要です。それがイエス・キリストを主と告白する信仰です。

私たちがある教会に対して、これは教会かどうかを判断する基準は、その生きておられるキリストを、その教会が、アーメン、主は一人!と告白しているかどうかです。神様を信じているか否かではありません。それは言わずもがなの大前提で、その神様がキリストを、ただお一人の救いの主としてお遣わし下さったことを信じる教会が、キリスト教会です。その教会の看板に何教会と書いてあっても、それはキリストの体の一部としてキリストに結ばれている教会です。

有名な言葉があります。キリスト教はキリストです。良い言葉です。今日の説教題よりずっとわかりやすい(笑)。その教会の礼拝また交わりの中で、キリストが主とされ、唯一の救いの根拠とされ、生活の土台とされているか。言い換えれば、キリスト中心に教会が回っているか。そこが大事だというのです。他の何かが中心にされて、あたかもその教会の主となって、これが教会を教会たらしめるのだとなるときに、教会の一致、聖霊様の一致を熱心に保てんなって、おかしくなる。

これを個人のレベルに場面を変えると、こうなります。キリスト者はキリストです。何か主が一人ではなくなってしまうようにも聞こえますけど、言いたいのは、私たちをキリスト者たらしめるのは、キリストだということです。他に私たちの中心はない。他に私たちの主はおらん。それがわかってくると、教会生活はうんと楽しくなります。他の何者の追従者にもならんで、キリストの追従者のみになる人生とも言えます。

そもそもクリスチャンという言葉、これは聖書に登場するキリスト者の呼び名ですけど、その意味はキリストの追従者という意味です。僕と言ってもよいし、信奉者とも言えますが、追従者というイメージがわかりよいかと思います。主から、わたしについて来なさいと招かれ召され召命を受けて、はい、と追従する。キリストの追従者、クリスチャン。もし野口の追従者なら、野ぐっちゃん。なってはなりません(笑)。(笑)と書きましたけど、それが笑えない現実も教会には度々おこるのです。古くはコリントの教会で既に、私はパウロに、私はペトロに、いや私はキリストにという追従者グループができて分裂しかけた。キリストに、なんて立派に聞こえますけど、それもまた教会に牧者としての指導者を召し立てられたキリストを見てはいません。そのキリストのイメージがどこから来たか問われんといけません。主は教会に牧者を立てられる。11節で語られる通りです「そして…」。これを無視して私はキリストにと言うのは主を無視することですから、ここでも召命が全てに先んじるのです。主の召命に従い、召命に相応しく追従する。

無論、主が召した牧者だから従うのであって、それがどんなに優れた牧者でも、その人に追従はせんのです。追っかけにならない。その人の言葉なら何でも鵜呑みで思考停止して、だって何々先生がおっしゃっているからと絶対化しない。それは偶像化だからです。絶対は主だけと、頭では分かっているつもりでも、案外やっているのが人間ですから、頭より心が熱狂的になってないかでチェックします。誰かの熱狂的ファンにならないで、むしろその熱心さによって熱心に御霊の一致を保つのです。ならば冷めた信仰態度でもない。冷めて批判的になっても、御霊の一致が保てんなります。熱情は要ります。聖霊様によって互いに、主に結ばれている一致を熱心に保つのです。聖霊様は主イエス以外の誰かに私たちを結んではいません。私たちは信徒であろうと牧者であろうと、召されて唯お一人の主に結ばれているから、主によってのみ一つです。そのお一人の主であるイエス様に、共に追従するのです。

また、この問題は個人崇拝ということだけに留まりませんで、そこで追従すべきキリストのイメージそのものが、書き変えられるということも起こるのです。自分に似たキリストや、何々先生に似たキリスト等、自分の持っている枠にはめてキリストを理解するということがどうしても起こります。その理解パターンと、鋳型にはめて偶像を造る作業が、どうしても接近してしまう。自分の育った環境も影響するでしょうか。例えば現代の米国で造られたイエス様の映画では「何で、自分の目の中の丸太(笑)に気付かん?」とコミカルに説教を語る、明るいキリストが描かれます。一方で保守的と言いますか、何故自分の目の丸太に…と、眉間にしわで、笑うと祝福が逃げるみたいに言う説教者もいる。心の中で描くキリスト描写が、それぞれ違う。ただその信仰におけるキリスト描写が、言わば色付けの部分なら良いのです。ぬり絵でめいめい色付けをするとき、めいめい選ぶ色がある。私は小学校のとき暗い色でした。今は淡いパステルカラーが好きですが、そういう性格の部分ではなく、まだ塗られてない下絵と言うのか、輪郭が大事なのです。聖書によって啓示せられるキリストの輪郭がそこに見えるなら、主は一人、アーメンと言って、共に主を賛美し、共に追従できるのです。

その輪郭を変えるのが異端です。聖書が啓示する福音を曲げ、自分が好む救いの枠に入れるため変形をして別の主を造る。ぬり絵の色が違うだけなら主も、わたしそんな顔色かえ?って言われる程度ですが、異端の描く主の絵に対しては、主は、その人物をわたしは知らない、そしてあなたも知らないと言われます。端的に言って、異端に共通するのは、彼らの主は、罪を全部背負いきって死なれた上で、父から救いの勝利の復活を与えられて、ないという点です。もっと言うと、別に主がどうのとか、かまんじゃないかと。神がいる。それは信じるけど、後は自分で頑張って信じたり、頑張って宗教やったり、あるいは全く反対に神様の側での条件さえなしに、神は救ってくれるだろう、罪なんか考えたことないし説教したこともないという、牧師と呼ばれる人がおるのです。

しかし、主は一人です。わたしについて来なさいと、復活の救いに招いて下さった主は、十字架で罪を赦して下さったイエス・キリストただお一人です。その主は生きておられます。だから、他の誰かを主とする人に対して、柔和で謙遜なキリストの追従者は、偉そうになる必要はありません。主に死んでいただかなかったら、どうやったって罪赦されず救われない人間が何と言おうと、それで主が置き変えられてしまうことはないからです。主はその人のためにも死んで下さり、事実そのために私たちがその人の前に遣わされている。そこまで主は救い主として生きておられて、そこまで主は唯お一人、絶対なる救い主であるからです。安心できるお一人なのです。この方のみが教会の頭、世界の救い主として永遠に選ばれた、三位一体の御子であり、人となられた神様だからです。人間がどうのこうのはできんのです。私たちがそう信じているからそうなのではなく、そうやって御輿に担がれなかったら神の右の座から引きずり落とされる神ではなくて、むしろ、この方は神様であられて、しかもその神様であられる方が、まるで自らを引きずり落とすようにして天から下られ、私たちの誰よりも貧しく低く貶められて、罪人の僕となられて十字架で死なれた、そのような罪人を背負って救い出される主であられるから、その方に従い追従して、謙遜と柔和を持ってキリストを、皆に伝えればよいのです。その追従者である私たちは、このお一人の主を証しする。

ぬり絵の色が違うちょっても、そこを共有してくれんということがあっても、それで主が主でなくなったりはしませんから、生きて私たちを遣わし用いて、今ここで聖霊様によって働いておられる唯お一人の主のお背中に、教会は安心して、ついていけばよい。そこに教会の揺るがない伝道もあるのです。協力伝道の土台もそこにある。多少色合いが違っても、コテコテの原色でぬられたキリストだろうと、え~らい薄い色のキリストであっても、主は一人!そのイメージの違いの彼方から、生きておられる主が言って下さる。あなたがたは一つだ!わたしの体の一部だ。わたしの体よ、あの人のもとに行って、わたしを紹介しなさいと。生きておられるキリストに生きる。それが教会であるのです。

13/1/27礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙4章1-4節、イザヤ書59章15b-21節 「多くても一つなる教会」

13/1/27礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙4章1-4節、イザヤ書59章15b-21節

「多くても一つなる教会」

 

皆さんは、自分はキリスト者であると誰かに伝え、え、カトリック?プロテスタント?って尋ねられたことはないでしょうか。ま、きちんとそうやって尋ねてくれる方は、キリスト教会について割と知っているほうでして、私の経験では、プロテスタントという言葉はあまり馴染みがないようです。プロレタリアートの親戚みたいに思われているかもしれません。またプロテスタントいうても色々あります。以前、私は神様からホームレス伝道に召されているのではないかと祈った時期があって、大阪の西成区にある教会をいくつか訪ねたことがあります。その中に、救世軍というプロテスタント教会の流れの一つがありまして、海外ではとても有名です。で、あの~、牧師と話したいんですがと尋ねますと、ちょっとお待ち下さい、とその女性が奥の部屋に向かって、小隊長!と大声で呼ばれました。軍ですから、牧師とは呼ばずに、小隊長と呼ぶ。びっくりしました。教会も色々あるのです。

色々あるんですけど、体は一つ!と聖書は断言します。キリストの体と聖書が語る、教会の姿です。体は一つ、教会は一つだと、強い言葉で語ります。これは本当に強い言葉で語らんといかんのです。体の部分は多くても、また互いに色々違っていても、一つの体であるように、教会も一つ。体は一つ。教会は一つ。それがキリストの体、教会です。

その一つである根拠、一致の根拠は、先週説き明かしましたように、キリストを主と信じて洗礼を受ける者が皆一つの霊、聖霊様によって、キリストに結ばれるからです。皆、霊は一つと、これも強く言われます聖霊様によって、キリストに結ばれ、霊による一致、聖霊様による一致を既に与えられている。だからこれを保てと言われます。保つ他ない。ないんですけど、他のこだわりに熱心になって、それで争ったりしますから、だから、努めなさい、熱心に保ちなさいとも言われるのです。

それは単にカトリックとプロテスタント、あるいはその宗教改革から500年遡ってカトリックと分裂した、いわゆるギリシャ正教会の流れ、そういう大きな教会の流れや派閥の違いだけを考えて、でも教会は一つやきねえと、そういうのだけではありません。もっと具体的で、自分のこだわりがそこで問われてしまうほどに、具体的で生々しい一致を保つ熱心さが、主から求められている、そういう「努めなさい」です。

確かに、大きな違いの方がわかりやすいかもしれません。祈るとき、マリアの名を呼ぶかどうか。これは大きな違いです。でも、熱心に呼ぶこだわりも、また違う!とこだわるのも、そこ中心に熱心になってしまうのは、それこそ違うと主は言われる。聖霊様による一致を熱心に保つのです。詳しくは来週以降5節の説き明かしになりますが、先に少しだけ言うと、要するに、主は誰か。ここにつきます。色々な教会がある。その教会が、本当に一つのキリストの体の一部かどうかは、ここでわかる。その教会が、どんなキリストを主としているか。そのキリストが、聖書の告知するキリストかどうか。ここです。復活のキリストか。復活信仰としてのキリスト信仰か。ここです。そのキリストを主と告白するように導かれるのが聖霊様であり、その復活のキリストを信じる人を、聖霊様はキリストの体に結ばれるからです。

そして、ここが急所ですけど、そうやってキリストの体に私たちを結ばれる聖霊様は一つ、いや御一人です!カトリックの霊があって、プロテスタントの霊があってって、そんな考えがどんなにおかしいか。すぐわかる。なら、どんなに他の点で違っていても、一つの霊に結ばれて、一つの体、キリストの体に結ばれて、主が、あなたがたは一つだと言われる、その熱情に相応しくアーメンと信仰告白できるか。できんほど、何かにこだわってしまうなら、そのこだわりを生み出すスピリットが、どんなにおかしいかもわかるのです。違うスピリット、霊を造ってはいけません。人によって造られていないスピリットなら尚悪い。その霊はキリストから人を引き離す悪の霊です。その霊に従ってはいけません。かえってそんな私たちをキリストに結んで下さった聖霊様を感謝しましょう。人が洗礼を受ける時、その聖霊様の名によっても受けるのです。その霊による一致を得ているのです。だからその一致を保つのです。

その一致、一つであることは、また私たちがそこに向かって召されている希望の一致と同じだとも言われます。これもまた、復活の希望だと言って良いのです。復活のキリストに結ばれているから、私たちは復活させられるのです。それは、どの教会に属する兄弟姉妹も同じです。今どんな違いがあって、そこに注がれるおかしな情熱やこだわりがあり、そのこだわりにこそ皆一致するべきだと、この一致へと皆が一致すればいいのにという希望を持っていたとしても、私たちは、その自分の望みを、主のために、どうでもよいものとすることが許されています。またそうすることができるのです。復活から考えればよいのです。復活の御国の生活を考えればよいのです。そこでは自分の希望など、何の意味を持つのでしょうか。それは、ほら、私が正しかったと、優越感を抱けるようなものではないでしょう。地上ではそうでも、復活の御国で、そうなのでしょうか。そこで王座におられる復活の主が、聖霊様の一致を保つことに、ここまで情熱をお持ちであるならば、その主のこだわりを、押しのけてのこだわりに対して、主の復活の御国でそのおかしなこだわりが褒められることに、一体どんな希望を抱くことが出来るでしょう。だから一切高ぶることなく、謙遜に、なのです。そこで謙遜に主の希望を自らの希望として知るときに、復活の御国の生活が希望となるとき、希望がまことに希望らしく、私たちを喜びに導く希望になるとも言えるのです。いいですよ、復活の希望を希望とする喜び。この一つの希望に生きるこだわり。この希望に、私たちは招かれているのです。

またこうしたこだわりは、大きな教派的こだわりだけでなく、うんと小さくすれば、教会員同士のこだわりの違いや、信徒と牧師のこだわりの違いに対しても同じことが言えます。そこから人間関係がギクシャクしたりする。よくわかる話だと思います。そこでも同じことが問われます。私は何に熱心になっているか。熱心に御霊の一致を保つことに熱心になっているか。復活の主の名を呼んでいるか。父・子・聖霊の名によってのみ私たちが洗礼を受けたその御名以外には、私は復活の立ち位置を得ていないと、その立ち位置に熱心か。そう問うても良いでしょう。この4章の御言葉は、本当に具体的だと、つくづく心を上にあげさせられます。復活の主の近さを覚えさせられます。その御体に私たちは結ばれて、その御体におるのです。

教会はキリストの体であるという信仰理解、またそれを助ける信仰的イメージは、本当に大切であると思います。そして、その体のイメージを教会に当てはめるとき、それは例えば高知東教会や高知中央教会という一つ一つの個教会、個人というような個教会にも当てはまりますが、このエフェソ書が教え描くイメージは、全世界や全歴史を貫く壮大な体のイメージです。両方だと言ってもよいでしょうし、無論、大きな体の一部として、高知東教会があると言ってもよい。更には、その大きな体の一部を担う高知東教会という体の部分の、更に小さな部分部分として私たち一人一人が、キリストに結ばれている。それが、今のこの私たちの歩みです。キリストの体に招かれ、召され、召命を受けた私たち一人一人の、召命に相応しい歩みが、今この目の前に実現しているのです。教会が礼拝を捧げているというのは、そういうことです。ここで一緒に主の名を呼んで、主の名によって祝福しあって愛し合い、ここで教会を建て上げるとは、そういうことです。皆さんが、キリストの体の、この部分に具体的に召されたのは、ここで具体的にキリストの体を建て上げる召命を、主から頂いて、召されたからです。この具体的な個人の召命が、しかし壮大なキリストの体への召命である。この両方のイメージが私たちの召命理解を、召命に相応しい方向に導き、相応しくない方向から守る。別にどこそこの教会員にならなくっても、私は大きな体の一部にいるからと、具体的な教会員としての歩みを見失ったりしなくなる。また、それと丸っきり反対に、自分の教会籍がある教会を、もう教会はこの教会じゃないとだめ!と、偏ってこだわりもせんなるのです。

そのこだわりが結びついている教会のイメージが大き過ぎようと小さ過ぎようと、目のフォーカス、焦点があってないと教会は見えません。その焦点の当てどころが、キリストの召命です。キリストの召命が全てに先立ちます。例えば私は、この教会に召されたから、ここにいます。それだけです。他に理由はありません。実を言うと、まだ米国にいた24-5歳の頃、南国市にある実家の土地で開拓伝道をしようかと、そして教会の名前を南国パラダイス教会にしようかと友人たちと話し合ったことがあります。その自分のヴィジョンに、特に名前にこだわらんで良かったと(笑)、つくづく思います。神様に召されたのですから、その主の召命に相応しく歩む。そしたら自分のこだわりを捨てる謙遜が求められるのは当然です。柔和が要ります。忍耐が要ります。それが相応しい歩みのスタイルです。自分の肩で風切って歩んだりせん。皆、高知からおらんなるけど私は絶対高知に骨をうずめるっていう、あるいは風切って歩むようなこだわりも、教会員は安心するでしょうけど、そこでも謙遜こそが相応しい歩みです。主の召しが全ての局面に先立つからです。

それは個人レベルだけでなく個教会レベルでも同じです。主の教会への召命に応える他ない。私たちは何々教会ですってこだわりより、あるいはそれは土地への愛着や長くやってきた伝統への愛着、誰それ牧師がっていう愛着から来るこだわりかもしれませんが、そうした個教会としてのこだわりに対しても、私たちはキリストの体の一部として招かれたという召命が先立つ。私たち、こんなにこだわって頑張ってきたのにって、そこでこそ具体的に問われる謙遜が、召命への相応しさなのです。

復活の御国に日本基督教団はありません。キリストが全てです。私たちの熱心なこだわりが、その日、主の栄冠となるかどうか。それだけです。なら栄冠を捧げたい。捧げられる。そこに召されている。それが希望です。だからこそ歩める。ここで、一緒に、主の召命に歩めるのです。

13/1/20礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙4章1-4節、イザヤ書8章9-10節 「造れず壊せぬ保つ一致」

13/1/20礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙4章1-4節、イザヤ書8章9-10節

「造れず壊せぬ保つ一致」

 

私たちの教会は15年前の1月25日、日本基督教団高知東教会として設立されました。今日はその設立記念礼拝を主に捧げています。難しいことを言えば、日本基督教団の場合、だいたいは先ず伝道所として設立されて、それが言わば何とか独り立ちできるようになると、第二種教会としての設立を迎えます。それが15年前。そして教会員が増え、財政的にも奉仕の力でも他の教会を支えることのできる成長を与えられると、第一種教会として教団に申請をします。ただこれらは聖書に教えられている種別ではなく、ま、組織上、便宜上のことです。

こういう話は、聞いていてあまり面白くない、別にどうでもよい話に聞こえるかもしれません。実際、その人の救いを左右するような知識ではありません。じゃあどうして教会の設立記念を祝うのか。教団から、この日に開拓伝道援助献金をして下さいと頼まれたからか。違います。私たちが、どうして教会設立を記念して礼拝を捧げるかというと、今日の御言葉に語られる、私たちが主から招かれた招きというのは、どんな招きであるのかを、ここで具体的に覚え一緒に記念するからです。全ての人は教会へと招かれ、ある者は南国教会へ、ある者は高知中央教会、そしてある者は高知東教会へ招かれて、キリストの体を建て上げる教会の一員として、欠くべからざる教会員として、そこでキリストの働きを継承するよう招かれています。その招きを覚え記念するのが教会設立の記念です。

体というのは既に1章2章と繰返し語られてきたキリストの体、教会です。体の部分のどれもが体の一部であるように、教会に招かれた一人一人が掛け替えのない一部として、体全体のために働き、重要な働きを担うよう、皆、イエス様から招かれている。

その招きの記念を、個人のレベルで祝うのが、受洗の記念だとも言えます。私がキリストに結ばれて、同時にキリストの体である教会に当然結ばれて、キリストの体の一部となったことの徴として洗礼を受ける。その喜びを祝うのが毎年の受洗記念ですが、その私が、じゃあどこで、どのようにして具体的に、主の体の一部としての召命に相応しく歩めるようになるか。それを一気に情熱的に、しかも詳細に教えているのが、この4章に描かれたキリストの体のヴィジョンなのです。

その召命を、個人的にでなく体全体でも覚えるのです。あなたもここで、共に体を建て上げる召命に相応しく歩みなさいと、主から招かれた者全員で、そうだ、私たちはここに招かれ、ここで一緒に歩むのだ、そのために、ここに教会が建てられたのだと、この教会に召命を受けた体全体で記念する。それが今日、私たちが覚える記念です。

しかもそれを、召命に相応しく覚えるのですから、そこで記念するのは、キリストの召命です。主がここに教会を設立され、ここにキリストの救いの働きがなされるように、私たちを召された。主が、です。その主の召命に相応しく具体的に教会員として歩むとき、ここが急所だというのがあります。それが3節の「霊による一致を保つよう努めなさい」という御言葉です。これが教会を左右します。

保つということは、与えられているということです。霊による一致は主から与えられた教会の一致として保つほかない。先週、私たちは全員イエス様から、わたしのくびきを負いなさい、私と一つに結ばれなさいと招かれたというイメージを語りましたが、このイメージが大事です。母とへその緒で結ばれているように、あるいはおんぶ紐で結ばれているように、または畑を耕す二頭の牛がくびきで一つに結ばれるように、主と私たちは一つに結ばれ、その結びのへその緒から神の子としての命の養分を頂き、試練の時にもイエス様の背中から振り落とされず、福音の種を蒔き耕し実りをもたらすように召された主の伝道の畑で、イエス様と一つに結ばれて歩んでいる、その歩み。その歩みはしかし、決して、私とイエス様だけの歩みではなくて、イエス様を信じて洗礼を受けて、人と神様を結ばれる三位一体の聖霊様を受けてイエス・キリストに結ばれた全ての人が、一つに結ばれている壮大なイメージです。聖書は色んなイメージを用いるのであって、おんぶ紐のイメージだけだと、うわ、イエス様何人背負うちゅうが!ってなる。それだけの死を十字架で死なれたという大きな背中のイメージでもありますけれど、対応しきれないので聖書は別のイメージを用います。キリストに結ばれた全員が、教会を建て上げるよう主に召され、主に結ばれているという召命を語るときには、体のイメージを語るのです。これも是非ご自分のイメージにして頂きたいと願います。主の体の一部として結ばれた私のイメージ。

私たちの体も色んな部分からなっていますけど、一つに結ばれています。それを聖書は、体は一つと言いますが、それは教会の一致を語るのです。教会の一致の理由は、ただ一つです。キリストに結ばれている!それだけです。その結びの帯、へその緒、くびきが、三位一体の聖霊様です。キリストを私の救い主と信じる全ての人に主から与えられる永遠の命の絆、聖霊様によって、人はキリストに事実結ばれ、そして皆そうやってキリストに一つに結ばれている故に、その結ばれている一人一人も、聖霊様によって一つである。教会はそうやって聖霊様による一致、霊による一致を与えられている!これは人間が造った一致ではないのです。そして壊すこともできない。聖霊様を、三位一体の主なる霊を、人が自分の都合や努力で、どうにかできるとでも言うのでしょうか。あの人と一致するらあて嫌と思うとき、私たちとキリストを一つに結ばれ、それ故、私たちを相互にキリストの体として一つに結ばれている聖霊様は、そんなふうに言わんとって、キリストが命を賭けて結ばれた人を、どうかそんな風に言わんとって欲しいと悲しまれます。左頁4章30節で語られている聖霊様の切なる心情でもある。「神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。」わたしが保証だ!あなたたちは一つだ!と御霊は言われる。

その一致を、聖霊様によって与えられているキリストに結ばれているという教会の一致を、だから努めて保ちなさい、熱心に保って欲しいと語られるのです。

熱心にと訳した方がわかりよいでしょう。努めて最善を尽くしますとか、お題目で言うような努めるではなくて、そんな無理してやるのではなくって、言わば自然に、心がガーって傾いている方向に情熱が注がれている、そういう熱心さ、こだわりを言うのです。皆さん、それぞれに何かに熱心でこだわりがあるのだと思いますけど、その情熱を、ここに注いで下さい。ここに心が傾くように、聖霊様助けて下さい、あなたを悲しませたくないのですと祈って下さい。これを皆さんのパッション、熱情として下さい。それが聖霊様のパッションであり、キリストの喜びであるからです。私たちが神の家族として一つとなるために、御子は命を捨てられたからです。ここが三位一体の神様の熱情だからです。

神様のこだわりを我がこだわりとし、主の情熱を私たちの情熱とする教会は、必ず成長します。私たちを一つに結んでいるへその緒を、自分のこだわりで詰まらせないで、本来の健やかさに保っているからです。そこにキリストの背中とか、手が見えてくる、キリストの体らしくなるところで教会は本来の成長を与えられます。この教会成長の第一原則、聖霊様による一致を熱心に保って下さい。そしたら来年の教会設立記念礼拝は、もっと喜びに満ちると思います。

三位一体の神様のこだわっちゅうところに、私たちもこだわることができますように。そして他のところに持っちゅうこだわりは、どうでもかまんなりますように、切に祈ります。神様のこだわっちゅうところに比べたら、どうじゃちかまんそのこだわりで、教会が病むことが多いからです。そんな熱心は、捨てさせて下さいと祈るのです。健やかな熱心を、聖霊様による一致を保つ熱心をお与え下さいと祈る。

先日、高知分区の牧師会で私が担当になって発題をしましたときも、このこだわりについて分かち合いました。するとある牧師が、私は自分のこだわり、熱心になるところを、じゃあどうして私はここに熱心なのかと自己分析、自己批判をすると、なんか冷めてしまって、熱心に仕えることが出来んなると言われました。種明かし後の手品のようにしらけるということでしょうか。先の大戦後、多くの日本人が陥った虚無にも似ているでしょうか。自分が踊らされていたショックに落ち込むということでもあるのでしょうか。私はその問いに自らの経験を話しました。イエス様を信じた当初、今ではどうでもかまんところに、私は熱情的にこだわっていました。信仰という名により、そんなこと聖書のどこに書いてあると、自分とは違う意見を感情的に拒否し、自分のこだわりこそ正しいと兄弟姉妹とぶつかることもありました。でもそれで兄弟姉妹が傷つくことに痛みも覚えました。次第に痛みが勝つようになりました。でも妥協できない。でも愛したい。主が喜ばれる真理に生きたいし、主が悲しまれることはしたくない。主は悲しんでおられる。私の何が主を悲しませているのか。自分を探りました。どんなに間違ったこだわりに私がしがみついており、どうでもよいことに感情が固く結び付いて、主のこだわりを無視していたか。こだわりだらけの律法主義者たちと頭を並べて主を嘲笑い、自分の正しさが勝つことを求めていたか。その私を招いて主が言われたのです。わたしについてきなさい。わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。そんなこだわりは降ろしたらよい、もう十分だろう、あなたの歩みはここにあると、キリストと結ばれる以外には歩み得ない教会の歩みに、あなたは相応しく歩みなさいと招かれた。この4章に啓示されたキリストの体の栄光の姿、教会を建て上げる召命に、皆、招かれているのです。十字架を負われた主の熱心な謙遜、罪人をご自分に結ばれる熱心な柔和によって、召されて主に結ばれた私たち全員が、この一致を熱心に保ちなさいと主から招かれているのです。

この熱心さが、私たちのあるいは病んでいる熱情を癒し、こだわりを正しく方向づけて、また捨てさせてもくれます。キリストが命を捨てるほどこだわられた、この教会の一致を、私たちも熱心に保つのです。

13/1/13礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙4章1-3節、イザヤ書57章14-21節 「この安らぎへようこそ」

13/1/13礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙4章1-3節、イザヤ書57章14-21節

「この安らぎへようこそ」

 

神様から招かれた、その招きに相応しく歩みなさい。以前の訳では、召されたその召しに相応しく歩みなさい。召された者としての命を生きる、と書いて、召命。先週の礼拝で、ぜひ今年一年この言葉に向き合い続けて頂きたいとお願いしました言葉です。召命。皆、神様に召され、召命を頂いているからです。その召命に相応しく歩みなさい、あなたに与えた召命にと、主が、一人一人に、そして全体に対して言われます。じゃあその主からの召命に、どう相応しく歩めばよいか。今日の御言葉は、その召命に対する具体的相応しさを教えます。

相応しいって、どういうことか。別の言葉で、お似合いだと言い得る言葉です。例えば私が、この礼服を着て、ああ、これは似合うちゅうとニコニコしながら、ショッキングピンクのネクタイで礼拝に臨んだら、おはようご…牧師に何が起こったのか?と思われるでしょう(笑)。何故か。似合わんからです。この地味な顔にというのではなく、それもそうですが、この教会の礼拝で、牧師が礼服を着て、そこまでは似合いますけど、そこにショッキングピンク!(笑)。全部台無し。

それが2節で言われます、高ぶりの不似合いさ加減だと言えばわかりよいでしょうか。神様が招いてくださった!この救いに、イエス様に、十字架に、罪の赦しに、復活の希望に、神の家族に。そこに高ぶった心や発言。これは似合わんというのはおわかりでしょう。

前にテレビでやっていたのですけど、喫茶店のモーニングで、パンにコーヒー、サラダに加えて、味噌汁がつくのは高知だけらしいですね。県外の人は、え、他全部洋風なのに味噌汁?て思う。でも慣れってのは怖いもので、そういうものだと思ってますから、相応しくないという、センスが身についてないのです。そういう意味では、相応しい相応しくないというのにはセンスの問題が関わってくる。モーニングのセンスは別にかまいません。問題は、召命のセンス、教会のセンスです。神様がお与えくださった、この召命に相応しい教会的センスを、あなたがたはここで身につけなさいと語られたのが、今日の御言葉です。今までは、もしかして、与えられている召命に似つかわしくないセンスを、知らずうち身につけてきてしまったということもあるかもしれません。味噌汁がモーニングについちょって何が悪いと思うように、センスというのは日本語にすると感覚ですから、感情に直結しているとも言えるのです。うわ、こんなセンスで恥ずかしいと思いもすれば、カチンとくるときもあるかもしれません。ならばこそ言われているということでもあるのでしょうか。一切高ぶることなく、柔和でと。それが自らの教会的センスをチェックする、試金石としての御言葉です。

一切高ぶることなく、柔和で。直訳は、全ての謙遜と柔和をもって。何故か新共同訳は高ぶることなくと消極的に訳しましたが、もとは積極的な言葉です。積極的に、全ての謙遜と柔和を身につけることで、既に主から頂いている召命に、相応しく歩めるようになるというのです。

この謙遜と柔和はセットだとも言えます。もとの文章でも一端ここで切れます。イエス様から招かれた、あの招きへの相応しさをも思い出させます。「疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」マタイによる福音書11章でイエス様が、わたしのもとに来たら、謙遜と柔和がわかるからと招かれた、そしたら安らぎが得られるからと招かれた、主の安らぎへの招きです。くびきとは、畑を耕して歩む二頭の牛を首で繋ぐ木のことで、要するに、一緒に歩もうという招きなのです。神様が私たちに与えてくださったこの召命は、あなた、一人では歩めないじゃないかと、イエス様が一緒に歩まれる召命なのです。主と共に歩む召命です。それを一人で歩むとき、私が私がって歩むとき、高ぶりが調和を壊してしまい、命に不似合いな生き方になってしまう。その罪の重荷をキリストは背負って下さったのです。それはわたしが背負うから、あなたは召命という、わたしの軽い荷を負いなさいと。罪と裁きを負うのでなくて、赦しと恵みを負いなさい。わたしはそのために来たのであるから、あなたを目指して来たのであるから、わたしと一緒に歩みなさいと安らぎへの召命をくださった。その道中で、イエス様と一緒に歩むことで学んでいくのが、この謙遜と柔和です。

わたしに学びなさいと言われます。だから毎日の普段の歩みに、どうかイエス様を見て下さい。イエス様ならどうなさるかと、御言葉の語るイエス様から目を離さずに学んで下さい。そしたらセンスが身についていきます。教会の歩みを見ておっても、あ、これがイエス様に学んで身につけられた謙遜なんだな、これがイエス様に倣って実践している優しさ、柔和なのだなと、わかるセンスも身についていく。逆に、ん?これはイエス様の臭いとは違うぞと、違和感が直感でわかるということもあるでしょう。その基準がしかも、前の教会はとか、私のセンスが基準でなく、聖書の証するキリストが基準、キリストの香りが基準になる。それがキリストの体である教会的センスの身につき方です。

そして、その教会的センスは、それがまだ身についてない人に対して高ぶることにも敏感です。あなたのセンスはおかしいと批評したいときは、自分のセンスがピンクっぽくなって罪の異臭を放ってはいないか、イエス様の謙遜と柔和がそこに香っているかどうかを、嗅ぎ取るセンスが必要です。

そこで教会の歩みの相応しさ、キリストに従って歩むなら、互いにはどうやって歩むべきかが身についてきます。身に染みるとも言えるでしょう。柔和で謙遜なイエス様が、どうやって私の隣におられるのかが、わかる言葉が次に続きます。「寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。」これも直訳すると、こうなります。「寛容と互いに愛によって耐え忍ぶことを身につけることで、聖霊様による一致を、あの平和のきずなによって熱心に保ちなさい。」直訳は、あの平和のきずなです。その絆によって、聖霊様による一致を熱心に保つとはどういうことかは、来週、再来週に説き明かしますけど、一言で言えば教会の一致です。それを熱心に保つのが、キリストの召命に相応しい歩みだと言うのです。なのに自分の正しさに熱心になったり、じゃあそんな私たちが一体どうやって召命に相応しく歩めるか。あの平和のきずなによる他ない!と御言葉は断言するのです。それが既に聴いてきた前の頁、2章14-22節の御言葉です。「実に、…」。アーメン!キリストがわたしたちの平和なのです。あのキリストの十字架に、御子は私たち罪人を結びつけ、ご自分の体に私たちをギューッと一つに結びつけ、この者の裁きを全部、わたしが身代りに引き受けますから、この者の裁きをわたしにくださいと、身代りに死んでくださった。そのキリストに結ばれて、私たちはもう既に陰府にくだって、そのキリストに結ばれて共に復活させられて、天の王座につかせて下さってまでいる。そのキリストに結ばれている絆によって、キリストが私たちの平和となられた、あの絆によって、あなたがたも互いに結ばれているではないか、わたしがあなたがたの平和の王である!と、キリストはその体としての教会に、私たちを招かれた。この召命に相応しく!です。その絆、あるいはくびきに一つに結ばれて歩む私たちをご覧になって、キリストは、お似合いだと喜んで下さるのです。

13/1/6朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙4章1節、創世記12章1-4a節 「神様に呼ばれたから」

13/1/6朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙4章1節、創世記12章1-4a節

「神様に呼ばれたから」

 

歩みにも色々な歩みがあります。一歩また一歩と大地を踏みしめていくような歩みもあれば、さっさー歩みゆく歩み、あるいは車いすに乗っての歩みもあります。もとより、これは生きるということを表す一つの比喩ですが、日本語でも他の言語でも、生きることの比喩として、歩むイメージが選ばれるのは興味深いです。食べるとは言わん。去年一年の歩みを振り返りとは言っても、去年一年の食事を振り返るとは言わん。カレーばっかりとか(笑)。食事のほうが生存を繋ぐイメージにも思えますけど、そうは言わない。それは生きることが、単に生存するということだけでなく、食事よりも更に深い根源的な場所で、目的地に向けての旅をイメージさせるからでしょう。皆そうやって今日を歩んでいるのです。たとえ床に横たわって肉体は歩けない人も、皆、歩んでいる。それがこの新しい一年の歩みでもあるのです。皆、歩んでいる。

その歩みを、「相応しく歩み」なさいと語るのです。何に相応しくか。招きに、です。直訳は「あなたが招かれた、その招きに相応しく歩み」。英語で言えばthe calling。召されたその召しに相応しくと先の口語訳は訳しました。召しに相応しく歩んでいく命に生きる。それを召命とも言います。私たちが一つの目的地ゴールに向かって歩んでいくこの命は、神様から召された命、召命であると聖書は語ります。そして神様の前でわかるのは、本当はそれ以外の命なんてのはないという現実です。

召されたその召し、招かれたその招きって、どうしてそんな言い方で言うのでしょう。招きが、招かれた招きであるって、そんなの当たり前で、他の招きなんてないでしょうって思えますのに、なのに私たちが今生きているこの歩みを、招かれてない方向に向かって、自分の生きたい方向に人生は生きていくものでしょって、勘違いし易いからじゃないでしょうか。だから敢えて重ねて強調し、招かれた招きに、しかも「その招き」に相応しく歩みなさいと、命がそのゴールに向かって以外はその行き先をもってない、その唯一の招き、the calling、主が「わたしに従ってきなさい」と招かれた、その招きに向かって、招かれたその招きに相応しく歩みなさいと、歩みのゴールが示されるのです。

それは更に具体的なイメージで言うと、神様と共にゴールに向かって歩んでいくイメージであり、神様と共に生きるということです。それは単に神様のことを時々思いながら生存して、死んだら神様のもとに行くということではなく、今、神様と共に、キリストと共に生きる歩みです。そのために神様が人となって下さって、十字架で私たちの罪を背負って下さった。その背におぶられて、復活のキリストと共に生かされ歩んでいくという命を、その召し、召命に相応しく歩みなさいと語るのです。

この召命、召された命と漢字で書く召命という言葉は、私の手持ちの国語辞典には載っていませんが、英語辞典でcallingという言葉を引くと、最後の5番目の意味として、神のお召し、召命と書いてありました。教会用語なのかなと思いますけど、教会用語としても勘違いされやすい言葉です。召命と聞くと、神様から牧師になりなさいと召されることに限定して用いられることが多々あります。でもそれは聖書の語る召命を狭めていますし、宗教改革者たちや、その後のピューリタンたちが正しく理解した召命でもありません。ちょっとお勉強になりますが、これを正しく理解するなら、人生が本当に変わるのです。召命はcallingとも訳されますがvocationとも訳されます。一般には職業と訳されることが多いようですが、先の手持ちの英語辞典では…これ牧師用とかじゃなく普通の英和ですが、vocationの最初の意味として、特に聖職や信仰生活への神のお召しと書いてある。二番目の意味として天職、使命、任務、また一般に、職業とあります。この順番が正しいのです。もともとは、ラテン語でvocatio、呼びかけ、特に神様から呼ばれ、招かれ、召されること、召命を意味していた言葉が、宗教改革を経て天職を意味するようになった。それは神様から、この働きをしなさいと召されているのは牧会者だけでは無論ない、どんな職業であろうとも、あるいは職に就くことのできない人でも、皆、神様から、神様のための働きをするように召されているじゃないか、そのために賜物を頂き、命を頂いて、祈り、人々のため仕え、生活を営み、教会を営む。それが神様から地上に命を与えられた全員に呼びかけられている、神様からの呼びかけである、vocationである。だから神様から呼びかけられてない人などおらんなら、その呼びかけ、招きに、相応しく生きて、歩んで行こうじゃないかと、生活の全ての場面が、具体的に神様に従って歩む命だと理解して、その実践を努力してきた。それが神様からの招き、召命です。

先に、この召命を正しく理解するなら人生が変わると言いましたが、そりゃそうでしょう。学生で考えるとわかり良いでしょうか。職を選んだり、そのための進路を選ぶとき、自分の好みや自己実現のためという基準で選ばんなるのです。神様は私をどの道に招かれているか、どこに私のvocatio、callingがあるのだろうかと考える。その視線で私に与えられている賜物は何だろうと考え、私が置かれている環境は、何故この環境なのだろうかと考える。自分が主語になるのではなく、私は賜物を与えられ、この環境に置かれ、ここに遣わされてと、受身で、しかも、積極的受身で考える。それは主の祈りでイエス様が教えられた立ち位置でもあるのです。御国を来らせて下さい、御心をなして下さい、日毎の糧を、罪の赦しを、与え給え!と積極的受身で神様の前に出る。これが神様と共に生きるように神様から召された、召命に生きる生き方です。無論、学生だけじゃなく、全ての人が、この積極的受身で、その召命に相応しく歩むよう、召され、呼ばれているのです。わたしのもとに来なさいと、キリストが呼んでおられるのです。

あなたは召されていますか。います。皆、神様から召されています。先に言いましたように、召されてない人はおらんのです。その感覚がない人、あるいは何となく感覚はあるけど知識がなくてさ迷う人、または知識もあるのだけれど、召命に相応しく積極的受身で歩み切れていない人ならいるでしょう。そして多かれ少なかれ、誰しもそういうところがある。ならばこそ、この召命をご自分のものとして下さい。今年一年、召命にとことん向き合って下さい。キリストから呼ばれているその召命に相応しく歩ませ給えと、積極的受身で、主にお求めください。それが自分に何を意味するかわかっているという賢い人がおられるならば、主に結ばれて囚人となっている使徒パウロに代わってお願いします。主のために、また主があなたの周りに置かれている人々のために、愚かになって下さい。イエス様ご自身、愚かなほどに人となられて、十字架を前にしたゲツセマネの園では、父から与えられたキリストとしての召命が何を意味することになるかを賢くも知っておられて悩まれて、この杯を取り除けて下さいと祈られて、しかし、わたしの願うようにではなく、人々がこのことで救われていく、御心をなし給えと祈り抜けられた。私たちはその愚かさによって救われたのです。その愚かさによって招かれたのです。教会よ、わたしの体に招き入れられた者たちよ、わたしに従ってきなさいと、あなたも愚かになりなさいと、キリストが招いて下さいました。他の救いではなく、この救いへと、この愚かなるキリストの体の一肢一肢として、キリストの体の部分部分として、私たち一人一人が、しかし全体として、十字架の愚かな愛によって共に祈り抜き、歩み抜きなさいと招かれた。この招き、十字架の愚かな愛で人が救われる、教会への招きに相応しく歩みなさい。この歩みが根源的な命なのです。

12/12/30朝礼拝説教@高知東教会 エフェソノ信徒への手紙3章20-21節、ゼファニア書3章17節 「何を願ってきましたか」

12/12/30朝礼拝説教@高知東教会

エフェソノ信徒への手紙3章20-21節、ゼファニア書3章17節

「何を願ってきましたか」

 

クリスマスが過ぎますと、世間では、まるでクリスマスなど最初からなかったかのように過ぎていきますが、教会の暦では一月の第一主日までをクリスマスの季節として祝います。あるいは二月に受難節が始まるまでを降誕節として覚えますので、皆さんには世間と流れを共にしないよう是非お勧めをいたします。それは別に正月を祝わんとかいうことではなくて、キリストを頂いた喜びから目を離さないということです。特にクリスマスに祝います主のお名前、インマヌエル、神様は私たちと共におられるというお名前を心から祝い、じゃあ神様が共におられるのであれば、私は今日の日をどう過ごせばよいかと考える。またその考えに導かれ祈る。そうやって一日を始め、また一日を終わる。神様が共におられるから、今日はこのことをしよう。神様が共におられて今日はこのことができました、ありがとうございます、明日もお導き下さいと祈り願って一日を終える。この祈りの基本、神様と共に生きる基本を改めて身につける季節が、クリスマスだと言ってよいのです。ですので基本を改めて各自チェックして、せめて後七日はお過ごし下さい。年末年始の落語の番組とかチェックするのもよいですが、私もたぶん元旦礼拝の準備が終わったらチェックするんじゃないかと思いますが、それと共に、またそれも神様の栄光のために過ごす時間となるために、神様と共に過ごす基本を身につけるクリスマスをまだ過ごしましょう。

特に私たちの救い主として人となられた神様、イエス様を私の救い主として受け入れ、洗礼を受けたキリスト者は、神様が共におられると言うときに、より一層うんと近いイメージを持てるのです。もし持ってなかったら持てるようにする信仰の基本トレーニングを積むというのも、クリスマスに与えられた恵みだと言えるでしょう。キリストを受け入れたキリスト者は、今日の御言葉で「私たちの内に働く御力によって」ということを感謝できるようになるほどまでに、神様が共に、いや、内におられて働いておられるからです。それがすぐ前の16・17節で言われております使徒パウロの祈りの根拠です。待降節を経て、この御言葉に帰ってくるのも相応しいことだと思います。「どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」教会の言葉、神学用語で、内に住むと書いて内住、キリストの内住と言います。私たちの内にキリストが内住される。神様が人となられたのも神秘ですが、その人となられた神様が、三位一体の聖霊なる神様によって、信じる者の内に住まわれるというのも、また神秘です。この神様は近い。すごく近く私たちの内で、共におられる神様なのです。

思い出して頂きたいのは、イエス様が処女マリアの胎に人として肉を取られて宿られるとき、聖霊様によって宿られたことです。三位一体の御子なる神様は、聖霊様によってマリアの内に人として宿られた。先に読んだ16節でも「その霊により」と言われます。キリストが私たちの内に住まわれるのも、三位一体の聖霊様によるのです。

私たちが罪と裁きから救われるために、三位一体の神様が総動員で働かれています。その神様が、私たちと共におられて、私たちを救われると言うとき、その神様は単にどっか上のほうで祈りを聞いて、ちらちらとマジックハンドを動かしてなんてことではありません。あるいはまるでゴーストのように、見えないけれども側にいて、千の風のように見守っているから精神的に慰められるというのでもない。それなら十字架は必要ないし、その十字架で罪を償う犠牲として、人となる必要もないのです。クリスマス礼拝でも申しましたが、クリスマスに輝く主の栄光は十字架の主の栄光です。神様が私たちの罪から私たちを救うためには、その私たちの罪の責任を身代わりに引き受けて、裁かれ死ぬための真の人として生まれてこなければなりませんでした。そして私たちの代表となり、死ぬべき人間が復活させられ永遠の命に生きるため復活させられねばなりませんでした。そのクリスマスの御子、十字架の償い主、復活させられた愛の勝利者が、私たちの内に、聖霊様によって住まわれて、人はキリストに結ばれて救われる。キリストがその愛する者をご自身の形へと日々造り変え続けて下さって、ついにはキリストと同じ復活に、死んだ後、完全に至らせて頂ける。洗礼準備会で必ず学ぶ、救いの基本理解です。そして洗礼を受けたら忘れてもかまん基本などないのと同じで、クリスマスをお祝いしたら、そのクリスマスの喜びに忠実に生きていくのです。それが教会の、クリスマスの過ごし方です。

神様が私たちと共におられるというクリスマスの喜びをお祝いして、そこから教会が進んでいく道は、その共におられる神様と、私たちの内に住まわれるキリストと、どう共に生きていくことを求め願うか。これに尽きます。あるいはこう考えたほうがわかりよいでしょうか。どうして神様は遠くから共におることを求めずに、私たちの内に共におられて住まわれることを求められたか。神様のお気持ちから考える。でないとクリスマスの意味もわからんことにならんでしょうか。あたかも子供がクリスマスプレゼントをもらって喜んで開いた後で、あれ、何か思っていたのと違うなあと、私が求めたり思ったりしたのは、こういう幸せだったか、こういう形での「神様が共に」を、私は求めたり思ったりしてはなかったがと、まあ私も含め大概の人が思わんでしょうか。じゃあ誰がそんな「共に」を求められたかと言うと、私たちの内におられる神様です。イエス様が求められたから、その求めが叶うのならば、わたしはあなたのために死んだって良いのだと、求めて人となられたからです。そして聖霊様によって私たちの内に住まわれる内住の救い主となられたからこそ、私たちは、ともすると私たちが罪深く求めたり、自分勝手に思ったりすること全てを遥かに超えて、私たちの内に、聖霊様によっておられるキリストの力によって、救われる。それが神様の求めです。それが私たちの内で、神様が働かされる、御力なのです。

その御力によって、求めを叶えることができる、叶うと翻訳されてしまうと、何か初日の出に柏手打って世界が平和に…というような印象を私は持ってしまうのですが、直訳は単に、行う、働くという言葉です。叶うと言うと、まず求めや思いがあって、それを神様が受け入れて下さるかどうかということになりますが、そもそも御子は人間が求めた救いではありません。救いを求めたとして、どんな救いを求めたでしょう。人が自分に対する神様の求めでなく、自分のしたいことを求めて神様に背を向け、あるいは偶像を造り、罪に堕ちたとき、その自覚すらない時に、その私たちを罪と裁きから救うことを神様が求められて、その求めを実行なさったのです。御子を人として十字架で裁き捨てられて、陰府にまで降らせ、裁きを実行して下さった。そして御子を復活昇天させられて、御子を受け入れる全ての者の内に、聖霊様を内住させられ、御子を住まわせて下さった。そして、です。先の17節以下が語りますのは、その内住される御子の御力によって、私たちがキリストの愛の形へと造り変えられ、内なる人を強められ、自分自分の外なる人、肉の人が求めたり思ったりすることなんかは遥かに超えて、キリストの住まわれる内なる人が、キリストの愛に生きる新しい人へと救われていってしまう。私たちが、内に住まわれるキリストによって、内側から救われるという救いの基本です。問題は、その基本が、まるでクリスマスのように信仰生活から過ぎ去ってしまいやすいということです。

しかし、です。私たちを内から造り変える救いの御力は、私たちの求めに応じて働くのではない。私たちの信仰の力とか頑張りゆうきとか、そんな一切の私たちの力に応じてではなく、内住されるキリストによって、キリストの十字架の愛の御力に応じて、神様が私たちを罪から救い造り変えることがおできになる。それが教会だ、それこそ神様に栄光を捧げることを可能とされた教会なのだとパウロは語ります。アーメンと強調をしてまで語るのです。それが神様の求めであるからです。

だから、ここで御言葉が語るのは、私たちの求めを叶える力を神様が十分に持っておられるというより、もちろん持ってはおいでですけど、それを決められるのは神様ですから、それは力がどうのという問題ではありません。力が遥かに大きいから何でも願いをしたらよいというのではなくて、そんなにも大きな力で神様はあなたを造り変え、そのあなたが置かれている教会によって人々がキリストを知って救われていくため働いておられる方だから、今のあなたの生活が、あるいはあなたの周りの世界が、あなたの思い通りになっていず、神様は祈りを聞いてくれんとか、自分が思っている生き方はこうだからとか、そういう自分のことはさておいて、自分のことでジタバタすることはもう止めてしまって、あなたの内で、あなたをキリストの形に造り変え救うために働いておられる神様に、全部おまかせしてしまったらよいと御言葉は語るのです。それこそが、キリストによって救われた教会によって、神様が栄光を受けられるということであるからです。

その教会の幻、神様に栄光を捧げる教会こそが、次週からエフェソの信徒への手紙4章で緻密に語られる、教会の設計図、ヴィジョンです。神様の求めが、ここに情熱をもって描き出されます。その情熱を感じ取って頂きたいと願います。この教会を建てられることによって、栄光を求められる神様なのです。御子のみによってじゃない。教会によって、神様は栄光を受けられることを求めておられます。その情熱をご自分のものとして下さい。それが私たちを内から変えます。それがキリストのパッションだからです。それ故に私たちも、この栄光の教会を求めるのです。自分の好きな教会を勝手に思い描くのではなく、都合で求めるのでもない。そもそも教会を求めるよりも、個人的にプライベートに救われて生きて死にたいと思いやすい人間が、なのにキリストに結ばれて、その体である教会に、互いに結ばれ組み入れられて、神の家族と呼ばれてしまうのは何故か。それを栄光の神様が死ぬほど求めておられるからです。その神様の愛に応えて、私たちは栄光の教会として歩むのです。