12/9/23朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙2章22節、エゼキエル書37章22-28節 「神様が住まわれる教会」

12/9/23朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙2章22節、エゼキエル書37章22-28節

「神様が住まわれる教会」

 

お隣の南国教会に鈴木牧師がおられたとき、まだ小さかった娘さんが忘れ物でもしたのか、夜、礼拝堂に行かないかんなった。で、おばけが出たら怖いき一緒に行ってと頼んだら、教会におばけは出ん、かわりに神様が出ると言われて、よけい怖かったという話を聴いたことがあります。神様を畏れることは大切な感覚です。神様をまるで自分と同じ人間のように心で扱う態度が、私たちの人生を狂わせるとも言えるのです。ただ、おばけが怖いのと同じレベルでいつまでも怖がっていても、神様を正しく畏れるということにはなりませんし、何より安心して信じることができません。神様を信頼するというのは、神様と共に生きていく、あるいは神様に生かされている根源的安心のもとで、なら神様、この命を、あなたの喜ばれるままに歩ませて下さいとお捧げできるということです。信頼できん、捧げられんというのは、信頼できん人に自分を任せることができんのと一緒でして、神様を信頼できんかったら、教会生活を辛く感じるということもありえます。義務で礼拝に来ないかんとか、義務で献金をとか、確かに、義務ってありますけれど、そんな重く辛い義務感覚って、父なる神様も辛いと思われるのじゃないでしょうか。子が親を愛することを、義務だと感じて不満な顔してたら、親も当然辛いはずです。全てに優って信頼こそが家族の正義だとも言えるでしょう。

神様が私たちを、わが子として招いてくださった。それが教会です。なら教会生活を営むというのは、どういう生活態度で営めばよいのか。どういう教会生活が、天の御父が求め、喜ばれる、神の家族の生活か。それが今日の御言葉で言われます。あなたがたは神様の住まいとなる、という生活です。

住まい。日常の生活が、そこから営まれる本拠地です。そこから学校や職場に、通勤、通学して、それが終わったら帰るところです。旅行に行っても、ああ、家がやっぱり落ち着くねえとか感じるところ。もとの言葉でも、ひと所に落ち着く、定住するという意味があります。

皆さんも、神様のもとで落ち着くという体験をなさってきたのじゃないかと思います。やっぱり礼拝が落ち着くねえと、あるいは神様が共におられる平安を、礼拝は落ち着くという感覚で理解されることも少なくないでしょう。信仰はまだわからんけど、でも、礼拝は落ち着くという感覚を通して、神様がご自身への信頼に導かれることは多いのです。

現代は、住まいが落ち着かんという、罪の汚染が深くなった時代にあることを思わされますが、本来、家、住まいというのは、先週も申しましたように、外の暴力や圧力から身を守るため、逃げ込むことのできる砦、聖域です。そうでなくなっているから社会が崩壊し、子どもが辛い思いを強いられるのですが、ここで聖書が描き出す神様の住まいには、御父がいつもおられて、子供たちはいつでも、そのもとに逃げ込んでいけるのです。そこには父がおられて、悩みを聴いてくれる。外でこんなひどいことがあったと泣きつくことができる。神様は忙しくしてませんから、その泣き言を全部聴いてくださって、また責めたりもされない。なにか責められることがあったとしても、最初から赦す態度で、十字架のもとにご自身おられて、言わば、父に泣きついている私たちのすぐ横で、イエス様が常に御父を見つめておられ、あるいは口だけ動かして、父よ、この子をお赦しくださいと執り成してくださっている。父はそれを見て、そう、その通りだと微笑まれ、赦しをもって、忍耐をされて、深い愛情を私たちに注がれ、私たちの全部を受け止めた上で、じゃあ、お父さんの話も聴いてくれる?と御言葉を語られる。私たちが、じゃあどうしたらよいか、父の言葉が与えられる。これが私たちの教会生活のイメージ、あるいは、礼拝のイメージとも、祈りと御言葉のイメージとも言えるでしょう。

最後の、じゃあ、お父さんの話を…ってところで、いや聴きとうないってなると、ん~ちょっと待ちなさいと、ガミガミではないにしても、躾けはあるというのが、聖書の語る父の、父としての姿ですが、それがわかってくるというのも、家族としての成長に含まれています。小さな子って、そういうところがあります。その小さな子が、ならどうやって父の子として成長するか。父と家族の交わりを持つことによってです。例えば今言いましたように、父に泣きつきに行って、本音で祈り、また信頼する父の言葉を聴くという、大切な父子の時間を持つことによってです。祈りと御言葉。家族の語り合い。これが住まいの中心です。教会が、神の住まいとここで呼ばれて、単なる家と呼ばれないのは、御父が神の家族の交わりを、何よりも大切にされるからです。

そしてその交わりによる成長を、父は自己責任にはされません。お前が来んき、いかんがよと、信仰の成長、愛の成長を、自己責任で済まされはしません。家族ですから。兄弟姉妹もおるのです。お父さんに一緒に聴きにいこうって共に苦しみ、共に笑う家族として教会はあります。心を配って心配し、祈り合い、声を掛け合うことによって、家族として互いに成長していく。それが、父のおられる住まいです。

ただ、その家族愛の成長というのが、教会としての成熟度が未熟なと言いますか、日本の教会では、どうも信仰と言うと個人のものだというイメージが強いみたいです。外でも言います。信心は個人の自由だと。その外の論理を神の家にも持ち込んで、個人の信仰から脱皮できない。それがまた伝道の態度の中にも入り込んでいるように思います。救いは個人のプライベートなことだと感じる抑圧が無意識に染みついている。そうした教会の問題を、核家族化の問題と言ってもよいと思いますが、この信仰の自己責任というイメージは、まるでワイシャツについた血のように、なかなか落ちんなあと思わされます。スーツについたおやじの臭いでもいいんですが、あえて大胆に言いますと、説教で聖書の教えを聞いて、そうだなとわかったくらいでは落ちん。もっとはっきり言うと人間が人間の力で、わかったとか、こうしなさいと教えるとか、人間の力で、神の家族らしくなろうと、教会を神様の住まいとして、家族全員が落ち着いて、ほっとできる、神様の住まいにしていこうと、人間の力でやろうとしても、できんのです。自分を変えることすらできんのに、家族を変えることがどうしてできるかとも言えるでしょう。

だから御言葉は「霊の働きによって」と言います。聖霊様のお力によって教会は神様の住まいとなるからです。これはイエス様を信じて洗礼を受けた人々の内に、聖霊様が入って来られて、宿ってくださり、内に住まわれると書いて、内住されるからですが、ただそれだけで住まいにはなりません。建物が住まいとなるための内住であることを、共によく考えたいのです。この御言葉の真理をわきまえ、私たち自身のこととしたいのです。聖霊様の内住によって、私たちが個人としても家族としても、一つの霊に結ばれて神様の住まいになるということは、私たちにはどんなに信頼できる人より、どんなに近くにいる人よりも、もっと近くに、今ここに、話を聴いてくださる方、いや私たちが来るのを求めておられる方が、ここにおられるということです。神様と、ここでつながっているということです。夜の会堂どころではありません。夜のトイレにも神様が共におられて、そこを神様の住まいの庭と変えられるのです。トイレで神様と話し合える。祈ることができる。聖書を持ち込んでもかまいません。神様と臭い仲になったら良いのです。そのために聖霊様が来られました。天の父が、それを求められたからです。神様が聖霊様によってここに来られて、だから、来なさいと求められ、ここはあなたとわたしの住まいだと言われるのです。

そして、これは個人的なことだけに留まらず、皆が住むための住まいですから、空間的なイメージで言うと、私たちの内におられる聖霊様によって、一つの家族とされた私たち、皆が一つの住まいとしてつながるのです。この地のあちこちにいる私たちが一つの住まいとして、しかも父がおられる住まいとして、もうつながっているのです。それが教会、聖霊様によって神様の住まいとなっている教会です。それを敢えて教会堂のイメージで描くなら、え、じゃあ高知東教会だけでも、西は四万十市、東は山北までつながって教会員がおるき、えらい大きな住まいやねえ、廊下、長!となる。しかも、他の教会も重なってきますから、え、ほいたらほとんど教会?そうです。それをイエス様は、神の国は近づいたと言われました。あの時より、遥かに近づいています。キリストにおいて神の国は、こうして近づいているのです。私たちが、この地のどこにおっても、そこで霊によって祈り、神様に人々を執り成し、証して、キリストの福音を差し出しているところ、そこに神の国は来ています。四国教区で、教会員が住んでないところを伝道空白地と呼んで、空白をなくそうと祈り伝道してきたのは、そういうことです。え、けんど廊下だらけじゃないがということかもしれません。じゃあその廊下を、祈りで埋めていきましょう。聖霊様に頼りましょう。人間の力で考えたら、途方にくれそうな地域伝道の業も、あるいはもっと切実な家族伝道も、霊の働きに拠らずしては、もともと閉ざされているのです。ならばこそ天の父は、御子をこの罪の荒野に遣わされ、聖霊様を注がれて、恵みによる道を開かれたのです。私たちは、その道によって救われましたし、それ以外ではありません。そして愛する者たちが救われていく道も全くそれ以外ではありません。だから私たちがまず集中すべきは、キリストをくださった、恵みの父を信頼し、聖霊様を根拠として祈ることです。私たちに内住される聖霊様を根拠に祈ることです。そして人間の力では不可能な伝道を、神様の業にして頂くのです。そのために聖霊様が来られたからです。この私たちの内に来られたからです。この聖霊様の力を信じて、家族と隣人の救いを祈り、また神の家族として、互いのために祈るとき、私たちは、聖霊様の力によって共に建てられ、教会として、神の住まいとなるということを、霊の働きによって知るのです。そして霊的に励まされ、弱さも神様に受け取ってもらって、それを乗り越えていけるのです。ここが私たちの拠点です。私たちの全生活が救いの業とされるため、神様が共におられます。それが神の住まいなる教会です。