12/9/9朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙2章19節、申命記7章6-8節 「家族だから家族になる」

12/9/9朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙2章19節、申命記7章6-8節

「家族だから家族になる」

 

もはや外国人でも寄留者でもないって感覚、どんな感覚でしょうか。嬉しい感覚だと思います。壁がなくなる感覚、いやむしろ、暖かな空気に包まれてしまうというか、遠くなくなるのではなくて、近くなる感覚なのだと思います。私、外国人だったことがあるので、ちょっとわかる気がするのです。え、帰化した人?やっぱり韓国ッぽい顔を…というのではありませんけど、よく韓国の方からも韓国人に間違われます。一度ソウルで米国人とタクシーに乗って、~までお願いしますと英語でお願いしたら、運転手が、またまた~かっこつけて英語なんて使っちゃって~らしきことを韓国語で言われるので、アイムジャパニーズと言ったのですが、ますます笑われて困りました。次に、アンニョンハセヨ~と言ったら、あ~と真顔で納得されました。ま、その場合だと外国人なのにそうではないと間違えられたのですから、今日の御言葉で言えば、まだキリストに結ばれてないのだけど、キリスト者に間違われたということになるでしょうか。まだイエス様信じて洗礼を受けてはないのだけど、礼拝に通いゆうから、あなたクリスチャンでしょって思われていたことって、皆さんも体験があるのかも知れません。私の知人でも、三浦綾子さんの本を読んで感動したから、私はクリスチャンだと思っておって、その後、教会を訪ねて、今牧師になっている人がおります。

話を戻しまして、私が割と長く外国人暮らしをしておったのは米国におったときです。米国には色んな人種がおりますから、外見の壁は案外感じなかったのですが、やはり言葉の壁が高くって、心と心を通い合すコミュニケーションが取れないのが、うんと遠くに感じました。やっと言葉が通じるようになっても、文化の壁、例えば笑いのセンスが違うのです。皆が笑いゆう所で一人だけ何がおかしいかさえわからん寂しさ、皆さんも何となくおわかりになるんじゃないかと思います。

皆さんは教会の言葉って、いつ頃、習得されたのでしょうか。いや~実はまだひとっちゃあわからんと言われる方も、以前の私がそうだったように、もちろんおられてよいのです。だんだんわかってきます。言葉の壁は、知識さえ得れば低くなります。むしろ外国人のような寂しさを覚えるのは、教会文化と言うより、神様の感覚、神様の近さ、神様を父と呼び、イエス様を私の救い主と感謝するということころで、イエス様を信じる前の私は寂しい思いをしたことを覚えています。礼拝の雰囲気とかは好きなんですけど、神様に対する距離を感じる。イエス様が私の救い主であるということが皆と共有できない。そういう、むしろここで御言葉が語っている外国人感覚を、言葉や文化を越えたところで感じたのです。これは神様と私、いやイエス様と私という関係をどうにかせん限りは、何ともならん問題ながやと、それが嫌で受け入れとうはないがやけんど、本当はそこやとわかっちょりながら、直視したくない、でも寂しいという感覚。そういう外国人感覚があったのです。

その壁が打ち壊されたのは、イエス様を私の救い主、私の神様として祈って受け入れたときでした。本当に不思議でしたが、神様ですから、不思議なのです。聖書には、神様はその名を不思議と呼ばれるとあるぐらいです。キリスト者の友人や教会の方々は、別に何にも変わってないのに、すごく近く感じました。本当に家族のように感じました。それは人と人との距離が縮まったからではありません。私と神様との距離が、変わったからです。私にとって、それまで単なる神様だった距離から、私を赦し救い受け入れてくださった私の救い主という、私のという距離に変わった時、今日の御言葉の一つ前18節の御言葉が実現したのです。「それで、このキリストによって私たち両方の者が一つの霊に結ばれて御父に近づくことができるのです。」そして今日の御言葉へと続きます。「従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり」。

臆面もなく言いますが、それ以来、この家族感覚は薄らぐことがありません。意見の違う人ならいました。信仰とは何かという細かいところで牧師たちと意見が違って教会を離れた人もいました。その人から幸生はどう思うと説得されたこともありました。私はそうした細かいところより、使徒信条で信仰告白するところの、我は聖なる公同の教会を信ずという、信仰内容と言うよりは、正直、信仰の畏れ、畏怖のような感覚を覚えておったように思います。私の信仰のこだわりの違いより、その教会を教会として建て上げていくことに神様からの召しを感じていました。完璧な教会ではありませんでした。でもそこで日本人の友人たちも救われて洗礼を受けるようにもなりました。離れた兄弟も今でも顔を思い出すと胸が暖かくなります。家族感覚があります。他にも色んな教会に身を置く兄弟姉妹たち、意見の違いで苦しい思いをしたことも少なくありませんけれど、祈ると一つになれるのです。一緒に祈ることができるだけの、僅か一平方メートルばかりの信仰さえあれば、同じイエス様によって、一つの聖霊様に結ばれて、父に近づくことができるのです。そのように父が、私たちの色々な違いを乗り越えさせて、あなたがたはわたしの子供たち、わたしの家族だとご自身に引き寄せ、近づけて下さる。ただそれだけの理由によって、ただ三位一体の神様のみが理由で、根拠で、原因また目的で、私たちは神の家族なのだと断言される。その神様由来の家族感覚は人間の理由では薄らぎません。その根拠、出所、原因である、神の家族関係が、聖なる神様にあるからです。

神の家族の関係そのものは、縮まるとか、遠のくとか、そういうものではありません。神の家族の関係そのものは、ただキリストによって、一つの霊として家族をキリストに結び付けて一つにしている、聖霊様によって、唯キリストに結ばれているということにのみあるのです。その関係があるかないか。それだけ。それが家族の関係です。キリストにより家族になったら家族です。なくなることはありません。キリストが、ご自身に救いを求め、その名を呼び求めた者を、捨てられることは決してないからです。人間は捨てても、神様が家族を捨てられることはありません。そのためにキリストが私たちに代って捨てられたから、十字架で罪人として捨てられたから、救い主イエス・キリストの御名を呼ぶ者は、御父から捨てられることはないのです。

神の家族の関係は、ただそこにあるのだとわかるなら、そこに身を置いて安らげます。そして、決してなくならん関係を根拠に、三位一体の神様をのみ根拠に、家族同士、互いに近づきあえるのです。人に期待すると、自分に期待するのと同じで、がっかりするかもしれません。弱さがあります。私たち皆、赦されん限りは救われん存在であることを忘れる時、赦すこと、赦しを求めることが辛くなります。私さえ家族にして頂いたスタートにいつでも立ち帰ること。家族の距離を縮める愛の歩みは、私が赦された十字架の下で、イエス様と一緒に再スタートします。謙遜に、赦しを求める心備えが、違いを受け入れあう備えになります。イエス様が招いて下さった救いの道は、そういう家族の道でした。そこで自分という重荷が負われ、イエス様の柔和と謙遜に倣うとき、神様の子供に相応しく再び起きて歩めます。神の家族としての相応しき歩みは原点に戻って歩むことです。イエス様に従っていくのです。その道で、家族愛の距離は縮まります。父のお気持ちがわかるからです。外国人感覚という寂しい感覚は、父に共感する近づきの中で、感覚としてもなくなるのです。人間の共感は破れます。しかし御父に近づく神の家族は、それが聖なる御心だから、家族として近くなれるのです。