12/10/14朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙3章10-13節、イザヤ書51章4-8節 「永遠に触れるところ」

12/10/14朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙3章10-13節、イザヤ書51章4-8節

「永遠に触れるところ」

 

人は自分が愛していることのためなら、たとえ犠牲を払っても、それを犠牲だとは思わんものです。価値のわからん人からしたら、ええ?という高いお金を払ってでも、全然惜しくはないと思います。愛する人のためになら尚更です。化粧水を買うお金さえ全部我が子につぎ込んでいる母親もいると聞きます。そして喜んでいるのです。その喜びは確かに愛のしるしだと思います。

そのように教会の使徒パウロも、あなたがたのために受けているこの苦難は、苦難じゃないと言うのです。だから落胆しないでくださいと。パウロは当時、当代きっての異邦人伝道者でしたから、そのパウロが、ローマに囚人として捕えられているというのは、ある人々にとっては、あんなに信仰熱心で、教会を建てて、お弟子さん達もようけおられる、あのパウロ先生をどうして神様は苦しめられて、早く救いだして下さらんのか。もしかしてこの信仰自体が、全部間違っているのではないか。いやいや、そんなことはないと思うけど、じゃあどうしてパウロ先生が苦難を受け続けて、それで周りの教会にも影響が出て、どうしてって、落胆する人、信仰が意気消沈する人々が多かったのでしょう。そうした信仰の言わば勘違いと言いますか、信じておったら苦難がないとかではないのだと、むしろ、教会の働きのため、つまり人々の救いのために受ける苦難を、パウロは愛のしるしと見て、しかも神様の愛のしるしと見ればこそ、この苦難は栄光ですよと言うのです。まるでイエス様のようなことを言うのです。そしておそらくパウロもきっと、そのことを意識して、いや、信じて言ったに違いないのです。そうだ、このようにして教会が負う苦しみは、キリストの苦しみであるのだから、今かぶらされているこの茨の冠は、栄光の冠であるのだと。

このときのパウロの心境を想像します。イエス様の十字架の苦しみを考えておったのだと思います。いつも考えておったに違いないのですけど、苦しみの中にいたこのときは、殊更にキリストの苦しみが身に迫ってきたのだと思います。その苦しみを自分のこととして思ったに違いないのです。皆さんも体験があるのではないかと思います。苦しみの中でキリストの十字架に一層近く寄り添うような、むしろキリストの十字架が迫ってくるような、キリストの愛を知るときがある。苦しみの中で、キリストが近くなるのです。そしてキリストの苦しみを知るにつれ、全くそれ以外によってではなく、ただキリストを知る啓示に背負われて、自分の負っているこの苦難は、神様の永遠の救いのご計画の中で、重要な意味を持つ栄光の苦しみであるのだとパウロは知る。言い換えれば、今の苦しみを神様の愛の苦しみとして知った。この手紙の前に書かれたコロサイの信徒への手紙では、これはキリストの苦しみを満たす苦しみだとさえ言います。教会のために受けているこの苦しみは、キリストの苦しみだと言うのです。

パウロは回心以前は、むしろ教会を苦しめていました。迫害していました。そのパウロがキリストに出会ったのは、彼の苦しみの中でです。目が見えなくなりました。天からの光によってです。そしてキリストの声を聞きました。何故あなたはわたしを迫害するのか、どうしてわたしを苦しめるのかと。パウロが苦しめておったのは教会なのに、キリストは、それはわたしを苦しめているのだと言われた。それはパウロにとって生涯忘れることのできない、最初の教会体験だったのだと思います。キリストは、教会はわたしだ、わたし自身だと言われた。教会を苦しめるのはキリストを苦しめるのであり、教会を愛さないのはキリストを愛さないことなのだと。私たちが自分の目で自分の思いで教会をどう見ているかでなく、キリストが教会をどう見ておられるか。それが全てであることを、打たれるようにして知らされました。パウロはその時受けた衝撃を、生涯忘れなかったに違いありません。

私もパウロとは違いますが、これが教会かと知った経験があります。神様への畏れを伴って、今まで私は教会を何だと思っておったのかと、目が覚めるような教会体験でした。それまでも礼拝は欠かさず出席していましたし、留学中でしたので、同じ留学生に伝道しようと、留学生のための聖書を学ぶ会を仲間と始めました。が、誰も来ない。祈りましたが、まだ来ない。それで、そうだ、教会で祈ってもらおうと、牧師に伝えたら、礼拝の後で、皆に訴えてくれと言うので訴えました。教会全体で祈ってもらいました。そしたら来たのです。続けて教会で祈ってもらいました。もう20年前のことなので時期が定かではないのですが、そこからイエス様を信じて洗礼を受ける者たちが起こされ始めました。目に見えて何かが変わってきました。私は神様への畏れを覚えました。教会全体で祈ってもらったら、こんなに違うとは、何だ、教会という存在はと、教会を意識せざるをえませんでした。個人の信仰とか救いとか救われた信仰者の集いとか、そういう人間のレベルではなくて、何だ、この教会という存在は!と。無論それまでも教会に行っていました。かなり真面目に行っていました。でも教会を知りませんでした。行くものだと思っていました。そして伝道はキリスト者一人一人がするものであり、祈りも一人一人がするのだと。だから伝道し、祈り、大学の寮で志を同じくする者と一緒に祈り伝道をしていました。そして日曜日には教会に行きました。それで満足でした。そのお一人様の満足を包み覆うようにして、教会が私の上から迫ってきました。言い方は何ですが、教会をなめたらいかんと畏れを覚えたのです。なめているつもりはありませんでした。でも神様が教会を、どのような存在として建てられて、どのように教会を見ておられるか。神様が教会を重んじられるようには重んじていませんでした。パウロが教会を知ったとき、彼は目が見えなくなったそのただ中で、自分が、しかも神様に関して信仰に関して、見えている見えていると思っていたことは、一体何だったのか、私は何も見えてなかったじゃないかと思い知らされたように、私も教会を、まったく自分勝手にしか見てなかったと思い知らされました。畏れを覚えました。私は教会に行くのではない。私はこの教会の一員として、この教会から遣わされて、教会の伝道を、教会の祈りを、教会の働きをしなければならない。神様の救いのご計画は、教会にあると、思い知らされる体験をしました。そのご計画の中にあって、私の救いもあったのです。キリストは教会を建てられるために、十字架に架かって下さったのです。

無論色々な救われ方がありますが、神様のご計画の中心はブレません。永遠に変わらない神様の救いのご計画があるのです。それが10節以下で語られている主の御言葉です。「こうして、色々の働きをする神の知恵は、今や教会によって、天上の支配や権威に知らされるようになったのですが、これは、神が私たちの主イエス・キリストによって実現された永遠の計画に沿うものです。」

教会によって!それがパウロに与えられた神様からの啓示でした。目が開かれて知ったのです。もう以前と同じようには見えんのです。何だ、この教会という存在は。そうだ、これが神様の救いのご計画の、しかも永遠のご計画の中心にあるキリストによる救いであると。キリストは、今や教会によって、救いのご計画を実現しておられる。それが教会であるのだと目が開かれて知ったのです。天上の支配や権威に知らされるようになっただけではなく、パウロも思い知らされたのです。教会によってであったかと。これが神様の救いの奥義、秘められた奥義であったのかと。その神様に定められた奥義なる教会の現実を、教会はキリストの体であると、パウロは確信を持って言ったのです。12節で語られている「私たちはキリストに結ばれており」というのは、キリストの体に属しキリストの身体の肢として、キリストの内に取りこまれ組み込まれてという意味です。ただこのキリストの内にあるという事実において、ただその事実によってのみ、そんなにも私たちをしっかりと御自身と結びつけられたキリストに対する信仰によって、教会は確信をもって、これがあなたの御心ですと、大胆に祈り伝道できるのです。

苦難のただ中にあってです。苦難のただ中でも確信できる。何をか。私たちの伝道計画への確信、ではありません。そんな確信はいつもありません。そんな知恵なき不甲斐なき私たち教会であるにもかかわらず、なのにキリストが教会によって、永遠の救いのご計画を実現されることへの確信です。こんな私たちをも救われた、教会の主であるキリストこそが、どんな弱さや罪さえも受け止め、すべての壁を乗り越えて、世界を救われる主であることが、教会によって知らされることを、信じているから伝道するのです。弱さを誇りさえするのです。無論、開き直りではありません。神様を畏れる畏れによって開かれた、神様への確信があればこそ、弱さを誇るなどという、愚かな神様の知恵を誇れるのです。弱さのただ中、苦難のただ中で、人間的な思いによってはもう破綻していると思われるただ中で、しかし私たちを既に救われたキリストは生きておられると、キリストは私たちの主であると、教会によって、世界に知らされて行く栄光の十字架の道こそが、教会の栄光であると知っているから、その神様の知恵を誇るのです。それは人間の知恵からすると、不思議としか言いようがありません。天上の支配者や権威と呼ばれる、神様に逆らう勢力に影響された世界は言うのです。そんな話があるはずないと。キリストは生きておられるなどというのはまやかしに過ぎんと、何度でも十字架にキリストをつけようとする。そのただ中で、キリストを十字架につけられた神様の知恵が、教会によって知らされるのです。人間の知恵に生きる世界はそこで思い知らされてしまうのです。何だ、これはと。その、これはが、キリストによる救いの力、罪を打ち破り、愛により全てが乗り越えられて変えられてしまう、全能の神様の知恵なのです。その知恵が、十字架をその旗印として立てる教会によって知らされて、世界はキリストを知るようになる。それが、教会の確信です。祈りをあきらめないでよい、キリストに対する信仰です。落胆しなくてよいのです。十字架を仰げばよいのです。そこに栄光が輝いています。その栄光に触れられるところが、キリストの教会であるのです。

12/10/7朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙3章7-9節、イザヤ書41章8-14節 「私を選ばれるなんて」

12/10/7朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙3章7-9節、イザヤ書41章8-14節

「私を選ばれるなんて」

 

私はつまらない者だというパウロの自覚、皆さんは、どのようにお聴きになられたでしょうか。共感する。あるいはポカ~ンとされるでしょうか。最もつまらない者だと言うのです。パウロさん、この本読みや、自分を愛する何とか、って自己啓発本でも紹介されてしまいそうです。けど、パウロのつまらなさ、直訳で、小ささは、すべての聖なる者たちの中で最も小さい、と限定されています。イエス様の言い方で言えば、神の国で最も小さい者という言い方です。12弟子達が、俺が偉い、い~や私が偉いとやりあっていたとき、主から、神の国では自分を低くする人が誰より偉いと言われた。さあ、弟子達がそのときシュンとしたか、それともポカンとしてしまったかはわからんのですけど、後でわかったと思うのです。自分は何とつまらない考え方をしておったことか。何と自分は小さい、つまらない人間であるかと、神様の前でわかるのです。自分の力を自負することの、何とつまらないことであるかを。

パウロはイエス様に出会って救われる前、自分は天国にいけて当然だと思っていました。自分ほど熱心にユダヤ教の戒律に従って神様に仕えている者はおらんだろうという自負がありました。そんな偉そうな恥ずかしい私が、なのにイエス様に救われたという自覚に、パウロは目覚めるのです。主が、パウロ、そんなにも自分が正しいあなただからこそ、わたしはあなたを十字架で背負いきる。あなたを救う。だからあなたは救われる。この神様による救いの確かさを、恵みによって救われる福音を、だから、あなたは皆に十分に語れるだろう、しかも偉そうに語るのでなく、こんなつまらない者が救われるのですからと、低い者、仕える者として、皆に語ることができるでしょうと、主はパウロを選ばれた。それがパウロの自覚です。私私っていう自負が、神様の前での私という自覚に変わる。偉そうな自負が、嬉しそうな自覚に変わる。

そう、このパウロの自覚って、自分の小ささが恥ずかしいんじゃなくて、嬉しそうなんです。こんな小さい私がって、何度も何度も、救いの原点に立ち返っているように思います。しかもそこで古い自分に引きずられるのではなく、そこで新しい自分に変えられていく。自分はつまらない者だという自覚が、変な言い方ですが、確かにされて、そのことが嬉しくなってくる。本当に何という驚きの恵みかと、自分の罪深さや、小ささを知るにつれ、それを飲み込んで余りあるキリストの計り知れない恵みの大きさ、富の豊かさに嬉しくなる。自分じゃなく、キリストを意識しているからです。そのキリスト意識、あるいは恵み意識の中に飲み込まれて今ある自分を意識するのが、それが信仰の自覚です。自分に目が覚める。あ、これが私かと。自覚って、もっと自覚を持ちなさいとか言いますけど、改めて考えてみて思いました。それって無理じゃないかと。あんた救われなさいと言うようなもんで、その行き着く先は自分を誇ることでしょう。自分で自覚していると思っているその自覚って、人前では誇れても、神様の前では恥ずかしいでしょう。先週、覚悟と共に知るのが召命だということを説教で語りました。それも自分勝手に、自主的に持てるものではありません。自分には覚悟があると自負しておって見事に砕けたのはペトロでしたが、パウロもそういう体験を繰り返して、自分は本当に小さい者だ、つまらない者だと、そこでキリストを深く知り、嬉しさが深まっていったのだと思います。皆そうでしょう。

覚悟って、例えば時代劇の仇討ちの場面で、さあ、覚悟しろとか言われて、はいってできるものでもないでしょう。できたとして、自主的にではなく、もうせざるをえん。言わば強制的、強いられてするのが覚悟です。しかも、その覚悟を、あるいは神様の召しに応答して、はいって覚悟して神様の道に従っていくのは、だからこれはもう神様の力によるしかない。それをパウロはこう語ります。「神は、その力を働かせて私に恵みを賜り、この福音に仕える者として下さいました。」人間が自分の力を働かせて、覚悟して、神様、やりますってのではない。おそらく、そうやってやるときに人を傷つけ、つまずかせやすいのだと思います。じゃあ、何と言いますか、我が強い人は神様に召されないのか。だからパウロなんでしょう。パウロほど我が強い人もおらん。その強い人間が神様によって弱くされ、それで用いられるのです。弱い人は幸いです。そのまんま用いられます。いや~でも私は覚悟ができなくてって、そもそも神様にお従いする覚悟って、人間業ではありませんから、心配する必要もないのです。畏れはあります。あったほうがよいです。主を畏れることは知恵の初めですから。と言うより、それが覚悟の初めだと思います。うわ、これ神様やという畏れ。人間の力や計画は、その前で全く無力であるという、ある意味の絶望、人間的可能性の滅び。そこで立ち上がるのが、信仰です。その信仰が神様の力であり、それが神様の働きなのです。でも、そこでは私たちが、はいと言います。神様が言われるのでない。そこは間違ってはなりません。神様の力によって、神様の前で、私たちが、はいと言う。はいと言うとき、畏れもある。人間に言うのとは違います。神様の前で神様の力によってなされる、私たちの返事は、それが神様由来の覚悟であるから、いい加減な、はいではなくて、信仰の、はいになるのです。あるいは畏れと言うよりも、神様に真剣になると言ったほうが、その場合わかりやすいのかもしれません。

それが信仰であるのだとわきまえるなら、その信仰の、はいの故に、苦しみに遭うことがあっても、そこに神様由来の覚悟が働きます。祈りが変わってくるとも言えます。これが私の担う十字架であるなら、なら神様、ここには恵みがありますよね。しかも、これによって他の人々が救われていくという、あなたの救いのご計画の恵みが、ここで担われていくのですよね。こんなつまらない私ですけど、あなたが用いてくださっていることを、私は、あなたの恵みを信じて信じます。あなたの御心がなりますようにと、信じて、恵みの十字架を負えるのです。

自分を負わない。だからもう自負ではない。自負なんかで自分は負えません。福音も負えません。他人を負うこともできんでしょう。愛する人さえ負えん。でもそんな私が、神様の背中に負われたのです。救い主キリストに担われて、神様の救いの確かさに負いきって頂いた。そんな私であればこそ、負われた私であればこそ、恵みの十字架をさえ与えられ、教会に召されているのです。キリストの体に召されたのです。

聖餐式の最後、感謝の祈りで「私たち、主の体の枝である自覚がいよいよ深くなり、ますます励んで主に仕えることができますように」と祈ります。そこでもまた、小さい者、負われている者として祈るのです。あるいは自分の小ささを自覚するために祈るとも言えます。神様の前に出るのです。神様の前じゃなかったら忘れるのです。私はつまらない者だということを。小さい、いや小さくてよいという自覚から離れてしまって、つい頑張って、自覚しなきゃ、私は主の体の枝である自覚が薄いから、もっと頑張って自覚をしなきゃと、自分で自分を負う衝動、肉の誘惑に駆られてしまう。でも、それも私たちの小ささの証拠ですから、それを見せて下さった聖霊様に感謝して、それも委ねたら良いのです。自覚しようと頑張るのでなく、自覚をさせて下さいと祈るのです。最初から、そういう祈りです。自分の決意や決断ではありません。神様が、私たちを負いきって、そのお背中で私たちを用いて、救いの計画を成し遂げるという、神様の救いの決意です。そのご決意に従って、私たちはもう召されているから、私たちは、そういう私たちであるという自覚を深めて下さいと祈るのです。神様は、そうして世界を負われるのです。

12/9/30朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙3章1-9節、創世記12章1-3節 「恵みに救われる他なし」

12/9/30朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙3章1-9節、創世記12章1-3節

「恵みに救われる他なし」

 

今この御言葉を読みましたとき、あれ?何か妙な間があいて、しかも文がつながってなかったけんどと思われたかもしれません。聖書の字を目で追わんと聴かれたなら、ありゃ、一行読み飛ばしたがやないかと。この新共同訳の翻訳では、この箇所に…という間があって、すぐ後の文に繋がってないのです。なら、どこに飛んでいって繋がるのかには幾つかの意見があります。私は4章に繋がるのだと思っていますが、どこに飛ぶにせよ、とても興味深い箇所です。どうして飛んだのでしょう。私たちも会話をしていて、ハッと思いついて話を変えるときがあると思います。そのときも、その前に自分が語っていた言葉が引き金となって、あ、と閃くことが多くないでしょうか。ここもそうだったのではないかと思います。しかも手紙の言葉をつらねる途中でグッと来て、その言わば霊的感動を、どうしても聴く人々に伝えたいと敢えて脱線をしたのだと思うのです。

では、何にグッと来たのか。一つ考えられるのは「キリスト・イエスの囚人となっている私パウロは」と言われたところ。実際この時点で、パウロは囚人としてローマに拘束されていました。鎖でローマ兵につながれて、いつも見られている。トイレも一人でできない。外出も無理。自分の好きにできない。実際の囚人でなくとも、私はつながれて自由のない囚人だと思うことはあると思います。ちょっと話を聴いて欲しいと身の不幸とまでは言わずとも、今抱えている苦しみを誰かに聴いてもらいたくなるときは誰にでもあるでしょう。けれどパウロはそういう苦しみを聴いてほしいというのでは、どうもありません。苦しくないはずはないのです。できれば早く解放されたいと願ってもおったようです。何で私が囚われの身にと考えてなかったわけでもありません。いや、まさにその何で囚われの身になったかと考えるところで、この囚人はグッと来るのです。私がキリストの囚人となっているのは、あなたがた異邦人のためだ。あなたがたのためにこそ、私はこのように囚人となっているのだけど、それがあなたのためだから、私はこの囚人の苦しみに意味が見出せる。あなたのためになら私は囚人の身を敢えて引き受けたってかまわない。ここには、私の使命があるのだと、パウロは自分が神様から受けた召命を、ここから語り出すのです。

教会では召命と言います。神様に召されて、命じられる、召されて命を受けると書いて召命です。教会の外では使命と言ったほうが通じ易いかもしれません。これもまた神様の使いとして命じられた働きに徹することを言うのでしょう。そして、召命であろうと使命であろうと、そこには共通する思いがある。その召命が、いかに厳しいものであろうと、それがこの人のためであるならば、苦しくっても意味がある。無駄では決してない。これが私の使命だと、そうした決意、あるいは覚悟が、そこにはあると思うのです。覚悟という字は、目が覚める、そして悟ると書きます。使命も召命も、それ以外によっては自分のものにならんのじゃないでしょうか。召命は、頭でわかるものでなく、覚悟と共に受けるのです。そういう召命であればこそ、召命に死ぬることさえできるのです。死んだってよいと悟るのです。そこに目が覚める。このためになら人生を捧げる価値があると、目が覚めてわかる。心でというより、もっと根源的に、魂でわかる、霊で知るとも言える。それが、パウロがここで言う、聖霊様によって啓示されるという出来事と重なるのです。

無論、何でもハッと感動したら啓示だと言うのではありません。例えば、あ、そうか、ゆとり教育を止めた理由がわかったというのは、啓示ではなく、政治による教育の混乱を悟ったということでして、何でもかんでも、お~神様によって示されたとやっておったら怪しい新興宗教になります。啓示とは、聖書に示された神様の御心あるいは計画と訳された神様のご支配が、自分がそこに巻き込まれるようにしてわかる、ちょっと広く言えば、そういうことです。狭く言えば、旧約聖書はイエス・キリストによる救いを告げているのだとか、聖書全体が神様の御心そのものの語りかけであるとかを、啓示と言います。固い勉強のようですが大事なことです。難しいのは嫌いと敬遠していると、自分が感動して、お~って思ったことを、何でも神様からの啓示だと自分で決め付けて、その感動がわからん教会こそわかってないって教会を離れ、信仰が難破することが少なくないからです。教会が聖書のみを正典としてきたことは、信仰告白する通り、決して揺るがせにできません。何をするにせよ求めるにせよ、聖書から主の御心を尋ねてください。聖霊様によって、主の御心がわかるように、啓示の霊によって目が開かれるよう、祈って聖書に聴いてください。この説教も、ただそのことをしているのです。御言葉を取り次ぐというのは、御心を取り次いでいるのです。そして、この神様の語られているのは、私に語られているのだとわかること、目が開かれて、目が覚めて、私は神様の前に、しかも、こんなに具体的なことについて神様から語りかけられていると悟ること。それが既に1章17節で祈られてきたことでもあるのです。「…」。

ここでパウロが祈って求めておったのも、神様に召されたあなたがた一人一人が、この教会に生きる召命を悟るようにということでしょう。全人生をキリスト者として生きて死ねるように、救われたということはどういうことか、しかもそこで教会に組み入れられて生きるとはどういうことかを、聖霊様による啓示によって、悟り歩んでいけるようにと、パウロは祈り、語ってきた。そして、この神様の召命を語る脱線の終わり3章14節からも祈るのです。キリストの愛を悟って、その愛に立つようにと祈る。祈るしかないでしょう。だって愛しなさいと言われたからって、その人のため死ねますか。目標にはしても、キリストのように、この人を担いで愛に生き、また死のうって口では言えても、いや、口をつぐんでしまう辛い気持ちのほうが多いかもしれない。それでも教会はキリストの体であるのです。キリストがそういう私たちを受け止めて、いや、そういう私たちだからこそ受け止めて、だからわたしと一つになりなさいと、ご自身の確かな愛の内側で、聖霊様のお力によって、愛する僕に変えてくださる。それがキリストの体なる、教会です。キリストの口だけっていうイメージはパウロも考えたことがないと思います。その口は、十字架の苦しみを前に、父よ、苦しいです、逃げたいのですと泣きついた口です。それでいて、でも私の思いではなく御心が成りますようにと祈った口です。そして十字架で敵を赦して祈った口です。彼らの罪を赦してくださいと。教会はそんなキリストの体なのです。だからキリストの体として歩んでいけるようにと祈るのです。祈るしかない。祈ってください。そうして聖霊様によって、啓示が与えられる時、目が覚める。これもまた覚めるしかない。この講壇から律法主義的に命じることは誰も求めてないでしょうし、また命じても目が覚めるどころか愛が冷めるのが人間でしょう。でも信じています。聖霊様が、今、働いておられると。啓示の霊よ、どうか私たちを憐れみたまえ。そう祈りつつ求めつつ、私たちもまた、パウロが見ていたキリストの救いの栄光を、目覚めて仰ぎたいのです。救われて、他に本当に見たいものなんてないのだと思います。パウロは、それを見たから、栄光を見させて頂いたから、言わば、他にやりたいことがないのです。この神様のご計画を悟ってしまったら、そこに私が召されて、召命を与えられ、これがあなたのやることだ、教会に命をかけてくれと召されたら、他にやることなんて本当にないのです。召命に目覚めたら、教会の永遠が見えるのです。

6節で、私たちに何とか見てもらいたいと語られるのは、その永遠の啓示風景です。「…」。異邦人って、要するに、私たちのことでしょう。そして私たちの隣人のことでしょう。神様から遠く離れていた人々が、あるいは私は他の神を拝んでいるからと言っていた人々が、自分の思いなど遥かに超えて、人となられた神様に背負われ、キリストの十字架で背負われ、救われて、一つの神の家族とされる光景。私たちも見たいと願っている、いつも祈りのとき願っている、その光景をパウロは見た。

一緒に、同じ同じと繰り返される言葉は全部、共にという言葉です。私たちが祈っている例えば家族、愛する人々、友人達、隣人達と、共にキリストに結ばれて神の家族となる約束に与かる。父よ、目を開いてください。あきらめてしまいそうなこの心に啓示の光を投げ込んで、信じて祈る者としてください。私たちの愛するこの人と共に、一緒に、同じ救いに与かるために、キリストはもう来てくださったのです。キリストにおいて救われる福音。そこにえこひいきなんてありません。誰であっても、どんな人でも、キリストの体に組み入れられて、一つの神の家族として、恵みによって救われるのです。キリストの計り知れない富と言われる、無尽蔵で汲み尽せない恵みの富が、あなたにも、ほら、この人の前にも、世界中の、すべての人の前にプレゼントとして与えられているじゃないかと。すべての人に、十字架の赦しが与えられている。その福音の光によって、え、私にも?って人々が目を覚まし、キリストの救いに入って来るなら、私はそのためであったなら、あなたがたのための囚人となろう。キリストに結ばれた囚人として、あなたがたに仕えることを主から頂いた使命として生きて死のうと、この苦しみには大いなる報いがあることに改めてグッと来て、パウロは主の召命を語るのです。

そして、この召命に召されているのは、たとえそのために自由が制限されても、それでも、まだ救われていない人々がキリストの救いに共にあずかる、そのために生きよと召されているのは、あなたがたもまた、そうではないかと、パウロは、神様のご計画を描くのです。それが神様の啓示です。教会に託された啓示です。私もあなたも、誰しもが、共に与かっているこの救いの啓示を、これをあなたに見て欲しいと、主は、この御言葉に私たち全体を巻き込んで、神様の啓示の中に巻き込んで、キリストの救いを語るのです。あなたも、この中にいるのだと。ここにあなたを召したのだと、神様からの召命が、一人一人に語られている。それに目覚めるのが教会です。キリストの体である教会は、この神様の救いの御計画に、目覚めて歩み出す体なのです。

12/9/23朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙2章22節、エゼキエル書37章22-28節 「神様が住まわれる教会」

12/9/23朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙2章22節、エゼキエル書37章22-28節

「神様が住まわれる教会」

 

お隣の南国教会に鈴木牧師がおられたとき、まだ小さかった娘さんが忘れ物でもしたのか、夜、礼拝堂に行かないかんなった。で、おばけが出たら怖いき一緒に行ってと頼んだら、教会におばけは出ん、かわりに神様が出ると言われて、よけい怖かったという話を聴いたことがあります。神様を畏れることは大切な感覚です。神様をまるで自分と同じ人間のように心で扱う態度が、私たちの人生を狂わせるとも言えるのです。ただ、おばけが怖いのと同じレベルでいつまでも怖がっていても、神様を正しく畏れるということにはなりませんし、何より安心して信じることができません。神様を信頼するというのは、神様と共に生きていく、あるいは神様に生かされている根源的安心のもとで、なら神様、この命を、あなたの喜ばれるままに歩ませて下さいとお捧げできるということです。信頼できん、捧げられんというのは、信頼できん人に自分を任せることができんのと一緒でして、神様を信頼できんかったら、教会生活を辛く感じるということもありえます。義務で礼拝に来ないかんとか、義務で献金をとか、確かに、義務ってありますけれど、そんな重く辛い義務感覚って、父なる神様も辛いと思われるのじゃないでしょうか。子が親を愛することを、義務だと感じて不満な顔してたら、親も当然辛いはずです。全てに優って信頼こそが家族の正義だとも言えるでしょう。

神様が私たちを、わが子として招いてくださった。それが教会です。なら教会生活を営むというのは、どういう生活態度で営めばよいのか。どういう教会生活が、天の御父が求め、喜ばれる、神の家族の生活か。それが今日の御言葉で言われます。あなたがたは神様の住まいとなる、という生活です。

住まい。日常の生活が、そこから営まれる本拠地です。そこから学校や職場に、通勤、通学して、それが終わったら帰るところです。旅行に行っても、ああ、家がやっぱり落ち着くねえとか感じるところ。もとの言葉でも、ひと所に落ち着く、定住するという意味があります。

皆さんも、神様のもとで落ち着くという体験をなさってきたのじゃないかと思います。やっぱり礼拝が落ち着くねえと、あるいは神様が共におられる平安を、礼拝は落ち着くという感覚で理解されることも少なくないでしょう。信仰はまだわからんけど、でも、礼拝は落ち着くという感覚を通して、神様がご自身への信頼に導かれることは多いのです。

現代は、住まいが落ち着かんという、罪の汚染が深くなった時代にあることを思わされますが、本来、家、住まいというのは、先週も申しましたように、外の暴力や圧力から身を守るため、逃げ込むことのできる砦、聖域です。そうでなくなっているから社会が崩壊し、子どもが辛い思いを強いられるのですが、ここで聖書が描き出す神様の住まいには、御父がいつもおられて、子供たちはいつでも、そのもとに逃げ込んでいけるのです。そこには父がおられて、悩みを聴いてくれる。外でこんなひどいことがあったと泣きつくことができる。神様は忙しくしてませんから、その泣き言を全部聴いてくださって、また責めたりもされない。なにか責められることがあったとしても、最初から赦す態度で、十字架のもとにご自身おられて、言わば、父に泣きついている私たちのすぐ横で、イエス様が常に御父を見つめておられ、あるいは口だけ動かして、父よ、この子をお赦しくださいと執り成してくださっている。父はそれを見て、そう、その通りだと微笑まれ、赦しをもって、忍耐をされて、深い愛情を私たちに注がれ、私たちの全部を受け止めた上で、じゃあ、お父さんの話も聴いてくれる?と御言葉を語られる。私たちが、じゃあどうしたらよいか、父の言葉が与えられる。これが私たちの教会生活のイメージ、あるいは、礼拝のイメージとも、祈りと御言葉のイメージとも言えるでしょう。

最後の、じゃあ、お父さんの話を…ってところで、いや聴きとうないってなると、ん~ちょっと待ちなさいと、ガミガミではないにしても、躾けはあるというのが、聖書の語る父の、父としての姿ですが、それがわかってくるというのも、家族としての成長に含まれています。小さな子って、そういうところがあります。その小さな子が、ならどうやって父の子として成長するか。父と家族の交わりを持つことによってです。例えば今言いましたように、父に泣きつきに行って、本音で祈り、また信頼する父の言葉を聴くという、大切な父子の時間を持つことによってです。祈りと御言葉。家族の語り合い。これが住まいの中心です。教会が、神の住まいとここで呼ばれて、単なる家と呼ばれないのは、御父が神の家族の交わりを、何よりも大切にされるからです。

そしてその交わりによる成長を、父は自己責任にはされません。お前が来んき、いかんがよと、信仰の成長、愛の成長を、自己責任で済まされはしません。家族ですから。兄弟姉妹もおるのです。お父さんに一緒に聴きにいこうって共に苦しみ、共に笑う家族として教会はあります。心を配って心配し、祈り合い、声を掛け合うことによって、家族として互いに成長していく。それが、父のおられる住まいです。

ただ、その家族愛の成長というのが、教会としての成熟度が未熟なと言いますか、日本の教会では、どうも信仰と言うと個人のものだというイメージが強いみたいです。外でも言います。信心は個人の自由だと。その外の論理を神の家にも持ち込んで、個人の信仰から脱皮できない。それがまた伝道の態度の中にも入り込んでいるように思います。救いは個人のプライベートなことだと感じる抑圧が無意識に染みついている。そうした教会の問題を、核家族化の問題と言ってもよいと思いますが、この信仰の自己責任というイメージは、まるでワイシャツについた血のように、なかなか落ちんなあと思わされます。スーツについたおやじの臭いでもいいんですが、あえて大胆に言いますと、説教で聖書の教えを聞いて、そうだなとわかったくらいでは落ちん。もっとはっきり言うと人間が人間の力で、わかったとか、こうしなさいと教えるとか、人間の力で、神の家族らしくなろうと、教会を神様の住まいとして、家族全員が落ち着いて、ほっとできる、神様の住まいにしていこうと、人間の力でやろうとしても、できんのです。自分を変えることすらできんのに、家族を変えることがどうしてできるかとも言えるでしょう。

だから御言葉は「霊の働きによって」と言います。聖霊様のお力によって教会は神様の住まいとなるからです。これはイエス様を信じて洗礼を受けた人々の内に、聖霊様が入って来られて、宿ってくださり、内に住まわれると書いて、内住されるからですが、ただそれだけで住まいにはなりません。建物が住まいとなるための内住であることを、共によく考えたいのです。この御言葉の真理をわきまえ、私たち自身のこととしたいのです。聖霊様の内住によって、私たちが個人としても家族としても、一つの霊に結ばれて神様の住まいになるということは、私たちにはどんなに信頼できる人より、どんなに近くにいる人よりも、もっと近くに、今ここに、話を聴いてくださる方、いや私たちが来るのを求めておられる方が、ここにおられるということです。神様と、ここでつながっているということです。夜の会堂どころではありません。夜のトイレにも神様が共におられて、そこを神様の住まいの庭と変えられるのです。トイレで神様と話し合える。祈ることができる。聖書を持ち込んでもかまいません。神様と臭い仲になったら良いのです。そのために聖霊様が来られました。天の父が、それを求められたからです。神様が聖霊様によってここに来られて、だから、来なさいと求められ、ここはあなたとわたしの住まいだと言われるのです。

そして、これは個人的なことだけに留まらず、皆が住むための住まいですから、空間的なイメージで言うと、私たちの内におられる聖霊様によって、一つの家族とされた私たち、皆が一つの住まいとしてつながるのです。この地のあちこちにいる私たちが一つの住まいとして、しかも父がおられる住まいとして、もうつながっているのです。それが教会、聖霊様によって神様の住まいとなっている教会です。それを敢えて教会堂のイメージで描くなら、え、じゃあ高知東教会だけでも、西は四万十市、東は山北までつながって教会員がおるき、えらい大きな住まいやねえ、廊下、長!となる。しかも、他の教会も重なってきますから、え、ほいたらほとんど教会?そうです。それをイエス様は、神の国は近づいたと言われました。あの時より、遥かに近づいています。キリストにおいて神の国は、こうして近づいているのです。私たちが、この地のどこにおっても、そこで霊によって祈り、神様に人々を執り成し、証して、キリストの福音を差し出しているところ、そこに神の国は来ています。四国教区で、教会員が住んでないところを伝道空白地と呼んで、空白をなくそうと祈り伝道してきたのは、そういうことです。え、けんど廊下だらけじゃないがということかもしれません。じゃあその廊下を、祈りで埋めていきましょう。聖霊様に頼りましょう。人間の力で考えたら、途方にくれそうな地域伝道の業も、あるいはもっと切実な家族伝道も、霊の働きに拠らずしては、もともと閉ざされているのです。ならばこそ天の父は、御子をこの罪の荒野に遣わされ、聖霊様を注がれて、恵みによる道を開かれたのです。私たちは、その道によって救われましたし、それ以外ではありません。そして愛する者たちが救われていく道も全くそれ以外ではありません。だから私たちがまず集中すべきは、キリストをくださった、恵みの父を信頼し、聖霊様を根拠として祈ることです。私たちに内住される聖霊様を根拠に祈ることです。そして人間の力では不可能な伝道を、神様の業にして頂くのです。そのために聖霊様が来られたからです。この私たちの内に来られたからです。この聖霊様の力を信じて、家族と隣人の救いを祈り、また神の家族として、互いのために祈るとき、私たちは、聖霊様の力によって共に建てられ、教会として、神の住まいとなるということを、霊の働きによって知るのです。そして霊的に励まされ、弱さも神様に受け取ってもらって、それを乗り越えていけるのです。ここが私たちの拠点です。私たちの全生活が救いの業とされるため、神様が共におられます。それが神の住まいなる教会です。

12/9/16朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙2章19-21節、詩編84篇 「成長にはあなたが必要」

12/9/16朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙2章19-21節、詩編84篇

「成長にはあなたが必要」

 

結婚準備会をするとき、ある本を用いています。その本に結婚の秘訣というのが書いてあって、こうある。夫婦が夫婦でいること。なんだと思うかもしれないけれどと著者は続けます。例えば夫に夫でいてほしいとき夫が会社員でい続けたり、妻が妻でなく母でい続けると、夫婦なのに夫婦でなくなる。最初の誓いから離れずに、夫婦が夫婦でいること。それが秘訣だと。

同じことは家族に対しても言えるでしょう。家族が家族でいること。親は子供の支配人にならない。子は親にサービスを求める宿泊客にならない。互いに人格を尊重し合うのは、家族関係だけに限りませんけど、殊更にそれが求められるのは家族です。そしてそのように人格を尊重するのは、え、社会でも当たり前でしょ?と身につく場は、家族です。

それが現代の日本では壊れてしまったと、ある社会学者は言います。家は古来、外の暴力や圧力から身を守るため逃げ込んで休むことのできる砦、あるいは聖域であって、そこに例えば会社の能力主義、競争主義の論理を侵入させて家族を比較することはあってはならない。そして、こう言います。本からの引用です。外の経済化された考え方や弱肉強食の競争倫理とは違った考え方でなければ、幼児やお年寄り、病人の保護はなされないでしょう。家の中での仕事の違いで、幼い子どもは働きが悪いからといって、食べ物を平等に分配しないなどということはないでしょう。お年寄りが生産に関与できなくなっても排除せず、今までの労力に報いるべく世話をするのが家の論理です。その通りだと思います。今日の御言葉で、神の家族とさえ呼んで頂いている私たちにおいては、このことは自然なことではないかと思います。それが家族の当然だと。御言葉は、家族・家・神殿と、複数のイメージを重ねながら、私たちが神の家族として歩むための道を、鮮やかに描き出していきます。

家には、この教会堂もそうですけれど、必ず土台があります。家族の人生が拠って立つ土台。拠り所、根拠とも言えるでしょう。神の家族としての態度、生き方、考え方の根拠、土台があるのです。世間の言葉や常識に取って代わられてはならない土台の上でこそ、家族の生活は安心して成り立ちます。戦争体験者でなくても、戦争を学んでわかるのは、世間が如何に流され易いか。あるいは如何に押し付けられた土台の上に乗っけられてしまい易いかということでしょう。洋の東西を問わず民族主義問題になると感情に容易に流されてしまうのは、何なのでしょう。私たちの人格というのは、そんなすぐ流されてしまうほど軽くは造られてなかったはずだと、悲しくなります。人の命、あるいは人が人として互いの人格を尊重して生きていくというのが、そんな簡単に流されてしまうのは、真実なる土台の上に、自らを立て上げてないからではないかと、今日の御言葉から問われているようにも思うのです。

使徒と預言者が土台であるというのは、少し説明を要するでしょう。どちらも神様の御言葉を人々に伝える働きを託された人々です。特に、キリストの救いの知らせ、福音をあらゆる人々に伝えてきました。使徒と預言者というのは、ユダヤ的言い方で聖書と言う代わりに、モーセと預言者と言うように、私たちの土台である御言葉の言い換えです。この救いの言葉を土台とするとき、私たちの生活は、そんな簡単には流されない。あるいは流されても、悔い改めることができるのです。ごめんなさいと言える。家族にも、また父なる神様にも。そして、今度はどうしたら流されないようになるか、御言葉にもっと聴こう、もっと御言葉に生きようと、ますます礼拝に集中する。聖書を読みだす。御言葉の力を知るように成長していく。家族ですから、成長するのです。御言葉は、成長するための土台でもあるのです。キリストの赦しを中心とした救いの言葉、福音を土台として生きるとき、自分が誰であるのかも、教会とは何であるのかも、そして何より神様を、深く知るようになって、成長します。そしたら色々なものに流されなくなってもいくのです。

改めて、私たちの人生の土台、また家族としての人生の土台をどこに置くかを、天の父に告白したいと願います。主の言葉です。人間の言葉ではありません。私の個人的夢とか、個人的思いや、こだわりを、土台とはいたしません。神様から語られた御言葉を土台に、私たちはこの家を建てあげていきます。家族を築いていくのです。そこに確かな祝福が必ず父から与えられます。教会が何故、御言葉、御言葉と言うのかを、改めて私たちのこだわりとするのです。何故か。そこに父のこだわりがあるからです。仮に、私の父親が熱烈な阪神ファンやとして、我が子が阪神ファンやって、どうして祝福されんでしょう。天の父は尚更です。阪神ファンというのではないですが(笑)。父のこだわりに生きるところ、祝福は必ずあります。主の御言葉が、家族の祝福の土台なのです。

その確かな土台の上に、家を築いていく。全員で、です。建物全体が組み合わされて、全体が成長をするからです。想像して頂きたいのですが、ここの梁を見ておってですね、あ、あそこ組み合ってない!という接合点があったら、たぶん、その下の席には座らんばかりか、早う大工呼び、すぐ呼びと言われるでしょう。全体が組み合わされていることを神様が如何に大切にしておられるか、よく伝わってくる御言葉です。

だから、全体が組み合わさって組み合わさって、その全体がこの一点に集中するという部分には、主イエス・キリストがおられます。要石という表現で言われているのは、そのことです。互いに組み合わさった、家全体の要、中心にキリストがいて下さるから、接合部分が歪んでも、互いに修復できるのです。キリストを中心に向き合えるからです。共にキリストの十字架の前に立ち、自分のこだわりを捨てられるからです。だから御言葉はこう言います。キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となりますと。他の御殿にはなりません。誰かの自己主張が通る家にはなりません。この家にボスはおりません。中心には一人の主が、しかも僕となられた十字架の主がおられます。十字架で罪人の身代りに永遠の罰を引き受けられた、赦しと恵みの主イエス・キリストが共におられて、わたしに従って来なさいと優しく、柔和に招かれるのです。それが主の家、聖なる神の家族だからです。聖なるというのは、私たちが罪なく清いからではなく、ま、そうなりたいと願っていますが、うまくいかない、自己主張してしまう、そんな私たちを、キリストが受け止めて下さったからです。だから、わたしに従いなさい、あなたと一緒に、わたしもその建物の中心にいて、あなたがた全体を支えつつ、一緒に神の家を建て上げていくから、それが父の愛し求めておられる、聖なる神の家族だからと、私たち全員を招かれるからです。この家には、あなたが必要だと、父がキリストにおいて私たち全員を組み入れて、組み合わせて下さっているのです。

この家で家族として共に生きるのに、年は関係ありません。民族も、能力も、あれができるかできんかも一切関係ありません。神様が十字架のもとに招いておられる。キリストにおいて組み合わせて下さる。それだけです。障害も関係ありません。できるかできんかではありません。家族に組み合わされているかいないかだけです。私たちが皆、いつか、キリストの前に立つときに、私はこんなに頑張ってきましたと自己主張する人がおるのでしょうか。逆に何もしなかったと開き直る人もおらんでしょう。その時、神様の前に立ち、最初に神様の前に呼ばれて、よくやったと言ってもらえる人々は、私は、重い障害をもって、家族に組み入れられた兄弟姉妹たちではないかと思います。そしてそこには人間の論理ではなく、神様の論理があることを、この家の論理は、聖なる恵みと憐れみであることがその時には、涙が出るほどよくわかって、嬉しくなるのだと思うのです。またその時に、それ故に自分を誇る人も誰一人なく、皆が、私たちをそのように救ってくださったキリストに感謝を捧げ、この愛と恵みと赦しによる救いの中に、私たちを迎え入れて下さった神様を、皆で誇るのだと思います。こんな救いを、永遠の喜びを本当にありがとうございます、栄光の父よ、と礼拝を捧げる中で、父の御声が聴こえてくる。これが、わたしの求めた、わたしの家族だと。その日に向けての今日一日です。その礼拝に向けての、この礼拝です。その日栄光に包まれる神の家族は、もうここに、キリストの恵みの下に、既に始まっているのです。

12/9/9朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙2章19節、申命記7章6-8節 「家族だから家族になる」

12/9/9朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙2章19節、申命記7章6-8節

「家族だから家族になる」

 

もはや外国人でも寄留者でもないって感覚、どんな感覚でしょうか。嬉しい感覚だと思います。壁がなくなる感覚、いやむしろ、暖かな空気に包まれてしまうというか、遠くなくなるのではなくて、近くなる感覚なのだと思います。私、外国人だったことがあるので、ちょっとわかる気がするのです。え、帰化した人?やっぱり韓国ッぽい顔を…というのではありませんけど、よく韓国の方からも韓国人に間違われます。一度ソウルで米国人とタクシーに乗って、~までお願いしますと英語でお願いしたら、運転手が、またまた~かっこつけて英語なんて使っちゃって~らしきことを韓国語で言われるので、アイムジャパニーズと言ったのですが、ますます笑われて困りました。次に、アンニョンハセヨ~と言ったら、あ~と真顔で納得されました。ま、その場合だと外国人なのにそうではないと間違えられたのですから、今日の御言葉で言えば、まだキリストに結ばれてないのだけど、キリスト者に間違われたということになるでしょうか。まだイエス様信じて洗礼を受けてはないのだけど、礼拝に通いゆうから、あなたクリスチャンでしょって思われていたことって、皆さんも体験があるのかも知れません。私の知人でも、三浦綾子さんの本を読んで感動したから、私はクリスチャンだと思っておって、その後、教会を訪ねて、今牧師になっている人がおります。

話を戻しまして、私が割と長く外国人暮らしをしておったのは米国におったときです。米国には色んな人種がおりますから、外見の壁は案外感じなかったのですが、やはり言葉の壁が高くって、心と心を通い合すコミュニケーションが取れないのが、うんと遠くに感じました。やっと言葉が通じるようになっても、文化の壁、例えば笑いのセンスが違うのです。皆が笑いゆう所で一人だけ何がおかしいかさえわからん寂しさ、皆さんも何となくおわかりになるんじゃないかと思います。

皆さんは教会の言葉って、いつ頃、習得されたのでしょうか。いや~実はまだひとっちゃあわからんと言われる方も、以前の私がそうだったように、もちろんおられてよいのです。だんだんわかってきます。言葉の壁は、知識さえ得れば低くなります。むしろ外国人のような寂しさを覚えるのは、教会文化と言うより、神様の感覚、神様の近さ、神様を父と呼び、イエス様を私の救い主と感謝するということころで、イエス様を信じる前の私は寂しい思いをしたことを覚えています。礼拝の雰囲気とかは好きなんですけど、神様に対する距離を感じる。イエス様が私の救い主であるということが皆と共有できない。そういう、むしろここで御言葉が語っている外国人感覚を、言葉や文化を越えたところで感じたのです。これは神様と私、いやイエス様と私という関係をどうにかせん限りは、何ともならん問題ながやと、それが嫌で受け入れとうはないがやけんど、本当はそこやとわかっちょりながら、直視したくない、でも寂しいという感覚。そういう外国人感覚があったのです。

その壁が打ち壊されたのは、イエス様を私の救い主、私の神様として祈って受け入れたときでした。本当に不思議でしたが、神様ですから、不思議なのです。聖書には、神様はその名を不思議と呼ばれるとあるぐらいです。キリスト者の友人や教会の方々は、別に何にも変わってないのに、すごく近く感じました。本当に家族のように感じました。それは人と人との距離が縮まったからではありません。私と神様との距離が、変わったからです。私にとって、それまで単なる神様だった距離から、私を赦し救い受け入れてくださった私の救い主という、私のという距離に変わった時、今日の御言葉の一つ前18節の御言葉が実現したのです。「それで、このキリストによって私たち両方の者が一つの霊に結ばれて御父に近づくことができるのです。」そして今日の御言葉へと続きます。「従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり」。

臆面もなく言いますが、それ以来、この家族感覚は薄らぐことがありません。意見の違う人ならいました。信仰とは何かという細かいところで牧師たちと意見が違って教会を離れた人もいました。その人から幸生はどう思うと説得されたこともありました。私はそうした細かいところより、使徒信条で信仰告白するところの、我は聖なる公同の教会を信ずという、信仰内容と言うよりは、正直、信仰の畏れ、畏怖のような感覚を覚えておったように思います。私の信仰のこだわりの違いより、その教会を教会として建て上げていくことに神様からの召しを感じていました。完璧な教会ではありませんでした。でもそこで日本人の友人たちも救われて洗礼を受けるようにもなりました。離れた兄弟も今でも顔を思い出すと胸が暖かくなります。家族感覚があります。他にも色んな教会に身を置く兄弟姉妹たち、意見の違いで苦しい思いをしたことも少なくありませんけれど、祈ると一つになれるのです。一緒に祈ることができるだけの、僅か一平方メートルばかりの信仰さえあれば、同じイエス様によって、一つの聖霊様に結ばれて、父に近づくことができるのです。そのように父が、私たちの色々な違いを乗り越えさせて、あなたがたはわたしの子供たち、わたしの家族だとご自身に引き寄せ、近づけて下さる。ただそれだけの理由によって、ただ三位一体の神様のみが理由で、根拠で、原因また目的で、私たちは神の家族なのだと断言される。その神様由来の家族感覚は人間の理由では薄らぎません。その根拠、出所、原因である、神の家族関係が、聖なる神様にあるからです。

神の家族の関係そのものは、縮まるとか、遠のくとか、そういうものではありません。神の家族の関係そのものは、ただキリストによって、一つの霊として家族をキリストに結び付けて一つにしている、聖霊様によって、唯キリストに結ばれているということにのみあるのです。その関係があるかないか。それだけ。それが家族の関係です。キリストにより家族になったら家族です。なくなることはありません。キリストが、ご自身に救いを求め、その名を呼び求めた者を、捨てられることは決してないからです。人間は捨てても、神様が家族を捨てられることはありません。そのためにキリストが私たちに代って捨てられたから、十字架で罪人として捨てられたから、救い主イエス・キリストの御名を呼ぶ者は、御父から捨てられることはないのです。

神の家族の関係は、ただそこにあるのだとわかるなら、そこに身を置いて安らげます。そして、決してなくならん関係を根拠に、三位一体の神様をのみ根拠に、家族同士、互いに近づきあえるのです。人に期待すると、自分に期待するのと同じで、がっかりするかもしれません。弱さがあります。私たち皆、赦されん限りは救われん存在であることを忘れる時、赦すこと、赦しを求めることが辛くなります。私さえ家族にして頂いたスタートにいつでも立ち帰ること。家族の距離を縮める愛の歩みは、私が赦された十字架の下で、イエス様と一緒に再スタートします。謙遜に、赦しを求める心備えが、違いを受け入れあう備えになります。イエス様が招いて下さった救いの道は、そういう家族の道でした。そこで自分という重荷が負われ、イエス様の柔和と謙遜に倣うとき、神様の子供に相応しく再び起きて歩めます。神の家族としての相応しき歩みは原点に戻って歩むことです。イエス様に従っていくのです。その道で、家族愛の距離は縮まります。父のお気持ちがわかるからです。外国人感覚という寂しい感覚は、父に共感する近づきの中で、感覚としてもなくなるのです。人間の共感は破れます。しかし御父に近づく神の家族は、それが聖なる御心だから、家族として近くなれるのです。

12/9/2朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙2章18節、詩編122篇 「祈りは私たちを変える」

12/9/2朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙2章18節、詩編122篇

「祈りは私たちを変える」

 

御父に近づくことができる、父なる神様に近づくことができるとは、具体的には、さあ、どんな近づきを言うのでしょうか。皆さんは、どう御父にお近づきになっておられますでしょうか。御言葉は、近づくことが「できる」と言いますから、できるのですけど、実際に近づいていかんかったら、遠いままということがあるのかもしれません。例えば人間関係ってそうです。近づくことができるのだけれども、近づかないから遠いままっていう関係、ないでしょうか。単に距離のみを言うだけではないと思います。関係の距離、信頼の距離、心を許しあえる近い関係。そういう関係を持っているかいないかで、人生って随分変わってくるのです。そんな近い信頼関係は、共に時間を過ごしたり、何かを共有することで、次第に築き上げられていく。学生時代、何かしらよく泊まりにいった友人たちとは今でも近い距離感を持っています。

神様との距離感って、皆さん、どんな近さを感じられるでしょうか。ここで御言葉が求める近さって、そうした具体的に感じることのできる関係の近さです。神様、いや、敢えてここでは御父と呼ばれる、父と子の関係の近さを持ってきて、あなたはあなたの神様を私たちの父、御父と呼べるだろう、呼んでないだろうか、もし、呼んでなかったのなら、是非、父よと呼んで欲しいと求めておられる。子供たちの愛と信頼とを求めてやまない父が、私たちには永遠におられるのです。

信仰の成長ということを、聖書も教会も大事にしますが、その根底にあるのが、この信頼関係の距離感でしょう。信仰の知識や生活の変化も父との関係の距離感に比例して、成長するのではないでしょうか。ならまず父に、近づくことが求められます。この手紙でも、その求めは神様を知るという表現で既に祈られてきました。皆さんは、父をどのように知っておられますでしょう。これだけ知っているという、知識の量というよりも、どのように知っておられるか。ここでは人格的な関係が求められます。私の子供たちが、私の戸籍に書いてある情報を知っているかどうかは、私の心を動かしません。どんな学歴、職歴を持っているか、私自身、関心がありません。でもいつ洗礼を受けたか、それからどんな信仰生活を送ってきて、神様とどのような関係を築いてきたか、聴いてくれたら嬉しく思います。いや、私が関心を持っていない学歴でさえ、お父さん、どんな学校行きよったがって聴いてくれたら、内容がどうだってかまいません。私のことを求めてくれたって、それだけで心が躍るでしょう。ならば、天の御父は一体どれほどに、私たちが父を求めて、近づいてくることを、心待ちにしておられるか。この今も。

礼拝は、そのように父の心に喜びを与える聖なる時、つまり、神様の時間です。週に一度の特別な時間に、私たちは父を求めて、御言葉を聴き、讃美を捧げ、祈りを捧げます。すべて父のため、そしてそのために三位一体の神様が総動員で働かれていることを感謝して、礼拝の最後には、三位一体の神様に讃美を捧げ、祝福を求めます。それもまた、父に喜ばれる求めです。お父さん愛して、と近づく子供たちを、どうして、父が祝福しないということがあるでしょう。安息日を聖別せよと、父がお命じくださったそのお気持ちを知ることこそ、父への具体的な近づきの一歩です。あるいは、その一歩が出るための心の動きです。そうして実際に一歩を出す。それが礼拝であり、献身とも言えるでしょう。礼拝とは、自分を神様に捧げる行為です。この時間を父にまるごとあげるのです。そうやって御父に、一緒に近づいていくのです。

一緒に、共に、というのが、今日の御言葉の急所です。父の求めは、個人的で終わることはありません。父の家は核家族化はしていません。むしろ、そんな分裂した関係を終わらせるために、独り子を十字架の上にお付けになって、その身を裂かれ、ご自身のお心をもまたその十字架で引き裂かれ、これで分裂は終わりにしようと、すべての者をご自身のもとに引き寄せられた。あなたがたもまた、わたしの子供たちではなかったか、今や皆、わたしのもとに立ち帰りなさいと、家族となる救いをくださったのです。今日の説教題を、祈りは私たちを変えるとしましたが、そこで一つ変えられるのは、私が、私たちに変わる変化です。私が祈るのではなくなって、イエス様が祈りを教えてくださったように、天にまします、我らの父よ、私たちの父よと、家族の祈りに変えられる。個人的な求めから脱していく。そこに私の変化があります。具体的に、祈りの内容も変わるのです。私の求めという感覚が薄くなると言ったらよいでしょうか。父の求めを意識するようになっていき、父が求めておられる父の家族の一員として、私もまた変えられますように、また兄弟姉妹が、このように助けられ、癒され、あなたが共にいてくださって、父の子、私の兄弟姉妹として、共々に罪から救われ、誘惑から守られ、キリストの香りを放つ家族として祝福されますようにと、具体的に祈る態度が変えられるでしょう。言い換えれば、そうやって皆で父に近づいていくのです。それが祈りの目的になります。私の求めではない。あの人の求めでもない。父の求めが、祈りの目標となり、動機になります。なら祈りは聴かれると、信じて祈れるはずなのです。父の求めなら、聴かれんはずがないからです。私たちが祈り始めたころはおそらく、私の求めが中心だったでしょう。動機は私の必要だった。それが変えられていくのです。それが私たちを神の家族とされる、聖霊様のお働きです。

改めて今日の御言葉を聴きたいと思います。「それで、このキリストによって私たち両方の者が、一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。」一つの霊に結ばれて、直訳は、一つの霊の内に。めいめい個人個人、自分の必要と思いに従ってではない。それでは父に近づけんのです。自分では近づいていっているつもりでも、家族への愛が見えんところでは、家族を求められる父のお気持ち、その御心には、どれだけ近づいていると言えるでしょうか。ただし、確信を持って言いますが、そのような祈りも、父は聴いてはおられます。答えてさえ下さっているでしょう。神様が父と呼ばれるその所以は、父が驚くほどに恵み深いからです。そのような私たちの父となることを望まれたからです。だから父として一人一人を愛されますし、また父であればこそ、一人一人が、キリストの内に一人の新しい人に変えられ、皆一つの家族とされます。一人の父から注がれる、家族の愛に生きるようにと、態度も生活も変えられていく。それが信仰の成長です。

それが見えるのが祈りです。ま、態度にも見えますが、それを変えるのも祈りです。そして祈りを変えるのが、一つの霊と呼ばれる、聖霊様なのです。先に、時間を共有すると距離感が縮まると言いましたけど、じゃあ時間を共有できんかったら。あるいは時間を共有しておっても、気持ちを共有できんかったら。そういう人間の限界を、私たちは十分なほど、知ってきたと思います。その限界に破れてきた敗戦の歴史があると思います。だから、その隔ての壁を壊されたキリストの御名を呼び、聖霊様によって祈るのです。父よ、私たちには不可能なこの壁を、でもキリストが十字架で壊されましたから、キリストの十字架の勝利に依り頼みますから、他にもう頼れる何もありませんから、キリストを下さった御父よ、この壁を打ち破られたキリストの平和を、聖霊様によって、実現ならしめてください!ここに実らせ現してください!人間の限界を打ち破る、神の国の現実、聖霊様の力ある御業によって、私たちの罪と弱さを打ち破ってください!人間にはできないことも、父よ、あなたにはおできになります、これは、あなたご自身の願いです!父よ、あなたの子供たちを変えてくださいと、聖霊様によって祈るのです。人間による力を捨てるということでもあります。私の求めを十字架につけるとも言えるでしょう。そこで三位一体の神様の、救いの願いが成るのです。自分では自分を救えない、神様の家族になど到底なれない、罪人を神の子に変えられる救い力が、すべて三位一体の神様にあるなら、私たちは聖霊様によって近づくのです。眼には見えない御父に、霊的に近づいていくのです。

最後にはっきりと申します。この三位一体の神様の救いは霊的です。人間のあらゆる能力や身体を用いられますが、それが罪の力に負けてしまって神様を知ることができないところで、聖霊様によって救われるのです。自動的ではありません。キリストによって与えられた道を、心を尽くし、思いを尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、神様を知る道を通ってですけど、眼では見えない神様を知り、父に近づくことを可能とされるのは、すべて聖霊様のお働きによるのです。そのお働きに頼るのです。それが、祈りであるのです。

聖霊様を求めてください。わからんという遠さがあっても、その遠いところから求めてください。求めが近づいていく鍵です。それを聖書は愛と呼びます。求めてください。求めがないという乾いた心なら、その乾いて死にそうな心のままで、聖霊様に求めてください。信じることができますようにと。近づくことができますようにと。できます。それが三位一体の神様の約束です。私たちは御子と御霊とによって、御父に近づくことができるのです。祈ってください。互いに祈り続けて下さい。そこに御国は聖霊様により来て、御心が地にも成るのです。