12/8/19朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙2章14-16節、イザヤ書56章1-8節 「十字架で生まれた人」

12/8/19朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙2章14-16節、イザヤ書56章1-8節

「十字架で生まれた人」

 

新しい人になりたいって、思うときがあります。同じ過ちを繰り返して、それがやめられないときとか、いつまでも同じ自分でいたくないと思うとき、でもきっとそのときに、もう新しい人になりつつあるのではないかとも思います。たとえ前に進んでいないようでも、前を向いて、前にあるものに心が向かうとき、その後から生活の変化もついて来るのではないかと思います。

イエス様が一緒に歩んでくださって、招いてくださっている、罪から救われる生活って、そういう生活です。希望があります。平和があります。顔を上げることができるからです。自分ばかり見なくてもよいからです。古い自分って言ったほうがよいでしょう。前を向けば新しい自分が見える。イエス様のうちにです。ほら、あなたもこうなると言って、だから、わたしについてきなさい。そこに新しいあなたがいる。もう、見え始めているでしょう、わたしを見なさい。あなたはこうなるって、ご自身を見せてくださる。それがキリストを信じる信仰の歩み。教会の歩みとは、そういう歩みです。

そして、その教会の歩みには、もちろん兄弟姉妹も一緒に、イエス様に従って歩んでいます。一緒に、新しい人になりたいって望みを抱きながら。ってことは、誰もまだ完全ではありません。皆、もう古い自分ではいたくない、同じ過ちは繰り返したくない、このしつこい古さから救われていく、新しく造り変えられていく聖霊様による救いの働きに、身を委ねて歩んでいる途上です。だから互いに罪を犯すこともあります。言わんかったらえいのにってことを言って、傷つけたり、言わんけど、心で兄弟姉妹を裁いて、で、それって態度に大概出るので、ギクシャクした関係になってしまったり。平和とは言い難い状態が、教会の中にも表れて、一緒に歩めなくなると、あれ、それでもイエス様は一緒に歩んでくださっているけれど、そのイエス様と一緒に歩みながら、互いには一緒に歩めないって、おかしくないだろうかということになる。

その疑問に答えてくださるのもイエス様です。わたしがその二人を、わたしのうちで一人の新しい人にしたから、二人は新しい人になれるとご自分を根拠にして言われます。人が自分を根拠にして、古い自分や、古い相手を見ている限り、敵意はなくならんかもしれません。けれど、私たちの救いというのは、個人の救いも、共同体の救い、教会の救いもイエス様だけが土台ですから、キリストが救いの岩で、その上に身を置いて歩むとき、古さを脱ぎ捨てることができるのです。キリストにある新しい人を見つめるとき、新しい態度が生じます。キリストが私たちの平和ですと、心で味わわせてもらえます。ありがたいことです。

その道に新しい人を見るのです。しかもイエス様が見ておられるような、二人が一人になって歩んでいる新しさです。これって新しい。前に話したかも知れませんが、発明家エジソンは子供の頃、学校の先生から見離されるほど、他の子達のように考えることが苦手で、例えば算数を習ったとき、1+1=2というのに納得できなくって先生に怒られた。で、家に帰って、両手に泥団子を二つ握って、母親の前で、それを一つの大きな泥団子にして、1+1は、1じゃないかと言った。母親はその通りだと言った。イエス様もその通りだと言ってくださる。イエス様もたぶん算数は苦手です。敵意をもった個人と個人とを目の前に、あなたとあなたは二人の対立する個人ではなく、一人の、新しい人になったと言われるのです。

それは単に新しい考え方をしなさいというのではありません。積極的思考で行きなさいというのとは、わけが違います。イエス様が根拠だからです。敵意を持つ双方は、イエス様ご自身において、イエス様の内側で、一人の新しい人にされた。それが新しい人です。二人で解決しなさいというのではない。イエス様が解決されます。その二つの泥団子は、イエス様という泥団子と結ばれて、一つの泥団子になったから、わたしと一つになったから、だから、あなたがたも一つだと言われます。二人では解決できんから、だからわたしが新しい人として来たと、イエス様が新しい人としての歩みに、招いてくださっているのです。

私たちが敵意を持って、相手が赦せないと思っているときは、たぶん古びた個人主義の算数で計算する、古い自分になりきっているのです。本当は既にそうではないのに、罪の力に引きずり込まれて、古い自分の隠れ処で、言わば取り残されているような気持ちになることもあるでしょう。敵意を持ちながら、惨めじゃないことって、たぶんありません。その古い隠れ処から私たちを救い出してくださるのは、イエス様です。あなたは既にわたしの内にあって新しい人だから、古いあなたは十字架につけて、わたしの内側で死なせたから、敵意もろとも滅ぼしたから、新しい顔をあげて、わたしをごらん。わたしがあなたの将来だ。わたしがそうだと言ってくださっている。そのお言葉に嘘はありません。

実にキリストが私たちの平和です。そのイエス様を信じて祈るとき、私たちが隠れ処の中で腐らせていた古い気持ちを託すことができます。敵意をイエス様に渡すことができます。そんな敵意、新しいあなたには相応しくない、それは、わたしが十字架の上で、既に取り壊したものに過ぎないから、既に壊れているその敵意を、その通り壊れた敵意として葬ろうと、手を差し伸べてくださっているからです。

この敵意という言葉は、憎しみとも訳せる言葉です。一つになれなくするものです。偏見とか、差別もそこに含まれ得ます。この人とは一つになれんというのは、どんなにお上品に言い直しても、お上品な敵意でしかないでしょう。おっほっほ、嫌いとか(笑)。理由という言葉には、理性の理が含まれていますけど、敵意には理性というより、感情というか、人格というか、この自分が敵対するものを受け入れたら自分の人格が否定されるとでもいうような、自分という、おどろおどろしい存在の根拠に関わっているような気がします。敵意の理由って、もはや古いものとされた自分の王座に関わっているように思います。それが私たちを狂わせる。それが罪です。その敵意という罪の隔ての壁が、私たち同士だけでなく、私たちと神様との間をも隔ててしまいます。だから16節で「十字架を通して、両者を一つの体として神様と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」と、敵意が滅ぼされた理由が明らかにされます。敵意が滅ぼされないと、神様とも一つになれんからです。敵意の深刻さが、ここにあります。私たちと神様の間を引き裂くからです。

敵意とは、この人が私の前からいなくなってくれたら、少なくとも、私が嫌いな、そういう人としてはいなくなってくれて、この人が新しくなって、私の好む者になってくれたら、仲間になって、和解してもよいけれどと、自分を神の立場に置く罪だとも言えます。しかもそうやって嘘の神を造り出しては、神様を侮辱する罪であるとも言えるのですが、敵意という隔ての壁は、私たちが、そうやって神様に敵対していることをわからんならせてしまうほど、神様から隔ててしまいます。

敵意とは、そんなにも神様と私たちとを引き裂いてしまう、隔ての壁であればこそ、キリストは私たちをご自分の内側で一人の新しい人に造り上げ、わたしたちは一人だと、隔ての壁を壊し、そのことで平和を、御自分の内に実現し、更にその御自分を全人類の罪の裁きの犠牲とし、十字架を通して、両者を一つの体として神様と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼしてくださったのです。私たちが神様と和解させられるためには、敵意が滅ぼされることが条件でした。敵意が敵意としてあるままでは、人とも神様とも和解できません。古いおどろおどろしい偶像礼拝者として、この2章の冒頭で、あなたがたは以前、自分の過ちと罪のために死んでいたと言われているままをなぞる生き方、死に方をしなければならない。あなたには、断じてそうであってはもらいたくないと、神様は私たちの敵意を滅ぼすために、その罪人の代表として肉を取り、その肉において私たちの敵意を全部背負われて、十字架で命ごと滅ぼしてしまわれたのです。キリストが、ご自身の内に私たちの全部を引き取って、一人の新しい人を造られて、これがあなたの平和であり、これが神様との平和であると、宣言された。実にそうしてキリストが、私たちの平和となられたので、私たちはもはや取り壊された敵意を捨てて、古いおどろおどろしい自分を振り払って、新しい人として、しかも一人の新しい人として、一緒に生きていけるのです。

無論、それが自分の力ではできんから、イエス様と一緒に、イエス様のうちにあって、イエス様の名を呼びながら、一緒にです。イエス様、私には無理です、でもあなたには可能です。あなたにあっては、もう、なったのです。もう一人の新しい人なのです。その新しいあなたの現実を与えて下さい。私を新しくしてくださいと、救い主を信頼して祈る。祈るほかないし、祈ってイエス様を見つめることで、現実の恵みに生きられる。それが聖書の語る悔い改めです。イエス様によって造られた、新しい自分に生きられるのです。

キリストが私たちの主として十字架につけられて、えいかえ、ここで終わりにするぜよ、ここから新しく始めるがぜよ、もう新しゅうなったがぜよと、新しい道を開かれた。キリストと一緒に、皆と一緒に、このキリストの前でなら誰もが声を一つにして、私はキリストに赦された者です、ただキリストの十字架によって神様に受け入れられた者ですと、誰もがそこで一つになれる。そこに教会の歩みがあります。新しい人の歩みがあります。それが十字架の上で生まれ、歩む私たち、神の家族であるのです。