12/8/26朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙2章17-19節、イザヤ書57章14-21節 「一つ十字架の屋根の下」

12/8/26朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙2章17-19節、イザヤ書57章14-21節

「一つ十字架の屋根の下」

 

先週、火水木と皆さんの祈りに送り出され、軽井沢での青年大会2012に行って来ました。施設の収容数を10名越す270名の参加者が与えられ終始熱気と祝福に溢れていました。皆さんの祈りに心から感謝します。

中高生と青年に分かれて講演があったのですが、青年の講演で、講師がこう言いました。この大会には台湾と韓国からの参加者も与えられ、一つの神の家族としての交わりが与えられ嬉しく思う。実は私の娘も、台湾の方と結婚したので、私の家族は、二つの民族を持っている。今、民族主義を煽るような動きがあるが、家族は民族を超えるんだ。民族が土台ではない。家族は民族を超える。ならば教会は尚のこと、そうだ。私たちは一つの神の家族である、とおっしゃって、私は大変に感動しました。その後の分団で、お二人の台湾の青年からも、あの言葉には大変感動したと聞きました。アーメンと改めて感動しました。この台湾からの青年グループは皆同じTシャツを着ておりまして、イエス様の顔らしきデザインが描かれておりました。その顔の中心には十字架が描かれ、鼻と眉毛になっている。で、その鼻の十字架の左右は、十字架を中心に向き合っている二人の横顔でもあるのですけど、その向かい合う二人の顔が、十字架を中心に一人の顔、しかもイエス様の顔になるデザインになっている。そこに込められたキリストの福音に感動しました。台湾にも民族問題があると聴いていますし、日本との間にも歴史的悲しみがあった。でもそうした問題を、十字架を中心に互いに向き合うところで、一人の人になるのです。しかも互いに十字架を中心に向き合うその二人が、一人のイエス様のお顔になって、世界にキリストの顔として歩んでいく。そうだ、これが教会だと思いました。

また、その青年の通訳を、分団で私が英語でしたのですが、途中声が詰まって通訳できんなりました。その青年は大会初日の夜歌われた台湾の讃美歌を聴いて、昨年3月11日の次の日曜日、教会全員で日本のために祈ったことを思い出したと言われたのですが、それを訳す声が出なくなりました。一致の土台は民族じゃない。愛です。本当は誰もが知っている。愛が私たちを一つにする。じゃあどうして一つじゃないところが私たちの関係にあるのでしょう。それも知っているのだと思います。愛だと知ってはいるのだけれど、その愛が私たちには欠けていることを。

本来私たちは皆、その名を愛と呼ばれる神様の形に造られて、神様の御名の栄光を現すべく存在している。互いに向き合えるはずなのです。なのに争い、いがみ合い、そのための条件さえマッチするなら、殺しさえできるほどに、愛から遠くなってしまっている。考えやフィーリングが近い人とは仲良くなれても、違うと感じたら壁ができる。できた壁は中々壊れない。その人間が作った壁を壊すため、その名を愛と呼ばれる神様が人となられて、キリストが私たちの只中においでくださった。

今日の御言葉で、遠く離れているとか、近くにいるとか言われますのは、この壊れた世界に、救い主キリストを与えますよという神様の約束を知っていて、それ故にキリストに近いイスラエルの民と、知らんが故に遠かったそれ以外の民、いわゆる異邦人のことを言うのですが、ある説教者は大変興味深いことを言っています。近かろうが、遠かろうが、その与えられた約束の中に、入ってなかったら同じだと。そうですね。だからある意味、それを一番表しているのが聖餐式なのだと思います。礼拝に出席して、すごくすごく近づいているのだけれど、洗礼を受けてキリストの救い、神様の家族に入ってなかったら、キリストの体と血を受けることができなくて、近いのに遠く感じられるのではないでしょうか。だからこそ、聖餐式では、必ず招きの言葉を語るのです。キリストが、すべての人々に向かって言われる。すべて疲れた人、重荷を負う人は、わたしのもとに来なさいと。その十字架の下に自らの荷を下ろし、流されたキリストの命によって、罪を赦され、洗礼を受け、神様の子供にしていただける。そのキリストのもとに来なさい、わたしの家族になりなさいと、キリストが今も両手を一杯に拡げて招いておられる。

御言葉も、近くにいる人々には、キリストの招きがないとは言わんのです。近くにいる人々にも、キリストの平和の福音が告げ知らされんといかんから、キリストは来られた。私には関係ないと思っている遠くの人のもとに、そして、近いんだから、私は別にかまんと思っているかもしれない人々のもとに、すべての人々に必要な赦しの平和を与えるために、キリストがすべての人々のもとに来てくださった。その赦しこそ、キリストが十字架の上で成し遂げられた、隔ての壁の破壊です。私は赦される必要などないと、神様の前にそびえ立てた壁も、あの人と私は別に一つになる必要などない、関係ない、むしろ離れていたいと、神様の愛にも自分の真実の心にも逆らって立てた壁をも、キリストがご自身の内に全部引き取って、父よ、このすべての壁を、わたしもろとも破壊して、その壁という罪の裁きを、わたしを十字架で裁くことによって成し遂げてください、わたしが全責任を負いますからと、十字架で壁、罪、敵意を、全部引き受けて死んでくださり、三日目に、裁きを負いきった宣言として、復活させられて、こう言って下さった。あなたがたに平和があるように!この平和を、差し出されてない人も、また必要としてない人もおらんのです。キリストがこうして私たち全てのもとに、あなたに平和があるようにと、罪の赦しを携えて来てくださった。今もここにキリストがおられて招いておられます。すべて疲れた者、重荷を負う者は、わたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげようと、十字架の赦しの陰の中に身を委ね、その中に入って憩いなさいと、キリストが招いておられます。どうぞ重荷を負ったまま来てください。自分では負えない重荷ならばこそ、キリストが負ってくださいます。

その平和の根拠は、キリストです。私たちがした、あるいはしなければならない何かではありません。聖書の語る平和とは、争いがない状態ではなく、調和がある状態です。例えば色々な思いが心の中で争いあって、心が苦しいとき、なお私は神様の赦しの約束の中にあって、苦しみの只中で、十字架の調和を頂いているのです。キリストは私の救い主であり続けてくださり、私との関係を決して裏切ることも破壊することもないと約束して下さっていると、苦しみもがいている只中でキリストの約束の中に身を置けるのです。苦しみに壊されない調和があるのです。

人間の考える平和というのは、もろく壊れやすいものであればこそ、自分が既に持っている何かを土台にする。例えば民族とか愛国心とか、自分の持っているモノを神のようにして、絶対化して、そうやって自分を守り、違う者たちを排除することで、私は平和だと思いたい。だからもろいのですけど、キリストを平和の根拠として持つときには、そこに色々な違いをも含みうるのです。先に言いましたように、家族が民族を超えるなら、キリストを根拠とする平和は、あらゆる違いを超えます。十字架の下で、全ての人々の罪が負われたことを確かめ合える平和は、色々な違いを許容するのです。キリストご自身の存在そのものが、それを担っているとも言えます。マタイによる福音書1章の有名なキリストの系図の中に、母マリアを除いて4名の女性の名があげられる、その一人にラハブがいます。エリコの街に住む異民族で身を売って生活をしていましたが、そんな生活を許容した街と共に滅びることを免れて、イスラエル人と結婚し、息子ボアズをもうけます。先の四名の中に同じく名をあげられた異民族の女性ルツの夫となる男性ですけど、裕福なのに、ずっと結婚できませんでした。もしかしたら、異邦人で身を売っていた女の息子なんぞに、うちの娘を嫁がせられるかと、差別されておったのでしょうか。日本にある差別と同じ理由で、表向きは仲良くされていても、結婚となると話は別だと。でもそのボアズと、異邦人の妻ルツを通して、キリストは人としてお生まれになることを選ばれたのです。その出生の系図そのものが、全ての隔ての壁の罪を、ご自分の命の中に飲み込んでいます。その上でご自分を十字架により破壊して、あらゆる敵意の壁を壊して、ならもう、あなたがたの間では、一切の壁は不可能だろうと、遠くの者にも近くの者にも、キリストを根拠とする平和の福音を告げてくださった。十字架を中心に向き合う二人は、新しい一人の人になり、あなたがたはこれから新しい関係、全く新しい、神の家族という関係に生きるのだと、ご自身の全存在をかけて造られた平和の関係に、私たちを招き入れてくださったのです。

それで、と18節は言います。「それで、このキリストによって私たち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。」

天の父なる神様に、私たちが、天にまします我らの父よと近づける理由は、私がした何かによるのではありません。人間の側の理由ではありません。キリストが、十字架の上で成し遂げられた罪の赦しを携えて、私たちのところにおいでになって、あなたの罪は赦された、わたしのもとに来なさい、共に歩もうと招かれて、私たちの主となってくださったからです。キリストだけが根拠なのです。だからキリストの名によって祈るのです。父よ、あなたがくださった、救い主キリストの執り成しを信じて祈りますと、キリストによって祈れるのです。

まだ洗礼をお受けになっておられない方にも、その呼びかけはなされています。わたしのもとに来なさいと、キリストが呼びかけて下さっているからです。キリストの名によってお祈りください。キリストをくださった天の父よと。それ以外の神様ではないからです。この御父にこそ私たちは近づくことが「できる」のです。できるのですから、近づきましょう。できるのに、近づかないところで誘惑に遭います。罪を犯して壁が作られて、父から疎遠になってしまって。その弱さを知らない人はおらんでしょう。父こそは、その弱い私たちをよくご存知です。だからキリストをくださいました。私たちの主としてくださいました。だから主の名を呼ぶのです。キリストの名によって祈るのです。キリストをくださった天の父よと。そうやって神様の近さを知ります。赦しの近さ、十字架の近さ、恵みの近さを知るのです。近づきましょう。キリストがおいでてくださいました。この主によって、神の家族は生きるのです。

12/8/19朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙2章14-16節、イザヤ書56章1-8節 「十字架で生まれた人」

12/8/19朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙2章14-16節、イザヤ書56章1-8節

「十字架で生まれた人」

 

新しい人になりたいって、思うときがあります。同じ過ちを繰り返して、それがやめられないときとか、いつまでも同じ自分でいたくないと思うとき、でもきっとそのときに、もう新しい人になりつつあるのではないかとも思います。たとえ前に進んでいないようでも、前を向いて、前にあるものに心が向かうとき、その後から生活の変化もついて来るのではないかと思います。

イエス様が一緒に歩んでくださって、招いてくださっている、罪から救われる生活って、そういう生活です。希望があります。平和があります。顔を上げることができるからです。自分ばかり見なくてもよいからです。古い自分って言ったほうがよいでしょう。前を向けば新しい自分が見える。イエス様のうちにです。ほら、あなたもこうなると言って、だから、わたしについてきなさい。そこに新しいあなたがいる。もう、見え始めているでしょう、わたしを見なさい。あなたはこうなるって、ご自身を見せてくださる。それがキリストを信じる信仰の歩み。教会の歩みとは、そういう歩みです。

そして、その教会の歩みには、もちろん兄弟姉妹も一緒に、イエス様に従って歩んでいます。一緒に、新しい人になりたいって望みを抱きながら。ってことは、誰もまだ完全ではありません。皆、もう古い自分ではいたくない、同じ過ちは繰り返したくない、このしつこい古さから救われていく、新しく造り変えられていく聖霊様による救いの働きに、身を委ねて歩んでいる途上です。だから互いに罪を犯すこともあります。言わんかったらえいのにってことを言って、傷つけたり、言わんけど、心で兄弟姉妹を裁いて、で、それって態度に大概出るので、ギクシャクした関係になってしまったり。平和とは言い難い状態が、教会の中にも表れて、一緒に歩めなくなると、あれ、それでもイエス様は一緒に歩んでくださっているけれど、そのイエス様と一緒に歩みながら、互いには一緒に歩めないって、おかしくないだろうかということになる。

その疑問に答えてくださるのもイエス様です。わたしがその二人を、わたしのうちで一人の新しい人にしたから、二人は新しい人になれるとご自分を根拠にして言われます。人が自分を根拠にして、古い自分や、古い相手を見ている限り、敵意はなくならんかもしれません。けれど、私たちの救いというのは、個人の救いも、共同体の救い、教会の救いもイエス様だけが土台ですから、キリストが救いの岩で、その上に身を置いて歩むとき、古さを脱ぎ捨てることができるのです。キリストにある新しい人を見つめるとき、新しい態度が生じます。キリストが私たちの平和ですと、心で味わわせてもらえます。ありがたいことです。

その道に新しい人を見るのです。しかもイエス様が見ておられるような、二人が一人になって歩んでいる新しさです。これって新しい。前に話したかも知れませんが、発明家エジソンは子供の頃、学校の先生から見離されるほど、他の子達のように考えることが苦手で、例えば算数を習ったとき、1+1=2というのに納得できなくって先生に怒られた。で、家に帰って、両手に泥団子を二つ握って、母親の前で、それを一つの大きな泥団子にして、1+1は、1じゃないかと言った。母親はその通りだと言った。イエス様もその通りだと言ってくださる。イエス様もたぶん算数は苦手です。敵意をもった個人と個人とを目の前に、あなたとあなたは二人の対立する個人ではなく、一人の、新しい人になったと言われるのです。

それは単に新しい考え方をしなさいというのではありません。積極的思考で行きなさいというのとは、わけが違います。イエス様が根拠だからです。敵意を持つ双方は、イエス様ご自身において、イエス様の内側で、一人の新しい人にされた。それが新しい人です。二人で解決しなさいというのではない。イエス様が解決されます。その二つの泥団子は、イエス様という泥団子と結ばれて、一つの泥団子になったから、わたしと一つになったから、だから、あなたがたも一つだと言われます。二人では解決できんから、だからわたしが新しい人として来たと、イエス様が新しい人としての歩みに、招いてくださっているのです。

私たちが敵意を持って、相手が赦せないと思っているときは、たぶん古びた個人主義の算数で計算する、古い自分になりきっているのです。本当は既にそうではないのに、罪の力に引きずり込まれて、古い自分の隠れ処で、言わば取り残されているような気持ちになることもあるでしょう。敵意を持ちながら、惨めじゃないことって、たぶんありません。その古い隠れ処から私たちを救い出してくださるのは、イエス様です。あなたは既にわたしの内にあって新しい人だから、古いあなたは十字架につけて、わたしの内側で死なせたから、敵意もろとも滅ぼしたから、新しい顔をあげて、わたしをごらん。わたしがあなたの将来だ。わたしがそうだと言ってくださっている。そのお言葉に嘘はありません。

実にキリストが私たちの平和です。そのイエス様を信じて祈るとき、私たちが隠れ処の中で腐らせていた古い気持ちを託すことができます。敵意をイエス様に渡すことができます。そんな敵意、新しいあなたには相応しくない、それは、わたしが十字架の上で、既に取り壊したものに過ぎないから、既に壊れているその敵意を、その通り壊れた敵意として葬ろうと、手を差し伸べてくださっているからです。

この敵意という言葉は、憎しみとも訳せる言葉です。一つになれなくするものです。偏見とか、差別もそこに含まれ得ます。この人とは一つになれんというのは、どんなにお上品に言い直しても、お上品な敵意でしかないでしょう。おっほっほ、嫌いとか(笑)。理由という言葉には、理性の理が含まれていますけど、敵意には理性というより、感情というか、人格というか、この自分が敵対するものを受け入れたら自分の人格が否定されるとでもいうような、自分という、おどろおどろしい存在の根拠に関わっているような気がします。敵意の理由って、もはや古いものとされた自分の王座に関わっているように思います。それが私たちを狂わせる。それが罪です。その敵意という罪の隔ての壁が、私たち同士だけでなく、私たちと神様との間をも隔ててしまいます。だから16節で「十字架を通して、両者を一つの体として神様と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」と、敵意が滅ぼされた理由が明らかにされます。敵意が滅ぼされないと、神様とも一つになれんからです。敵意の深刻さが、ここにあります。私たちと神様の間を引き裂くからです。

敵意とは、この人が私の前からいなくなってくれたら、少なくとも、私が嫌いな、そういう人としてはいなくなってくれて、この人が新しくなって、私の好む者になってくれたら、仲間になって、和解してもよいけれどと、自分を神の立場に置く罪だとも言えます。しかもそうやって嘘の神を造り出しては、神様を侮辱する罪であるとも言えるのですが、敵意という隔ての壁は、私たちが、そうやって神様に敵対していることをわからんならせてしまうほど、神様から隔ててしまいます。

敵意とは、そんなにも神様と私たちとを引き裂いてしまう、隔ての壁であればこそ、キリストは私たちをご自分の内側で一人の新しい人に造り上げ、わたしたちは一人だと、隔ての壁を壊し、そのことで平和を、御自分の内に実現し、更にその御自分を全人類の罪の裁きの犠牲とし、十字架を通して、両者を一つの体として神様と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼしてくださったのです。私たちが神様と和解させられるためには、敵意が滅ぼされることが条件でした。敵意が敵意としてあるままでは、人とも神様とも和解できません。古いおどろおどろしい偶像礼拝者として、この2章の冒頭で、あなたがたは以前、自分の過ちと罪のために死んでいたと言われているままをなぞる生き方、死に方をしなければならない。あなたには、断じてそうであってはもらいたくないと、神様は私たちの敵意を滅ぼすために、その罪人の代表として肉を取り、その肉において私たちの敵意を全部背負われて、十字架で命ごと滅ぼしてしまわれたのです。キリストが、ご自身の内に私たちの全部を引き取って、一人の新しい人を造られて、これがあなたの平和であり、これが神様との平和であると、宣言された。実にそうしてキリストが、私たちの平和となられたので、私たちはもはや取り壊された敵意を捨てて、古いおどろおどろしい自分を振り払って、新しい人として、しかも一人の新しい人として、一緒に生きていけるのです。

無論、それが自分の力ではできんから、イエス様と一緒に、イエス様のうちにあって、イエス様の名を呼びながら、一緒にです。イエス様、私には無理です、でもあなたには可能です。あなたにあっては、もう、なったのです。もう一人の新しい人なのです。その新しいあなたの現実を与えて下さい。私を新しくしてくださいと、救い主を信頼して祈る。祈るほかないし、祈ってイエス様を見つめることで、現実の恵みに生きられる。それが聖書の語る悔い改めです。イエス様によって造られた、新しい自分に生きられるのです。

キリストが私たちの主として十字架につけられて、えいかえ、ここで終わりにするぜよ、ここから新しく始めるがぜよ、もう新しゅうなったがぜよと、新しい道を開かれた。キリストと一緒に、皆と一緒に、このキリストの前でなら誰もが声を一つにして、私はキリストに赦された者です、ただキリストの十字架によって神様に受け入れられた者ですと、誰もがそこで一つになれる。そこに教会の歩みがあります。新しい人の歩みがあります。それが十字架の上で生まれ、歩む私たち、神の家族であるのです。

12/8/12朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙2章11-13節、出エジプト記24章3-8節 「こんなにも近い神様」

12/8/12朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙2章11-13節、出エジプト記24章3-8節

「こんなにも近い神様」

 

先週、礼拝説教をされました三橋神学生は、高校一年生のとき、習字教室に行っておって、それが教会でなされていたそうです。でも当時の三橋さんは、宗教なんてまっぴらごめん、キリストらあ一切関わりたくないと、のっけから、私は習字を習いに来たので、勧誘は一切しないで下さい、ピシャッ!と伝道お断りを宣言したと、祈祷会の証で言っておられました。が、お断りされた方、祈っておったんでしょうね。恵みが誤解や偏見に優しく勝利した、美しい証だと思います。

だから、と御言葉は私たちに告げます。だから、心に留めておきなさいと。あなたたがたは以前、こうだったのに、今はキリスト・イエスにおいて、あるいはキリストの内側で、キリストの血によって近い者となった。そのことは決して忘れたらいかん。よく覚えちょきなさいというのです。キリストの内側、キリストにおいて、というのは、キリストに抱きしめられているイメージとも言えるでしょうか。言わば、私たちの心も体も生活にいたるまで、罪のばい菌が蔓延しておって、そのままで聖なる神様の前に出るなら、永遠に隔離され焼却されてしまう。そんな罪の病、私私私で何が悪い、キリストなんて関わりたくないという死に至る自分病に冒されている私たちのもとに、キリストが飛び込んで来てくださった。十字架で流された血で血だらけのまんま、ギュッと抱きしめてくださった。さあ、これで、あなたの罪は消毒されたから、あとは時間の問題だ。あなたの罪は清められたから、どんどん清められていくことは確実だから、それだけの死をわたしは十字架で死んだから、それだけの赦しを、父は十字架で認められたから、だから、もう自分自分の生き方はやめてしまって、わたしと共に歩みなさい。あなたもわたしと同じように、神の子として歩みなさい。あなたが父から見捨てられることは、わたしの故に決してないから、だから、わたしについてきなさいと招かれた。この救いは死ぬまで忘れたらいかんぜよと告げるのです。

言い換えれば、あなたは恵みによって救われた。それを四六時中、心に留めておきなさい。手の平に書き込み、自分の顔を見ちゃろうと鏡を見た時に、う、そうやったと思い出すよう、額に、恵みって書いちょきなさいと、ま、そういうことです。おさらいになりますが、これは5節の具体的展開なのです。神様は罪のために死んでいた私たちをキリストと共に生かし、―あなたがたの救われたのは恵みによるのです!これをパウロは、具体的に、じゃあ、それはどういうことかと説明をしだします。8節では、信仰はその恵みを受ける信頼のパイプであって、救いは恵みによるのだと説明しましたし、9-10節では、行いはその恵みの結果だと説明しました。そこで11節から、その恵みによって救われて、善い業を行って歩むとは、じゃあ、どういうことか。それは十字架の恵みによって共に赦され、受け入れられた私たちが、共に神の民、あるいは、神の家族として、共に歩んでいくことだ。それは教会を建て上げていくことなのだと、恵みは教会に具体化することを教えている。恵みは教会に具体化する。それがここから続く御言葉です。

ここで言われる異邦人という言葉は、ユダヤ人ではない外国人というよりも、神様によって世界の救いのための任務を負って選ばれた民にはまだ入れられていない、というニュアンスがあります。日本人なんか、ざまに異邦人ですけど、その異邦人たちの只中にキリストが飛び込んで来てくださって、いや、あなたもわたしの民として、世界の救いという使命に生きなさいと、ご自身の血によって、神の家族にして下さった。それが要するに言いたいことで、下の段19節以下「…」。これが、目指すゴールであるのです。じゃあどうして、一足飛びにそこにいかんか。ユダヤ人が陥った儀式主義や自力主義に、教会もまた陥りやすいから、その罪の言わば引力を、心に留めるためだろうと思います。

恵みによって救われる以前は、ユダヤ人も陥っておったそういう儀式主義や自力主義を、別に気にも留めんかった。「いわゆる手による割礼」という言い方は、皮肉をこめた言い方です。教会で言い換えたら、ま、洗礼さえほどこしたら自動的に救われると、洗礼であれ、なんであれ、その儀式自体が力を持っているように考えて、神様の恵みを、自動的に自分で操れるものと考える。人間が陥りやすい罪なのでしょう。そこに愛の信頼関係はありません。むしろ、そうやって儀式を利用することで自分の力を主張するのです。私はこの儀式をしたからと。私がしたことを救いの主語とする態度では、しかし、父の家族として生きられない。

パウロが告げるのは、キリストの血によって、です。キリストが主語です。私たちじゃない。三位一体の子なる神様が罪人の犠牲となるため人となられて、血を流すほどに、死ぬほどに人となられて、その血によって赦されたのなら、人間が割礼でチョチョッと血を流したぐらいで、これで救いは保証されたとか、そんなのは「いわゆる手による割礼」に過ぎんのだと、自分を誇る態度への要は皮肉を言うのです。キリストが血を流してくださった、その恵みによって救われるのなら、割礼そのものや洗礼そのものが、主語になることはありません。要するに急所は、キリストと関わりがあるかないかです。キリストの流された血のもと、十字架のもとに、我が身を置くのかどうかです。それを信仰と呼ぶのですけど、その信仰が形を取ったら、キリストの体である教会に属する、教会員になるという、洗礼という形を取らざるをえない。旧約の時代で言えば、それが信仰のしるしである割礼ですけど、じゃあ神様の、何を信じるしるしかと言うと12節2行目「約束を含む契約」、直訳は「かの一つの約束を信じる、かの諸々の契約」です。つまり神様が繰り返し、あなたがたに救い主を与えると「かの一つの約束」を、アブラハムに、モーセにも、ダビデにも、しかし、キリストを約束する「一つの約束」をずっと約束し続けた。そのキリストによる救いを世界に知らせるのが神の民です。その民と異邦人とはどう関わるか。もう一つの急所です。

神の民と、私たちはどう関わるのか。時代が古かろうが新しかろうが同じです。キリストと関わる以前には、神の民ではなかったのです。どの国、どの時代、どの民も、キリストの介入以前には、キリストを抜きにした自己主張、自力主義、儀式主義、自己満足、とにかく神様を主語としない救い、自分が主語、私が主語の、神なき生活だった私たちに、いや、そのあなたの主となって、あなたの罪を身代りに負い、十字架で裁かれ死ぬために、わたしがあなたの主語となったと、キリストが飛び込んできて下さって、聖なる血潮を流されて、私たちをそのままで抱きしめて下さった。わたしは主、あなたの神だと、神様が近づいて来て下さった。だから人間は救われて、ユダヤ人であろうと何人であろうと、キリストを主として救われるのです。私が何をしたかが主題なら、主語は私になるでしょう。でもそれは最早、私語です。私語は慎むものでしかありません。そんな私語ばっかりの世界には、希望があるはずもありません。私語で学級崩壊するように、教会も家族も崩壊します。

しかし、ただキリストの恵みによって救われた教会は、恵みの言葉を語れるのです。恵みを喜び、イエス・キリストが主であると、キリストを主とする教会には、キリストの主権的ご支配が、恵みの態度で現れるのです。キリストはえいですと言う人が来ても、キリストによって救われるのです。それを信じて祈れるのです。救いはキリストの恵みによると、ただキリストを仰いで祈れるからです。その教会が、神の民です。世界に救いをもたらしたもう、キリストの恵みを証する、キリストの体なる教会です。これを忘れてはならないと、皆、招かれているのです。

12/7/29朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙2章9-10節、詩編51篇12-21節 「このために生まれて」

12/7/29朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙2章9-10節、詩編51篇12-21節

「このために生まれて」

 

私たちは神様に造られたものである。これは先の口語訳では、私たちは神様の作品であると訳されていました。もとのギリシャ語はポイエマで、英語ではポエム、詩あるいは詩作という言葉です。私たちは神様のポエムである、と訳してしまうと随分イメージが限定されますが、1章から続く全体のイメージの流れにはあうかもしれません。1章6節12節14節と、讃える讃える讃えると畳み掛けるようにして語ってきたのは、キリストによる救いは、神様の恵みの栄光を讃える、あるいは物語るために与えられたという救いの目的、ゴールでした。私たち一人一人が、そのための讃美、ポエムの一節一節であり、また互いに組み合うときに一つの壮大な叙事詩、ポエムとしての歴史作品となる。それがキリストの体、教会という作品でもあるのです。この神様の恵みの栄光を物語るポエムとして私たちは救われ、神様に新しく造られた。

この恵みの栄光を物語るというイメージが、今日のすぐ前7節では、どんどん限りなく越えて行く恵みの豊かさを世に証するというイメージで言われますが、ほぼ同じことだとも言えるでしょう。物語るにせよ、証するにせよ、そこでの主役は神様の恵みの栄光、恵みです。神様が愛し、受け入れて、憐れんで下さり、選び、赦して、救ってくださった。恵みの神様が主語であり、主役です。恵みが物語られて証される、その壮大な叙事詩の中で、どうして人間が自分を誇り得るか?そんな場所、この作品に用意されてはおりません。

それでも自分を誇るなら、言わば割り込んでいくのです。恵みを物語る讃美作品、例えばアメイジング・グレイスに、あそれ、はどした、と無理やり合いの手を入れるようなもんで…我〈私私私〉をも〈私も偉い〉救〈自分を褒めてあげたい〉いし〈私みたいにすればいいのに〉奇し〈私みたいじゃないといかんろう〉き、め〈私がもっと…〉これじゃ恵みを物語れません。恵みを讃えるため美しく造られた作品が台無しです。

罪とは何かが、これでおわかりになったのではないかとも思います。恵みを台無しにするものです。恵みに割り込んでくるものです。恵みに満ちたエデンの園で、蛇が割り込んできたように、神様と人間との間に存在する恵みの関係に割り込んで、恵みの関係を奪うのが罪です。本来神様と人間との間にあるべきは、信仰あるいは信頼です。これもすぐ前で言われていました。人は恵みにより信仰を通して救われる。それは賜物、プレゼント、恵みであって、自分の力によるのではない。直訳は、自分からではない。恵みですから、受けるのです。私と神様との間に、イエス様が主として来てくださって、そのイエス様との間に信頼というパイプが与えられて、その信頼のパイプを通して聴こえてくる、わたしに従いなさい、わたしと共なるいのちに生きようという羊飼いの声に、はい、と返事ができる関係、恵みの関係が与えられる。これが恵みを証する関係、主と私が、共にある間です。その恵みと信頼の間を割って、私私私が割り込むのでしょうか?私の行いを割り込ませる余地が1ミリでもあると言うのでしょうか。

本当はないのですけど、割り込ませたいから罪人なのです。三浦綾子さんが教会に行き始めたときに、ここはあなたのような人が来るところではないと言うた人がおったそうです。自分はやってきたつもりの行いを割り込ませようとする。私はちゃんと求道してきたとか。あるいは正反対に、全然ちゃんとやってこなかったこんな私が赦されたのかと、涙を流して回心した体験とかが、逆に行いとなって割り込んで、あなたはそんな回心をしてないでしょうと。どんな行いであろうとも、おおよそそこに伴う自分の熱心さが、自分の誇りになるのです。ないですか。そういう自分の誇り、こだわりが。こだわりなんて代物は、あーだこーだ割り込んでくるので、こだ割りなんでしょう。捨てたほうがいいです。そんな自分を誇る罪。きっと先が尖ってて、人を傷つけてしまいます。

私たちのこだわりは唯一つ、その剣先をご自分の身に受け止められ、十字架で、そんなどうしようもない罪人の身代りに死なれ、全部赦して背負い切られて、あなたも新しい恵みの作品としてわたしと共に生まれ変われと、いのちを恵み与えてくださったイエス・キリスト、この方だけです。この方が私たちの、いや栄光の父のこだわり、父の誇りであればこそ、私たちも主をのみ誇り、こだわるのです。しかも柔和な熱心さによってです。7節で「こうして神様はキリスト・イエスにおいて私たちにお示しになった慈しみにより、その限りなく超えいく豊かな恵みを来る世々に証明しようとされた」と言われる通りです。

恵みを証する救いの条件は、キリストのみ。キリストによる恵みのみです。無条件の恵みと言いますが、本当はキリストが条件です。私たちが救われるために、何か一つでも「ねばならない」という条件があったなら、永遠の三位一体の御子なる神様が、全人類の身代りとして人となり、十字架で罪を背負って死なれる、主とならねばなりませんでした。救いに条件があるなら、このキリストの行いです。キリストによる神様ご自身の恵みの行いが条件です。

これが条件であればこそ、十字架に付けられたイエス様の横におった罪人が、イエス様、あなたの御国においでになるときは、私を思い出して下さいと主に顔を向けたとき、あ~、求道期間が短いから無理、とか言われずに済んだのです。この人は重荷を負わせられんかったのです。重荷はキリストが負って下さった。だからこの人はただ一言、あなたは今日、わたしと共に楽園にいる、あなたはわたしと共にいると、恵みによる救いをいただいたのです。

じゃあ救いにおいて、行いは居場所がないのでしょうか。善い行いは白い目で見られてしまうのか。あるいは何をやってもよいのか。どうもそういう人が多すぎるから、ここでパウロも言うのでしょう。じゃあ、行いはどうなるのかと。ここもとっても牧会的です。

行いは救いの条件にはならん。むしろ結果だ。キリストの恵みの実、結果こそ、私たちの善い行いだ、そうでしょう、違いますかと。イエス様の譬え話で言えば、私たちはイエス様に接木された葡萄の枝。キリストは葡萄の木です。枝は枝だけだと実を結ばん。当たり前です。木と共に結ばれ、主と共に結ばれ、キリストと恵みによって賜った信頼のパイプでつながって、パイプを通して、イエス様の恵みに、はい、と言って従って生きていくとき、既にキリストの内に用意されていた善い行いという恵みが、パイプを通って実を結ぶのです。

改めて言いますが、5節で「キリストと共に生かし」と訳された言葉は、キリストと共なる命を造り生かされると訳し得る聖書の造語です。新しい言葉を造らないかんほど新しい命の出来事が起こされたのです。その新しく造られたキリストと共なる命が、キリストと結ばれた、その信頼関係のパイプを通してのみ、私たちに流れ込んできて、その命の実を結ぶことができる。そうして神様の恵みを証するのが、神様の恵みを讃える讃美作品、神様の恵みのポエムなのです。こうやって読んでいくと、聖書ってじつにわかりやすいと思います。私たちは誰であるのか、何のために生きるのか、どうしてそうなのか、全部わかる。

後はその、恵みに生かされている私として、パイプ詰まりをさせんよう、恵みの通りよい信頼関係を育てて、キリストと共に生き、キリストの体と共に歩んでいくだけです。と言っても、それが難しいのでパウロも手紙を書いたのですから、頭じゃなくて、体で、生活でわかり続けるため、恵みの物語に実際に生きる。キリストの物語を歩むのです。

恵みの態度で生きると前にも言いましたが、それが、神様が前もって準備してくださった善い業を行って歩む、ということです。恵みの態度ですから、私が割り込んでこんようにする。善い行いと聞くと、どうも個人的道徳とか個人的な私がどう生きるかって考えてしまいそうですけど、ま、そういう世界に生きていますから、でも、そもそも教会の話をしているのです。家族の話をしているのです。2章19節には、あなたがたはもはや神の家族でありと言われる。そこでは個人がどうのは二の次になります。家族でしょう。栄光の父がそう望まれて、あなた方に御子を与えるから、愛の家族を共に築こうと、皆キリストに結ばれて、一つの家族になったのです。その家族としての行いですから、もちろん態度が問われるのです。善い業です。単なる義務とかじゃない。今日の風呂掃除当番誰とか、でもそれが恵みの態度で、家族のために、父のためになされるとき、善い業になる。教会の善さって、そこでしょう。義務になると、教会らしさが失われます。善くなくなって、下手したら礼拝に来たくなくなる。そこには恵み以外の何かが割り込んでいるのです。

そうやって恵みの関係に割り込んでくる罪の問題、私私のどうしようもなさを、自己責任にしない。自己責任だと、先週言いました気合が足らん、気合気合気合だとなる。あなたの問題だから、あなたが頑張ってというのは恵みではない。無論、本人も頑張りますけど、家族なら共に苦しみ、共に頑張り、恵みの態度で、一緒に歩んでいきましょう、家族ですからと、私たちを家族にして下さったキリストの態度を証する。それがキリスト・イエスにおいて造られた、神の家族の善い業です。

時に、前もって神様が用意してくださっていた恵みの道でなく、恵みを証せん道、悪い業を選ぶことも残念ながらある。例えば自動車のナビで、次の信号を右ですと言われているのに、嫌、俺は左!とワイルドな選択をする。これも改めて申しますが、その報いは受けます。神様は報いの神様です。しかし、です。ナビがそうである以上に、神様はそこで次を右、更にその次を右だと、見捨てず方向修正をしてくださいます。何度も何度でもして下さる。道が途中で切れちょって、その先は死だというところに突っ込んだ先に、なおキリストがしっかり受け止めてくださって、わたしがあなたを背負ったと言って下さる。その神様の恵みを証する道であればこそ、私たちもまた恵みを放り投げないで、キリストのくびきを感謝して負って、共に歩んでいくのです。何かできたら、主のおかげです。できんかったら、悔い改めて、新しく歩み直せば良いのです。キリストが共に歩まれる道を、私たちは共に歩んでいくのです。

12/7/22朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙2章7-8節、イザヤ書55章1-13節 「恵み、恵み、恵みだ!」

12/7/22朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙2章7-8節、イザヤ書55章1-13節

「恵み、恵み、恵みだ!」

 

また妙な説教題をつけたと思われたでしょうか。思惑としましては、女子レスリング浜口選手の、ま、お父さんのほうですか、気合、気合、気合だ!というのを思い出してくださったら、うんと対照的で、わかりやすいかなと思ったのです。気合、気合、気合だ!じゃなくて、恵み、恵み、恵みだ!これが神様の、そして教会の掛け声です。

今読みました御言葉は、すぐ前の5節の御言葉「罪のために死んでいた私たちをキリストと共に生かし、-あなたがたの救われたのは恵みによるのです-」の具体的説明です。

あなたが救われたのは恵みによる!恵みなんだ!恵みをわかってほしいんだと、主がご自分の羊たちにねんごろに語りかけておられるとも言えるでしょう。だって、これがわからんと深刻なのです。人として生きるのも、また信仰者として生きるというのであれば、なおさら生き辛くなってしまう。前に半分冗談で言ったことがありますが、漢字で気合と書いて、その横にルビで、シンコウと振っているような信仰理解が教会には昔から多いのです。これもすぐ前の3節で言われる肉という言葉、あるいは原理。俺俺俺、私私私、自分が自分でという肉の原理で、信仰を誤解してしまうということは、昔から一つも変わらない肉の欲望であるのでしょう。シンコウによってと言いながら、恵みの神様からご覧になられたら、ありゃ、けんど、あなたの額には気合という文字が浮かび上がっちゅうがとおっしゃるのではないでしょうか。でも、ついそうなってしまいやすい。肉の思い、肉の気合が、マグマのように噴出しては恵みの態度を吹き飛ばす誘惑が、人なら誰しもあるのです。

ならばこそ、ここで再度強調をせないかんと、しかも信仰との関係をはっきりさせて、恵みを強調せないかん、恵みに心の目が開けて欲しいと、祈りつつパウロは語るのでしょう。うんと牧会的だと思います。

私たちが救われたのは恵みによる。神様がそう決めてくださった。私がそう救われるのを決めたのではなくて、神様がそう決められて、そのように救ってくださった。それは何のためかと言いますと、7節3行目「その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。」これが理由です。直訳は来るべき世々ですから、イエス様が救い主として神の右に着座され、そのキリストの体として教会が伝道を始めてからこの方、ずっと、そして更には、全く新しくやってくる世、あの世と言うよりは、この世界が最終的に裁かれて、全く新しい世界を神様がお造りになられる、その世に至るまで…一体何をするためか。すべての者が、恵み、恵み、恵みだ!と神様をほめたたえるため、恵みの神様を物語るためです。証すると言ってもよいでしょう。現そうとされたという言葉は、証明するためという言葉です。即ち世々に渡って、神様はまっこと恵み深い神様や、すごい!と、恵みの神様がわかるように、キリストによって証明されたというのです。だからキリストを信じて、その信じたという信仰に心奪われて、自分の信仰にこだわっているのなら、主は、いや、そこじゃない、あなたのこだわるべきは恵みだと言われる。

キリストによって恵みを証明し、人々が恵みに説得されること。それが神様が私たちを救われた、救いの目的であるのなら、教会がなすべき証明、証も、恵みの証明でなければなりません。私はこんなに信じています、何であなたはそうじゃないのと、そういうのは全く証しにならんばかりか、神様の目的を邪魔する肉の証明であるのです。だからもし、もし、そういう信仰への間違ったこだわりを、どこかで拝見することがあったら、そこでこそ自分も同じ肉を持っていることを知り、その肉を怒られる神様に健全な畏れを抱くべきです。そしてここで使徒パウロが祈ったように、その人のために祈るべきです。栄光の父が、知恵と啓示の聖霊様を注がれて、心の目が恵みに開かれ、恵みの神様を深く知ることができるようにと真剣に祈り続ける。その態度こそが恵みの証明にもなるのです。救われたのなら、ますます恵みの態度に生きられるよう、キリストと共なる命、生き方、態度へと、ますます肉から救われる恵み、恵み、恵みだ!神様は恵みによって救ってくださる!と、恵みを証明して生きるのです。恵みの態度で生きていく。それが教会の証です。

しかもこの恵みの証は「限りなく豊かな恵み」の証です。これも直訳は「この恵みの遥かに超えて行く豊かさ」です。上の19節で「信仰者に対して絶大な働きをなさる神様の力」とありました、あの絶大なという言葉と同じです。私たちの理解をどんどん越えて行くのが、それが恵みだと言うのです。アメイジング・グレイス、驚きの恵みという讃美歌がありますが、恵みに驚かんなったら、救いが見えんなってきている証拠だとも言えます。そこにはまた肉の力が働いておって、目を見えんようにしているのです。恵みに対して、そして自分に対して。自分の罪が見えんように、あるいはどんどん小さく見えて、そしたら赦しが小さく見えて、そしたら十字架が小さく見える。むしろ、そのイエス様を信じた私が大きくなって、私の信仰が強くなったら、信仰が恵みを越えゆくのでしょうか。決してそうではない。恵みが遥かに超え行くのです。その恵みの豊かさを証するのです。自分の信仰とか自分の決断とか、献身、祈り、犠牲でさえも、肉による世界では立派であっても、神様の恵みを証する、恵みの態度でなされんかったら、自分の証でしかありません。それでは教会は壊されます。

教会を建てるのは恵みです。どんどん越え行く恵みによって、教会もどんどん建てられます。人数の大きさではありません。恵みの越え行く大きさなのです。恵みの態度が大きくなれば、数も越え行くろうと思います。自分がどんどん小さくなって、キリストがどんどん大きくなって十字架がどんどん大きくなるのが、恵みの態度だとも言えるでしょう。恵みは常に、越え行く力を持っています。成長するのが恵みです。成長するのが教会です。罪の理解も、赦しの理解も、それゆえ悔い改めにも成長する。恵みの態度に成長する。その教会が証においても、どうして成長せんでしょう。教会は恵みによって建つのです。

その恵みの態度は、前の頁をペラッとめくったガラテヤ書5章22節に具体的に記されています。愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制…など、その前に記される肉の態度と対照的です。が、この恵みの態度もまた恵みですから、受けるもの、賜物です。私はこんなに愛があるのに、どうしてあなたは?というのは自分の証をしているのであって、恵みを証し損ねて、もったいないです。ただし、肉の働きで、わかっちゅうのにそうなってしまう、私私の誘惑が常にありますから、だから、恵みの証をするときに必要なのは、今日の7節に戻りますけど「神様が、キリスト・イエスにおいて私たちにお示しになった慈しみによって」証されている恵みに、立ち帰ることです。キリストの慈しみに何度も何度でも立ち帰る。これです。他にあるでしょうか。「慈しみ」と訳された言葉は、優しさとか、恵み深さとも訳される言葉で、イエス様が「わたしのくびきは負いやすく」と言われた、負いやすいと同じ言葉です。くびきとは、二頭の牛の首に木を渡して、カチッとはめて、畑を耕すときに力が出るよう、共に働かせるための道具です。イエス様は、要するに、わたしと共に生きようと言っておられる。あなたの自分の力ではなく、わたしが勝手に救うのでもない。共にだと。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。そうすれば安らぎを得られると、救いに招いて下さった。恵みの態度をそうやって学べと、自分自分だと疲れるだろう、重荷で仕方なくはないかと、キリストと共に恵みに生きる救いのいのちを、共に生きようと言ってくださり、いのちを差し出してくださった。その共に生きる主のくびきは負いやすく、慈しみ深い。直訳すると、ピッタリ馴染む、しっくりくるという言葉です。イエス様と共に恵みの態度に生きるとき、生きるのがしっくりくるようになる。自動的にではありません。恵みというのは、確かに一方的に自由に与えられるものではあっても、キリストによって与えられたこの恵みのいのちは、キリストと共なるいのちという恵みだからです。だから「恵みによって、信仰を通して」救われるのです。

信仰を通してが直訳です。恵みと同等ではありません。救いは恵みによるのです。そもそも5節に付け加えたのです。あなたがたの救われたのは、恵みによる!が、信仰を通してであるのだと、信仰の誤解を解消している。通してというのは、言わばパイプを通って恵みが具体的に、例えば態度となって現れてもくる。無論、楽に生きるのに実用的な賜物が、というのではなく、聖霊様がその中を通られて、キリストと共なる命を注がれて、信仰告白の言葉で言えば、キリストの義の実を結ばせてくださる。それが恵みの態度です。このパイプが、くびきだと言っても良いでしょう。人は人と共に生きて初めて人間となるとよく言います。間が大事だと。神様は、私たちがまことの人間として救われるように、神様と共に生きるまことの人間として御子を生まれさせ、そのイエス様と共に生きることで、私私の肉の人がキリストと共なる命に結ばれて、くびきによってつながれて、そこに復活のいのちが注がれて、それ故、恵みの態度が賜物として注がれて、そのくびきを負うこと、キリストと共なる命に生きることに、はい、と言えるようになる。その賜物としての信仰を通して、キリストと結ばれている状態あるいは関係がキリストを信じる信頼関係。信仰はその間のパイプなのです。5節の「キリストと共に生かし」は、直訳すると「キリストと共なる命を創造し」であり、言わばキリストと心臓をバイパスしているのだという譬えを先週申しましたが、このバイパスのパイプが信仰であり、そのバイパスで心と心がつながっていて、わたしのくびきを負いなさいと招かれるイエス様に、はい、と心でつながる信頼の絆を、信仰、あるいは信頼と呼ぶのです。

このキリストへの信頼関係を通して、人は恵みによって救われます。そこでなお私私私の信仰となってしまう誘惑に負けても、そんな私たちを背負われた十字架の大きさこそが、遥かに超えていくのです。恵みによって救われた!この理解、そして讃美も感謝も献身も、どんどん超えていくのです。人は皆、恵み、恵み、恵みで真実の人間になるのです。

12/7/15朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙2章1-6節、詩編2篇 「恵みで死者は復活する」

12/7/15朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙2章1-6節、詩編2篇

「恵みで死者は復活する」

 

人生は態度によって決定されると言えるでしょうか。態度ってやはり大事です。ただ、その態度もまた、何かによって決定づけられるように思います。例えば少し前の説教でも紹介しました、先日、天に召された教会婦人会連合委員長の郝道子さんは、委員長の大任を引き受けられたとき既に、医者から後一年ほどの命であると告げられていました。余命一年と言われて、人はどう生きるか。またどんな態度で生きるのか。郝さんは、じゃあその一年を主に使い切っていただこうと、全部捧げられました。嫌々ではありません。喜んでそうされていました。それを恵みの態度と呼べます。主のために、また私たちのために、ご自分の命を、恵みによって、自由に、喜んで、自発的に、惜しみなく捧げられた。

恵みの態度。ここで聖書が語る、私たちに向けられている神様の態度です。またそれ故に、私たちがこの恵みに心の目が開かれるとき、私が救われたのは、恵みによるのだ!と、突然、途中の文脈とかぶち切って割り込むようにして、もう叫びたくなるような、そんな態度を、私たちもまた持つことができる。恵みの態度って、自由です。郝さんを見ていてもそう思いましたし、鈴木先生ご夫妻とか、恵みに生きている人って自由だと思わんでしょうか。ま、だからって説教中に突然割り込んで、私が救われたのは恵みによるのです!と叫ばれたら、びっくりしますけど、でも、それぐらい恵みに心の目が開かれて欲しい!心からそう思います。そして、そのためには、私たちの人生が、また存在そのものが、何に決定づけられているか、それを知って欲しいのです。

救われた!というのですから、何かから救われなければならない。それが人間です。何からか。死です。そして死が単なる終わりではなく、死後の裁きがあることを聖書は明確に告げますし、それを今日の御言葉は、神の怒りとも呼びます。罪を犯したら怒られる。当たり前です。

じゃあ罪って何でしょうか。今世間を騒がしている事件のように警察が介入するほどのいじめや、隠蔽や、隠し事、自己保身、責任逃れ、そういうのを見て、罪のイメージを持つのでしょうか。でも、その線引きって、どこで引くのでしょう。冷たい態度がいじめになる線引き、隠し事や自己保身が、こっからは罪になるという線引きは、誰が引くのか。この手紙を書いた使徒パウロは「私たちは皆」と言いますが、その共通の祖先であるアダムとエバの引いた線引きが参考になります。神様は、この木の実だけは食べたらいかん。食べたら死ぬと言われました。エバとアダムは、その線を越えました。どの時点ででしょうか。指でちょんと触った時点でしょうか。ぐいぐいっと試しに引っ張った時か。ついに実がもげた時点か。ドキドキしながら口に持っていった時か。とっくに越えていたのではないでしょうか。神様がなさった線引きを横に置き、自分で線を引いたとき、どんどんその線を自分の欲で広げていった時、神様の言葉に背中を向ける態度を取ったとき、アダムとエバは死んだのです。人は、神様と共に生きることをやめたとき、もう死んでいるじゃないかと聖書は語りかけます。心臓は動いていても、人間関係が死ぬということがあるように、何を言っても相手の心が動かなくなるように、心が通じなくなって、もうこの関係は死んでしまったということが神様との関係において現実であるとき、あなたは死んでいるじゃないかと主は言われます。神様と共に生きることを捨て、自分でこう生きるんだと線を引き、こっから先はいかんけど、こっち側はしてよいことと。でも実はアダムとエバが蛇に唆されてそうしたように、神様の言葉でなく、蛇の言葉を信頼し、そうだ、これっくらいなら良いのだと死の実を口にし、まだ死なないと、また口にしながら罪に生き、神様に死んでいる。だって皆やっているじゃないかと「この世を支配する者」に従って、皆そうやって従って線を引きながら、死に決定づけられて死んで生きている。そして聖書はこう言います。「私たち皆」だと。

こうした罪の線引きは、先に述べた恵みの自由とは何の関係もありません。聖書の語る自由とは恵みの自由であり、与える自由であり、愛する自由です。神様を愛し、喜んで従い、自由にその愛に従って、そうです、その通りです、神は愛ですと言えるが故に、罪にはノーとはっきり言える自由。それが言えないなら、不自由であり、支配されているとさえ言われるのです。それが態度をも決定づけて、人を支配しようと裁いたり、自分を支配しようと完璧主義になったり、それがうまくいかいで不満だったり、逆にうまくいっている我儘・自己中な支配者だったり、でもそれが、死に決定づけられた態度じゃないでしょうか。

その態度と生き方に歩む人格に対して、ここだけじゃなく聖書全体を通して言われます。神様は怒られると。親なら当然です。が、一つ注意しなければならない訳がありまして、それは「生まれながら」という訳です。自然のという言葉なんですが、生まれながらと訳されると、何か自動的にというニュアンスを持ちやすく思います。生まれながらにして神様から腹を立てられているというのでは決してありません。自動的に怒りに値する子ではありません。有無を言わさず、だってそうながよえという断定的で、上から押し付けるような裁きがイメージされるのは、そういう断定をしがちな性質が、むしろ私たち人間にあるからじゃないでしょうか。特にキリスト者は気をつけなければならないようにも思います。3節で「私たちも皆」と使徒パウロが言ったのも、ユダヤ人だろうと異邦人だろうと皆、罪に支配されて死に決定づけられていた、皆そうだと言ったのです。例えば教会で育っても、自分で線を引いて生きたいと欲する肉の力は他の人のと同じです。肉とは霊の言わば反対語で、自分自分で神様を無視したい人間原理、肉の原理と言ってもよいでしょう。生まれながらと訳された言葉の自然という言葉を当てはめるなら、肉の自然な、ありのままの状態は、自分自分が言わば当然だと思えるほどに、自分で線引きをして生きていきたい肉によって生きている。信仰があろうとなかろうと、肉は皆と同じ肉。例えば、優しい言葉を選べる能力を持ちながら、どうしてそうでない言葉を選ぶのでしょう。憐れむ能力を持ちながら、どうしてそうでない態度を取るのでしょう。しかも幼児と違って、わかっていながら大人は違う線を引いて選ぶ。自分への隠蔽、言い訳さえしながら。そこにはでも、当然の報いがあるのです。

パウロは皆に呼びかけるのです。私たちは皆、ありのまま、怒られて当然の者じゃないか。肉に従って肉のまま行動して、自分で線を引いて生きている、そういうありのままの私たちが、どうして神様の怒りのもとにないと言えるだろうか。あなたも心に手を当てるなら、心に当たるところがあるでしょうと語りかけるのがこの御言葉です。

ところで何故怒りなのでしょうか。裁きと言うだけではすまんのでしょうか。裁かれる者が他人ではないからでしょう。他人ならドライに裁けます。あるいは家族をすら裁いてしまうとき、しかも無表情に、そのとき私たちはきっと家族を他人扱いしているのです。線引きして、他人だと。感情のない裁きは恐いです。妻だって、黙っちゅうときのほうが恐いです(笑)。もっとも私はその何倍も黙っちゅうときが多いと思いますが、たぶんそういうケースのほうが、殺人に発展しやすいのじゃないでしょうか。無論、だからって怒り散らすのはよくないです。自制することも愛です。確かに愛です。確かに神様は私たちのありのままの現状に怒っておられながら、どれだけ自制をされているか。もし神様が本当に怒りを全部放出されたら、どうして私たちがまだ生きていられるか。どうして生きているかと言ったら、神様がその聖なる怒りを、十字架に全開で放出なさったからです。私たちの身代りに裁かれる私たちの主として、神様の正義の怒りを全開で受けられる主として、私たちの代表として、キリストが父からの全くの沈黙の怒りの内に、完全に裁かれて、死なれたからです。御子を身代りに死なせられたから、だから、聖書は告げるのです。ありのままで怒りを受けて当然の者を、しかし、憐れみ豊かな神様は、私たちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいた私たちをキリストと共に生かし、…あなたがたの救われたのは恵みによるのです!

「キリストと共に生かし」。それが救いです。キリストと共なる命を造るとも訳し得る言葉です。譬えるなら、神様に背を向けて自分で線引きして死に決定づけられていた私たちをかばってキリストが死なれ、そのキリストの体に、しかし、父が復活のいのちを注ぎ込まれ、新しい復活の体で永遠に生きられる命を造られて、しかもです!そのキリストの体に、私たちを言わば心臓のバイパス手術をするようにキリストに霊的に結びつけられて、三位一体の聖霊様によって事実キリストに結ばれて、キリストと共なる命が造られて、そこに結ばれてしまった。その共なる新しい創造のいのちの結びを、1章23節ではこう言ったのです。教会はキリストの体ですと。

キリストと共なる命に結ばれた教会は、だから生きます。肉体は死んでも永遠に生きます。キリストによってそうだから、もうこのようにさえ言うのです。キリストによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。キリストと共にとは、そういうことです。しかも、キリストに結ばれた者同士も、共にです。これまた、キリストと共に、です。だから、救いと教会はいつもセットです。教会がキリストの体であるから、皆でキリストと共なる命に結ばれているから、私たちは皆で救われていくのです。自分自分をこそ背後に捨てて、皆で、こう告白をしながらです。私たちが救われたのは恵みによるのです!

皆、ありのままでは死んでいます。共に生きないで自分自分…、それでは生きていけません。だからキリストと共にです。だから教会と共にです。わずらわしいと思うのが、ありのままでもあるでしょう。その、ありのままから救われるのです。そして全く新しく創造された、復活のありのままとも呼べる命にキリストと共に生きられる。キリストのありのままとも言えるでしょう。そんな命への招きなのです。主が、わたしに従ってきなさいと招いて下さった共なる命は、そこで態度もまた主に従いながら、恵みの態度に生きられる、キリストと共なる救いなのです。

12/7/8朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙1章22-23節、詩編127篇 「キリストの体、教会」

12/7/8朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙1章22-23節、詩編127篇

「キリストの体、教会」

 

教会って何ですか?と尋ねられたとき、教会はキリストの体である。パッとこう答えてもらえると嬉しいです。教会は、キリストの体。もう条件反射で。我輩は、猫である。自由は、土佐の山間より。お客様は、ま、これは教会ではやめときましょう(笑)。

教会はキリストの体である。どんなイメージを持たれますでしょう。ちょっと持ちにくいろうと思いますけど、洗礼を受けて、教会員になって、言わばお客さんではなくなって教会生活が身についてくると、あ、私はキリストの体の一部だ、あの人も、キリストの体の一部だ、この人も、この姉妹も、この兄弟もと、感覚でわかるものでもあるでしょう。神の家族という言い方もします。だから兄弟姉妹とも呼ぶのです。血がつながっている、というよりは、血でつながっている。聖餐式を頂くとき、これは私たちのために流された主イエス・キリストの血潮です、と言う。キリストを私の救い主として信じますと洗礼を受けた皆でこれを頂きます。今日、洗礼を受けて、初めて受ける兄弟もいます。え、親子やないがと本人は思うのかもしれませんけど、そうであり且つ、兄弟になる。キリストが、その血を分けてくださって、その血を受けて、僕、神様の子供になったがやと、救いを記念する聖餐式でもあるのです。

キリストの血によってと言われると、聖餐式の意味に馴染みのない方には、いかにも宗教っぽく聞こえるかもしれません。そういうのなしでもっと精神的なもののほうが、受け入れやすいのかも知れません。でもそうなると、キリストは必要なくなるのです。単なる先生や指導者とかになってしまう。そういう人についていく人々が教会であるなら、ま、やめたいときにもやめられますし、楽でしょう。家族とは随分異なります。家族って、やめたいときにやめられませんから。でもだからこそ、神の家族とも呼ばれるのでしょう。精神的とか、そんな軽いつながりではありません。キリストによってつながれて、キリストの体の一部とされて、体ですから、もし切り離そうとするならば血が出ます。それだけ一体にされている。それが体であり、家族でもあります。そうした体、神の家族が、キリストの満ち満ちておられる、教会です。

その体、家族は、キリストの血でつながっています。無論、象徴的な言い方ですから、へえ、じゃあイエス様って血液型O型ながや、ということではありませんが、ま、大らかなところは、もしかするとそうかもしれません。受入れ難いほど大らかです。全人類のために、十字架で血を流し、その罪なき命を犠牲にして、神の子が全人類の身代りの裁きを受けられて死なれた。その象徴が、血ですから、その血を受けるというのは、そのキリストの赦しを受けるということに他なりません。私にはあなたの赦しが必要です、イエス様、私のために人となられた、私の身代りとなるために、イエス・キリストになられた神様、あなたの赦しが必要です、それ故にあなたを受け入れますと、今日も洗礼を受けるのです。罪の赦しが必要ですと、それがわかって、それを求めて、その赦しがキリストによって与えられると、イエス様が赦してくださると、信じたら洗礼を受けられるのです。誰でもです。そして洗礼を受けたら聖餐を受ける。神の家族とされた徴としても受ける。

じゃあ、です。キリストは教会のためだけの救い主でしょうか。神様はご自分の愛、罪の赦しの恵みによる救いを、信じる者しか愛されず、後は好きにせえというのでしょうか。断じて、そうではありません。

だから御言葉には、こうあります。「神様は、全てのものをキリストの足もとに従わせ、キリストを全てのものの上にある頭として教会にお与えになりました。」全てのものの上にある頭。あるいは全てのための頭、全ての代表としての頭とも訳し得る言葉です。続く23節も含め、全て、全て…と四回も強調されます。人となられた神様は、ご自身がお造りなられ愛された、世界の全てのために人となられて、全てを背負われて血を流されて、全ての人々の代表として、すなわち頭、あるいは主となられて、三位一体の父なる神様に、父よ、わたしがこの者たちの代表として、血を流し、命を注ぎだして、罪の裁きを全うしますから、わたしが全部飲み干しますから、この者たちには、赦しと命をお与えください、わたしがこの者たちの代表、頭です!と、全人類の頭として死なれた。会社でもそうでしょう。政治家は違うことがあるみたいですけど、頭が全部の責任を取るきにと、部下の生活を保障するのが、それが本当は、当然であるのだと、知っている、いや、信じたい。あるいは信じることができないから、自己責任とか、言い訳をするのかもしれませんけど、私たちの頭となられた主イエス・キリストが、あなたの罪をわたしは背負った、あなたの罪は赦されたと言って死なれたのなら、私たちは本当に背負われたのです。その血は確かに流されたのです。そしてその血を受けるのが、キリストを主として、頭として受け入れるという、教会の信仰であるのです。

神様は、そのキリストの足もとに、全てのものを従わせられました。どんな足もとか。その足跡を記すのが福音書です。その足は、小さな、本当に小さな足として、クリスマスの夜、人としてこの世に降られました。まだ立つこともできません。自分で立つことのできん人々の代表、頭でもあるのです。自分の足で立たれて、その足が向いたのは、小さくされた人々のもとです。虐げられ、悲しみを抱え、罪人だ、自己責任だと踏みつけられていた人々に、恵みによる救い、天の父の愛を説かれ、罪を赦して癒されて、ついにはその足でゴルゴタに向かい、全世界、全歴史、全人類の罪の重みを十字架で担われ、根元が直径1㎝長さ25cmほどの釘で、その足は十字架に打ち付けられて、宙にあげられ、文字通り、世界はその足もとに置かれました。その足もとです。全ての罪を負われて流された血潮が落ちてくる、その足もとに、神様は世界の全てを置かれ、このキリストが、あなたの頭、あなたの代表として、あなたの罪を負う主であると宣言し、そして、主とされたのであればこそ、私たちがまた、新しい命、復活の命に生かされるようにと、父はキリストを復活させて、私たちの代表として復活させて、このキリストの復活に、あなたも共に立つのだと、新しく神の子として生き直すことのできる、家族の救いをくださった。神の子イエス・キリストにより、死んで尚、永遠の命に起きて立つ救いを、主によって与えてくださった。

この全世界の主であるキリストを、だから教会は伝えるのです。世界よ、人々よ、愛する者たちよ、あなたのためにキリストは頭となられたと、あなたには救い主が与えられているのだと、それを教会が伝えるために、神様は、全てのものの頭なるキリストを、教会にお与えになられたのです。

そのキリストを教会が、ならどうやって伝えていくかということが、この後、4章に亘って語られていきますが、大切なのはただ一つです。私たちにはキリストが必要である。伝えるためにも、キリストが必要である。そしてそのただ一つの必要を、神様はもう与えてくださっているのです。

その必要は、受けるときにこそ満たされます。その救いの真理が、今一人の主の小羊が洗礼を受けることによって表されます。命は受けるもの。赦しも受けるもの。恵みも、救いも、洗礼も、主の足もとで受けるのです。主が呼んでおられます。わたしのもとに来なさいと。誰でも、ここに来なさいと。私たちは皆、神の家族になれるのです。

12/7/1朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙1章19-21節、ダニエル書7章13-14節 「人を復活させる神様」

12/7/1朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙1章19-21節、ダニエル書7章13-14節

「人を復活させる神様」

 

私たちが、ここで悟るようにと祈られています「絶大な」って言葉、改めて考えてみると、すごい言葉です。大を絶する、こっから先、大が絶しちょって、これ以上の大きさはないっていう大ですから、無限ってことでしょうか。それが私たちの内側に力を働かせておられる、神様の力の大きさだと、悟らせてくださいと祈るのです。

神様の力です。私の努力、私の力、私だってちょっとは…とか考えること自体がおかしいほど、例えばジャンボジェット機が飛ぶために私も頑張ってダイエットしなくちゃ…って、考えんでしょう。セスナ機ならまだしも、ジェットパイロットなら言いますよ。ジェットの力が、どれほど大きなものであるか、悟ってくださいと。

ましてや、神様の力がどれほど絶大で大きいか。世が見積もっている神様の力の相場に、何で信じる者たちが合わせる必要があるでしょう。まさか世に遠慮したのではないでしょうけど、新共同訳はこの御言葉を随分端折って訳しました。直訳はこうです。私たち信じる者たちに突入する神様の力の、神様の全能の威力の働きによって、遥かに超えてゆく大きさの何たるかを、知ることができるように(Repeat)。力の内容を、神学的に知識で知ると言うよりも、その力の、はるかに超えゆく大きさの何たるかを信仰の目で見るとき、世界は違って見えるのです。だから18節にあるように、心でその大きさを知るように!と祈るのです。

その点で私たちの先生はおそらく子供たちです。大人には小さく普通に感動もしないで見えている何かが、幼子たちにはこう見えています。超超超めっちゃ超大きい蟻がおった!大人は、本当~以上。もし台所で列作っちょったらギャーと言いますが、外では普通の蟻に過ぎません。超え行かんのです。パウロには、神様の力は越え行くのです。はるかに超えゆく大きさの何たるかを、私たちにも知って欲しいのです。見て、そして言って欲しいのです。超超超大きいさえも遥かに超えて行く神様の力が、私たちに突入しておられる!と。一般知識の世界では、知識が増えると大人びます。神様を知る成長は逆なのです。神様を深く知れば知るほど、幼子のように、世界が違って見えてくる。世界そのものは、むしろ罪の色が鮮やかに見えてきて、昔より青ざめて見えるでしょう。なのに、その滅び行く世界を救うために、どんなに大きな愛で神様が、御子に世界の罪を担がせて、十字架で世の罪を取り除く生贄として死なせられたか。その大きな愛が見えるのです。私の罪を担がれたキリストの十字架の大きさが見えるのです。神様が見えれば見えるほど、十字架が大きく見えるのです。あなたの見ておられる十字架には、何が担われているのでしょうか。世界が担われている十字架を、歴史が担われている十字架を、アダムの子孫たる全人類が担われている十字架を、神様は御子イエス・キリストに負わせられ、御子を身代りに見捨てたのです。

どうしてパウロは、このところで「私たち信仰者に対して絶大な働きをなさる」と言うのでしょうか。どうしてそもそも信じたのでしょう。神様の何を信じたと言うのでしょうか。神様が私の罪をキリストに負わせて、罪を赦して下さった、私の罪が赦された、その愛を信じて洗礼を受けて、でも、断じてそれだけで終わりではない。その神様の愛の力の大きさは、今尚、私たち信じる者たちの内に突入し続けている。そしてこんな私たちでありながら、その私たちがキリストの復活による救いの力を、証するほどにさせられて、復活の証人とされるのです。

先々週の21日、教区教会婦人会連合の委員長であった郝道子さんが天に召されました。末期がんの痛みと闘いながら、けれど明るく須崎教会の長老や委員長を務められ、幼子のような信仰の持ち主でした。教区の総会会場で、皆さん、すみません、実は各地の教会婦人会が、皆高齢化ですのでと、献金予算を軒並み下げて報告されるのを聴いていて、何か神様に申し訳ないと、四国は予算アップしますと言うてしまいました、すみません言うて、逆に拍手喝采を浴びていました。大きな神様を見ておった信仰者でした。病身で、高齢で、自分には何にもありませんけどと、大きな神様に信頼して大きく献身しておった郝さんが、教区総会の大役を終えられて、すぐに入院され、家で看取られたいと退院されて、もう、すぐでした。召される前、ご主人にこう言われたそうです。私、今日天国に行くわ。そう言って主の御手の大きさに全てを委ねられた。神様の救いの力、復活の力、恵みの力の大きさを、絶大な大きさを見たならば、人はこんなにも大きく自由に生きられ、また死にさえすることができるのだと、キリストの救いを雄弁に証をされての凱旋でした。

この神様の力が、私たち信じる者たちに突入している、死を打ち破る力の大きさです。何故なら神様はこの力、全く同じ神様の力を、救い主なるキリストに働かせ、死者の中から復活させられた。その復活の力が働く者たちにとって、死の門は既に破られているのです。この絶大なる大きな力に貫かれた者に対して、死の門は最早ガタガタでボロボロの、だだっ開きで、死者が復活させられることに対して、何の力もありません。神様はこの力をキリストに、そしてキリストの勝利を信じる者たちに働かせ、死者の中から復活させられる!それが教会の信仰です。

そして復活だけじゃない。復活させられたキリストは、神の右の座に着くために、造られた全てのものの王として、全被造物を治め裁かれ、すべてがその愛のご支配のもとに置かれるために、王として復活をさせられたのです。世の何人であろうとも、自分とは関わりがないという王でなく、すべての罪を背負われた王として、父が宣言をされたのです。この御子があなたがたの王だ!十字架を背負ったこの王の前に、一切の力は無力である!この世の力も、来るべき世にも、キリストの支配から自由な何かや、何らかの力があるなどという一切の迷信や盲信の類は、全て跡形もなく吹き飛ばされる。見よ、この十字架の御子が、あなたの王だと、ここでも私たちは神様の力の、絶大なる大きさを見るのです。そして見たら、人生が本当に変わるのです。

小っちゃなことですが、私は一度、ヤクザにからまれたことがありまして、心臓はドキドキしましたけれど、だからどうしたと、逆に押し切ったことがありました。その足で、何故か統一協会の人に勧誘されて、ビデオセンターに乗り込んだのですが、逆に伝道をしたこともありました。小心者で神経が細いわりに、そういうことには強いのは、やはり復活の力だと疑いません。胃炎になったりはしますけど、だからどうしたと思うのです。力による脅迫には免疫があるようで、偉い人の名前とか出されても、だからどうしたと思います。21節で言われる支配者の名とか、権威の名とか、唱えられ得るあらゆる名に対し、だからどうしたと思うのですけど、そんな私を説得するなら、でも愛さんがこう言いよったでと、妻の名を出せばたぶん折れます(笑)。ましてキリスト!です。

私たち信じる者が、キリストの名によって祈るとき、悪魔は震え上がるのです。私たちの名前などは無意味です。私たちの力など無力です。人間がどんなに力を振るっても、それで死の門が破壊され吹き飛ぶことはありません。しかし、私たちに与えられている救いの名、キリストの名によって歩むとき、イエス様を信じて、お従いするとき、人を死者から復活させられる、神様の御業がなるのです。もしも信じていなければ虎の威を借る狐であっても、信じる私たちに働く力は、死の城門を勝ち取ります。この世の権力も支配も暴力も、復活を止めることはできません。もし死ぬことがあったとしても、だからどうしたと言えるのです。この絶大な愛の大きさ、キリストの恵みを、教会は信じているのです。