12/6/10朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙1章4-10節、詩編111篇 「キリストが溢れました」

12/6/10朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙1章4-10節、詩編111篇

「キリストが溢れました」

 

天の父は、私たちをご自分の子供にしようと、あらかじめ定めておられました。それをイエス様は、あなたがたは祈る時、こう祈りなさい。天にまします我らの父よと、そう教えて下さったのです。ご自分の命と引換えに、あなたがたは天の父の子となるのだからと。それを今日の御言葉では7節で「私たちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました」と言うのです。御子の命によって、本来の親もとに買い戻された。それを贖われたと言います。難しいので、私はなるべく使わないようにしていますけど、大切なイメージです。色んなイメージを用いて、聖書は私たちの救いを語るのですが、これだけはハッキリしていると思います。私たちが死んで、あるいはその前にイエス様が帰ってこられて、この私たちの体が復活の体に変えられて、全て新しくなる神の国に永遠に生きるとき、私たちは顔と顔とを合わせて神様を仰ぎます。今、私たちが祈りの際に、父よと呼びかけるより、もっと親しく、しかももっと厳かでありながら、震える程の神様の聖なる力の前に圧倒されながら、しかし圧倒的な安心感のもとで、絶対なる確信のもとで、父よと、まるでイエス様ご自身が呼びかけるように、私たちは、神様に呼びかける者となるのです。

これが私たち。また私たちの真実です。まるでこの世の子のように、父の子としての自覚に薄い生活に溺れていても、こっちの私たちが真実です。あんまり強調するとペテン師のようですが、断じて私は、嘘は言っていません。真実か、嘘か。中間はありません。この真実に立って、今を生きるか。それとも今のほうに立って、御言葉は宗教的な安心感を与えるものとして神棚みたいにまつっておくか。どっちかでしょう。

私たちが現実だと思っている今って、そんなに確かじゃありません。例えば何年も親と暮らしてきて、実は私は養子だったという真実を突然知ることって、わりとあると聴きます。でもおそらく生みの親じゃなかったということより、知らされなかったというショックのほうが大きいのではないかと思います。親として信頼しておればこそ、嘘をつかれたという感情に襲われるのかもしれません。私自身はたぶん養子じゃないと思っているのですが、もし仮に、実は幸生、あんた養子ながよと親に言われたら、きっと愕然とするでしょうけど、それでも、なら尚のこと今まで育ててくれて本当にありがとうと、心は動揺していても、きっと言うのではないか。いや言いたい、心は動揺していても、ありがとうと言いたいと思います。私事ですが最近父親が定年退職した折に、母が、お父さんにお祝いしちゃったらと言うので、妻と相談したのですが、本当にささやかなお祝いしかできない。けんどそのときに、このことだけはわかってもらいたいと思って、結婚披露宴のお約束ではないですが、もっとアットホームに、けれどかしこまって正座して、お父さん、今まで僕達兄弟を育てるため一生懸命に働いてくれて、本当にありがとうと父に言いました。うんと照れましたし、緊張しましたが、その言葉に、自分自身、あ、これが正しい関係だと言いますか、私は真実を語ったという安心した確かさ、これが本当は言いたかったのだという、安心した喜びがありました。父も私以上に照れており、何かお褒めのような言葉を頂いたような気がします。どんな言葉の交換をしたかも覚えてないほど、言わば非日常の出来事でしたが、そこに普段は見過ごしている真実を、主から見せて頂いたように思うのです。

神様が私たちをイエス・キリストによって神の子にしようと、喜んで前もって定めて下さっていた。私たちの生まれる前から、私たちがまだ喜びも悲しみも知らぬうちから、神の子として養子縁組がされていて、あるいはそのように生まれてきて、ずっと愛されてきて、でもその愛を知らずに、しかもその愛に逆らいさえして、生まれてこなければよかったと罵りさえしても、私たちには生まれてきた目的、ゴールがあって、それは失われることはないのです。今が一体どのようであろうと、最後には、父よ、私をそのように選んで下さり、愛して下さり、なのに罪を犯して、私は何も知らないで自分自分で、あなたを悲しませてばっかりだったのに、そんな私の全ての罪を、あなたは愛する御子イエス様の命で赦して下さって、イエス・キリストの犠牲によって償って下さって、だからあなたは本当にわたしの子になった、と言って下さって、だから父よ、本当に本当にありがとうございます、あなたのその限りない恵みを、本当にありがとうございますと、絶対に私たちはたたえるのです。そしてその時に気づくのです。私はずっと、本当はこれが言いたかったのだと。罵りや疑いや文句ではなく、親子で会話がないのでもない。私は本当はありがとうございますと、十字架の救いにいつも身を置いて、自分自分で自分を追い込む狭苦しさを棄てて、主と共に生きて、父から罪赦された救いの恵みに、神様ありがとうございますと、幼子のように言いたかったのだとわかる。

その喜びを世の終わりまで待つのは、御心じゃないです。そうなることがないようにと、今既に父は私たちに恵みを溢れさせて下さっています。溢れ流れている、その恵みのもとに、我が身をおけば良いのです。それが8節で言われております、知恵と理解です。単に頭が良くなるというのではありません。他人の気持ちがわかる人、わからん人の違いに近いでしょうか。神様がキリストによって世界を救われようとご計画された、そのお気持ちがわかって、ああ、ならば私はここに身を置こうと自分の身の置き場がわかる。身の献げどころ、献身しどころがわかる、救いの知恵と理解です。聖書の語る知恵、神様由来の知恵というのは、いつでも実践的、しかも永遠が関わってくる知恵です。ああ、ここに身を置いて生きれば良いのかと、永遠に身を置いて、いつでも永遠からの光に照らされて見えてくる道を選ぶことのできる知恵と理解。今の状況の、どこに恵みをほめたたえれる理由があるかと思えるところに、永遠の光が見える知恵です。そこから照り輝く光でないと、そこから御子が来てくださって、また再び来られる、永遠からの光に照らされる道でなかったら、どうして安心できるでしょう。しかし、キリストが再び来られる天からの光、キリストを既に十字架につけられて、罪の赦しを下さった恵みの父からの光であれば、今いる道がどんなに暗くとも、そこに光が見えるのです。キリストの導きがわかるのです。抜け出さなければならないところにおっても、なおキリストが私とおってくださるから、私はキリストの後に従って、ここから抜け出すことができると、永遠の光に照らされた道を知ることができるのです。キリストがわかったら、私のこととして永遠がわかる。それが恵みの知恵と理解です。

キリストが世界を背負われて、私たちもそこにいる古い世界が永遠に終わるとき、全てがキリストのもとにひざまずくのを私たちは見ることになります。が、その幻に照らされて、今を見ることもできるのです。一つのイメージとして、最新コンピュータ技術で作られたモザイク絵画をご存知でしょうか。私たち一人一人の写真を一杯並べて遠くから見たら、例えばモナリザの絵になっている。どうなっているのか?ビックリしますけど、これに譬えて神様の救いを言えば、一人一人の人生を映す動画が一杯に並べられ、高知東教会に集う人々だけで相当な動画です。たまに一緒の場面もありますが、ほとんどは別々の場面。そういう動画が世界の全ての歴史を通じて、一同に並べられ描き出す壮大なモザイクが、しかし何とキリストのお姿を描き出し、すべてがキリストのもとに意味をなし、すべてがキリストのお働きの中に巻き込まれ、どうして?と言葉を失っているそのところで、わたしがあなたの主となったからだと、主が言われる。わたしは主、あなたの神、あなたをこの世の支配、罪の家から導き出した救い主だからだと、十字架でうがたれた手を差し伸べて、あなたがこの血によって贖われ、罪を赦されたのは、神の豊かな恵みによるのだと言ってくださる。

そして、その絵画の中心をなしているのはキリストの体と呼ばれる、主の建てられた教会なのです。

だからキリストがわかるなら、教会がますますわかるのです。ここが我が身の置き所、我が身の献身のしどころであると。キリストがその身を投げ出してくださった、その体の一部とされたこの私たちの身をも、神様は、世界を救われるキリストの体の一部としてくださる。キリストご自身の献身とさえされて、聖めて用いて頂ける。キリストの来られた天からの光に照らされた私は、実にキリストのものとしての私であったと、永遠の私がわかるのです。そして世界に福音が溢れ、教会を通してキリストが溢れ、救いの恵みがとめどなく溢れていく。その恵みこそ、父の御心であるのです。