12/6/3朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙1章1-4節、レビ記19章1-2節 「我は聖徒の交わりを信ず」

12/6/3朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙1章1-4節、レビ記19章1-2節

「我は聖徒の交わりを信ず」

 

長くルカによる福音書から御言葉を聴いてきました。もっとイエス様を身近に、また深く知って、一層の熱情を育ててイエス様に皆でお従いしたいとの思いで、およそ二年半聴いてきました。そして、同じルカによって記された使徒言行録の最初が丁度、聖霊降臨日ペンテコステに向かってのくだりでしたから、続けて聴いてきましたが、今日から新しいシリーズに入ります。シリーズの題も考えました。『教会を建てる』あ、やっぱこの会堂、地震やばいがやと、どうぞご心配なさいませんよう(笑)。会堂建築を目指してのシリーズではありません。共に建てるのは教会、しかも、この高知東教会だけのことを考えるのではなく、左頁上23節で「キリストの体」と呼ばれる教会全体を建てる務めを、どう担うのか。キリストの体全体の一部分、一肢として選ばれ建てられた高知東教会として、主から与えられている召命、そして求められている愛と献身は、如何なるものであるのかを、共に真剣に求めたいのです。あれ、じゃあ私は教会員じゃないから、あまり関係ないのかなと、そういうことでもないと思います。まだ洗礼をお受けになっておられない方でも、教会につながることが、神様から与えられている救いなのだと、エフェソ書の御言葉から、すぐにおわかりになると思うからです。すべての人に関係する重大事。私たち全てが本来生きる場所、居場所とはどこか、どこに私は、いわば人生をかけて生きるべきか。聖書の答えは明快です。教会なのです。無論、子育てや様々な奉仕、務めがありますが、それもまた教会がわかるとわかるというのが、エフェソ書の魅力だとも思います。ぜひ先走ってエフェソ書を読んで頂きたいと思います。愛して欲しいと願っています。日本中の教会がこの書を愛すればとさえ願っています。そしたら日本の教会が、今のままであるはずはないのです。

手紙の宛先は聖なる者たちです。特に大都市エフェソの教会に限りません。当時もあちこち回覧されたと言われています。そして私たちにも届いたのです。使徒パウロから、そしてパウロを用いてしたためられたキリストご自身からの、教会を、わたしの体を、よろしく頼むとのラブレターです。その受取人が、聖なる者たちと呼ばれている。使徒信条の後半で、私は聖霊を信じます、聖い公同の教会、聖徒の交わり…を信じます、と信仰の告白をする。その聖徒という言葉が、聖なる者たちという言葉です。常に複数形です。聖書には単数で、例えばアッシジの聖人フランチェスコというような言い方はありません。霊的な事柄に殊更に秀でちゅう人を指す言葉ではないからです。日本語では聖徒の徒が弟子という意味と共に、仲間という意味もありますから複数形のニュアンスを持つのだろうと思いますけど、より念を押して言うならば、聖徒たちの交わり、すなわち教会を信じる。神様の業だと「信じる」のです。

エフェソの聖徒たちも、高知の聖徒たちも、自分らで、じゃあ教会を作って始めようかと、人間から出たのではありません。教会は世界中、どこに存在する教会であっても、その教会を構成する聖徒たちが1節で言われているように「キリスト・イエスを信ずる人たち」であるならば、その教会は神様ご自身の業なのです。その存在が業であると言えばよいでしょうか。例えば私野口幸生という個人が存在しているのは母によるお腹の中での長い苦労も含めての出産という業のおかげです。私は何もしていません。生まれ出て泣くことすら出来ず、医者に叩かれて息をしたと言われました。そんな素晴らしい業によって存在させられた私が、まあ自分勝手な生き方をして母を泣かせるわけです。今は孝行しているつもりですが、どうでしょう。母の日のプレゼントに台所のすみとか削る消しゴムを買ったら喜んでましたけど、実用的過ぎて…花束のほうが良かったかも知れません。教会もまた神様の御業として存在しながら、まあ勝手なことを人間の思いで自分自分でやっていると、伝道になりません。あなたの神はどこにいるのかと言われることさえあるのですが、本当は、こう言うことができればよいのです。私たち、この教会の存在自体が、神様の業ですと。もし、みっともない業やと言われたら、まあ見よって下さいと言えばよいのです。無論、謙遜にです。そしたら悔い改めの恵みと新しく造り変えられていく喜びが、必ず体験されるはずです。またそれ自体が神様の御業、教会がキリストの救いの証人として、人々に説得力をもって訴えかけていく、聖霊様による御業なのです。

聖徒たち、すなわちそこで必ず複数形で、仲間で、セットで、神様の御業だと言い表される聖徒たちこそ、教会という存在です。教会とは何か。聖徒たちです。聖なる者たち、キリスト・イエスを信じるに至って、聖なる者とされた者たちです。

聖なる、英語でholyという言葉の意味も胸に刻んでください。わかりやすく言えば、神様の特別なもの、という意味です。聖書は神様の特別な書。聖餐式は神様の特別な食卓。聖霊様は神様の特別な霊。まあ三位一体の神様ご自身のお一人ですから、すごい特別なのですが、それほどと言ってもよいぐらい、聖なる者たちは特別なのです。理由は一つ。主のものとされたから。それだけの理由でです。聖餐のパンと同じで、特に他の人より秀でちゅうわけではありません。パンの日に買ったら百円みたいな者を、しかし神様ご自身が、あなたがたはわたしの特別な者たちだと言うて下さるから、だから聖なる者と呼ばれる。この者たちに触れるのは、わたしの瞳に触れるのと同じだと言われるほどにです。

それが2節で「私たちの父」と呼ばれる神様ですが、単に全ての人の造り主だからという故にではなく、その父は3節で「私たちの主イエス・キリストの父」と呼ばれるのです。三位一体の父・子・聖霊の特別な関係の中での「父」を、その三位一体の父を「私たちの父」と呼ぶなんて、パウロは一線を超えたのでしょうか。決してそうではない。それほどの一線を神様が超えて下さって、キリストを人として、私たちの主として兄として生まれさせ、唯その故に、私たちの父となることを父が望まれた。そこまで、敢えて言えば異常なほど特別な関係に入れられたから、続いてパウロは言うのです。「神は、私たちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たして下さいました。」キリストの死と復活の中に私たちを言わば取り込み、キリストの体そのものとさえして下さって、そのキリストの中、聖なる特別な交わりの中で、父が、御子にとっての父であるように、私たちの父となることを選ばれた。これがキリストの内に特別に霊的に存在する聖なる者たちへの、霊的な祝福です。

あなたがたは、聖なる者たちになるのだと、これが救いの道であると神様ご自身が選ばれたのです。私がどうのではないのです。いつもそうなってしまうのですけど、人間はいつでも自意識過剰で、私は私はで考えて、私はダメだから愛されなくて、私は私だから救われてと。そんな自分勝手な生き方をしてきて、今尚そうで、こんな親不孝な者であればこそ、だからキリストの死の中で、人間はその罪を背負われてしまうのです。罪も汚れもキリストが全部飲み干してしまわれて十字架で裁かれ棄てられたから、その愛をただ信じて、救い主にすがればよいのです。巻き込まれたらよいのです。御子をキリストとして、主として私たちにくださった父が、そこまで愛して下さって、永遠の愛で、天地創造の起こる前から、あなたは永遠にわたしの子となれと選ばれた。永遠の恵みのご意志によって私たちの父となることを選ばれた。キリストの業という救いによって、喜んで選んで下さった。

だから人間は救われるのです。神様の御業、キリストの中に巻き込まれ、聖なる者たちとされ救われる。それがキリストの体、教会なのです。