12/5/27春季合同礼拝説教@高知東教会 使徒言行録2章1-13節、ヨエル書3章1節 「突然神様は始められる」

12/5/27春季合同礼拝説教@高知東教会

使徒言行録2章1-13節、ヨエル書3章1節

「突然神様は始められる」

 

突然!です。神様は突然始められます。おそらくそのとき人間の側では、準備ができてないのです。でもこの場合は、あれ?って思うかも知れません。イエス様から既に約束をされていたのです。あなたがたは間もなく聖霊様による洗礼を受けるき、エルサレムで待ちよりなさいと。だから、心の準備が全くなかったわけではありません。祈って待ってもおったのです。なのに「突然!」だったのです。予想を越えておったのです。どんな風に神様はことをなされると弟子たちは思っておったのでしょうか。私たちは、どのように神様は突破の風を吹かせてくださると予想を立てているのでしょうか。こういう突破の道が、という予想ってあるのではないかと思います。たとえ漠然としておっても、まあ私たちの手に負える範囲でと大体は考えるのではないでしょうか。高知東教会が会堂建築を考えたときも、神様が必ずなさって下さると信じて祈っておりましたけど、私も祈っておりましたけど、まさか洪水で会堂が建つとは夢にも思っていませんでした。会員わずか十数名で七千万円を超える大事業を、神様は突然始められました。いまその倍の会員がおりますから、じゃあ一億四千万の大事業。どうです?神様が始められるなら、しかも、こんな予想をさえ全然越えて、御業は突然始まるのです。

祈るって、それを祈るんじゃないでしょうか。突然来られる神様を、迎える備えをするのです。御心の天になる如く、地にも、私たちにも、なさせたまえと。来られて大丈夫ですか?イエス様もまた、突然帰って来られますけど、それに先んじて人々が救われなければならないから、教会が突然始まりました。祈って備えはしていましたけど、それでも、いや、おそらく、だからこそ、神様はご自身の大いなる救いの御業を、その祈る教会を用いて、神様が、始めて下さいました。

ペンテコステのこの場面が、よく教会学校の本等で絵になっていますが、結構、祈っている弟子たちに聖霊様が降られる絵が多いです。でもよく読むと、祈っていたとは書いてない。一つになって集まってはいたのですが、さあ、主の日ですから、ペトロが説教をしておったのかもしれません。祈っておったかも知れません。あるいは礼拝が終わった後で全員でカレーを(笑)、ま、カレーはなかったと思いますが、とにかく、どっかで祈ってはおったけど、この時、祈っておったかはわからん。

でも、一つだった。それが大事です。祈りの基礎、しかも教会の祈りの基礎がそれです。主の名によって祈るのです。二人でも三人でも、主の名によって祈るなら、そこにキリストがおられます。三人おるのに、三人バラバラで、主の名を呼んではおりません。キリストの体なる教会は、二人でも三人でも十人でも、高知中央教会のように一人長老が召されて減っても、どうなるろうと案じても、一つになって主の名を呼ぶとき、そこに教会は建つのです。キリストが立たせてくださるからです。それが教会の祈りです。24時間祈ってなくても、心は皆一つであった。御心を求めていたのです。聖霊様によるスタートを、キリストの証人となる力の洗礼を、たとえ目はつぶってなくっても、手を合わせてはいなくても、ずっと求めておったのです。しかも熱心なあの人がでなくて、一つになっておったのです。神様、教会を建てて下さい!あなたの御業となして下さい!世界に福音を証させて下さいと、それがどういう風に始まるか、それは全くわからんかっても、どうしたらよいのかもわからんぐらい、弱い弟子たちであったけど、一つになって集まって、一つになって求めておった。御心を行なわせて下さい!と。そこに突然始まるのです。人間の思いを遥かに超えた、主イエス・キリストの救いの御業を、突然始めて下さるのです。

思えば神様がなして下さる、救いの御業はいつも突然です。母マリアのもとに天使が遣わされてきたときも、準備など何にもできてません。婚約者ヨセフがとまどうほどに、せめて結婚してからやったら、心の備えもと思えるだろうのに、けれど神様は突然なのです。イエス様の出産の時だって、せめてナザレに帰ってから、いやせめて家畜小屋でなく、普通の宿でと、なんぼか祈ったと思います。暖かい産湯さえ準備できずに、突然、出産が始まるのです。神様の救いに関わることは、とにかく救いは人間の力が、まったく及ばないということを知るために、無力であることを知らされるために、神様が口火を切られます。突然、神の火が、天からの炎が現れて、人間は、そこに巻き込まれていくのです。

巻き込まれて、次々と外国語を語りだす弟子たちの、戸惑いを想像してください。例えばフリギアの言葉を語りだした弟子。買値50円が売値2000円、高!それは古着屋の言語ですが、見当もつかん言葉が、突然、口をついて出てきたその人。どれほど戸惑ったか。今まで語ったことのない言葉です。でも伝道が始まるって、そうでしょう。今まで自分中心の言葉しか語ったことのなかった人が、自分を捨てて、という十字架の言葉を語りだすのです。の罪に捕えられていた人が、我らの罪を赦したまえと祈りの言葉を祈りだすのです。自分のための言葉ではなくて、人が聴いて、神様に触れるような言葉を語りだす。フリギア語を語った人、自分の言葉に感動なんかしませんよ。自分のための言葉ではないのです。人が聴くための、しかも、それを聴いて、神様の救いに導かれていく言葉を語りだすのが、教会が伝道の言葉を得るということであり、それは人間からスタートするのではないのです。神様が与えて下さる力によって、聖霊様の注ぎによって、私らが到底できるはずもないことを神様がなさせて下さるのです。昨年から始まった四教会での伝道協議会も、四教会祈祷会も、ノウハウがあってやっているのではありません。戸惑いながらの伝道を、しかも今まで、言葉自体なら聴いていたけど、自分の言葉にはなっていなかった、協力伝道という愛の言葉を、私たちは語り始めているのです。語りつつ、戸惑いまくっていながらも、でも既に語り始めていることに、その出所を見ているのです。

主の弟子たちが語る言葉を、聞いた人たちも戸惑って、一体これはどういうことか、どうしてこれらの言葉を聴くのだろうと、驚き怪しみ、あるいはあざけり、新しいブドウ酒に酔っているのだと言う人もおり、あるいは、あっけにとられておりました。戸惑って当たり前なのです。人間が自分の力ではできないことを、けれど人間を通してなされる御業を、神様がなさっておられるからです。自分のための言葉でない、世界が救われるための言葉を、私たちのこととして言うならば、高知伝道のための言葉を、四国伝道のための言葉を、日本伝道のための言葉を、主はこの唇に与えて下さっている。それは救われた私たちを通して、高知が救われるためであり、日本が救われるためであり、高知の、そして、この国の、全ての人々が救われることを、神様が求めておられるからです。ここに教会が始まったのは、そして今、礼拝がなされているのは、神様がこの国で救いを始めて下さったからです。

そのために、主は救われた弟子たちを一つに集めてくださいました。一つの教会をくださいました。一つの思いで祈るよう、一人の聖霊様を求めて祈れるよう、一人の主の名によって祈れるよう、一人の父に祈れるよう、三位一体の神様が、教会を与えて下さった。ここに救いがあるのです。神様が始めて下さいました。その愛を信じて祈り、語りだし、用いて頂けばよいのです。