12/5/20朝礼拝説教@高知東教会 使徒言行録1章12-26節、イザヤ書59章21節 「主の復活の証人になる」

12/5/20朝礼拝説教@高知東教会

使徒言行録1章12-26節、イザヤ書59章21節

「主の復活の証人になる」

 

使徒のメンバーに加えられるって、一体どんな気分だと皆さんは思われるでしょう。このような栄えある務めに!でしょうか。おそらくその気持ちもあったと思います。例えば先日の教会総会で長老選挙をしましたが、そこでもし、あなたが選ばれていたら、どんな気持ちでしょう。どうぞ苦虫を噛み潰したようなお顔はしないでください。光栄ある務めですので、現職長老のためにも眉をしかめるのはご配慮ください(笑)。おそらく既に二名の内の一名に選出された時点で、マティアは襟を正したと思います。あるいは襟を正しながらも、でもどうぞ主よ、できれば私は外してくださいと、私なら祈ったかもしれんなあと正直思います。バルサバさんのほうが、ずっと相応しいと思いますと。使徒の職です。教会を指導して、人々をまとめていく代表者たちが、使徒であるなら、自分がその候補に、となると、心臓がバクバクしたと思います。以前、最初にイエス様が12使徒を選んだときであれば、まだかなり楽天的に、イエス様が大いなる奇跡と天の力によって、圧倒的な勢力で今の権力をなぎ倒して、という期待が、十字架以前ならあったかもしれません。

けれど今はおそらく違います。イエス様の圧倒的勝利がどんな勝利であったかを知ったのです。十字架で全人類の罪を背負って身代りに死ぬことで、罪を赦して救われる救い主、罪人の主イエス・キリストの愛の勝利、赦しの勝利を知ったのです。復活の主から教わったのは、これが神様の闘いだ。倒して勝つのではない赦しの闘い、愛と恵みによる正義の闘い、十字架と復活の闘いが伝道なのだと、イエス様は弟子たちに託されて、救いのご計画の第二ステージである聖霊様の注ぎをなさるため天に昇られ、神の右に着座された。それで弟子たちは、さあ、といって集まり祈っておりました。切実な思いもあったと思います。今や圧倒的リアリティーによってイエス様が神様であられることがわかった。そのイエス様がしかし、その神様のご計画は、あなたがたが聖霊様の力を受けて、世界にキリストの救い、十字架の赦しと復活の希望を伝え、証して行くことであると知った。目の前でイエス様がそうおっしゃって天に昇って行かれるのです。圧倒的な説得力をもって、じゃあ、おんしゃあ祈らないかんじゃいか、聖霊様を受けずして、どうやってそんな救いの務めを、俺らあが果たすことができらあよと、もうガムシャラに祈ったに違いないのです。スケールは違いますが、こう考えられたらどうでしょう。私が青息吐息で、あなたに言ったとします。主が私に示されました。私はもう天に召されます。そして来週の説教は、あなたに、と主は命じておられます。しかもレビ記で。ガク…。祈るしかないでしょう。まあ吉永長老なら…、いや、それでも必死で祈るに違いありません。

イエス様が命じられたのは、しかし全教会、全信徒、キリストに結ばれた全キリスト者が、キリストの証人として世界の前に立つことです。しかも、この時、彼らが特に命じられておったのは、イエス様を十字架につけた律法主義者たちの本拠地エルサレムで聖霊様の力を待つこと。そしたらキリストを代表して彼らの前に立つ、キリストの証人になれるから。神様の説得力を恵むからと。この神様からの説得力、聖霊様の力を求め祈り、こう記されています。「心を合わせて熱心に祈っていた。」直訳は、一つの心で!ただ一つだけ求めていた。主よ、あなたが地上で行っておられた、あの私たちを救った力をください。聖霊様による伝道をなさせてください!これだけです。もしも一人で祈ったら、逃げたいです、私は勘弁してくださいと、祈っておったかもしれません。一人になると人間は弱い。逃げたい気持ちがないわけじゃない。ならばこそ皆集まって、逃げたいという一つ心でなく、神様がやってくれたらという心ではなく、十字架の主よ、あなたの御心がなりますように、私たちに聖霊様による力をください!これが教会をして熱心に祈らせる、たった一つの心です。それは、キリストが十字架に架かられる前に熱心に祈られた心でもあったと思うのです。私たちはキリストの心を持っている。父よ、この罪の世界を救われる、あなたの御心をなさせたまえ。

キリストの心を持ち、キリストの代理人として世界に立つ。その教会の更に代表が使徒たちだとも言えますが、彼らは決して完璧な人間ではありません。十字架の前では、皆逃げたのです。十字架の前まで行ったのは、むしろ婦人たちです。どっちが代表かわかりません。でもそんな使徒たちを、それが救いを証するじゃいか。どういう救いを与えられたのかを、あなたは証できるろうと、神様ご自身が選ばれたのです。代表というのは、必ずしも優れた人物とは限りません。こんな私がとひるむこと度々です。ペトロなんて、特にそうでしょう。イエス様を三度否定したのです。呪いをさえかけて否定した。そのペトロがイスカリオテのユダに対して、何の痛みをも感じないで、ここで上から目線で言っているのか。決してそうではないでしょう。こんな私たちが、しかし、代表なのだ。それが神様のお考えなのだと、痛みを覚えながら、恥じをさえ感じながら、けれども、そこでなお選ばれた光栄を心に覚えて、じゃあイエス様、私たちはどうすればよいのでしょうか、私たちに一体どんな代表として立てと言われるのですかと、祈ったに違いないのです。

私の好きな映画で、実話をもとにしたクールランニングという映画があります。常夏の国ジャマイカ代表として、何と冬季オリンピック種目ボブスレーに初出場した選手達が、もう何しろ常夏ですから、雪なんか見たこともないのに、氷でできた長い長い溝をすごいスピードで滑走していく競技に挑む。実績がないので補助金も出ない。ソリはボロボロ。練習しても始めて滑った氷が恐い。ソリにすら乗れない。皆に笑われ、帰れと言われ、あまり言うとネタバレになりますが、もうやめようかと思う。が、逃げない。逃げないで、俺たちはジャマイカ代表だと、誇りをもって、氷点下の中をジャマイカの陽気な音楽をかけながら登場し、氷の坂に飛び込んで行く。後は映画を見ていただきたいと思いますが、泣けます。彼らは自分たちは国の代表だという光栄を皆で背負って世界の前に立つのです。最初、世界は相手にしません。自己満足の自己主張しに来たとさえ思うのです。教会も、世界から同じように思われているのかもしれません。世間に認められたかったら、博士業を取ってとか、世の中での実績をあげてとか、アドバイスされることすらあるのです。そうしたら世間は認めてくれるだろうがと。確かに聴くところはあると思います。努力もしないで、認めてくれない世間が悪いと子供じみたことを言っているのであれば、イエス様のご命令に従っているかどうか、私たちは自己吟味しなければなりません。

キリストの代理人たる教会の代表として、使徒として選ばれる資格もあるのです。イエス様が伝道を開始されてから、最初からずっと一緒におった弟子でないといかん。でないと、イエス様がどういう方であるか証できんからです。え、神様でしょ?それじゃ足りません。イエス様が人として、どんな生き方をされたか。どのように人を愛し、憐れまれ、悲しまれ、そして怒られたか。イエス様の生き様そして死に様を見て、そして復活されたイエス様に出会って、そうです、この方こそ、私たちの主、私たちの救い主イエス様ですと証できないかん。そのイエス様を証するときには、やはり、イエス様はこう歩まれて、そして、わたしに従いなさいと言われましたと、イエス様に従って生きている人じゃないと、イエス様の証ができんのです。イエス様の証人である教会に、ならこのように生きるのですよと、指導することができるのは、イエス様にずっと従ってきた人以外には不可能です。

そして、完全に従いきってきた人など、おらんのです。おらんけど、それを言い訳に、だからイエス様に従わんでも別にかまんと言える弟子もまたおらんのです。それは弟子の態度ではありませんし、もし本当にイエス様を信じて洗礼を受けた人で、間違ってそういう態度になったのならば、イエス様の証人によって、イエス様がそうなさったように悔い改めに導かれなくてはなりません。それができるのは誰でしょう。自分自身、イエス様によって、悔い改めに導かれた人以外にはおりません。キリストの代理人である教会の使徒とは、そのようにイエス様の十字架の愛に打ち砕かれ、十字架の勝利と栄光を知って、そこで復活の力を受けて、新しく立ち上がってきた罪人たち。赦され、起こされ、復活の主に招かれ続けて、そのたびに泣きながらでも従ってきた、そのイエス様を証する光栄を、体で知っている罪人の頭が、使徒なのです。

その教会の代表である使徒の務め、キリストの赦しと復活の力を証する人として、ヨセフでなく、マティアが選ばれた。だからといって彼のほうが罪深かったとは単純に言えませんが(笑)、記述の仕方からするとそれが強調されているようにも思えるのです。ヨセフのあだ名バルサバは、安息日の子という意味です。そのまた別名ユストは、ラテン語で、正しい、英語でjustice正義のjustユストです。あだ名が二つあるのもすごいですが、それだけ著名な人物と言いますか人気があって、人目につく人物だったことは推測されます。安息日の朝、誰よりも早く礼拝堂に来て祈っておったのかも知れません。言葉や態度で罪を犯すのを見た人がおらんばあ正しい人だったのでしょうか。おごった言動があったなら、それは愛じゃないと正しい態度で執り成す人だったのでしょうか。そりゃ候補にあがらんはずがありません。あげるでしょう。

なのに、です。正しい安息日の子じゃなくて、マティアをイエス様は選ばれました。あなたが、わたしの代理である教会を代表する者だと、イエス様が直々に選ばれた。緊張もしたと思います。どうしてと思ったかも知れません。でもすぐに心でこう祈ったに違いないのです。主よ、私の思いでなく、あなたの御心がなりますように。あなたの栄光が輝きますように。あなたの救いの証がされ、十字架の赦しの栄光が、如何に大きいか、復活の新しい命の希望が、如何に真実であるのかを、どうか証させてくださいと、皆も祈ったに違いないのです。マティアは私たち後から召された者たちの代表としても、選ばれたのだと思います。主のなさることに間違いはありません。受け入れ難い十字架と、人間の失望と死と不可能を超える復活の主の証人に、救いの栄光は輝くのです。