12/6/24朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙1章15-18節、イザヤ書62章10-12節 「聖なる者よ永遠を見よ」

12/6/24朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙1章15-18節、イザヤ書62章10-12節

「聖なる者よ永遠を見よ」

 

ちゃんと見ているようで、実はぜんぜん見てないってことあります。先週、会のため東京に行きまして、ま、花の都ですから多少りぐって、おしゃれで、ちょっと光沢のあるワイシャツを着ていきました。仲間と夕食を済ませ、JR山手線で、渋谷、新宿と通過して、たまあ東京の人はおしゃれやねゃ、けんど今日は俺もちょっとりぐっちゅうし、イチローヘヤーやしと、つり革を手に電車の窓に映っている自分の姿を見たりしまして、おすまし顔で宿にチェックインし、部屋に入って着替えたら!おしゃれなワイシャツのど真ん中に眞緑の物体がぼったり!よく見たら夕食のサラダのアボカドが、ウルトラマンのカラータイマーのように、まんまくっついておりました。おしゃれモード終了。夕食時も電車乗っちゅうときも、宿の受付のお姉さんも、どうして言うてくれんがよ、と思いましたが、もうあまりにも分厚いアボカドだったので、緑の厚切りかまぼこみたいなもんですが、苦笑いしました。私も電車の窓で見ておったのに、見えてないのです。幸生、嘘の自分をつくったらいかんぜよという、主の戒めだったのかもしれません(笑)。

ここでキリストの使徒パウロが祈っておりますのも、私たちが本当の私たちを見ることができるよう、聖霊様によって心の目を開いて下さいという祈りです。

最初に「こういうわけで」とありますので、その前に語られたことを知っている必要があります。例えば、礼拝後の報告のとき、えー、こういうわけで、~さん、突然ですがお祈りをお願いしますと言われたら、その前を聴いてないとえらいことです。では、どういうわけで、パウロはエフェソ近辺の諸教会を覚えて祈るたび、感謝するのか。沢山献金をしたからでしょうか。そんなこと1章の前半で語られてはおりません。ここまでずっと語られてきたのは、私たちが何をしたかではなく、神様が私たちの救いのために何をされたか、その栄光と誉がずっと物語られてきたのです。天地創造の前に、神様が私たちを愛して、ご自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。神様がキリストによって私たちを神様の子供として、家族として救うことを選んで下さり、父の御子が私たちの身代りに人として生まれ死んで、償い、贖って、14節で言われるように、神様のもの、神の家族として買い戻してくださった。神様が救いの道を、キリストによって、恵みによって、愛によって、家族になることによって与えて下さった。こういうわけで、です。だからパウロは主に感謝する。こうして神様の家族となる救いが、身に染みてわかった人々が、イエス様をと信じているからです。当たり前のように聞こえますが、単に神様を信じたではない。そこが急所です。神様が私たちの主となり、代表、身代りとなるために、イエス様という人になられた。その主イエス様を信じている。だから、そのイエス様によって私たちは罪赦されて、贖われ、天の父の子供たち、家族にされたがや、すごい!教会は皆、神様の家族ながや!って、家族なら当然のことをした。全ての聖なる者たちを、家族として愛していた。それをパウロは耳にして、その当たり前を、当たり前やと愛するところが、もう、これ神様の業や!って、感謝して祈る。

そして、更に祈るのです。何故なら愛は深いからです。家族の成長に終わりはないからです。愛ってそうでしょう。家族ってそうでしょう。だから、17節以降、イエス様を主として与えて下さった神様、いや神様より、もっとこう呼びたい。栄光の父!これが直訳です。栄光の父が、三位一体の聖霊様を、教会に、もっと注いで下さって、もっと深く神様を知ることができますように、私たちの心の目を開いて下さいと祈ります。目が開かれて、今まで見えてこなかったアボカドとか、ま、色々と見えてくるのですが、見えているつもりだと見えてない。それが人間だと。それは聖書全体も語ることです。何で見えないか。神様を見てないからだと言うのが、これまた聖書全体が語るのですが、そうでしょう。聖書はその初めから、最も大切な事として、神様が天地を創造されて、その創造の業のクライマックスとして、あるいは創造の目的として人間を造られた。神様のかたちに造られたと、すごい強調をして言われています。それがわからんから歪むのです。自分の姿も、自分達の世界も、神様の形から、その名を愛と呼ばれる神様のかたちに造られた、本当は愛が当たり前の私たちから、どんどん歪んでいってしまう。そして教会も、完全な愛の形をしていないのは…あの、隣の人見ないで下さいね。自分を見ればわかりますよ。教会が愛の形してないっていうのは。でも見えないから、人を見てしまうのかもしれません。だから祈るんです。

確かに教会も私も歪んでいるけど、その歪みは、神様を深く知ることで、まっすぐにされていく!私たちには、栄光の父がおられ、その父から三位一体の御子が、救い主、主イエス様が与えられている。三位一体の聖霊様も、信じた者に与えられ、私たちを確実に神様のもの、聖なる者としてくださる。何度も言いますが、聖なるとは、神様のという意味です。神様の言葉が聖書。そして神様のものとされた、神の家族が聖なる者です。神様が、あなたはわたしのものだ、わたしの愛する子だと、三位一体の神様が根拠となって保証してくださる。あなたがわたしの子である根拠は、わたしにある、わたしが根拠だ!と言われる。その神様を、深く知ることができるようにと祈るのです。これが毎日の、自分にとっての当たり前になれば、すごい安心するのです。私の根拠は神様にある。神様の形に造られた私ですから、そもそもそうなんですけれど、それを、いや、私は自分を根拠として生きていくんだ、私が決めるんだと、神様を遠ざけて歩む。それが罪であり、歪みであるのを、神様が、その罪の歪みは、わたしの愛以外によっては直らんからと、イエス様を下さり、教会を家族として与えて下さった。それが栄光の父の、救いのご計画なのです。その角度から言えば、救いとは家族の愛の回復だとも言えるのです。この神の家族愛の回復の中で、個人の歪みも、キリストの姿、愛の形に回復されていくのですけど、それは栄光の父が、御子によって与えて下さっている、家族愛抜きではできんのです。

それを頭だけ、知識だけじゃなく、心で、知恵としてわからせてくださるのが、聖霊様の働きです。例えば、神様は父である。それが知識であれば、知恵は、あ、じゃあ私は神様の子供ながや、ごめんなさい、あるいは、父よ、と祈るようになる。単に知識で、ああ、父と子の関係ねというのでなく、子として生きるようになる。生活が、態度が変わる。それが知恵です。そしてこの態度の変化、心の変化は、聖霊様によってでないとできんほど、人間は本当に自分を見ていない。だから、それも見させていただけるように、祈り合うのが知恵なのです。互いに祈り合いましょう。そしたらお互い、生きやすくなります(笑)。

祈って見えてくるのは父であり、その家族としての私とあなた、教会です。それはやる気のある人々の集まりではない。それだと家族は崩壊します。自己責任で家族がやれるはずはありませんし、だからといって干渉しないのも家族ではない。どちらも愛じゃない。でもそこに希望があるのが教会の家族です。栄光の父がおられるからです。私たちを神様のものとしてくださった、聖なる者としてくださった父が、聖なる御子によって、わたしのもとに来なさいと招いてくださった。だから私たちは家族としてやっていけるんだ!それが希望です。18節で祈られている心の目が開けて見えてくる風景は、父の招きによって成立し、また成長をしていく、神の家族の風景です。この家族は、完全じゃないけど完成する!だから成長するんだ。家族がますます増えることも含めて、父が招いてくださっているから、神様が私たちの出発点だから、私たちには神様由来の希望がある!これが希望です。だから教会は楽しいのです。目の前が真っ暗なときでも、聖霊様によって見えてくる風景は、神様が招いて下さっている栄光のゴールに、私たちは信じて進めばよいのだという希望の風景です。

希望には由来がある。由来が大事だと言ってもよいでしょう。希望は望みでもありますから、何を私たちが望んでいるかが、そこで具体的に問われもします。私たちが日常、望んでいることって何でしょう。人は自分の望む景色に目を向けるものです。電車の窓に映るおしゃれな自分を望んでいた恥ずかしい41歳は、その自分を台無しにしているアボカドが見えず、まったく見えてなく、見たくもないし、関心もないから目が閉じている。で、おしゃれ~とか見ておって、それで当然起こる問題、あるいは真実の自分に直面したとき、他人を恨んだりするのかもしれません。それも含めて見えてない。見ないといけない。だから栄光の父に祈るのです。私たちの目を、聖霊様によって開いてください、あなたを深く知ることができるように、あなたのご覧になっている景色を、あなたの子として見させて下さいと。私たちは何を見ているのでしょうか。神様の招きだけが、人をして何かを望ませるのではありません。罪に歪んだ世の招きも、人々に望む方向を植え付けて、こういう生活が望ましくないかと招き続ける。そうして心に根を張った望みが、なら何の招きによって植え付けられて、どこに私たちを連れて行くのか。神様の希望であるのかどうか。私たちの目は、栄光の父を見るように造られているのです。私たちの心は、神様が住まわれるためにあるのです。そして、事実、そうなるように、父の希望が実現するように、御子が私たちの罪を身代りに負われて赦してくださり、聖霊様がその赦しと、神様の子供となる身分を、確かなものとして与えて下さり、事実、信じる者たちの内に住まわれて、心を神様の宮としてリフォームして下さっている。

だから私たちもまた祈るのです。こので、感情を揺さぶられ、知性でも知って、私もまた、父の子として歩んでいきます、家族の一員として歩んでいきますと、聖められた意志をもって愛を選ぶことができますようにと、聖霊様の知恵を、神様由来の生活の喜びを、皆で祈り求めるのです。私たちは栄光の父の望まれた聖なる家族である。それが私たちの受け継ぐ相続であり、それが、聖なる公同の教会です。だから教会は聖なる家族愛の成長を、祈り求めていくのです。

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12/6/17朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙1章11-14節、エレミヤ書31章31-34節 「ああ約束の通りでした」

12/6/17朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙1章11-14節、エレミヤ書31章31-34節

「ああ約束の通りでした」

 

たたえることになる。神様の栄光をたたえるため。原文では同じ言葉が二度繰り返されます。上の段6節でも「輝かしい恵みを」これも原文では、神様の恵みの栄光をたたえるため。礼拝では必ず讃美をいたしますし、祈祷会でも讃美して、ことあるごとに神様をたたえます。もっと単純に言えば、神様すごい!と神様に言うこと。あるいは神様のすごさを皆で、すごいでねえと言い合うこと。たたえると訳された言葉はもともと、物語る、語り草にするという意味です。栄光と訳された言葉はもともと、何かに、あるいは誰かについての意見のことです。その誰かがすごい人物であれば、すごいでねえという意見、称賛、たたえの言葉になりますから、栄光とも言う。例えばイチロー選手。本当に、すごいと思います。あるいは松井選手。メジャーリーグばっかりですが、私サッカーの流行に乗り遅れてますのでご勘弁下さい。大リーグボール養成ギブスとか…で、松井選手と言えば、以前は大リーグMVP最優秀選手賞を受けたほどの大選手ですが、さすが実績主義の米国と言いますか、成績が悪くなると解雇される。長く辛酸をなめながら、いわゆる二軍で地道に頑張り、突然一軍にあげられて出場した試合でホームラン。すごい!と私の中では感動のヒーロー物語になっています。たたえるって、そういうことです。すごい!って物語る。証もそうでしょう。何度聴いてもあきない証、神様の救いの出来事ってありますよ。そうやって福音書など4つもあって、イエス様のすごさ、このイエス様が私たちの身代りに十字架で死んで下さった!という救いの恵みを、何度でも物語らずにはおれんのです。説教もそうですし、この後の讃美も、神様すごい!っていう方向に向く。心を神様の物語に向ける。自分を神様のすごい物語の中に置いてしまう。それが礼拝だとも言えるのです。

私たちはしょっちゅう自分自身の小さな物語に満足したり、あるいはその小ささに卑屈になったり、私私の今今の、今の私の小話に一喜一憂するのですけど、それ全部、神様の大いなる物語の中に置いてしまえばよいのです。そして、その壮大なスケールの中で、しかし神様の目から見たら、あなたのその小さなあなたという物語も、わたしにとっては、大切な物語の一つだと、神様が言ってくださる。ならばこそ、卑屈にも傲慢尊大にもならないで、あなたのいのちを、わたしの手の中に置いてごらん。わたしが見事なオーケストラ指揮をして、あなたを壮大な讃美の一部にするからと、神様はそのコンサートマスターとして、キリストをお選びなさったのです。それが11節で言われております「キリストにおいて私たちは、御心のままにすべてのことを行なわれる方のご計画によって前もって定められ」ていたという、それ自体、壮大な物語です。その壮大な神様の物語の中に、私たちはもう存在しているじゃないかという、それ自体が驚きの讃美なのです。

じゃ、具体的には、どのように定められていたかが、相続という言葉で説明されます。ただ、直訳は「私たちは相続された」で、相続者とされたというよりは、私たち自身が相続財産として相続された。誰にか。14節で「この聖霊は、私たちが」原文は「相続するための保証であり、こうして、私たちは贖われ、完全に買い戻されて、神のものとなり」とあるように、私たちは神様に相続されて、神様のものとなったのです。そして、神様は既に繰り返し聴いてきたように、私たちを神様の子供、家族として相続してくださったわけですから、その私たちもまた、神様ご自身を家族として相続するのです。

ここに世の中の大いなる間違いが露呈されます。私たちは、世の中で時に非情に寂しいことに、誰が家の土地財産を相続するかに心奪われるが如くに、天国を相続するかどうかなどに心奪われなくてよいのです。神様でしょう。家族がおるかおらんかでしょう。神様が私たちをご自身の家族として相続してくださり、あなたがわたしの宝だと愛し求めてくださるから、そのために独り子を人として生まれさせ、私たちの全ての罪を赦すため、身代りに十字架につけて裁いてまでも、私たちの罪の裁きを終わらせ、赦して、あなたはわたしの子だと愛し、受け入れてくださった。だから私たちも、神様を相続するのです。2節3節で説き明かしたように、主イエス・キリストの父である神様を、私たちの父である神様と、その大いなる愛を物語って、たたえるのです。

そもそも相続ですから、家族が受ける宝です。神様が罪にとち狂った失われた者たちを、家族として求められた物語を、聖書はその最初から物語るのです。ユダヤ人として救い主がお生まれになるご計画の中で、アブラハムが、その最初の人として選ばれた。その名前も、選ばれたときは、アブラムです。父の名はたたえられるという名前です。そして、アブラハム、多くの人々の父という名前に変えられる。キリストの救いの物語は、最初から父が家族を得る物語であり、その壮大な救いのご計画の一頁として、今の私たちの頁もあるのです。ちなみに今日が父の日であることは全く頭の中にありませんでしたが、ひょっとこれもすごい神様の御業の一部かも知れません。

12節で「以前から…」と言われているのは、そのユダヤ人、以前から神の民、神のものとしてキリスト、ユダヤのヘブライ語でメシアに希望をおいていた人々だと言われます。が、ユダヤ人のみでなく13節で「あなたがたもまた」と言われる、ユダヤ人以外の人々も、神様がキリストによって選ばれた壮大な救いの物語の中に皆巻き込まれて、最後には、壮大なハレルヤコーラスのオーケストラ讃美を皆で捧げることになる。「こうして私たちは贖われ神様の家族とされて、神のものとなり、神様の栄光をたたえることになるのです。」アーメン。本当にアーメンです。

その救いはしかし、自動的に皆の戸籍が書き換えられてというのではありません。ユダヤ人が単に血のつながりだけで、私はユダヤ人だから神の民の一員でと思い上がっておったのを、イエス様も、それは家族の内実を取り違えちゅうろう、もし本当に父の子なら、どうしてわたしの愛がわからん?と迫られたのです。家族は内実が求められる。父の愛、家族の愛、それが救いの内実です。天国も言わばただの家です。家より家族なのは当然です。

だから、キリストにおいて私たちが聞いた福音は、そのような真理の言葉です。神様の家族となる。神様のものとなるというのは、どういう関係か。これに答える真理です。例えば、私と私の家族の関係がどんな関係かを、外から勝手に、大概はこんな関係やき、野口家もそうやろうと勝手に言うことはできません。ただの想像であり、それに失礼です。神様と私たちとの関係を、誰が勝手に決められるでしょうか。御言葉によって語られる、神様ご自身の真理である、あなたはキリストにおいて罪赦されて、わたしの家族として贖われ、買い戻されたのではなかったかとおっしゃる、家族関係の真理以外に、他の勝手な原則を当てはめることは許されません。例えばメジャーリーグの真理である、実績主義の関係を持ち込んで、これだけやったら救われて、できない人は切られるというのは、雇用関係であり、家族関係ではありません。つい雇用関係で考える人間に、イエス様は、なんちゃあできん人を雇われたぶどう園の主人の譬えを物語られ、これが父の恵みだ、救いは恵みの関係なのだと言われたのです。

あるいは雇用関係で考えるから、私はこの会社、と選ぶように、私はキリスト教を選ぶという風に考えがちなのかも知れません。なら止めるのを選ぶのも当然のパターンでしょう。自分で選べると思うからです。

子供は家族を選べるでしょうか。だから御言葉は4節で「天地創造の前に、神様が私たちを愛して、ご自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリスト・イエスにおいてお選びになりました」と慰めるのです。だからこの福音は、信じるのです。神様の恵みを信じるのです。家族に必要なのは、この信頼。神様との信頼関係。天にまします我らの父よと、キリストの名によって呼べる関係。それが信じて救われる関係です。愛の関係が、信頼によって救われる。本当は誰もが知っている、愛の真理だと思います。

その真理の中に身を置くときに、父はその人に三位一体の聖霊様を、その人に注がれ、その人の内に住まわされ、またそのことでその人を、キリストに、ドンと貼り付けてしまわれます。キリストと帯で結ぶという譬えもありますが、ここでは保証としての証印、ハンコの譬えで説明します。当時ハンコが押されたものは、その人の名前によって保証されたものであり、またその人のものだという意味がありました。有名なのはマタイによる福音書で、イエス様の墓にローマ兵が封印をしたとあります。墓穴を横に掘り抜いた岩肌と、蓋の石との間に縄を張り、両端を蝋燭でボタボタ貼り付けて、その柔らかい蝋の上に、これはローマ皇帝の所有であるという肖像のついた指輪のハンコをギュッと押す。神様はその譬えをもって私たちを説得なさり、だから、あなたはわたしのものだ!あなたがたは正真正銘わたしのものであり、わたしの愛する家族の一員だと、一人一人に聖霊様をお与えになられて、ギュッと保証をしておられるのです。14節で言われているのはそのことです。こうして私たちは、キリストの血潮によって贖われ、やがて完全に贖われ、すべての罪から解放されて、聖なる神の子と呼ばれるに、まったくふさわしい者に変えられる。私の身分だけでなく、私の人生も心も体も、正真正銘、全部が神様のものとされるのです。ローマ皇帝が、この墓は私の物だと封印しても、違う!その中にいる者はわたしの御子であり、その墓も、御子の復活による救いを物語るための、わたしのものだ!と父は言われる。それとまったく同じように、私たちがやがて入ることになる墓も、私たちの復活を封じ込めることはできんのです。私たちは神様のものであり、聖霊様によって証印を押され、やがて御子が来られるときに、墓から甦り、復活し、神様の栄光をたたえることになるのです。その日の讃美、いや、その日から始まる永遠の讃美は、完璧な讃美です。今仮に下手な歌でも、その日から完全な讃美で物語るのです。神様すごい!と物語る永遠が待っているのです。この福音を教会は物語り続けるのです。

12/6/10朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙1章4-10節、詩編111篇 「キリストが溢れました」

12/6/10朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙1章4-10節、詩編111篇

「キリストが溢れました」

 

天の父は、私たちをご自分の子供にしようと、あらかじめ定めておられました。それをイエス様は、あなたがたは祈る時、こう祈りなさい。天にまします我らの父よと、そう教えて下さったのです。ご自分の命と引換えに、あなたがたは天の父の子となるのだからと。それを今日の御言葉では7節で「私たちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました」と言うのです。御子の命によって、本来の親もとに買い戻された。それを贖われたと言います。難しいので、私はなるべく使わないようにしていますけど、大切なイメージです。色んなイメージを用いて、聖書は私たちの救いを語るのですが、これだけはハッキリしていると思います。私たちが死んで、あるいはその前にイエス様が帰ってこられて、この私たちの体が復活の体に変えられて、全て新しくなる神の国に永遠に生きるとき、私たちは顔と顔とを合わせて神様を仰ぎます。今、私たちが祈りの際に、父よと呼びかけるより、もっと親しく、しかももっと厳かでありながら、震える程の神様の聖なる力の前に圧倒されながら、しかし圧倒的な安心感のもとで、絶対なる確信のもとで、父よと、まるでイエス様ご自身が呼びかけるように、私たちは、神様に呼びかける者となるのです。

これが私たち。また私たちの真実です。まるでこの世の子のように、父の子としての自覚に薄い生活に溺れていても、こっちの私たちが真実です。あんまり強調するとペテン師のようですが、断じて私は、嘘は言っていません。真実か、嘘か。中間はありません。この真実に立って、今を生きるか。それとも今のほうに立って、御言葉は宗教的な安心感を与えるものとして神棚みたいにまつっておくか。どっちかでしょう。

私たちが現実だと思っている今って、そんなに確かじゃありません。例えば何年も親と暮らしてきて、実は私は養子だったという真実を突然知ることって、わりとあると聴きます。でもおそらく生みの親じゃなかったということより、知らされなかったというショックのほうが大きいのではないかと思います。親として信頼しておればこそ、嘘をつかれたという感情に襲われるのかもしれません。私自身はたぶん養子じゃないと思っているのですが、もし仮に、実は幸生、あんた養子ながよと親に言われたら、きっと愕然とするでしょうけど、それでも、なら尚のこと今まで育ててくれて本当にありがとうと、心は動揺していても、きっと言うのではないか。いや言いたい、心は動揺していても、ありがとうと言いたいと思います。私事ですが最近父親が定年退職した折に、母が、お父さんにお祝いしちゃったらと言うので、妻と相談したのですが、本当にささやかなお祝いしかできない。けんどそのときに、このことだけはわかってもらいたいと思って、結婚披露宴のお約束ではないですが、もっとアットホームに、けれどかしこまって正座して、お父さん、今まで僕達兄弟を育てるため一生懸命に働いてくれて、本当にありがとうと父に言いました。うんと照れましたし、緊張しましたが、その言葉に、自分自身、あ、これが正しい関係だと言いますか、私は真実を語ったという安心した確かさ、これが本当は言いたかったのだという、安心した喜びがありました。父も私以上に照れており、何かお褒めのような言葉を頂いたような気がします。どんな言葉の交換をしたかも覚えてないほど、言わば非日常の出来事でしたが、そこに普段は見過ごしている真実を、主から見せて頂いたように思うのです。

神様が私たちをイエス・キリストによって神の子にしようと、喜んで前もって定めて下さっていた。私たちの生まれる前から、私たちがまだ喜びも悲しみも知らぬうちから、神の子として養子縁組がされていて、あるいはそのように生まれてきて、ずっと愛されてきて、でもその愛を知らずに、しかもその愛に逆らいさえして、生まれてこなければよかったと罵りさえしても、私たちには生まれてきた目的、ゴールがあって、それは失われることはないのです。今が一体どのようであろうと、最後には、父よ、私をそのように選んで下さり、愛して下さり、なのに罪を犯して、私は何も知らないで自分自分で、あなたを悲しませてばっかりだったのに、そんな私の全ての罪を、あなたは愛する御子イエス様の命で赦して下さって、イエス・キリストの犠牲によって償って下さって、だからあなたは本当にわたしの子になった、と言って下さって、だから父よ、本当に本当にありがとうございます、あなたのその限りない恵みを、本当にありがとうございますと、絶対に私たちはたたえるのです。そしてその時に気づくのです。私はずっと、本当はこれが言いたかったのだと。罵りや疑いや文句ではなく、親子で会話がないのでもない。私は本当はありがとうございますと、十字架の救いにいつも身を置いて、自分自分で自分を追い込む狭苦しさを棄てて、主と共に生きて、父から罪赦された救いの恵みに、神様ありがとうございますと、幼子のように言いたかったのだとわかる。

その喜びを世の終わりまで待つのは、御心じゃないです。そうなることがないようにと、今既に父は私たちに恵みを溢れさせて下さっています。溢れ流れている、その恵みのもとに、我が身をおけば良いのです。それが8節で言われております、知恵と理解です。単に頭が良くなるというのではありません。他人の気持ちがわかる人、わからん人の違いに近いでしょうか。神様がキリストによって世界を救われようとご計画された、そのお気持ちがわかって、ああ、ならば私はここに身を置こうと自分の身の置き場がわかる。身の献げどころ、献身しどころがわかる、救いの知恵と理解です。聖書の語る知恵、神様由来の知恵というのは、いつでも実践的、しかも永遠が関わってくる知恵です。ああ、ここに身を置いて生きれば良いのかと、永遠に身を置いて、いつでも永遠からの光に照らされて見えてくる道を選ぶことのできる知恵と理解。今の状況の、どこに恵みをほめたたえれる理由があるかと思えるところに、永遠の光が見える知恵です。そこから照り輝く光でないと、そこから御子が来てくださって、また再び来られる、永遠からの光に照らされる道でなかったら、どうして安心できるでしょう。しかし、キリストが再び来られる天からの光、キリストを既に十字架につけられて、罪の赦しを下さった恵みの父からの光であれば、今いる道がどんなに暗くとも、そこに光が見えるのです。キリストの導きがわかるのです。抜け出さなければならないところにおっても、なおキリストが私とおってくださるから、私はキリストの後に従って、ここから抜け出すことができると、永遠の光に照らされた道を知ることができるのです。キリストがわかったら、私のこととして永遠がわかる。それが恵みの知恵と理解です。

キリストが世界を背負われて、私たちもそこにいる古い世界が永遠に終わるとき、全てがキリストのもとにひざまずくのを私たちは見ることになります。が、その幻に照らされて、今を見ることもできるのです。一つのイメージとして、最新コンピュータ技術で作られたモザイク絵画をご存知でしょうか。私たち一人一人の写真を一杯並べて遠くから見たら、例えばモナリザの絵になっている。どうなっているのか?ビックリしますけど、これに譬えて神様の救いを言えば、一人一人の人生を映す動画が一杯に並べられ、高知東教会に集う人々だけで相当な動画です。たまに一緒の場面もありますが、ほとんどは別々の場面。そういう動画が世界の全ての歴史を通じて、一同に並べられ描き出す壮大なモザイクが、しかし何とキリストのお姿を描き出し、すべてがキリストのもとに意味をなし、すべてがキリストのお働きの中に巻き込まれ、どうして?と言葉を失っているそのところで、わたしがあなたの主となったからだと、主が言われる。わたしは主、あなたの神、あなたをこの世の支配、罪の家から導き出した救い主だからだと、十字架でうがたれた手を差し伸べて、あなたがこの血によって贖われ、罪を赦されたのは、神の豊かな恵みによるのだと言ってくださる。

そして、その絵画の中心をなしているのはキリストの体と呼ばれる、主の建てられた教会なのです。

だからキリストがわかるなら、教会がますますわかるのです。ここが我が身の置き所、我が身の献身のしどころであると。キリストがその身を投げ出してくださった、その体の一部とされたこの私たちの身をも、神様は、世界を救われるキリストの体の一部としてくださる。キリストご自身の献身とさえされて、聖めて用いて頂ける。キリストの来られた天からの光に照らされた私は、実にキリストのものとしての私であったと、永遠の私がわかるのです。そして世界に福音が溢れ、教会を通してキリストが溢れ、救いの恵みがとめどなく溢れていく。その恵みこそ、父の御心であるのです。

12/6/3朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙1章1-4節、レビ記19章1-2節 「我は聖徒の交わりを信ず」

12/6/3朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙1章1-4節、レビ記19章1-2節

「我は聖徒の交わりを信ず」

 

長くルカによる福音書から御言葉を聴いてきました。もっとイエス様を身近に、また深く知って、一層の熱情を育ててイエス様に皆でお従いしたいとの思いで、およそ二年半聴いてきました。そして、同じルカによって記された使徒言行録の最初が丁度、聖霊降臨日ペンテコステに向かってのくだりでしたから、続けて聴いてきましたが、今日から新しいシリーズに入ります。シリーズの題も考えました。『教会を建てる』あ、やっぱこの会堂、地震やばいがやと、どうぞご心配なさいませんよう(笑)。会堂建築を目指してのシリーズではありません。共に建てるのは教会、しかも、この高知東教会だけのことを考えるのではなく、左頁上23節で「キリストの体」と呼ばれる教会全体を建てる務めを、どう担うのか。キリストの体全体の一部分、一肢として選ばれ建てられた高知東教会として、主から与えられている召命、そして求められている愛と献身は、如何なるものであるのかを、共に真剣に求めたいのです。あれ、じゃあ私は教会員じゃないから、あまり関係ないのかなと、そういうことでもないと思います。まだ洗礼をお受けになっておられない方でも、教会につながることが、神様から与えられている救いなのだと、エフェソ書の御言葉から、すぐにおわかりになると思うからです。すべての人に関係する重大事。私たち全てが本来生きる場所、居場所とはどこか、どこに私は、いわば人生をかけて生きるべきか。聖書の答えは明快です。教会なのです。無論、子育てや様々な奉仕、務めがありますが、それもまた教会がわかるとわかるというのが、エフェソ書の魅力だとも思います。ぜひ先走ってエフェソ書を読んで頂きたいと思います。愛して欲しいと願っています。日本中の教会がこの書を愛すればとさえ願っています。そしたら日本の教会が、今のままであるはずはないのです。

手紙の宛先は聖なる者たちです。特に大都市エフェソの教会に限りません。当時もあちこち回覧されたと言われています。そして私たちにも届いたのです。使徒パウロから、そしてパウロを用いてしたためられたキリストご自身からの、教会を、わたしの体を、よろしく頼むとのラブレターです。その受取人が、聖なる者たちと呼ばれている。使徒信条の後半で、私は聖霊を信じます、聖い公同の教会、聖徒の交わり…を信じます、と信仰の告白をする。その聖徒という言葉が、聖なる者たちという言葉です。常に複数形です。聖書には単数で、例えばアッシジの聖人フランチェスコというような言い方はありません。霊的な事柄に殊更に秀でちゅう人を指す言葉ではないからです。日本語では聖徒の徒が弟子という意味と共に、仲間という意味もありますから複数形のニュアンスを持つのだろうと思いますけど、より念を押して言うならば、聖徒たちの交わり、すなわち教会を信じる。神様の業だと「信じる」のです。

エフェソの聖徒たちも、高知の聖徒たちも、自分らで、じゃあ教会を作って始めようかと、人間から出たのではありません。教会は世界中、どこに存在する教会であっても、その教会を構成する聖徒たちが1節で言われているように「キリスト・イエスを信ずる人たち」であるならば、その教会は神様ご自身の業なのです。その存在が業であると言えばよいでしょうか。例えば私野口幸生という個人が存在しているのは母によるお腹の中での長い苦労も含めての出産という業のおかげです。私は何もしていません。生まれ出て泣くことすら出来ず、医者に叩かれて息をしたと言われました。そんな素晴らしい業によって存在させられた私が、まあ自分勝手な生き方をして母を泣かせるわけです。今は孝行しているつもりですが、どうでしょう。母の日のプレゼントに台所のすみとか削る消しゴムを買ったら喜んでましたけど、実用的過ぎて…花束のほうが良かったかも知れません。教会もまた神様の御業として存在しながら、まあ勝手なことを人間の思いで自分自分でやっていると、伝道になりません。あなたの神はどこにいるのかと言われることさえあるのですが、本当は、こう言うことができればよいのです。私たち、この教会の存在自体が、神様の業ですと。もし、みっともない業やと言われたら、まあ見よって下さいと言えばよいのです。無論、謙遜にです。そしたら悔い改めの恵みと新しく造り変えられていく喜びが、必ず体験されるはずです。またそれ自体が神様の御業、教会がキリストの救いの証人として、人々に説得力をもって訴えかけていく、聖霊様による御業なのです。

聖徒たち、すなわちそこで必ず複数形で、仲間で、セットで、神様の御業だと言い表される聖徒たちこそ、教会という存在です。教会とは何か。聖徒たちです。聖なる者たち、キリスト・イエスを信じるに至って、聖なる者とされた者たちです。

聖なる、英語でholyという言葉の意味も胸に刻んでください。わかりやすく言えば、神様の特別なもの、という意味です。聖書は神様の特別な書。聖餐式は神様の特別な食卓。聖霊様は神様の特別な霊。まあ三位一体の神様ご自身のお一人ですから、すごい特別なのですが、それほどと言ってもよいぐらい、聖なる者たちは特別なのです。理由は一つ。主のものとされたから。それだけの理由でです。聖餐のパンと同じで、特に他の人より秀でちゅうわけではありません。パンの日に買ったら百円みたいな者を、しかし神様ご自身が、あなたがたはわたしの特別な者たちだと言うて下さるから、だから聖なる者と呼ばれる。この者たちに触れるのは、わたしの瞳に触れるのと同じだと言われるほどにです。

それが2節で「私たちの父」と呼ばれる神様ですが、単に全ての人の造り主だからという故にではなく、その父は3節で「私たちの主イエス・キリストの父」と呼ばれるのです。三位一体の父・子・聖霊の特別な関係の中での「父」を、その三位一体の父を「私たちの父」と呼ぶなんて、パウロは一線を超えたのでしょうか。決してそうではない。それほどの一線を神様が超えて下さって、キリストを人として、私たちの主として兄として生まれさせ、唯その故に、私たちの父となることを父が望まれた。そこまで、敢えて言えば異常なほど特別な関係に入れられたから、続いてパウロは言うのです。「神は、私たちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たして下さいました。」キリストの死と復活の中に私たちを言わば取り込み、キリストの体そのものとさえして下さって、そのキリストの中、聖なる特別な交わりの中で、父が、御子にとっての父であるように、私たちの父となることを選ばれた。これがキリストの内に特別に霊的に存在する聖なる者たちへの、霊的な祝福です。

あなたがたは、聖なる者たちになるのだと、これが救いの道であると神様ご自身が選ばれたのです。私がどうのではないのです。いつもそうなってしまうのですけど、人間はいつでも自意識過剰で、私は私はで考えて、私はダメだから愛されなくて、私は私だから救われてと。そんな自分勝手な生き方をしてきて、今尚そうで、こんな親不孝な者であればこそ、だからキリストの死の中で、人間はその罪を背負われてしまうのです。罪も汚れもキリストが全部飲み干してしまわれて十字架で裁かれ棄てられたから、その愛をただ信じて、救い主にすがればよいのです。巻き込まれたらよいのです。御子をキリストとして、主として私たちにくださった父が、そこまで愛して下さって、永遠の愛で、天地創造の起こる前から、あなたは永遠にわたしの子となれと選ばれた。永遠の恵みのご意志によって私たちの父となることを選ばれた。キリストの業という救いによって、喜んで選んで下さった。

だから人間は救われるのです。神様の御業、キリストの中に巻き込まれ、聖なる者たちとされ救われる。それがキリストの体、教会なのです。

12/5/27春季合同礼拝説教@高知東教会 使徒言行録2章1-13節、ヨエル書3章1節 「突然神様は始められる」

12/5/27春季合同礼拝説教@高知東教会

使徒言行録2章1-13節、ヨエル書3章1節

「突然神様は始められる」

 

突然!です。神様は突然始められます。おそらくそのとき人間の側では、準備ができてないのです。でもこの場合は、あれ?って思うかも知れません。イエス様から既に約束をされていたのです。あなたがたは間もなく聖霊様による洗礼を受けるき、エルサレムで待ちよりなさいと。だから、心の準備が全くなかったわけではありません。祈って待ってもおったのです。なのに「突然!」だったのです。予想を越えておったのです。どんな風に神様はことをなされると弟子たちは思っておったのでしょうか。私たちは、どのように神様は突破の風を吹かせてくださると予想を立てているのでしょうか。こういう突破の道が、という予想ってあるのではないかと思います。たとえ漠然としておっても、まあ私たちの手に負える範囲でと大体は考えるのではないでしょうか。高知東教会が会堂建築を考えたときも、神様が必ずなさって下さると信じて祈っておりましたけど、私も祈っておりましたけど、まさか洪水で会堂が建つとは夢にも思っていませんでした。会員わずか十数名で七千万円を超える大事業を、神様は突然始められました。いまその倍の会員がおりますから、じゃあ一億四千万の大事業。どうです?神様が始められるなら、しかも、こんな予想をさえ全然越えて、御業は突然始まるのです。

祈るって、それを祈るんじゃないでしょうか。突然来られる神様を、迎える備えをするのです。御心の天になる如く、地にも、私たちにも、なさせたまえと。来られて大丈夫ですか?イエス様もまた、突然帰って来られますけど、それに先んじて人々が救われなければならないから、教会が突然始まりました。祈って備えはしていましたけど、それでも、いや、おそらく、だからこそ、神様はご自身の大いなる救いの御業を、その祈る教会を用いて、神様が、始めて下さいました。

ペンテコステのこの場面が、よく教会学校の本等で絵になっていますが、結構、祈っている弟子たちに聖霊様が降られる絵が多いです。でもよく読むと、祈っていたとは書いてない。一つになって集まってはいたのですが、さあ、主の日ですから、ペトロが説教をしておったのかもしれません。祈っておったかも知れません。あるいは礼拝が終わった後で全員でカレーを(笑)、ま、カレーはなかったと思いますが、とにかく、どっかで祈ってはおったけど、この時、祈っておったかはわからん。

でも、一つだった。それが大事です。祈りの基礎、しかも教会の祈りの基礎がそれです。主の名によって祈るのです。二人でも三人でも、主の名によって祈るなら、そこにキリストがおられます。三人おるのに、三人バラバラで、主の名を呼んではおりません。キリストの体なる教会は、二人でも三人でも十人でも、高知中央教会のように一人長老が召されて減っても、どうなるろうと案じても、一つになって主の名を呼ぶとき、そこに教会は建つのです。キリストが立たせてくださるからです。それが教会の祈りです。24時間祈ってなくても、心は皆一つであった。御心を求めていたのです。聖霊様によるスタートを、キリストの証人となる力の洗礼を、たとえ目はつぶってなくっても、手を合わせてはいなくても、ずっと求めておったのです。しかも熱心なあの人がでなくて、一つになっておったのです。神様、教会を建てて下さい!あなたの御業となして下さい!世界に福音を証させて下さいと、それがどういう風に始まるか、それは全くわからんかっても、どうしたらよいのかもわからんぐらい、弱い弟子たちであったけど、一つになって集まって、一つになって求めておった。御心を行なわせて下さい!と。そこに突然始まるのです。人間の思いを遥かに超えた、主イエス・キリストの救いの御業を、突然始めて下さるのです。

思えば神様がなして下さる、救いの御業はいつも突然です。母マリアのもとに天使が遣わされてきたときも、準備など何にもできてません。婚約者ヨセフがとまどうほどに、せめて結婚してからやったら、心の備えもと思えるだろうのに、けれど神様は突然なのです。イエス様の出産の時だって、せめてナザレに帰ってから、いやせめて家畜小屋でなく、普通の宿でと、なんぼか祈ったと思います。暖かい産湯さえ準備できずに、突然、出産が始まるのです。神様の救いに関わることは、とにかく救いは人間の力が、まったく及ばないということを知るために、無力であることを知らされるために、神様が口火を切られます。突然、神の火が、天からの炎が現れて、人間は、そこに巻き込まれていくのです。

巻き込まれて、次々と外国語を語りだす弟子たちの、戸惑いを想像してください。例えばフリギアの言葉を語りだした弟子。買値50円が売値2000円、高!それは古着屋の言語ですが、見当もつかん言葉が、突然、口をついて出てきたその人。どれほど戸惑ったか。今まで語ったことのない言葉です。でも伝道が始まるって、そうでしょう。今まで自分中心の言葉しか語ったことのなかった人が、自分を捨てて、という十字架の言葉を語りだすのです。の罪に捕えられていた人が、我らの罪を赦したまえと祈りの言葉を祈りだすのです。自分のための言葉ではなくて、人が聴いて、神様に触れるような言葉を語りだす。フリギア語を語った人、自分の言葉に感動なんかしませんよ。自分のための言葉ではないのです。人が聴くための、しかも、それを聴いて、神様の救いに導かれていく言葉を語りだすのが、教会が伝道の言葉を得るということであり、それは人間からスタートするのではないのです。神様が与えて下さる力によって、聖霊様の注ぎによって、私らが到底できるはずもないことを神様がなさせて下さるのです。昨年から始まった四教会での伝道協議会も、四教会祈祷会も、ノウハウがあってやっているのではありません。戸惑いながらの伝道を、しかも今まで、言葉自体なら聴いていたけど、自分の言葉にはなっていなかった、協力伝道という愛の言葉を、私たちは語り始めているのです。語りつつ、戸惑いまくっていながらも、でも既に語り始めていることに、その出所を見ているのです。

主の弟子たちが語る言葉を、聞いた人たちも戸惑って、一体これはどういうことか、どうしてこれらの言葉を聴くのだろうと、驚き怪しみ、あるいはあざけり、新しいブドウ酒に酔っているのだと言う人もおり、あるいは、あっけにとられておりました。戸惑って当たり前なのです。人間が自分の力ではできないことを、けれど人間を通してなされる御業を、神様がなさっておられるからです。自分のための言葉でない、世界が救われるための言葉を、私たちのこととして言うならば、高知伝道のための言葉を、四国伝道のための言葉を、日本伝道のための言葉を、主はこの唇に与えて下さっている。それは救われた私たちを通して、高知が救われるためであり、日本が救われるためであり、高知の、そして、この国の、全ての人々が救われることを、神様が求めておられるからです。ここに教会が始まったのは、そして今、礼拝がなされているのは、神様がこの国で救いを始めて下さったからです。

そのために、主は救われた弟子たちを一つに集めてくださいました。一つの教会をくださいました。一つの思いで祈るよう、一人の聖霊様を求めて祈れるよう、一人の主の名によって祈れるよう、一人の父に祈れるよう、三位一体の神様が、教会を与えて下さった。ここに救いがあるのです。神様が始めて下さいました。その愛を信じて祈り、語りだし、用いて頂けばよいのです。

12/5/20朝礼拝説教@高知東教会 使徒言行録1章12-26節、イザヤ書59章21節 「主の復活の証人になる」

12/5/20朝礼拝説教@高知東教会

使徒言行録1章12-26節、イザヤ書59章21節

「主の復活の証人になる」

 

使徒のメンバーに加えられるって、一体どんな気分だと皆さんは思われるでしょう。このような栄えある務めに!でしょうか。おそらくその気持ちもあったと思います。例えば先日の教会総会で長老選挙をしましたが、そこでもし、あなたが選ばれていたら、どんな気持ちでしょう。どうぞ苦虫を噛み潰したようなお顔はしないでください。光栄ある務めですので、現職長老のためにも眉をしかめるのはご配慮ください(笑)。おそらく既に二名の内の一名に選出された時点で、マティアは襟を正したと思います。あるいは襟を正しながらも、でもどうぞ主よ、できれば私は外してくださいと、私なら祈ったかもしれんなあと正直思います。バルサバさんのほうが、ずっと相応しいと思いますと。使徒の職です。教会を指導して、人々をまとめていく代表者たちが、使徒であるなら、自分がその候補に、となると、心臓がバクバクしたと思います。以前、最初にイエス様が12使徒を選んだときであれば、まだかなり楽天的に、イエス様が大いなる奇跡と天の力によって、圧倒的な勢力で今の権力をなぎ倒して、という期待が、十字架以前ならあったかもしれません。

けれど今はおそらく違います。イエス様の圧倒的勝利がどんな勝利であったかを知ったのです。十字架で全人類の罪を背負って身代りに死ぬことで、罪を赦して救われる救い主、罪人の主イエス・キリストの愛の勝利、赦しの勝利を知ったのです。復活の主から教わったのは、これが神様の闘いだ。倒して勝つのではない赦しの闘い、愛と恵みによる正義の闘い、十字架と復活の闘いが伝道なのだと、イエス様は弟子たちに託されて、救いのご計画の第二ステージである聖霊様の注ぎをなさるため天に昇られ、神の右に着座された。それで弟子たちは、さあ、といって集まり祈っておりました。切実な思いもあったと思います。今や圧倒的リアリティーによってイエス様が神様であられることがわかった。そのイエス様がしかし、その神様のご計画は、あなたがたが聖霊様の力を受けて、世界にキリストの救い、十字架の赦しと復活の希望を伝え、証して行くことであると知った。目の前でイエス様がそうおっしゃって天に昇って行かれるのです。圧倒的な説得力をもって、じゃあ、おんしゃあ祈らないかんじゃいか、聖霊様を受けずして、どうやってそんな救いの務めを、俺らあが果たすことができらあよと、もうガムシャラに祈ったに違いないのです。スケールは違いますが、こう考えられたらどうでしょう。私が青息吐息で、あなたに言ったとします。主が私に示されました。私はもう天に召されます。そして来週の説教は、あなたに、と主は命じておられます。しかもレビ記で。ガク…。祈るしかないでしょう。まあ吉永長老なら…、いや、それでも必死で祈るに違いありません。

イエス様が命じられたのは、しかし全教会、全信徒、キリストに結ばれた全キリスト者が、キリストの証人として世界の前に立つことです。しかも、この時、彼らが特に命じられておったのは、イエス様を十字架につけた律法主義者たちの本拠地エルサレムで聖霊様の力を待つこと。そしたらキリストを代表して彼らの前に立つ、キリストの証人になれるから。神様の説得力を恵むからと。この神様からの説得力、聖霊様の力を求め祈り、こう記されています。「心を合わせて熱心に祈っていた。」直訳は、一つの心で!ただ一つだけ求めていた。主よ、あなたが地上で行っておられた、あの私たちを救った力をください。聖霊様による伝道をなさせてください!これだけです。もしも一人で祈ったら、逃げたいです、私は勘弁してくださいと、祈っておったかもしれません。一人になると人間は弱い。逃げたい気持ちがないわけじゃない。ならばこそ皆集まって、逃げたいという一つ心でなく、神様がやってくれたらという心ではなく、十字架の主よ、あなたの御心がなりますように、私たちに聖霊様による力をください!これが教会をして熱心に祈らせる、たった一つの心です。それは、キリストが十字架に架かられる前に熱心に祈られた心でもあったと思うのです。私たちはキリストの心を持っている。父よ、この罪の世界を救われる、あなたの御心をなさせたまえ。

キリストの心を持ち、キリストの代理人として世界に立つ。その教会の更に代表が使徒たちだとも言えますが、彼らは決して完璧な人間ではありません。十字架の前では、皆逃げたのです。十字架の前まで行ったのは、むしろ婦人たちです。どっちが代表かわかりません。でもそんな使徒たちを、それが救いを証するじゃいか。どういう救いを与えられたのかを、あなたは証できるろうと、神様ご自身が選ばれたのです。代表というのは、必ずしも優れた人物とは限りません。こんな私がとひるむこと度々です。ペトロなんて、特にそうでしょう。イエス様を三度否定したのです。呪いをさえかけて否定した。そのペトロがイスカリオテのユダに対して、何の痛みをも感じないで、ここで上から目線で言っているのか。決してそうではないでしょう。こんな私たちが、しかし、代表なのだ。それが神様のお考えなのだと、痛みを覚えながら、恥じをさえ感じながら、けれども、そこでなお選ばれた光栄を心に覚えて、じゃあイエス様、私たちはどうすればよいのでしょうか、私たちに一体どんな代表として立てと言われるのですかと、祈ったに違いないのです。

私の好きな映画で、実話をもとにしたクールランニングという映画があります。常夏の国ジャマイカ代表として、何と冬季オリンピック種目ボブスレーに初出場した選手達が、もう何しろ常夏ですから、雪なんか見たこともないのに、氷でできた長い長い溝をすごいスピードで滑走していく競技に挑む。実績がないので補助金も出ない。ソリはボロボロ。練習しても始めて滑った氷が恐い。ソリにすら乗れない。皆に笑われ、帰れと言われ、あまり言うとネタバレになりますが、もうやめようかと思う。が、逃げない。逃げないで、俺たちはジャマイカ代表だと、誇りをもって、氷点下の中をジャマイカの陽気な音楽をかけながら登場し、氷の坂に飛び込んで行く。後は映画を見ていただきたいと思いますが、泣けます。彼らは自分たちは国の代表だという光栄を皆で背負って世界の前に立つのです。最初、世界は相手にしません。自己満足の自己主張しに来たとさえ思うのです。教会も、世界から同じように思われているのかもしれません。世間に認められたかったら、博士業を取ってとか、世の中での実績をあげてとか、アドバイスされることすらあるのです。そうしたら世間は認めてくれるだろうがと。確かに聴くところはあると思います。努力もしないで、認めてくれない世間が悪いと子供じみたことを言っているのであれば、イエス様のご命令に従っているかどうか、私たちは自己吟味しなければなりません。

キリストの代理人たる教会の代表として、使徒として選ばれる資格もあるのです。イエス様が伝道を開始されてから、最初からずっと一緒におった弟子でないといかん。でないと、イエス様がどういう方であるか証できんからです。え、神様でしょ?それじゃ足りません。イエス様が人として、どんな生き方をされたか。どのように人を愛し、憐れまれ、悲しまれ、そして怒られたか。イエス様の生き様そして死に様を見て、そして復活されたイエス様に出会って、そうです、この方こそ、私たちの主、私たちの救い主イエス様ですと証できないかん。そのイエス様を証するときには、やはり、イエス様はこう歩まれて、そして、わたしに従いなさいと言われましたと、イエス様に従って生きている人じゃないと、イエス様の証ができんのです。イエス様の証人である教会に、ならこのように生きるのですよと、指導することができるのは、イエス様にずっと従ってきた人以外には不可能です。

そして、完全に従いきってきた人など、おらんのです。おらんけど、それを言い訳に、だからイエス様に従わんでも別にかまんと言える弟子もまたおらんのです。それは弟子の態度ではありませんし、もし本当にイエス様を信じて洗礼を受けた人で、間違ってそういう態度になったのならば、イエス様の証人によって、イエス様がそうなさったように悔い改めに導かれなくてはなりません。それができるのは誰でしょう。自分自身、イエス様によって、悔い改めに導かれた人以外にはおりません。キリストの代理人である教会の使徒とは、そのようにイエス様の十字架の愛に打ち砕かれ、十字架の勝利と栄光を知って、そこで復活の力を受けて、新しく立ち上がってきた罪人たち。赦され、起こされ、復活の主に招かれ続けて、そのたびに泣きながらでも従ってきた、そのイエス様を証する光栄を、体で知っている罪人の頭が、使徒なのです。

その教会の代表である使徒の務め、キリストの赦しと復活の力を証する人として、ヨセフでなく、マティアが選ばれた。だからといって彼のほうが罪深かったとは単純に言えませんが(笑)、記述の仕方からするとそれが強調されているようにも思えるのです。ヨセフのあだ名バルサバは、安息日の子という意味です。そのまた別名ユストは、ラテン語で、正しい、英語でjustice正義のjustユストです。あだ名が二つあるのもすごいですが、それだけ著名な人物と言いますか人気があって、人目につく人物だったことは推測されます。安息日の朝、誰よりも早く礼拝堂に来て祈っておったのかも知れません。言葉や態度で罪を犯すのを見た人がおらんばあ正しい人だったのでしょうか。おごった言動があったなら、それは愛じゃないと正しい態度で執り成す人だったのでしょうか。そりゃ候補にあがらんはずがありません。あげるでしょう。

なのに、です。正しい安息日の子じゃなくて、マティアをイエス様は選ばれました。あなたが、わたしの代理である教会を代表する者だと、イエス様が直々に選ばれた。緊張もしたと思います。どうしてと思ったかも知れません。でもすぐに心でこう祈ったに違いないのです。主よ、私の思いでなく、あなたの御心がなりますように。あなたの栄光が輝きますように。あなたの救いの証がされ、十字架の赦しの栄光が、如何に大きいか、復活の新しい命の希望が、如何に真実であるのかを、どうか証させてくださいと、皆も祈ったに違いないのです。マティアは私たち後から召された者たちの代表としても、選ばれたのだと思います。主のなさることに間違いはありません。受け入れ難い十字架と、人間の失望と死と不可能を超える復活の主の証人に、救いの栄光は輝くのです。

12/5/13朝礼拝説教@高知東教会 使徒言行録1章1-11節、ダニエル書7章9-14節 「力の洗礼を受けた教会」

12/5/13朝礼拝説教@高知東教会

使徒言行録1章1-11節、ダニエル書7章9-14節

「力の洗礼を受けた教会」

 

あなたがたは、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。聖霊様を受けたらそうなる。ええかえ、そうなるがで、あなたがでと、イエス様は最後にそうおっしゃって天に昇り、神の右の座に着かれました。最後の言葉ですから、まさしく最後に遺された言葉、主の遺言です。それは聴かないきません。私たちのことについて言われたのです。私たちは、主の証人となる。なるぜよと。

言わば、私たちの頭の上には、洗礼を受けたときに、ただ水が注がれただけでなく、聖霊様が注がれたのですが、そのときに目には見えない表札と言いますか、タクシーの天上に乗っているような、表札が置かれた。天使の輪っかのようなもんでしょうか。私たちが誰であるかを言い表すその表札に、こう書いてある。証人。私でしたら、こうです。証人野口幸生。洗礼者ヨハネとか、使徒パウロとか、そういう表札です。皆さんにも乗っています。証人田中二月子とか。実際、青年の献身修養会の夜のプログラムで証をしてもうとき、こう紹介したことがあります。高知東教会で洗礼を受けた姉妹に、神様がどのように姉妹を導かれて、イエス様を救い主として信じ、洗礼を受けるに至ったか、主の愛の証言をしてもらいます。どうぞ前に出て下さい。紹介します。証人田中藍。そのときの藍さんの表情を今でも覚えていますけど、緊張と言うよりは厳かで、まるで天使のように見えました。殉教前のステファノみたいですけど、いやホント、主のエンジェルとしての証人を私は見ました。

人々の前でイエス様の証言をするというのは、実際、緊張する場面も少なくありません。毎年帯屋町でキャロリングをしますけど、牧師でも緊張します。だから聖霊様が必要なのです。三位一体の神様の聖霊様が私たちの内側から響き出るように、あるいはその場所を包み込むようにして神様の力で証させて下さらんかったら、とても無理です。最初から無理な状況で、教会の証は始まったのです。イエス様は弟子たちに言われました。エルサレムを離れず、父の約束、すなわち聖霊様による洗礼を待ちなさい。当時のエルサレムと言ったら、イエス様を十字架につけた律法主義者たちの本拠地であり、まだイエス様のことでピリピリしている言わば危険地帯です。なのに、そこを離れたらいかんと主は言われる。逃げたらいかん、留まれ、聖霊様による力の洗礼を待て、信じろと言われる。弟子たちは緊張したろうと思います。例えば橋本市長らに、君が代を歌っているかどうか口もとをじっと見られている針のむしろのような場所に、しかし留まっていなさいという状況を考えたら、少しは状況が伝わるでしょうか。もう、そこやめて清和に来たら、ではなく、離れたらいかんと。何故か。状況が変わるからです。

イエス様が言われた父の約束という言葉の中には、父のご計画というニュアンスも含まれていると思います。最初から救いの計画にあったのです。イエス様によって罪を赦され救われた弟子たちに、聖霊様が降ることで、教会を生み出す計画がです。聖書学では、イエス様の到来、クリスマスのご降誕から、終末が始まったという言い方をします。降誕を終末の1stステージとすれば、聖霊様の降臨は、終末の2ndステージです。まずイエス様が来られて、罪が赦される。罪人の身代りに神様が人として死んでしまわれ、罪赦された人々の代表として主として先駆け、復活をされて後、昇天される。そこで1stステージが幕を閉じ、教会の誕生、聖霊降臨という2ndステージが始まる。もうそれは既に始まっているのです。そしてまだ終わっていないまま、今の私たちの時代にまで続いています。これが教会の時代です。神様の救いのご計画の中で地の果てにまで福音が行き巡り、数知れぬ罪の抵抗に遭いながらも、多くの人々が救われて、そしてこの2ndステージが終わる時にも、やはり降臨があるのです。イエス様が再び帰って来られる降臨。キリストの再臨をもって教会の時代は終わり、そしてこの世界の時代もまた終わります。キリストの降誕、そして再臨に挟まれて、聖霊降臨、教会の誕生があるというのが、神様の壮大な救いのご計画である。その第二ステージが今始まるというのですから、実際ものすごい状況の変化が起こるのです。だから敵の本拠地ではあるけれど、けれどエルサレムを離れずに圧倒的な状況の変化を待ちなさい。三位一体の神様による救いの第二ステージが今始まると、イエス様は救いのご計画を弟子たちに命じられた。

聖霊降臨については、もう既に旧約聖書、例えばエゼキエル書36章で言われているのですけれど、弟子たちは聖霊様への意識はなかったようです。復活のイエス様が目の前におったら、まあそうだろうとは思いもします。え?私が聖霊様による洗礼を受けて、それで、え?私が何かをするのですか?イエス様こそが、今こそ神の国を来たらせたまいて世界を建て直して下さるのではないのですか、究極の世直しが今こそ始まるのではないですかと、弟子たちは一気に第三ステージに飛ぶのだと思っていました。わかる気はします。そりゃ、それが楽です。わかりやすい例で言えば、スケールはうんと小さくなりますが、もしイエス様が大阪市長の座に着かれたら、口もとを見張るような律法主義政治は終わるでしょう。いや、もっとスケールを小さくして、イエス様が野口家の家長になってくれたら、子育ても夫婦関係も、家の中での嫌な空気とかも…だって、そうでしょう。復活の主が、今、ここに現臨して下さったら!でもそうじゃないと主は言われるのです。神様のご計画は違うのです。すぐ自分中心にすべて考える人の思いとは異なって、エルサレムもまだ見捨てられてはないのです。エルサレムを離れず見捨てるな。父はそこにこそ救いのご計画をお持ちであるから、信じて待てと主は言われる。

イエス様を私たちの主として与えることを定められた天の父が、その権威、御子を十字架に貼り付けてまでも世界を救おうと決められた権威によって、お定めくださった計画がある。それは、あなたが力を受けることだと主は言われるのです。もとの言葉には「しかし」があります。父がその権威によって定めておられる世界の救いのご計画は、しかし、あなたがたが力を受けることである。聖霊様があなたがたに降るとき、あなたがたが力を受けて、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。これが父のお定めになられた救いのご計画だと主は言われる。弟子たちが口をぽかんと開けたまま、え、主よ、え?と見上げておってもです。それもまたわかる気がします。天使につっこまれさえするのです。

でもその弟子たちが、主の証人となりました。父の約束どおりです。生けるキリストの生ける証人として、しかも人の思いを捨てて仕える、神様のご計画に生きるキリスト者として、主の証人となったのです。

それは人間的な力を超えた聖霊様による説得力が、教会に働いているからです。無論、理性や感覚とかも用いられはします。イエス様が人となられたぐらいですから、それらを捨てるというのではない。でも頼るのは神様の力です。言葉での説得を試みるときでも、聖霊様、よろしくお願い致しますと、神様の力に頼るのです。説教はまさしくそうです。もし皆さんが説得力を感じたら、そして主の栄光を讃美するなら、それは神様の力です。私みたいな者さえ用いつつ、あるいは、聖霊様の力に巻き込まれつつ、私自身巻き込まれる証の働きに、人々もがそこに巻き込まれ、神様にアーメンと心が向いて、御言葉に心が動くのです。滅び行く有限の人間に、永遠の思いが宿り輝き、神様は生きておられると、信仰と讃美が生まれる奇跡は、それは聖霊様の力です。

少し前、同窓会に行きましたら、20年ぶりに会う旧友がいて、お互いおやじになったねゃとか話しておりましたら、ふと、野口、おんしゃあ相変わらず人の話を聴いてないねゃと、その場が大笑いになりました。そうよ、まっこと私は人の話を聴かん人間やったと自分でもおかしくなりました。洗礼を受けていつの間にか、まあまあ聴くようになったのです。感謝すらされることもあるので、忘れていましたが、そうでした。余りにも人の話を聴かんので、意識して聴くようにしているだけです。聖霊様のお力がなかったら、ただの器用な罪人で、その通りなのです。誇り得るものなど何一つないのに、なのに神様は私を見つけ、憐れみ、愛を注いで、罪を赦して下さった。そしてその愛の証人となれるよう、キリストの証人となれるよう、聖霊様をくださった。それが教会の立つ理由です。神様が選んでくださった。神様がご計画くださって、御子を降して十字架につけられ、聖霊様を降して私たちに住まわせ、人の思いと罪と死に打ち勝つ信仰の説得力をくださった。その三位一体の神様に感謝して、そうです、あなたが、私たちの主ですと、教会は、ただ神様の力を信じることで、不思議な力を発揮するのです。自分を信じないでむしろ捨てて、それさえ悩み苦労する私たちをもお見捨てにならない、キリストをくださった父の恵みと聖霊様のお力を信じて、ただただ純朴に従っていく。教会はそうやって立ったのです。これからも、そうやって立って行く。恵みの神様に見捨てられないから、私たちも見捨てず、主の恵み深い御業に巻き込まれる中で用いられていく。それが私たち、キリストの証人であるのです。