12/4/22礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書24:28-35、イザヤ書55章8-13節 「この先について行こう」

12/4/22礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書24:28-35、イザヤ書55章8-13節

「この先について行こう」

 

聖書の御言葉を聴いていた時、心が燃えていたではないか。説教とも言えるでしょうし、一人で聖書を読んでいるときにも、同じ体験をすることは少なくないと思います。私が思い出したのは、20年前、イエス様を信じたときのことです。その日、私は相当な挫折を体験して、自分がもう信じられなくなった。いま思うと良いことですが。そのとき、ふと聖書が目に留まり、ギデオン協会からもらった聖書で、こういうときはここを読みなさいという手引きがついていた聖書を手にとって読み始めました。何や、この言葉はとか、何を言いゆうかわからんとか、文句を言いながら冷めた思いで読んでいたのですが、何故だか頁をめくる手が止まらない。次は?次は?と御言葉を読んでいるうちに、肩に食い込んでいた重荷が落ちて、変な嬉しさがジワジワ込み上げてきた。そして、それまでは、どっか遠くで、神は愛ですと、遠くぼんやりと神は愛だと思っていた、その神様の愛が、わっと目の前に近づいて、まるで十字架のイエス様が私のすぐ側にいて、幸生、わたしはあなたを愛している。こんなにも、と十字架に釘打たれた両手を拡げておられる、イメージというか、リアリティーというのか。うわ、イエス様おる!という否定できない、おる!という体験をした。イエス様、信じます、あなたを私の救い主、主として私の内にお迎えいたします、主よ、私をお救い下さいと、聖書の言葉に導かれて祈り、イエス様を私の救い主として受け入れました。20歳のときです。説教の準備をしながら、その熱い喜びを改めて思い出しました。確かにイエス様は私のもとに来て下さった。いや、本当はもうずっと前から一緒に歩んで下さっていたのに、私はちっとも気づいていなくて、でもそんな私を神様はその大きな愛の手に捕まえてくださり、そして信じさせてさえ下さった。改めてそう思います。主はとっくに共におられたのだと。

似たような、と言いますか、こっちが元祖なんでしょうけれど、この二人の弟子、クレオパ夫妻だと言われますが、この二人が語り合いました言葉を直訳すると、こうです。私たちの心は私たちの内で燃えていたではないか。確かに心は燃えていた。でも、体全体にまでは行き渡ってなかった。体全体はまだそのとき、燃えてなかったと言う。これはよくわかるのです。挫折感を引きずって思いは冷めているのに、聖書の頁をめくる手がとまらなかった。何かわからんけど燃えている。後でわかるのです。燃えていたことが。聖書を神の言葉として改めて説き明かす説教を聴くというのも、そのときは、何が起こっているかわからんでも、何かが、確かに何かが心に残って、いや心を燃やしてさえいるというのが後でわかったりする。それは、言葉の意味がわかるわからんの問題ではなくて、その言葉が、これがそうです!と指し示している神様の愛を心が聴く。そして、その愛を心が求めるか求めないかではないかと思います。そのときはわからいでも、神様の愛を求める中で、あ!私、神様に愛されちゅうと、神様に出会うとき、愛がわかるときがきっと来るのです。御言葉がわかるってそういうことでしょう。熱が金属をじわじわと伝わっていく。それを熱の伝導と言います。字は違いますが、神様がなさる福音伝道も、同じなんだなとよく思わされるのです。

復活されたイエス様が、クレオパたちに伝道された。ほら、神様はこんなにもあなたがたのことを愛しておられて、ずっと前からあなたがたの救いを用意されておったのだと、聖書全体を説き明かされて、伝道をされた。たぶんその全部はわからんかったのだと思います。でもわからんけれども、わかるのです。このときを逃してはいけない。なんか神様を逃がすみたいや。それはいかん。是非、是非、私のもとにお泊り下さいと、無理に引き止めたとあります。ある本を読みましたら、そうだ、それが神様の求められることだとありました。愛の関係って、確かにそういうところがあるかもしれません。例えば親子でも一方的に愛を注ぐだけでなく、この子から愛されたいと思う。じゃあ仕事いってくるきと言っても、いや、いかんとってと引き止められると嬉しい。嬉しいどころじゃなくて愛の確かさを感じます。この関係は正しいと思うのです。ですからイエス様、引き止められて、相当嬉しかったろうと思います。主に対して何ですが、鼻の下伸びておったんじゃないかとさえ私は想像します。ちなみに私は顔に出るタイプですので、妻いわく相当伸びているみたいです。イエス様もそうじゃないろうかと勝手に思っています。

引き止められてイエス様、共に泊まるために家に入られます。あれ、でもイエス様、結局泊まってないのにと思うかも知れません。直訳は、彼らのもとにとどまるため、です。ずっと残る。住まいにして下さるとさえ訳せる言葉です。宿ると訳したほうが良かったでしょうか。主が、宿って下さった。宿るため、ずっと一緒に住むために、家に入られた。これは後々、イエス様を主としてお迎えすることを表す言葉になりました。讃美歌の39番でも歌われます。日が暮れてきました。主よ共に宿りませと歌います。それは人生の夕暮れにおいても、主よ、どうか共にいて下さい、暮れを迎える命の主として、ずっと共にいて下さいと歌う。大変美しい歌です。信仰の美しさをしみじみ思います。そしてイエス様の救いの美しさを思わされます。その信仰を先にこう告白しました。主は聖霊によって宿り。神様が人として宿られた。どうしてか。私たちの命に、命の主として宿られるためです。ずっと永遠に留まって下さり、世界が滅び去って行く終わりのときも、私たちがずっと神様の赦しのもとに、十字架のイエス様のもとに留まって、いや、イエス様が、私の主としてずっと留まり続けてくださって、私たちを罪と滅びから救い出されるためにです。そのために、神様は本当に十字架で罪を赦された。

だからイエス様は、招かれたクレオパ夫妻の家の食卓について、主としてパンを裂くのです。ユダヤでは、家の主人がパンを裂く。あら、うちの主人もご飯よそう係よと、ま、是非そういう素晴らしい家庭を築きたいものですが、ユダヤでは、いつでも主人が食卓の主、テーブルマスターとしてパンを皆に配るのです。え、でも、クレオパさんの家やに、どうしてクレオパがやらんがと思う場面でもあります。三人で家に入って、何もありませんけれどと、急ごしらえでパンだけ出したのかもしれません。干し魚くらいはあったでしょうか。で、自然にすっとイエス様が、どうぞお座りくださいと二人を座らせ、ご自分は立ったままパンを取り、ユダヤ人が食前に祈る、いつもの讃美の祈りを唱え、二人にパンを裂いてお渡しになったのでしょう。あまりにも自然な流れで、二人もすっとそのまま祈りに目を閉じ、ひょっと心で思ったでしょうか。この祈り、聴いたことがある。アーメン。目を開いたら、イエス様がパンを裂いて渡してくださった。あ!私たち、前にもこうやって、イエス様に命のパンを頂いておった。イエス様や!パッとわかった。祈って、神様の前に出て、それでわかった。食前の祈りで何を祈るかと言えば、このパンはあなたから頂いたものですと、あなたがこの食卓を備えて下さった私たちの主ですと、すべてが神様に依存していることを感謝するのです。私の命は私のではない。命もパンも、何一つ、主から与えられることがなければ、私は生きてさえいけんのですと、神様にひれ伏す祈りが食前の祈りであればこそ、そのとき目が開けたというのは、よくわかる気がするのです。それまでは目が遮られておった。前の頁ですが、私私の思い込みやこだわり、だってそうだろうという自分にとっての当然、自分自分しか見えてないとき、目が私私で遮られる。事実、他の人さえ見えんですよ。あなたは私を見てくれてないとか、愛してくれてないとか、ま、そこまで露骨には夫婦喧嘩ぐらいでしか言わんかもしれませんが、そういうことでしょう。ましてや自分が自分がのモードのときは、自分が主になっていますから、主が見えない。ずっと一緒におってくれたのに、そのために救い主として、主として来られて、主として歩んでくださっているのに、仮に見えても、せいぜいお客さん扱いでしかないということは、弟子たちであってもあるのです。違うでしょうか。

でもイエス様は、そういう私たちであればこそ、御言葉を語られ、心を神様の愛で温められ、イエス様を主として招く備えをされます。洗礼を受けてもそうでしょう。主を自分の家に招いた私たちは、主に全ての部屋のカギをお渡しすることができるのです。ここは私のプライベートだという部屋はありません。その部屋で行われる罪もイエス様は十字架で負われて死なれたのです。その部屋こそ、わたしに掃除させて欲しいと主はおっしゃっておられんでしょうか。主は、私たちの家の主として宿ってくださり、家庭の主として、生活の主として、人生の主として、復活の光を携えて、くまなくわたしが照らそうと、そしてわたしが清めようと、主として宿って下さったのです。その主に、どうぞと祈るのです。私の主としてお迎えし、命の主となって頂くときに、重荷は落ち、自分自分の遮りが落ちて、目の前も明るくなるのです。

私が私の主でないなんて、何と軽やかで自由でしょう。クレオパたちの足取りは、それはもう軽かったろうと思います。エルサレムから来た同じ道、しかも夕暮れで暗いなのに、きっと明るくさえあったのです。心を神様の愛で燃やされ、体も軽く重荷が落ちて、暗かった顔が明るくなって、仮につまずいて倒れても、さあって、立ち上がったろうと思うのです。主が来て下さった!主が私たちの主として来て下さった!と、顔を見合わせ、息を切らせて、一分でも早くこの知らせを、主は生きておられるという救いの喜びを、皆に伝えたくて走りに走った。12キロはある道です。でも燃えているのはもう心だけじゃない。体全体、人生のすべてが、私は神様に愛されていると燃やされて走る。

仲間のところに着いてびっくり。え、シモン、つまりペトロにも主が現れてくださった?何だってがっかりしたでしょうか。むしろ励まされたと思います。だって私の体験などよいのです。主が生きておられる。本当に主は、私たちの主として生きておられる。それが心から嬉しいのです。教会が、あるいは清和学園が、イエス様イエス様と言いゆうのも同じです。皆と分かち合いたいのです。神様は私たちを愛されて本当に生きておられると。神様の愛に照らされて、一緒に走りたいのです。