12/4/15礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書24:13-27、詩編119篇129-136節 「暗い心を照らされる主」

12/4/15礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書24:13-27、詩編119篇129-136節

「暗い心を照らされる主」

 

そろそろ暖かくなってきまして、この辺ですとお遍路さんを見かける回数が増えてきます。あれ?ここキリスト教会でねえと不安になられた方がおられたら、ええ、ここからイエス様を語っていきますのでご心配なく。で、お遍路さんですが、白装束に同行二人と書いてある。最近はバスツアーも増えましたから、団体26人ぐらいだったりしますが、教会ですと、それでいい。むしろそうでないといけないぐらいでして、使徒信条でも、私は聖徒の交わりを信じますと、私たちが信じるイエス様の救いを告白します。私たちのため復活されたイエス様が、暗い顔をした二人の弟子たちに近づき、寄り添われ、一緒に歩き始めてくださった。何と幸いな、明るい救いかと改めて思います。復活されたイエス様は、最初から教会の交わりを目指されました。先週も、洗礼を受けて家族が一人増えました。復活された主と共に新しい歩みが始まった。その歩みが、けれど主と私という二人に限定されることは決してありません。私たちが神様との交わりを回復したら、人と人との交わりもまた、正しい交わりに回復されていくのです。即効すぐにではありません。交わりが苦手な人も少なくないでしょう。でもここで一緒に御言葉を聴くとき、主がここで交わりを開始しておられるということは、信じられるのではないでしょうか。主が御言葉を語ってくださり、その御言葉を信じるところで、交わりが生まれる。無論、聴くだけでなく、聴いて心が照らされて、更には燃やされもして、そうだ、主の望まれる救いの交わりに生きようと、主の望まれる道にお従いしていくとき、例えば会話の態度が変わるのです。御言葉に照らされた会話や対話になっていく。イエス様の御言葉を聴いて、その上での対話、交わりになっていきます。

説教は単に講義を聞くのではありません。私もキリスト教の説明をしているつもりはありません。キリストが復活したということを、どうやったら論理的にわかることができるだろうかなどと、ただ論じ合っているところでは、顔は暗いままであるのです。たとえ暗い表情ではなくっても、話の中心に燃えている光があるでしょうか。主が伴って下さったこの二人も、御言葉が語られるのを聴くまでは、暗い顔つきをしていました。それまでも宗教的な話ならしておったのに。宗教的な交わりでは足りません。明るい交わりの中心には神様の言葉がいるのです。

二人の顔つき、これは私よくわかる気がします。まだイエス様を信じる前、たぶん私の方から質問があって、ある牧師に問うたのだと思いますが、その牧師が丁寧にイエス様の救いを教えて下さった。でも私は、結構です。私は頑張っていますから神様に認められると信じています。イエス様の身代りは必要じゃないですと答えた。そのときの私の顔は、きっと暗い顔をしておったろうと思うのです。

この二人の人は、おそらく目指す村エマオに住んでおった夫婦だろうと言われます。イエス様の力ある福音伝道に触れ、どこかの時点で弟子となり、12キロほど離れたエルサレムにまでついてきておったのですけれど、イエス様がそこで十字架につけられて死んでしまう。夫婦して目の前が真っ暗になったのでしょう。他の仲間たちと一緒に隠れておったのかもしれません。安息日が過ぎたら帰ろうと思っておったところに、早朝墓に行った婦人たちが駆け込んできて、墓に主の体はなかった。主は生きておられると天使が言ったと言う。それを聴いた他の弟子たちも同様に墓から帰ってきて、体が見当たらんかった。何が起こったかわからない。復活すると御言葉が語られてはおりましたけど、その御言葉を信じてないのでは、やはり暗い顔をしておったのではないでしょうか。わたしは必ず復活することになっちゅうとイエス様が言いよったろうと天使に思い出させられ、墓に行った婦人たちは信じ始めておったのですが、まあ男は頭が固いということでしょうか。けれど墓に一緒に行かんかったクレオパ夫人もまた目が遮られていて、既に一緒に歩き始めて下さっておった主がわからんのですから、男だけでもないのです。

暗い顔。目も遮られている。見えなければならないものが、見えなくなっている暗い顔。考えることをやめたというのではありません。論じ合いながら家に帰っておったのです。私がそこにおったなら、相当に論じて論じて理屈を捏ね回して、妻はもっと暗い顔になっておったでしょう。でもいくら論じても、目が遮られておったなら答えは出ません。出たとして、信じますという答えになるでしょうか。考えるのをやめるよりは、私はよいと思います。考えるのを止めたら大抵、欲望に走りますから。でもそこで考えようと考えまいと、信じるという答えが出んのなら、そもそも私は神様の救いを、どんな救いだと考えているのか。何からの救いだと信じているかが、暴露されるとも言えるのです。自分を信じる救いなのか。そんな自分が信頼できないからこそ、この罪の私を、罪と裁きからお救い下さいと、神様を信じる救いの信仰か。

中世のアンセルムスという神学者のよく知られた言葉で、私は信じるために考えてわかろうとするのではなく、考えてわかりたいから信じるという言葉があります。自分に依存して、自分の力を信じているか。わからしてくださる神様に依存しているか。その違いがよくわかる言葉だと思います。自分に依存しておったなら、話している相手が誰かさえ、わからないままだと言うのです。二人は弟子です。イエス様と既に歩んできた弟子でも、目が遮られておって、相手が誰か見えん。主と仰ぎ、望みをかけてさえおったのに。二人はどんな望みをかけておったのか。私たちは、イエス様の何を信じて、何を望んでいるのでしょうか。もしイエス様が、どんなお方かを知らなかったら、そしてどんなお方かを知るために、信頼することがなかったら、しかも自分の望みや思い込みは捨てるようにして、相手に依存し、信頼することがなかったら、やはり自分の見たいものしか、見えなくなってしまうのです。

ならばこそ救い主は、自ら近づいて来られます。どんどん離れて行く弟子たちに、復活された主が自ら近づいてくださって、一緒に歩き始められ、優しく問いかけてさえくださって、それでなお私たちは暗い顔を主に向け、え、何言いゆうが?ということをするかもしれませんけど、それでもなおです。主は、ならばこそ、あなたにはわたしが必要だと、私たちに近づき、寄り添われ、御言葉を語ってくださるのです。

ここが救いの急所です。私たちでなく、神様が、自ら近づいて下さるという恵み。この神様の恵みによって救われる救いこそ、キリストがくださった救いです。それを救いの原因、スタートと呼ぶならば、救いのゴール、結果は、罪からの救いです。これがはっきりしてなくて自分の信仰になっていないと、何故イエス様がここで二人に聖書を説き明かされ、神の言葉を語られたのか、わからんなってしまいます。まあ、わかったほうがえいというオプションではありません。わからんかったち、わたしは一緒におるからねという、そんなナイーヴな救いではありません。どうしてイエス様が来られたか、わかってもらいたいからこそ、主はわからん弟子たちに自ら近づかれるのです。主は既に来られ、私たちの目が遮られておって見えてなくても、主は聖霊様によって、また教会によって確かに共に歩んで下さる。それはゴールがあるからです。一緒に歩んで下さるのは、救いのゴールがあるからです。私たちが、しかも世界中の人々の救いのためにも、罪から救われるというゴール。それが復活という救いです。罪からの完全な贖い、解放です。そのために主の弟子として目が開け、自分の罪から解放されて、もはや自分に依存せず神様の救いに依存して、そこに自分という存在をも見えるようになる。自分が誰だかわかるようになる。そうだ、わたしは主の弟子だ。復活をされた主の弟子として、主と復活の歩みをする者として、御子の死によって罪赦され、復活によって栄光に招き入れられた神の家族の一員なのだと、復活の主が見えるとき、救われた私も見えるのです。ならば私はイエス様に従って、イエス様がそうであられたように、天の父の御心に生きよう。主の熱情に身を捧げよう。主が愛と命を注がれた、あの人、そしてあの人の救いのために、主の愛される隣人の救いに、私を捧げて生きていこうと、そのとき、イエス様が誰だかわかるのです。主の復活が、私たちのためだとわかるのです。主が苦しみを受けられて、栄光に入られたのは、このためだった。私たちが、救いに生きるためであったと、目の前が明るくなるのです。

わかる、しかもイエス様の救いがわかるというのは、つながるということでもあります。心がつながるとき、ふっと、その人がわかる。同じように、イエス様の十字架の愛が心でわかる。私に復活を与えようと、私のゴールを勝ち取ってくださり、ゴールまで一緒に歩まれる主の、私に対する誠実な愛が、私が復活することへの熱情であることがつながるとき、私が誰であるか、どこに向かって救われているか、わかる。またすぐ物分りが悪くなる程に、心の鈍い者でもあるのですけど、だから、わたしはあなたと共に世の終りまでいつもいるとの、主の御言葉もまたわかるのです。鈍いというのは、運動神経が鈍いというようなスロー、遅いという言葉です。幸生、あなたはわたしを信じるのが遅い。私の愛をわかるのが遅いと叱られている言葉でもありますけれど、何で主が、遅いとお叱りになられるかと言ったら、待っておられるからじゃないですか。わたしのもとにきなさいと、あなたはわたしに従いなさいと、主はいつも私たちを待っておられる。なのに、へちに向かって行こうとする弟子たちにも、主は近づいて下さって、自ら寄り添ってくださって、御言葉を語ってくださるのです。だから見えるようになるのです。目を遮っていた罪の欺きも、私がどんなに愚かであったかも、そしてそんな私を愛してくださり、命を投げ出して罪を赦して、復活を用意してくださった主イエス・キリストが、一体どんな栄光にお入りになられたか、主に伴われ向かうゴールが、御言葉の通りに見えるのです。そのゴールでは、すべてのものが膝をかがめて、イエス・キリストは主であると、御子をお与えくださった、父なる神様を讃えるのです。この栄光の光に照らされて、顔は明るくなるのです。御言葉に照らされて見える救いの道を、教会は主に伴われ一筋に、皆で一緒に歩むのです。