12/2/26礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書23:13-25、詩編2篇1-6節 「無責任な大声」

12/2/26礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書23:13-25、詩編2篇1-6節

「無責任な大声」

 

この好きなようにさせたかどで、歴史に名を残すことになったのが、ローマ皇帝からエルサレムの統治を任されたローマ総督、ピラトです。教会は、ポンテオ・ピラトの名を、主日の礼拝ごとに口にさえします。言わずと知れた使徒信条の一節です。主は、ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられと、三位一体の神様以外、固有名詞で名前が出てくるのは、この人だけですから、ある意味すごいことです。もし、いやあ私、実はピラトの末裔で、と言う人がおったら、え、あ…あの、そうながやって、リアクションに困るかも知れません。あるいはキリストを十字架につけた張本人のように思っている方も、ひょっとおられるかもしれませんが、果たしてそんな他人事でしょうか。ピラトは全人類を代表して、使徒信条に名を残しているのではないかとさえ思うのです。キリスト者もそこに入れてです。

イエス様を十字架につけて苦しませたかったというのは、そもそものピラトの考えではありませんでした。むしろ、何とかイエス様を十字架につけることは避けたいと、総督として自分に託された治安維持の責任を正しく果たそうとした点では、自分の仕事に真面目な人だったとさえ言えるでしょう。そのために、イエス様をどうするかの裁きにあたり、民衆を呼び集めるということもするのです。ユダヤ教指導者たちがグルになってイエス様を殺そうとしていたのは知っていましたから、彼らとだけ話しておってもらちがあかん。イエス様がエルサレムに来られたときに、喜んで迎えておった民衆も裁きの座に呼び集めればと、オープンな裁判にして、イエス様を釈放しようと考えた。が、です。「しかし」と御言葉が語るときは、え?!という驚きがそこに聴こえます。え?当然、釈放やおうというところで、しかし、人々は一斉に、その男を取り除けと叫びだす。それが直訳です。まるで異物を取り除くように、あいつは私が思っていたような救い主とは異なる異物だ、腹が立つ、取り除け、排除して、私が生きている世界からは取り除かれて、もういなくなって欲しいと。ピラトは我が耳を疑ったのではないかと思います。どうしてそんなにも急に、民から憎まれるようになったのか。神殿では昨日まで熱心にイエス様のお話を聴いておって、どうしてそれが突然、もう嫌だと言うのか。その移り気の速さは一体何か。釈放されるべきは、こちらのほうだろうと、再度、民衆に呼びかけますけど、今度は、十字架に、十字架にぶらさげろと叫び、しかも叫び続けて止まない。その叫びをさえぎるようにして、一体この人物がどんな悪を行ったと言うのかと尋ねても、ユダヤ教指導者達と同じで、答えない。その代わりに、ますます大きく強くなっていく民の叫び声。十字架につけろ、私の人生から永久に取り除いてしまえという怒声、大声が席巻する。

皆さん、大声って、どういうときに出されるでしょうか。もう何年も出してないという方もおられるかもしれませんが、できるもんなら、このことを大声で言いたいという方も、あるいはおられるのかもしれません。主張とも言えるでしょうか。私は説教のスタイルとして、これは、私の牧者から学んだスタイルですが、声を大きくして語りかける部分があります。ここは特に心に刻んで欲しい主の御言葉であると、意図的に声を大きく、神は愛ですとか言うことがありますが、普段は違います。例えば家族でファミレス行って、食後コーヒー欲しいろう、そうやろうとか言いだしはせん普通の人ですので、安心してご相談ください。

ところでさっき、主張と言いましたが、言いたいこと、あるいはやりたいこと。こうなって欲しい、こうして欲しいという主張がある。誰にもある。こうして欲しい、あるいは少なくとも私にこうさせて欲しい。私にそれを認めて欲しい。誰もが、そういう主張は持っている。それが大声になっていく。そこには群集心理も働いていると思います。例えば学級崩壊ということがおこる。皆がやっているからと変な勇気が出て、やってはならんことをする。むしろ一緒にやらん者たちを裁く思いすら出てくる。そしてどんどん騒ぎ声が大きくなる。大勢だと図に乗ってくるということもあるのでしょう。脳にドーパミンやアドレナリンが放出されて一種の快楽さえ覚え、何が悪い、当たり前の主張だという気持ち良さを覚えたりするのは、子供だけに限ったことではないと思います。

またそれは必ずしも大きな声に限ったことではないとも思うのです。自分一人くらい別にかまんろう、これっくらいかまんろうという、小さな主張で罪を犯すこともまた多い。むしろ、群集の大声にかき消され、隠蔽されてしまっているのが、個人個人がつぶやいている、小さな主張ではないでしょうか。自分一人ぐらいと思うにせよ、皆がやりゆうきと思うにせよ、いずれにしても、自分の好きなようにさせて欲しいという言い訳として、群集が利用される。群集の中に身を隠し、顔の見えない匿名となって、好きなことをする誘惑があるのです。インターネットもそうかもしれません。顔も名前さえわからないで好きなことを言える。そして自分の主張とは異なる誰かとぶつかったとき、これも匿名の誘惑でしょうか、異常な凶暴性が露出することが多いのです。殺人が起きたケースさえある。イエス様に対する凶暴性も同じなのかも知れません。その反動でしょうか、名前も実名、顔写真も載せて互いにつながりたいというフェイスブックというインターネットの仲間つくりもあると聞きます。つながってはいたいのです。それもまた、真実な主張でしょう。人間は神様の形に造られたのです。その名を愛と呼ばれる神様、父・子・聖霊の三人が、お互い別個の人格でありながら、でも互いに愛し合い、完全に一つ、まったく一つの神様としてつながっている。その三位一体の神様の形に造られた私たちですから、つながってないと不安になる。出生の奥義ゆえそうなのです。つながっていたい。誰かを愛したいし、また愛されたい。でも、自分の好きなことをしたくて、心が分かれる。苛々する。そういう自分を何とかまとめてやっていこうと決意したり、あきらめたりしながら、自分という存在を受けとめていく。

その私が、群集という、匿名で顔も見えない大声に流されて、本当にそれが自分のしたいことなのか、本当にその生き方を私はしたいのか、それすらもわからなくなるほどに自分が見えんなる匿名の群集の中に、人は自分を消したらいかんのです。たとえポンテオ・ピラトのように、結局は、そうやって群集の力に負けて、正義を引き渡し、自分の責任を群集にとらせて、だって彼らがそうしていたから、本当は私の意志ではなかったのだと、結局は群集のせいにして無責任になってしまうことがあっても、なお神様から、いや、それでもあなたには責任がある。正義を行う責任があり、弱い者を守り愛する責任があり、もしもその責任を果たさなかったら、わたしの前で、その任された愛の正義の、不履行の責めを負う責任があるではないか。あなたはそれを知っているはずだと神様が実名で私たちに呼びかけてくださる。主は、ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ死んだのだと、そこにあなたの名前はないか。あなたのもとで御子は苦しんだのではないか。あなたの顔はどこにあるのかと、主は向き合ってくださるのです。キリストは、そこに私たちの顔、十字架で負うべき罪を背負われて赦されるべき一人一人の愛する顔を、見てくださっているのです。神の形に造られた人、あなたもそうだろうと、呼びかけて下さっているのです。

前にも紹介したことのある、キリスト者作家三浦綾子さんの作品で、『愛の鬼才~西村久蔵の歩んだ道』という私の愛読書があります。その西村さんという実在のキリスト者が、イエス様を信じて救われたときの場面が心に残っています。まだ洗礼を受ける前、牧師から、イエス様が十字架につけられている場面を教会で聴いていた。すると、聴いているうち、まるでイエス様を取り囲む群衆の中に、自分の顔が見える思いがして、ハッとした。誰でもない、私の罪と汚れが、イエス様を十字架につけろ!と叫んでいる。その自分の顔、声が、そして十字架のイエス様が迫ってきて、涙がとまらなくなり、教会から夜遅く家に帰ってからもコタツの中で、イエス様ごめんなさいと祈り続け、翌日、洗礼の願いを届けたら、喜びの内に聞き届けられたという証が記されています。私はその頁を捜し、全部読みたくなる衝動と闘いながら改めて読みました。またそこには、西村さんの教師時代の教え子で後に作家になった人が、その体験について書いた文章も載っていました。十字架の群集に我が身を置き、私の罪がキリストを殺したと思う人は普通いない。異常、いや天才だと、おそらく好意的称賛だと思いますが、果たして異常や天才でなければ、そこに自分の顔を見ることはできんのでしょうか。自分の顔を見ても、心が伴わんということでしょうか。でもたとえ涙が出なくても、そこに厳粛な思いをもって自分の顔を見ることは、できるのではないかと思うのです。もしそこに自分の顔を見よう、自分の大声を聴こうとするだけなら、挫折するかも知れません。でも西村久蔵はそうではない。彼が大声で叫ぶ自分の顔を見ることができたのは、その顔をそこで憐れんで見て下さっている、十字架のイエス・キリストのもとで見たからです。十字架のイエス様の前でのみ、我が罪を負って下さった神様の前でのみ、私が自分の罪の顔を見る勇気も、恵みとして与えられます。十字架を負われた主を仰ぐときに、私たちは自分が誰であるかを真実に知って、罪に覆い隠されていた本来の私、神様の子供として造られた、神様の形に生きられるのです。それは異常でも天才でもない、キリストが誰にでも与えて下さる、救われた者として生きられる恵みなのです。救われてなお主張があって、好きなようにさせて欲しいと、大声を出したいときでさえ、そこで救われた者として、主を仰ぐ者として、自分の声が聴けるのです。その大声を差し出し、主よ助けて下さい、憐れんで下さいと祈ることができる。十字架の主の御声を聴くからです。好きなようにしたいというその罪を、わたしは背負い、あなたを救う。あなたの罪と死をわたしが背負う。それこそが、わたしのしたいことだから、あなたをわたしは救いたいのだと、十字架のイエス様が言って下さる。救われて欲しいと言って下さる。その声が私たちの大声も救うのです。イエス様の望みこそ、私の望むことですと、救いを与えられるのです。