12/5/6礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書24:44-53、イザヤ書61章1-11節 「喜びを伝える大使たち」

12/5/6礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書24:44-53、イザヤ書61章1-11節

「喜びを伝える大使たち」

 

以前かわら版で紹介したことのある話ですが、ある女性が米国にホームステイしたとき、その家のお母さんが大変な日本びいきで、大歓迎をしてくれた。そして、まあ今の米国らしいと思いましたが腕にタトゥーで漢字二文字、大使と彫ってある。何だろう、日米親善大使でもやってたんだろうかと思っていたら、お母さん、少し自慢げにそのタトゥーを指さし、満面の笑みを浮かべてこう言った。エンジェル。…おばさん、それは天使や。線が1本足らん、と言いたかったのだけれども、それを英語でよう言わんので、こちらも満面の笑みで、イエス、エンジェルと応えたという話が新聞に載っていました。まあでも、エンジェルは神様から遣わされた使いですので、大使でもある。そんなに間違ってはいません。むしろ聖書が語る天使の役職を適切に言い表してもいるのです。

いよいよ今日でルカによる福音書の説き明かしも最後になりますが、ここでイエス様が昇天される前「あなたがたはこれらのことの証人となる」とおっしゃった。その証人としての務め、あるいは役職を、聖書の他のところでは、キリストの大使と言うこともあるのです。教会、そして教会に召された一人一人はキリストの大使としてエンジェルである。私とあなたがエンジェルです。主のエンジェル。いいですね。でも彫らないでくださいね(笑)。

大使というのは、ときに国の全権を背負っての務めを果たすこともある大切な務めです。そんな務めを私は果たしうるだろうかと、逃げ腰になる重たい言葉であるかもしれません。でも、ならばこそ、ここで主がおっしゃった、あなたがたは証人となる、言わば裁判の場で証人喚問がなされるときに、あなたは証言をする人だと言われている。そのことに集中するのが良いと思います。たとえば突然事件に巻き込まれ、証人にさせられるときがある。資格なんていりません。あるとしてただ一つ。その出来事を体験した。それを証言するだけです。偉い人になる必要はありません。むしろ起こった出来事をそのまま正直に伝えるためには、自分を偉く見せようとかせんほうが良いのです。

証人となる、と訳されていますが、直訳は「証人である」です。この後ルカが記した使徒言行録では、聖霊様を受けて力を受けて、主の証人となる、説得力を持った証人となると強調点が変わりますので、そっちでは確かに「なる」なんです。それも大切な強調です。確かに説得力は必要です。でも、ここでは強調点がそこにありません。むしろ、あなたはそのままで、ただイエス様の救いを受けた、体験した、十字架と復活の出来事を自分の救いの出来事として、まるで事件に巻き込まれるようにして、それを受けたでしょう。それだけで良い。それが資格だ。他は何ちゃあいらんから、あなたはもう既に証人だと、そう言うのです。訳が、ちょっと使徒言行録に引きずられたんでしょうけど、ここでは主が別に強調点をお持ちなのです。あなたはわたしの救いの出来事の中に、巻き込まれるようにしてであっても、これを体験したではないか。ならあなたは既に証人であるとイエス様は言われる。

いや、でも私たちは当時の弟子たちのように肉眼では見てないし、と思うかも知れませんが、たぶん人間というものは肉眼で見ても、幻覚を見たとか思うのでしょう。だから主も、弟子たちの心を開かざるをえませんでした。意識と言ったほうが直訳に近いでしょうか。たとえば自分が人からどう見られているだろうかと過剰に意識するのを自意識過剰とか言います。美しい人が近くにいたら意識します。説教を聴きながらも意識がそっちにいって、心ここに在らずということにもなる。強い香水もそうでしょうか。このときの弟子たちは、じゃあどうか。イエス様の御言葉に意識を集中できたかというと、何かズレちょったんでしょう。自分の意識に引きずられ、どうしたら自分は迫害を受けなくてすむろうとか、生活はどうなるろうとか、あるいは自分は嬉しいというそこだけに集中してイエス様のお言葉が聴けないとか。とかく心はズレやすく、そこから言動もズレるのです。イエス様の救いの証言がズレてしまい、別に悔い改めはせんでもかまんとか、めいめいが救われたと自分で解釈しておればよいとか、救いまで自分自分になり易い。

だからイエス様が御言葉を語られるとき、意識が開かれんといかんのです。御言葉そのものに集中して、そこで語られている神様の思いに、バチッと集中するときに、自分の歪んだ考えや生活スタイル、信仰さえもが、御言葉を中心に、方向修正されていく。そうすると、素直な証人になれるのです。自分の弱さを隠そうとか、強いキリスト者として印象付けようとか、自分の信仰が正しい信仰だとか、そういう自意識過剰の証人になる過ちから御言葉によって救われて、聖書を悟らせて頂ける。

聖書で神様が語られているのは、このことです。人を罪から救い出すため神様が与えられた救い主、メシア=キリストが苦しみを受け、復活をする。そう神様がお決めになられた。造り主である神様が、自分自分の人間の罪を自らに負うため人となり、身代りに死んで下さって、主として復活をして下さった以上、私たちたちは今の考え、生活スタイル、神様からズレて生きてきた全ての道を、罪から方向修正して生きるよう神様の救いに招かれている。神様と隣人に対して加害者である罪を悔い改めて、赦されて新しく生きられる道へと、キリストによって召されている。全世界がそのようにして、キリストの救いに招かれている。それが聖書の語っていることであり、神様がお選びくださった救いであり、ズレ易い人間が、なおズレから、罪から、滅びから救われ生きられる道である。あなたがたは、そのキリストの救いの証人であると、主は私たちの意識を、ここに全集中させられるのです。あなたの罪は赦された。わたしによって赦された。そこに集中して生きるあなたの方向転換を、悔い改めて生きられる自由と喜びを、全世界に向かって証言しなさい。あなたにはそれができるじゃないかと。尚、その証言が説得力を持つために、教会に聖霊様を約束すると、弟子たちを祝福されたのです。

私の尊敬する伝道者に、アーサー・ホーランド宣教師がおりますが、この方がイエス様を信じて伝道者になったとき、それまで格闘技を教わっていた師匠から、こう言われたそうです。お前の信仰は自然体だな。アーサー先生は相当型破りな伝道者なのですが、確かに見ていて自然体だなと思います。先生自身、最高の褒め言葉として聴いたと述べていまして、私もかくありたいと青年時代に憧れました。何年もたってから、ある人から、野口先生は自然体で安心すると言われたとき、大変嬉しく思いました。自分から見たら破れだらけで、あるいはそれを隠そうと、等身大の自分以上に大きく、東神大で学んでおきながら背伸びをして、立派な伝道者に見せようと偉そうにしていたり、自分ではこんな罪人が牧師をやっていていいのかと自問自答する日々でありながらも、そんな私を巻き込んで、キリストの救いの中に巻き込んで下さって、自然体に見せてさえ下さっている。そのイエス様の救いに、肩の荷が降りたように思いました。イエス様が、重荷を負うものはわたしのもとに来なさいと招いてくださった。わたしがあなたの罪を負い、わたしが責任を取ってあげるから、あなたはその証人となりなさい。いや、もうそのままで証人だろうと、破れた弱い弟子たちを、そうです、わたしは赦されたのです、イエス様がわたしを愛しておられるのですと、証言する者として下さるのです。主は、そのような私たちを祝福されます。赦された者としての喜びと自由、主のものとされて、主にとらえられ、愛されている喜びを、そのまま生きたら良いのです。それがキリストの大使です。

12/4/29礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書24:36-43、ネヘミヤ記8章9-12節 「この喜びの中にあなたを」

12/4/29礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書24:36-43、ネヘミヤ記8章9-12節

「この喜びの中にあなたを」

 

復活されたイエス様が、もしゃもしゃと焼き魚を食べられるご様子を見て、皆、どんな思いだったろうかと想像します。もし幽霊やったら魚をつかむこともできんろうけど…あ、取った。あ、食べた。全部見られていますから、イエス様も随分食べづらかったがやないろうかと推測しますが、そうではあっても、そうやって皆に取り囲まれて、イエス様がただ魚を食べゆうだけなのに、それを見ながら涙が止まらんかった者もおったに違いない。イエス様ご自身、胸が一杯になられて、噛んだ魚を飲み込めなくて、すごい努力して食べたかもしれない。でもそれが主は嬉しかったに違いないのです。

人を喜ばせるのが好きな方っておられますけど、特にこの時の主は、そうだったろうと思います。弟子たちの中に現れられた様子からして、こう言うと主に何ですが、うちの子供たちがそっと近づいてきて、わ!と驚かして笑っているのを連想します。弟子たちの間でも、既に期待は高まっていたのです。ペトロにも、クレオパ夫妻にも現れて下さった。次は私たちにも現れてくださるのだろうか。いや、やっぱりそんなことはないのではないか。まるですごい信仰体験をされた人の証を聴いて、私にもそんな恵みがあったらいいのに、いや、私にはないだろうなと、もしなかったときのことを先に案じて、予防線を張るようなものでしょうか。人間って、妙に素直じゃないところがあります。子供からして、今日は遊んでくれんがやろう、ねえ、無理やろうと、大人びた尋ね方をするときがあって、素直じゃないなあと思いますけど、それをイエス様に、神様に対する信仰に当てはめて考えると、よくわかるような、また申し訳ない思いにもなるのです。そこを逆にイエス様のほうで幼子のようになって下さり、突然、現れて下さったのじゃないでしょうか。

でなければ、例えば弟子たちの上から何かキラキラ光が降ってきて、わたしは復活であり命である~とか御言葉があって、光の中に主が現れてとかちょっとドラマチックな演出をしたら、おお!主よという感じかもしれませんけど、でも、そういう配慮ではないのです。むしろ、先に言いました私たちの妙な自己防衛、あるいは神様に対する壁を打ち砕くという配慮をこそ、主はお選びくださるのだと思います。神様を神様として信じるためには、人間のまさに人間的な物分りの良さというのか、神様をそのままに信じないで自分なりの理解で済まして、安易な平安で済まそうとする物分り良さは、取り除かれんといかんのです。

先週、東京で幾つかの用事があり、それを済ませて神保町の古本屋に立ち寄りましたら、ずっと捜しておった本がありました。おお!きっと主が買って読めとお与え下さったのだろうと、ま、半ば本気で解釈して購入したのですが、そこに書いてあることが、今日の御言葉にピッタリ合うのです。余談ですが、この本を買ったことにも主は生きておられると感じましたが、むしろその本より先に買おうとして、いや、高いからやめておこうと買わなかった二冊の本が、家に戻ったら既に書棚にありました。おお!主は生きておられると、むしろそっちで感じました。買うなよという恵みもある。アーメンです。で、買いました本は、20世紀最大の神学者と言われるカール・バルトの主著の一冊で、不信仰としての宗教という一節がその中にあります。神学生時代、その一節を授業で読み、これが神学するということ、神様を神様として考えるということかと目から鱗が取れた、優れた神学書です。そこでバルトは、全て宗教は人間が人間のために作ったものであり、そこではキリスト教も自分を例外だとは言えないと先ず言います。え?と思うそのところで続いて、しかし、その罪人の手によるキリスト教を神様は裁きつつ、しかも恵みによって裁きつつ、その只中に現臨されて、ただ恵みによって、そこでキリストの救いを、人となられた神様であられるキリストの救いの現実を、罪人の手によるキリスト教の只中で聖霊様によって示したもう、ということを言うのです。無論、御子がキリストとして来られなかったら始まりもしなかったキリスト教ですが、来たら、じゃあ自動的に人間はキリストの救いを正しく理解して、後世に正しく伝道してきたかというと、もう後世のぐちゃぐちゃぶりは言うまでもなく、最初から弟子たちはキリストを誤解し続け、それにより神様を誤解し続けてきたのです。その弟子たちを赦して、愛して、なお真実なる恵みによって裁きつつ、主が現れてくださることがなかったら、もし復活の主がこのように現臨され続けて下さらんかったら。想像は難しくありません。おそらく復活の主にお会いした弟子たちと、お会いしなかった弟子たちの間の妥協の産物として、妙に大人びて物分りの良いキリスト教、もう一つの不信仰な宗教が作られておったろうと、皆さんもそう思われんでしょうか。

難しい話かもしれませんが、この難しさは私の説明ベタのみが原因ではないとも思います。仮にここにイエス様が現れ説明して下さっても、復活直後の弟子たちのように、嬉しいけど疑ってしまうということは、あるのではないかと思うのです。信じたいけど信じられない。どういうわけだか神様に関して物分りが悪くなってしまう、どうしようもない壁があって、ああ、この神様はわかりにくい。十字架と復活の神様はわかりにくい。神は愛ならわかるけどと。でも、じゃあその愛はどんな愛かと問われたら、自分の作った愛の理解での神は愛だったりする。それが不信仰としての宗教と呼ばれるものでしょう。本物の神様は罪人の手に余るのです。神様を信じたいという思いがあるのに、いざ本当の神様から語りかけられたら、心の壁が固くなる。その壁で自分に平和を保とうと壁で囲み守ってきた自分の秩序平和を保つため、神様の現実に反発する働きが心に起こる。すると神様は難しいという反応が生じて、それが自分の秩序を乱す難しさとされ、神様の現実が跳ね返されてしまうということが起こりうる。

それなのに、キリストを実際に復活させられた神様の現実は跳ね返すのに、幽霊の存在は信じておって、私も何なのかと思いますが、幽霊の現実感にキリストの復活は跳ね返されて、ギャー幽霊だーと弟子たちは恐れ戦いてしまうのです。え、幽霊はノーパス、無条件で信じるが?と幽霊信じてない人は思いますよ。幽霊信じて、しかも本気で恐がる程に本気で信じて、それでどうして主を復活させられた神様は、人間は信じることができんのか。バルトの言うことは、うんとよくわかるのです。まこと人間は自分の作ったあれこれは信じても、神様は自分の手に余ってどうしようもない。それほどに神様は異質であって、異なる存在で、そういう異なる存在を、人間は自分の平和が乱されるからと、排除して平和を保とうとする。いわば差別する。そうして平和を保とうとする。神様をありのまま、そのままに受け入れて、でもその受け入れた真実によって自分の歪みが裁かれ、変えられるなら、変えられないままに幽霊を信じるほうを選ぶくらいに、人間は神様を跳ね返してしまう。

そんな私たちであればこそ、主は、あなたがたに平和があるようにと神様の勝利を携えて、恵みによって来られるのです。こんな私たちであればこそ、神様は人間を、その罪のまま受け入れて、この罪を十字架の身代りの死で赦し、どうにも変わらない壁だらけ、自分自分の人間を、キリストの復活の中に飲み込んで、罪から救おうと決められたのです。それが私たちの身代り、代表、主とされて、人となられた御子イエス・キリストの出生と、十字架と復活の恵み。この神様があなたを変えて、あなたを復活に向けて完全に新しくする、あなたは御子によって新しく生まれ変わると、神様は、ただ恵みによって救おうとされました。

だからここでも弟子たちは、自分自身では、全然正しくありません。幽霊を信じる程には物分りが良くっても、神様に対しては物分りが悪いから、イエス様をくださった神様を信じたいけど、復活も本当は信じたいけど、自分が自分を裏切って、自分で自分の平安を守ろうとする自分信仰が、神様を信じる信仰を裏切り、うろたえ取り乱しているのです。ならばこそその弟子たちにキリストは、私たちの救い主として、主として出会って下さいます。ならば人間は自分を繕い、嘘でも自分で納得しようと、自分を正しくせいでも良いのです。自分は正しくなくて良い。そもそも間違ってばかりの私たちならばこそ、神様はキリストを主としてくださったから、私たちが私たちの主ではなく、そこに救いの条件を求めず、主が私たちの主として正しく生きられて、正しく身代りに死なれたから、そのキリストを父なる神様は復活させられ、罪人をそのままに赦して救う、愛と恵みの正しさによって、神様は、罪人を復活させて救う救いを、イエス・キリストによってご用意なさった。だから私たちは、キリストを主としてくださった神様に、そうです、それが正しいのです、父よ、主キリストを感謝しますと、神様を信じればよいのです。主が来られ、主が死なれ、そして主が復活なさって生きておられる。私の救い主、三位一体の神様は生きておられる。良かった、主は私たちのために生きておられる!その信仰の正しさをこそ、神様は喜び、分かち与えてくださったのです。

あなたがたに平和があるように。疑い惑う、その只中に、キリストが主として来て下さったから、そこには平和が来たのです。永遠に向かって増して行く御国の平和が、神様の平和が、そうやって来た。その平和が、まだよくわからない弟子たちのために、イエス様は、何か食べ物があるかと尋ねられ、焼き魚をもしゃもしゃ食されました。イエス様特有の、魚の食べ方のくせとかもあったかもしれません。頭から全部食べるとか。きれいに骨をのけるとか。案外、魚すごい下手とか。それも含めて弟子たちはイエス様を見て、十字架で罪の赦しの大事業を成し遂げられて、ひょっと袖から釘の跡が見えておったかもしれないその御手で、でも出された魚を美味しそうに食べられる主を見て、この方は、本当に復活されて、でもこんなにも身近になって下さり、生活の只中に来て下さって、主として魚を食べておられる。この方は、私たちの只中で主であられると信じたに違いないのです。その主が言ってくださるのです。そう、わたし、わたしがあなたに平和を与える。その救いに壁はいりません。満ち潮のように満ちてくる、平和の主を信じればよいのです。

12/4/22礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書24:28-35、イザヤ書55章8-13節 「この先について行こう」

12/4/22礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書24:28-35、イザヤ書55章8-13節

「この先について行こう」

 

聖書の御言葉を聴いていた時、心が燃えていたではないか。説教とも言えるでしょうし、一人で聖書を読んでいるときにも、同じ体験をすることは少なくないと思います。私が思い出したのは、20年前、イエス様を信じたときのことです。その日、私は相当な挫折を体験して、自分がもう信じられなくなった。いま思うと良いことですが。そのとき、ふと聖書が目に留まり、ギデオン協会からもらった聖書で、こういうときはここを読みなさいという手引きがついていた聖書を手にとって読み始めました。何や、この言葉はとか、何を言いゆうかわからんとか、文句を言いながら冷めた思いで読んでいたのですが、何故だか頁をめくる手が止まらない。次は?次は?と御言葉を読んでいるうちに、肩に食い込んでいた重荷が落ちて、変な嬉しさがジワジワ込み上げてきた。そして、それまでは、どっか遠くで、神は愛ですと、遠くぼんやりと神は愛だと思っていた、その神様の愛が、わっと目の前に近づいて、まるで十字架のイエス様が私のすぐ側にいて、幸生、わたしはあなたを愛している。こんなにも、と十字架に釘打たれた両手を拡げておられる、イメージというか、リアリティーというのか。うわ、イエス様おる!という否定できない、おる!という体験をした。イエス様、信じます、あなたを私の救い主、主として私の内にお迎えいたします、主よ、私をお救い下さいと、聖書の言葉に導かれて祈り、イエス様を私の救い主として受け入れました。20歳のときです。説教の準備をしながら、その熱い喜びを改めて思い出しました。確かにイエス様は私のもとに来て下さった。いや、本当はもうずっと前から一緒に歩んで下さっていたのに、私はちっとも気づいていなくて、でもそんな私を神様はその大きな愛の手に捕まえてくださり、そして信じさせてさえ下さった。改めてそう思います。主はとっくに共におられたのだと。

似たような、と言いますか、こっちが元祖なんでしょうけれど、この二人の弟子、クレオパ夫妻だと言われますが、この二人が語り合いました言葉を直訳すると、こうです。私たちの心は私たちの内で燃えていたではないか。確かに心は燃えていた。でも、体全体にまでは行き渡ってなかった。体全体はまだそのとき、燃えてなかったと言う。これはよくわかるのです。挫折感を引きずって思いは冷めているのに、聖書の頁をめくる手がとまらなかった。何かわからんけど燃えている。後でわかるのです。燃えていたことが。聖書を神の言葉として改めて説き明かす説教を聴くというのも、そのときは、何が起こっているかわからんでも、何かが、確かに何かが心に残って、いや心を燃やしてさえいるというのが後でわかったりする。それは、言葉の意味がわかるわからんの問題ではなくて、その言葉が、これがそうです!と指し示している神様の愛を心が聴く。そして、その愛を心が求めるか求めないかではないかと思います。そのときはわからいでも、神様の愛を求める中で、あ!私、神様に愛されちゅうと、神様に出会うとき、愛がわかるときがきっと来るのです。御言葉がわかるってそういうことでしょう。熱が金属をじわじわと伝わっていく。それを熱の伝導と言います。字は違いますが、神様がなさる福音伝道も、同じなんだなとよく思わされるのです。

復活されたイエス様が、クレオパたちに伝道された。ほら、神様はこんなにもあなたがたのことを愛しておられて、ずっと前からあなたがたの救いを用意されておったのだと、聖書全体を説き明かされて、伝道をされた。たぶんその全部はわからんかったのだと思います。でもわからんけれども、わかるのです。このときを逃してはいけない。なんか神様を逃がすみたいや。それはいかん。是非、是非、私のもとにお泊り下さいと、無理に引き止めたとあります。ある本を読みましたら、そうだ、それが神様の求められることだとありました。愛の関係って、確かにそういうところがあるかもしれません。例えば親子でも一方的に愛を注ぐだけでなく、この子から愛されたいと思う。じゃあ仕事いってくるきと言っても、いや、いかんとってと引き止められると嬉しい。嬉しいどころじゃなくて愛の確かさを感じます。この関係は正しいと思うのです。ですからイエス様、引き止められて、相当嬉しかったろうと思います。主に対して何ですが、鼻の下伸びておったんじゃないかとさえ私は想像します。ちなみに私は顔に出るタイプですので、妻いわく相当伸びているみたいです。イエス様もそうじゃないろうかと勝手に思っています。

引き止められてイエス様、共に泊まるために家に入られます。あれ、でもイエス様、結局泊まってないのにと思うかも知れません。直訳は、彼らのもとにとどまるため、です。ずっと残る。住まいにして下さるとさえ訳せる言葉です。宿ると訳したほうが良かったでしょうか。主が、宿って下さった。宿るため、ずっと一緒に住むために、家に入られた。これは後々、イエス様を主としてお迎えすることを表す言葉になりました。讃美歌の39番でも歌われます。日が暮れてきました。主よ共に宿りませと歌います。それは人生の夕暮れにおいても、主よ、どうか共にいて下さい、暮れを迎える命の主として、ずっと共にいて下さいと歌う。大変美しい歌です。信仰の美しさをしみじみ思います。そしてイエス様の救いの美しさを思わされます。その信仰を先にこう告白しました。主は聖霊によって宿り。神様が人として宿られた。どうしてか。私たちの命に、命の主として宿られるためです。ずっと永遠に留まって下さり、世界が滅び去って行く終わりのときも、私たちがずっと神様の赦しのもとに、十字架のイエス様のもとに留まって、いや、イエス様が、私の主としてずっと留まり続けてくださって、私たちを罪と滅びから救い出されるためにです。そのために、神様は本当に十字架で罪を赦された。

だからイエス様は、招かれたクレオパ夫妻の家の食卓について、主としてパンを裂くのです。ユダヤでは、家の主人がパンを裂く。あら、うちの主人もご飯よそう係よと、ま、是非そういう素晴らしい家庭を築きたいものですが、ユダヤでは、いつでも主人が食卓の主、テーブルマスターとしてパンを皆に配るのです。え、でも、クレオパさんの家やに、どうしてクレオパがやらんがと思う場面でもあります。三人で家に入って、何もありませんけれどと、急ごしらえでパンだけ出したのかもしれません。干し魚くらいはあったでしょうか。で、自然にすっとイエス様が、どうぞお座りくださいと二人を座らせ、ご自分は立ったままパンを取り、ユダヤ人が食前に祈る、いつもの讃美の祈りを唱え、二人にパンを裂いてお渡しになったのでしょう。あまりにも自然な流れで、二人もすっとそのまま祈りに目を閉じ、ひょっと心で思ったでしょうか。この祈り、聴いたことがある。アーメン。目を開いたら、イエス様がパンを裂いて渡してくださった。あ!私たち、前にもこうやって、イエス様に命のパンを頂いておった。イエス様や!パッとわかった。祈って、神様の前に出て、それでわかった。食前の祈りで何を祈るかと言えば、このパンはあなたから頂いたものですと、あなたがこの食卓を備えて下さった私たちの主ですと、すべてが神様に依存していることを感謝するのです。私の命は私のではない。命もパンも、何一つ、主から与えられることがなければ、私は生きてさえいけんのですと、神様にひれ伏す祈りが食前の祈りであればこそ、そのとき目が開けたというのは、よくわかる気がするのです。それまでは目が遮られておった。前の頁ですが、私私の思い込みやこだわり、だってそうだろうという自分にとっての当然、自分自分しか見えてないとき、目が私私で遮られる。事実、他の人さえ見えんですよ。あなたは私を見てくれてないとか、愛してくれてないとか、ま、そこまで露骨には夫婦喧嘩ぐらいでしか言わんかもしれませんが、そういうことでしょう。ましてや自分が自分がのモードのときは、自分が主になっていますから、主が見えない。ずっと一緒におってくれたのに、そのために救い主として、主として来られて、主として歩んでくださっているのに、仮に見えても、せいぜいお客さん扱いでしかないということは、弟子たちであってもあるのです。違うでしょうか。

でもイエス様は、そういう私たちであればこそ、御言葉を語られ、心を神様の愛で温められ、イエス様を主として招く備えをされます。洗礼を受けてもそうでしょう。主を自分の家に招いた私たちは、主に全ての部屋のカギをお渡しすることができるのです。ここは私のプライベートだという部屋はありません。その部屋で行われる罪もイエス様は十字架で負われて死なれたのです。その部屋こそ、わたしに掃除させて欲しいと主はおっしゃっておられんでしょうか。主は、私たちの家の主として宿ってくださり、家庭の主として、生活の主として、人生の主として、復活の光を携えて、くまなくわたしが照らそうと、そしてわたしが清めようと、主として宿って下さったのです。その主に、どうぞと祈るのです。私の主としてお迎えし、命の主となって頂くときに、重荷は落ち、自分自分の遮りが落ちて、目の前も明るくなるのです。

私が私の主でないなんて、何と軽やかで自由でしょう。クレオパたちの足取りは、それはもう軽かったろうと思います。エルサレムから来た同じ道、しかも夕暮れで暗いなのに、きっと明るくさえあったのです。心を神様の愛で燃やされ、体も軽く重荷が落ちて、暗かった顔が明るくなって、仮につまずいて倒れても、さあって、立ち上がったろうと思うのです。主が来て下さった!主が私たちの主として来て下さった!と、顔を見合わせ、息を切らせて、一分でも早くこの知らせを、主は生きておられるという救いの喜びを、皆に伝えたくて走りに走った。12キロはある道です。でも燃えているのはもう心だけじゃない。体全体、人生のすべてが、私は神様に愛されていると燃やされて走る。

仲間のところに着いてびっくり。え、シモン、つまりペトロにも主が現れてくださった?何だってがっかりしたでしょうか。むしろ励まされたと思います。だって私の体験などよいのです。主が生きておられる。本当に主は、私たちの主として生きておられる。それが心から嬉しいのです。教会が、あるいは清和学園が、イエス様イエス様と言いゆうのも同じです。皆と分かち合いたいのです。神様は私たちを愛されて本当に生きておられると。神様の愛に照らされて、一緒に走りたいのです。

12/4/15礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書24:13-27、詩編119篇129-136節 「暗い心を照らされる主」

12/4/15礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書24:13-27、詩編119篇129-136節

「暗い心を照らされる主」

 

そろそろ暖かくなってきまして、この辺ですとお遍路さんを見かける回数が増えてきます。あれ?ここキリスト教会でねえと不安になられた方がおられたら、ええ、ここからイエス様を語っていきますのでご心配なく。で、お遍路さんですが、白装束に同行二人と書いてある。最近はバスツアーも増えましたから、団体26人ぐらいだったりしますが、教会ですと、それでいい。むしろそうでないといけないぐらいでして、使徒信条でも、私は聖徒の交わりを信じますと、私たちが信じるイエス様の救いを告白します。私たちのため復活されたイエス様が、暗い顔をした二人の弟子たちに近づき、寄り添われ、一緒に歩き始めてくださった。何と幸いな、明るい救いかと改めて思います。復活されたイエス様は、最初から教会の交わりを目指されました。先週も、洗礼を受けて家族が一人増えました。復活された主と共に新しい歩みが始まった。その歩みが、けれど主と私という二人に限定されることは決してありません。私たちが神様との交わりを回復したら、人と人との交わりもまた、正しい交わりに回復されていくのです。即効すぐにではありません。交わりが苦手な人も少なくないでしょう。でもここで一緒に御言葉を聴くとき、主がここで交わりを開始しておられるということは、信じられるのではないでしょうか。主が御言葉を語ってくださり、その御言葉を信じるところで、交わりが生まれる。無論、聴くだけでなく、聴いて心が照らされて、更には燃やされもして、そうだ、主の望まれる救いの交わりに生きようと、主の望まれる道にお従いしていくとき、例えば会話の態度が変わるのです。御言葉に照らされた会話や対話になっていく。イエス様の御言葉を聴いて、その上での対話、交わりになっていきます。

説教は単に講義を聞くのではありません。私もキリスト教の説明をしているつもりはありません。キリストが復活したということを、どうやったら論理的にわかることができるだろうかなどと、ただ論じ合っているところでは、顔は暗いままであるのです。たとえ暗い表情ではなくっても、話の中心に燃えている光があるでしょうか。主が伴って下さったこの二人も、御言葉が語られるのを聴くまでは、暗い顔つきをしていました。それまでも宗教的な話ならしておったのに。宗教的な交わりでは足りません。明るい交わりの中心には神様の言葉がいるのです。

二人の顔つき、これは私よくわかる気がします。まだイエス様を信じる前、たぶん私の方から質問があって、ある牧師に問うたのだと思いますが、その牧師が丁寧にイエス様の救いを教えて下さった。でも私は、結構です。私は頑張っていますから神様に認められると信じています。イエス様の身代りは必要じゃないですと答えた。そのときの私の顔は、きっと暗い顔をしておったろうと思うのです。

この二人の人は、おそらく目指す村エマオに住んでおった夫婦だろうと言われます。イエス様の力ある福音伝道に触れ、どこかの時点で弟子となり、12キロほど離れたエルサレムにまでついてきておったのですけれど、イエス様がそこで十字架につけられて死んでしまう。夫婦して目の前が真っ暗になったのでしょう。他の仲間たちと一緒に隠れておったのかもしれません。安息日が過ぎたら帰ろうと思っておったところに、早朝墓に行った婦人たちが駆け込んできて、墓に主の体はなかった。主は生きておられると天使が言ったと言う。それを聴いた他の弟子たちも同様に墓から帰ってきて、体が見当たらんかった。何が起こったかわからない。復活すると御言葉が語られてはおりましたけど、その御言葉を信じてないのでは、やはり暗い顔をしておったのではないでしょうか。わたしは必ず復活することになっちゅうとイエス様が言いよったろうと天使に思い出させられ、墓に行った婦人たちは信じ始めておったのですが、まあ男は頭が固いということでしょうか。けれど墓に一緒に行かんかったクレオパ夫人もまた目が遮られていて、既に一緒に歩き始めて下さっておった主がわからんのですから、男だけでもないのです。

暗い顔。目も遮られている。見えなければならないものが、見えなくなっている暗い顔。考えることをやめたというのではありません。論じ合いながら家に帰っておったのです。私がそこにおったなら、相当に論じて論じて理屈を捏ね回して、妻はもっと暗い顔になっておったでしょう。でもいくら論じても、目が遮られておったなら答えは出ません。出たとして、信じますという答えになるでしょうか。考えるのをやめるよりは、私はよいと思います。考えるのを止めたら大抵、欲望に走りますから。でもそこで考えようと考えまいと、信じるという答えが出んのなら、そもそも私は神様の救いを、どんな救いだと考えているのか。何からの救いだと信じているかが、暴露されるとも言えるのです。自分を信じる救いなのか。そんな自分が信頼できないからこそ、この罪の私を、罪と裁きからお救い下さいと、神様を信じる救いの信仰か。

中世のアンセルムスという神学者のよく知られた言葉で、私は信じるために考えてわかろうとするのではなく、考えてわかりたいから信じるという言葉があります。自分に依存して、自分の力を信じているか。わからしてくださる神様に依存しているか。その違いがよくわかる言葉だと思います。自分に依存しておったなら、話している相手が誰かさえ、わからないままだと言うのです。二人は弟子です。イエス様と既に歩んできた弟子でも、目が遮られておって、相手が誰か見えん。主と仰ぎ、望みをかけてさえおったのに。二人はどんな望みをかけておったのか。私たちは、イエス様の何を信じて、何を望んでいるのでしょうか。もしイエス様が、どんなお方かを知らなかったら、そしてどんなお方かを知るために、信頼することがなかったら、しかも自分の望みや思い込みは捨てるようにして、相手に依存し、信頼することがなかったら、やはり自分の見たいものしか、見えなくなってしまうのです。

ならばこそ救い主は、自ら近づいて来られます。どんどん離れて行く弟子たちに、復活された主が自ら近づいてくださって、一緒に歩き始められ、優しく問いかけてさえくださって、それでなお私たちは暗い顔を主に向け、え、何言いゆうが?ということをするかもしれませんけど、それでもなおです。主は、ならばこそ、あなたにはわたしが必要だと、私たちに近づき、寄り添われ、御言葉を語ってくださるのです。

ここが救いの急所です。私たちでなく、神様が、自ら近づいて下さるという恵み。この神様の恵みによって救われる救いこそ、キリストがくださった救いです。それを救いの原因、スタートと呼ぶならば、救いのゴール、結果は、罪からの救いです。これがはっきりしてなくて自分の信仰になっていないと、何故イエス様がここで二人に聖書を説き明かされ、神の言葉を語られたのか、わからんなってしまいます。まあ、わかったほうがえいというオプションではありません。わからんかったち、わたしは一緒におるからねという、そんなナイーヴな救いではありません。どうしてイエス様が来られたか、わかってもらいたいからこそ、主はわからん弟子たちに自ら近づかれるのです。主は既に来られ、私たちの目が遮られておって見えてなくても、主は聖霊様によって、また教会によって確かに共に歩んで下さる。それはゴールがあるからです。一緒に歩んで下さるのは、救いのゴールがあるからです。私たちが、しかも世界中の人々の救いのためにも、罪から救われるというゴール。それが復活という救いです。罪からの完全な贖い、解放です。そのために主の弟子として目が開け、自分の罪から解放されて、もはや自分に依存せず神様の救いに依存して、そこに自分という存在をも見えるようになる。自分が誰だかわかるようになる。そうだ、わたしは主の弟子だ。復活をされた主の弟子として、主と復活の歩みをする者として、御子の死によって罪赦され、復活によって栄光に招き入れられた神の家族の一員なのだと、復活の主が見えるとき、救われた私も見えるのです。ならば私はイエス様に従って、イエス様がそうであられたように、天の父の御心に生きよう。主の熱情に身を捧げよう。主が愛と命を注がれた、あの人、そしてあの人の救いのために、主の愛される隣人の救いに、私を捧げて生きていこうと、そのとき、イエス様が誰だかわかるのです。主の復活が、私たちのためだとわかるのです。主が苦しみを受けられて、栄光に入られたのは、このためだった。私たちが、救いに生きるためであったと、目の前が明るくなるのです。

わかる、しかもイエス様の救いがわかるというのは、つながるということでもあります。心がつながるとき、ふっと、その人がわかる。同じように、イエス様の十字架の愛が心でわかる。私に復活を与えようと、私のゴールを勝ち取ってくださり、ゴールまで一緒に歩まれる主の、私に対する誠実な愛が、私が復活することへの熱情であることがつながるとき、私が誰であるか、どこに向かって救われているか、わかる。またすぐ物分りが悪くなる程に、心の鈍い者でもあるのですけど、だから、わたしはあなたと共に世の終りまでいつもいるとの、主の御言葉もまたわかるのです。鈍いというのは、運動神経が鈍いというようなスロー、遅いという言葉です。幸生、あなたはわたしを信じるのが遅い。私の愛をわかるのが遅いと叱られている言葉でもありますけれど、何で主が、遅いとお叱りになられるかと言ったら、待っておられるからじゃないですか。わたしのもとにきなさいと、あなたはわたしに従いなさいと、主はいつも私たちを待っておられる。なのに、へちに向かって行こうとする弟子たちにも、主は近づいて下さって、自ら寄り添ってくださって、御言葉を語ってくださるのです。だから見えるようになるのです。目を遮っていた罪の欺きも、私がどんなに愚かであったかも、そしてそんな私を愛してくださり、命を投げ出して罪を赦して、復活を用意してくださった主イエス・キリストが、一体どんな栄光にお入りになられたか、主に伴われ向かうゴールが、御言葉の通りに見えるのです。そのゴールでは、すべてのものが膝をかがめて、イエス・キリストは主であると、御子をお与えくださった、父なる神様を讃えるのです。この栄光の光に照らされて、顔は明るくなるのです。御言葉に照らされて見える救いの道を、教会は主に伴われ一筋に、皆で一緒に歩むのです。

12/4/8イースター礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書24:1-12、詩編23篇 「主は生きておられる」

12/4/8イースター礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書24:1-12、詩編23篇

「主は生きておられる」

 

岩山を横に掘った墓の中を、いくら捜しても見当たらない。主の体がない。捜しても、どこにも見当たらない。音読みで、見当が外れたとも言えます。まったくの、見当違いをしておりました。

私もしょっちゅう見当違いなことをしています。料理、上手やねえ、特にこのお白和えがと褒めちぎったら、それだけスーパーのお惣菜だったり。皆さんもないでしょうか。見当違い。

もう聞かれなくなったかもしれませんが、自分捜しという言葉、これも見当違いで捜しておったら、見つかることはないでしょう。復活の主を死者の中に捜すように、本来の私たちではないところに、本当の私を捜しても見つかりません。どこを捜すのでしょう。救いとは何なのか。これが本当の私だとか、ここに私の幸せはあるはずだとか、自分の救いを求めるのには、場所が決め手だと天使は言います。神様が、私たちをどう救われるのか。どこに救いを求めればよいか。ここだと天使が言う場所が、主イエス・キリストの復活です。墓には、つまり死者の中には主イエスの体が見当たらなかった。聖書は主イエスと言います。聖書が主イエスと告げるときには、イエス様はあなたの主でしょ。ねえ、そうじゃないか。あなたの主となるために人として来られて、死んで、復活された主イエスの体が、死者の中にはないのなら、どうしてあなたも、自分を復活の光の中に見ないのか。そのために主は来られたでしょう。なら見たらよい。あなたの主となられた主イエスの復活の中に、自分を見たらよい。他を捜すのは見当違いだと言うのです。

思い出しなさい、と天使が言ったのは、単に記憶情報を取り出せというのではなく、自分のものにせよという言葉です。主の言葉を、私の主の言葉として聴く。そうか、主の言葉なら、私のために死んでさえ下さった神様の言葉なら、真実ながや。私の神様の言葉ながやと、私と主という関係が、自分のものになるときに、あ、私はイエス様を信じていると、信仰を自覚もするのでしょう。こう言って良いとも思います。天使が私たちに言うのです。主の救いの言葉を、あなたのものにしなさい。ここにあなたの救いがある。主は、必ずと言われた。必ずだ。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている。必ず。それは、あなたが救われるための必然であったと。

必ず罪人の手に渡され、です。誰が主を渡されたのか。天の父です。私たちの天の父であられるのに、父から離れ、自分捜しをせないかんなるばあ、私が父の子であることが、わからんなるばあ神様を見失っていた罪人の私たちの手に、父は救い主を渡されました。子供にプレゼントをあげるようにです。罪を犯した手であれば、その手が受けるのは裁きなのに、本来裁きを受ける手に、しかしならばこそこの手の内に、わたしはあなたの主を渡すと、父は私たちの罪を負って死ぬ、私たちの身代りとなる主を渡されて、受け取りなさい。あなたの救いの必然を、あなたの救い主イエス・キリストをわたしは渡す。その主に、あなたの罪を委ねればよい。あなたの死をも委ねればよい。あなたの主だ。その名によってあなたが呼べば、わたしは応える。わたしが渡す主の名によって呼べばよい。わたしはあなたを必ず救い出し、あなたを襲う死の刺を抜き、十字架の御子の体に、それを突き通し、その身代りの死によって、あなたの罪を赦すから、あなたの死として、あなたの主の死を受けるから、あなたの救いの必然である、あなたの主イエスを、あなたの救いを受け取りなさいと、父が主を、この手に渡してくださったのです。

そして何よりも大切なこととして、父が私たちの手に渡されたのは、主の死による赦しだけでなく、主の復活による私たち自身の復活です。主が身代りに死なれたというのは、主が私たちとして死なれたということです。そして主が父により復活させられたということは、父が主を、私たちの復活そのものとして、復活させられたということです。どうして私たちはイエス様を主と呼ぶのか。実にイエス様が私たちの主として死なれ、主として復活させられたからです。罪人がその手に受けたのはこの主イエス・キリストによる救いです。

なら私たちはこの手をどうするか。罪を捨てる他ありませんし、こうも言うことができるでしょうか。墓に来た婦人たちが手にしていた香料を、善意ではあっても見当違いゆえに手に持っていた、死を隠すための香料を捨てるのです。ないでしょうか、隠す香料。もういらんのです。死の腐敗、罪の腐敗を、隠すだけで止めることのできないその香料は、もういらなくなってしまったからです。その代わり、キリストが私たちの死を覆われます。私たちの腐敗を覆われるキリストを受け取ればよいのです。それを聖書は、キリストの香りを放つとも言うのです(Ⅱコリ2:15)。死を隠すのでなく、死に勝利したキリストの香りを身にまとい、いや、香りそのものになるとすら言います。私たちがキリストの香りとなる。余談のようですが香水と言えばフランスです。が、フランス人は香水を、体臭を消すデオドラントとしては使わんそうです。逆に、神様から与えられている体の自然な臭いをより魅力的にするために作ってきたのが、フランスの香水文化だと専門書で読んで、改めて美しい文化だと思いました。あなたもキリストの香りの中にあるじゃないかと、父が言うて下さっているのです。だから罪の死臭を、隠す努力をするのではなく、キリストの赦しの香りを身に受けて、赦された者としての喜びの香りを、世界に放ちつつ生きてほしいと願われて、父はこの手に、主を渡し与えてくださったのです。

その主のもとに本来の私の臭いもあります。英語ではアロマとも訳されます。良い訳です。赦されたアロマ。愛されているアロマ。赦され、愛され、主を受けるところで、私が私として本当に生きられる。神様の子供としての本来の香りを、どんなに多くの人々が、キリストに包まれて知ってきたでしょうか。今日もその香り高いキリストの水を、一人の兄弟が洗礼によって受けられます。聖なる水に清められ、神より自分という腐敗を捨てて、捨てるところで得ることのできる、本来の私になるのです。復活に照らされた私です。主と死んで、主と生きる。キリストに包まれて生きられる、永遠の命に生きるのです。父の子として生きるのです。だから主の、私たちの主となって下さった主イエス・キリストの復活を、私たちは喜び祝うのです。

12/4/1礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書23:44-56、詩編116篇 「神様が死なれた」

12/4/1礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書23:44-56、詩編116篇

「神様が死なれた」

 

光っていて当たり前の太陽が突然光を失ったら、人は恐れるのではないでしょうか。あるいは見えて当たり前と思っている視力が、突然光を失ったら。以前40度の熱が出て、病院で注射を打ってもらったら、突如吐き気に襲われトイレに行った後、何も見えない。壁を手に伝いながらトイレを出ました。恐怖。不安。熱で苦しいのも忘れていました。

太陽が光を失う。それは旧約聖書ヨエル書で預言された世の終わりのしるしでした。しかもそのときエルサレム神殿の垂れ幕が上から下まで真二つに裂けた。もしこの説教壇と聖餐卓が一気に真二つに裂けたら、皆さんどう思われるでしょう。先生がすごい罪を…とか(笑)。神殿の中には祭司しか入れませんから、余程の大騒ぎになったのでしょう。不安になる。太陽が光っていることも、神殿で動物を捧げて礼拝するのも、あるいは私たちが突然死ぬことはないと思うくらい当然のことだと、皆安心して思っておったのに、当然は突然失われてしまう。

そしてその後、人に命を与える神様が、命を与えた人間たちから命を取られて十字架の上で死なれました。土の塵から造られた人に息を吹き入れ霊を与えて人を生かされる三位一体の子なる神様が、父よ、わたしの霊を御手に委ねますと叫ばれた後、息を…直訳すると、息を出し切られ、あるいは霊を出し切られて、主イエス・キリストは死なれました。

大声で叫ばれて。大声の遺言です。イースターに向け、信仰の遺言書を残して頂いていますが、先生、私の葬儀ではこれ絶対言って下さいという遺言があれば、大きな太い文字で書いて下さい。そういうことでしょう。絶対にって思いは、大声になる。人々もピラトに大声で言った。十字架にイエスをつけろと。その人々の前で、しかもその時には太陽が失われて不安になっている人々の前で、当然の報いだとは言われませんでした。むしろその人々を前にして、イエス様は父なる神様だけを見て大声でこう叫ばれた。父よ、わたしの霊を御手に委ねます。絶対に父に届けたいと思われたからでしょう。届くのは知っている。でも絶対に聴いてもらわないといけない。これだけは聴いてもらわないといけない。そのためにわたしは死ぬのです。父よ、この霊を、命を、存在そのものを御手に委ねますから、どうか完全に滅び死なせて陰府にまで降らせ、完全な身代りの死として下さい。人々の罪の赦しのための生贄として、わたしを御手に委ねます!これだけは、絶対に聴いてもらわんといかんのです!絶対に聴かれると知っておってもです。

委ねるって、簡単なことではないと思います。皆さん、どうですか。私は遺言書で、私の蔵書の譲り先を毎年考え直します。犠牲を払って買った蔵書ですから、私も全部は読んでませんが、読まない人には絶対にあげたくない(笑)。娘の結婚相手も自分で探すと本気で思っていますから、無論、私の後任の牧師も誰でもかまんとは絶対に思いません。委ねることができるには、二つの条件があると私は思います。一つは委ねる相手への信頼です。もう一つは、私は自分のなすべきことは、全部成し遂げましたという、神様から与えられた命への、忠実さです。

御子が人となられたという奇跡は、クリスマスに完成したのではありません。神様が人として命を受けられたのは、その命を罪なき傷のない犠牲になるため完全に守り抜き、父に従い抜かれた上で、世の罪を全部引き受けて取り除く神の小羊、罪人の生贄として死ぬためです。世界の身代りとなるためです。完全な身代りとなられて生きて死ぬこと。その父から受けた救い主としての使命、私たちのために生きて死ぬ救い主の使命を、イエス様は全部、全うされたから、父よ、わたしは全部やりましたから、後は、この生贄のわたしを、父よ、あなたに委ねます。わたしは生贄として成し遂げました!そう大声で主は叫ばれた。

その上で、主は父に、全てを委ねられました。もし自分は自分のやることをやったというだけなら、あるいはそういう自分自分の態度なら、やっぱり委ねられんでしょう。死に切れないと思います。でも死ねるのです。父は必ず救ってくださると、私の命がけの執り成しを必ず聴いて下さると、そもそも信じておればこそ、死ぬために人としてお生まれにもなれたのでしょう。父ならと信頼すればこそ、わたしが死にますと、すべてを委ねられたのです。これが父の御心であるなら、これでよい、いやこれしかないと自分を委ねる。委ねて父の御心に生きられたから、委ねて父の御心に死なれるのです。

だからでしょう。百人の命を預かり、時には部下に死ぬための命令を下さねばならない百人隊長も、このイエス様の父に対する死に様に神様を讃美すらするのです。兵士にとっての正義とは、王の命令に従うことです。死んでくれと言われたら死ぬのが兵士の正しさです。だからって果たしてできるのでしょうか。命を預かっておったこの人は、その命は決して無駄にしてはならないが、しかし、死ななければならないことがあると、責任をもって知っておったこの人は、イエス様をあるいは観察しておったのかもしれません。この人が本当に神様からの救い主なら、そして王にとっての兵士のように、死ぬことが救い主の成すべき務めなら、どう死ぬのか。神様はまた、その働きに値する者を選ばれたのか。確かに選ばれたと思ったのです。神様の権威を、これほど正しく美しく伝えて、けれど私はどうなってもかまわないと、与えられた使命に従順に従い、従い通して命を成し遂げ、成し遂げましたと叫んで死なれる。死んで、使命を成し遂げたこの方は、正しい!そしてこの方を送られた神様は何と見事な救い主を選ばれたかと讃美が心を動かした。

そして主の亡骸は墓に葬られました。隠れてイエス様を慕っておったアリマタヤのヨセフが、自分のために買っておいた墓にイエス様の亡骸を葬ります。神様のご支配、救いを待ち望む人でしたが、三日目の復活は待ってなかったようで、日曜も迎えに行きません。立派な神の人だったと思ったのでしょうか。でも人だった。死んでしまった。人は死んだら葬るしかない。所詮、人だった。いえ、そうではありません。神様はそこまで人となられたのです。そこまで人となられたから、身代りが成立するのです。神様が私の罪による死を死なれたから、私はその身代りによって生きられるのです。死んだら自分では絶対に生き返ることのできん、人として、神様が死んでしまわれたから、父のご命令によって復活させてもらわないかんほど、徹底的に人となられて完全に死に切られたから、その死の身代りとして人は、罪を担われ、身代りに赦され、神様の犠牲のゆえに救われるのです。もっと大胆に言うなら、主が父にご自分を委ねられたとき、父よ、わたしを幸生の身代りとして完全に滅ぼし陰府に降らせて、完全な死の裁きをもって滅ぼして下さいと、完全な死の成就を願われたのです。だから罪人は救われるのです。地上ではどんな死に方をしたとしても、キリストが完全に陰府にまで降って下さったから、父もまたその裁きを裁き抜かれて、御子を身代りに滅ぼされたから、罪人の死はキリストの死に飲まれ、滅びも裁きも、暗闇も絶望も、キリストが身代りに引き受けられたから、人は死んでも生きられるのです。人の死は神様の死によって、復活に開かれているのです。そこまで主が死んで下さったから、私たちも委ねられます。恐れも不安も神様に委ねて、父よ、キリストのお名前によってお願いしますと信じて委ねられるのです。キリストが、わたしについてきなさいと言われた、その先に復活が待っている救いの道を、自分を委ねて歩めば良い。

主に墓を譲ったヨセフは、再び空になった墓をどうしたでしょうか。ある人はこう考えます。ヨセフは、復活の希望に溢れたこの墓に、自分も死んだら身を横たえることができる。そして主が父に復活をさせて頂いたのと同じ場所で、また同じように、私も復活をさせて頂ける。そう考えただけで、心踊るほどの慰めを得たのではないか。主が見せてくださった復活を、喜び待ち望む者として、死ぬことをさえ楽しみにして、地上での残りの生涯を主に委ね、復活の主と共に歩んだのじゃないか。私もそう思います。私たちもまたそうなのです。神様がここまで死んで下さったから、私たちは自分を主に委ね、キリストの慰めに生きられるのです。

12/3/25礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書23:39-43、詩編16篇7-11節 「天国を約束された罪人」

12/3/25礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書23:39-43、詩編16篇7-11節

「天国を約束された罪人」

 

二人の罪人の真ん中で、天の父は、御子を十字架につけられました。そして一人の罪人が救われた。イエス様からはっきり約束して頂いて、ああ、これで死ねると思ったのじゃないでしょうか。かたや、イエス様を挟んで反対側にいる罪人は、それを見て一体どう思ったでしょうか。私も救われたいと思ったでしょうか。それとも、同じ十字架に磔られた死にかけの男に、どうして救ってもらえるかと、やはり悪態をついたでしょうか。メシアなら、自分も俺たちも救えよ、それが救い主メシア、ギリシャ語で、キリストのやるべき仕事だろと醜態をさらしてしまう。

その言葉を読んで、ある人物が死の床で交わした会話を思い出しました。誰の会話であったか、確かヨーロッパあたりの著名な人物だったと思うのですが、捜しても見つからんかったので、うろ覚えで申し訳ないのですが、確かこういう会話でした。彼が死ぬ間際、平然と死を迎えようとしているのを見た友人だったか誰だったかが確かこう問うた。罪を赦されて天国に確かに入れると信じているから平然としているのか。彼は答えて、それが神の仕事だろと言った。実際どんな心持ちで死の床におったかはわからんと思いますが、そういう態度はこの人に特別の態度でしょうか。この会話の主を捜しておったとき見つけた別の格言はこう言います。過ちを犯すのは人の常。それを赦すのが神の常。18世紀英国で流行した言葉、しかも理神論という事務的、官僚的な神を信じる異端信仰の言葉として知られているそうですが、案外、それがキリスト教の教えだと思い違いをされ、しかも安心さえ得るのかも知れません。赦すのが神の当然の仕事だ。私を天に受け入れるべきだ。そうした宗教観の背後には、自分はなすべきこと、生きるという仕事を果たしてきたという自覚があるのかもしれません。私はまあまあやってきた。少なくとも死刑になるようなことはしてない。だから神も、ちゃんとやるべき仕事を果たしてもらいたいと要求する。無論、基準は自分です。神様がどういう基準を持っておられるか、問うまでもない、というよりも思いもしないのが現実でしょうか。そりゃ赦しも必要ではあるだろうけど、それは、神のなすべき仕事だろうと。

神様が私たちの罪を赦される。知識としては正しい知識です。毎週、説教壇から語られている言葉でもあるでしょう。ただ皆さんは、それがどういう態度で語られているかはご存知であると思います。でも、もしこれが、神は私たちの罪を赦される、当然だという態度で語られたら、皆さん来週は礼拝来られないと思います。それこそ当然でしょう。態度が間違っておったなら、すべて間違っているのです。そして神様は態度を見られる。私たちだってそうでしょう。ごめんなさい、は正しい謝罪の言葉ですけど、無論そこで求められるのは態度です。青年時代、二人の小学生の兄弟を友人宅で子守りしたことがあります。随分似ていない兄弟でしたが、二人で私に悪ふざけをして、ん、これは怒らないかんという悪いことをした。両親がキリスト者でしたから、どうして怒られたと思う?これは罪だとわかる?でも赦すきね、ごめんなさいと悔い改めしようねと、真剣な表情で迫りますと、兄は、あ、わかったんだなという表情でごめんなさいと言った。弟も、ごめんなさいと言う。ニヤニヤしながら。同じ言葉です。でも彼は、赦しを受け入れたでしょうか。罪を受け入れなかったら、どうして赦しを受けられるでしょうか。

罪の赦しの問題は、神様と私たちの〈関係〉の問題です。神様と私たちの間に、罪の問題が生じるときには、人は自分のやったことに対して神様から報いを受けなければならない。人は自分のやったことの報いを神様から受ける。生きている間でなければ死んだ後、必ず報いがある。この神様と人間の関係を「神を畏れないのか」という表現で聖書は問うのです。旧新約聖書一貫して、神様を畏れることこそ、人が生きる上で一番の基本にある、主を畏れることは知恵の始めであると言う。神様を神様とする人生態度があるかないか。そこで自分が犯した罪に対して、どういう態度を神様に取るか。それが神様と人との関係です。罪の赦しの問題は、自分の思いだけ考えて、赦すのが神だろうでは済みません。どうしてそういう態度になるのか。それこそが問われるべきなのです。何故、自分自分の態度が罪か。神様を畏れてないからです。

イエス様のすぐ横で十字架についている一人の罪人は畏れていない。自分がいま神様から報いを受けているとは感じてないし、まさかそうだなど思いもしないか、たとえ思っても、認めないのか。もう一人は認めた。これは神様から私への、自分がやったことへの正義の報いだ。神様が正義の報いをされたから、私は十字架にかかっているのだと、報いを受けていると感じている。神様を畏れているのです。どうして、もっと早く畏れなかったかと思っておったかもしれません。知るのが遅かったと思うたでしょうか。それとも知っておったけど、やめんかったのか。けれど私がこれをやったのだから、報いを受けて当然だ。当然の報いを受けているのだと、彼は神様を畏れつつ罪の報いを受け入れることで、罪に報われる神様を受け入れているのです。聖書の語る罪人とは、単に社会的な犯罪者でも、自分は悪いことをしたと自覚している人でもありません。御言葉の告げる罪人とは、神様から罪の報いを受ける人です。この罪人は、だから神様を畏れたときに、私は罪人だと知ったのです。詩編51篇を交読するとき、あなたに、あなたのみに私は罪を犯し、御目に悪事と見られることをしましたと告白するのも、神様を畏れての告白でなかったら、意味がわからんろうと思うのです。社会は社会のルールによって、それを破った犯罪人を裁きます。けれど社会では見逃されても、世間のルールには引っかからなくても、世界を御言葉によって造られて、人間をご自身の神の形に造られた神様は、すべての人を分け隔てなく、ご自身の完全な正義を基準にして裁かれます。社会では、社会の一員を傷つけたから罪であっても、神様は、あなたはどうしてわたしの愛する者を傷つけたのか。何ということをしてくれたのか。見よ、この者はあなたの罪によって傷つけられ、汚され、痛めつけられたから、だから、あなたは自分の行ったその罪の報いを、あなたの神であるわたしから受けると、人は神様との関係によって裁かれるのです。

イエス様の隣にいる罪人は、その神様の裁きを受けて、彼の神様の前にいて、十字架につけられているのだと知るのです。後、数時間後には膝を折られて間もなく死ぬというところで、この人は神様を畏れます。自分のやったことの報いを受け入れ、そのことで神様を受け入れ、私は私の神様から報いを受けているのだと、罪と直面する十字架で、神様との関係に戻るのです。

もしその裁きの十字架で、同じ十字架にぶら下げられた、キリストを見上げることがなかったら、彼は裁きの神様をだけ知って、嘆き死んだかもしれません。いや、もし彼の隣にキリストが磔にされなかったら、自分の恐ろしい罪をすら、そしてもっと恐ろしい報いすら、知る余地がなかったかもしれません。神を呪って死んだかも知れない。でもその彼のすぐ横で、祈ってくださった方がいた。父よ、彼らを赦して下さい。自分が何をしているのか知らないのです。この人は、私のためにも祈ってくださった。いや、救い主が祈ってくださって、人生が惨めに終わるしかないこんなところにまで来て下さって、終わりを終わりでなくしてくださった。だからイエス様に向かって言うのです。救い主の憐れみに託したのです。イエス様、あなたの御国においでになるときには、私を思い出して下さい。そうです、主よ、あなたは、あなたの御国から来られたのです。こんなところにまで来られたのです。その救いに、あなたの憐れみの中に、どうか私をも覚えてください。あなたの御国、あなたの王座がそこにあり、あなたがそこで王として全てを治めて、生きている者の今も、死者の行く末も、罪を犯して死んだ者さえ、全てを治め、ご支配なさる、その御座にあなたが着かれるときには、救い主として、着かれるときには、私があなたにすがったことを、罪の赦しをあなたに求めて、執り成しを求めて、憐れみを求めて、あなたの御名を呼んだことを、どうか思い出して忘れないでください。わたしはあなたの御名を呼んだのです。イエス様、私を憐れんで、執り成して下さい。

この罪人は、神様に裁かれて死ぬこの時に、自分のやったことの報いを受けて死ぬときに、それでもその罪人のすぐ隣に来て死んで下さったイエス様のお名前を呼んだのです。イエス様、私を執り成して下さいと呼んだのです。主はそれを、これはあなたの信仰だと認めてくださり、あなたにはっきり言っておく。あなたは今日わたしと一緒に楽園にいると、救いを宣言されたのです。神様が、その王座から惜しみもなく立ち上がり、神様を神様と畏れもしない世の只中で、人としてお生まれになったのは、主がその王座に戻られるとき、罪人をもそこに一緒にいさせるためです。この世では、罪の報いを受けて死んでも、私の罪の永遠の報いと怒りからは救われるために、いや、既に生きているこのときも、神様の怒りから救われて、主に信頼して生きる報いをこそ受けるため、神の子は十字架につけられて死なれたのです。イエス様の御名を呼ぶ者は、神様を畏れて呼ぶ者は、この罪人と同じくらい確かに救われるのです。はっきり言っておく。あなたと共にいるために、わたしはあなたの十字架についたと、その名をインマヌエル、神様は私たちと共におられると呼ばれる、私たちの十字架の救い主イエス・キリストは、はっきり私たちに約束して下さる。あなたは今日わたしと共に神の国にいる。あなたのもとに、わたしの救いがもう来たではないかと、神の国の福音が語られるのです。

だから罪人は救われます。名も残されてない罪人であっても、神様が彼の隣に来て下さって、罪を執り成してくださったのです。自分の行ったことの報いはあっても、しかし、その自分の報いをはるかに上回り、神様が行われた救いの中に、報いは飲み込まれてしまうのです。報いはある。しかしその報いを上回る救いがある。生きている者と死んだ者とを裁かれるキリストが帰って来られるとき、必ずその救いが完成する。その憐れみを知ればこそ、人は神様を畏れ敬って生きられるのです。

12/3/18礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書23:32-38、詩編22篇7-32節 「主を十字架につけた人」

12/3/18礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書23:32-38、詩編22篇7-32節

「主を十字架につけた人」

 

十字架につけられたイエス様を描いた宗教画を、皆さんはご覧になったことがありますでしょうか。あるいは絵画に頼らずとも、その十字架のイエス様のお顔を想像することは、できるのではないかと思います。私のイメージのイエス様は割りとたくましいガッチリとした体つきで、まあ割りとイケメンのイエス様なのですが、黒髪です。ユダヤ人としてお生まれになられたのですから、イケメンと言っても、金髪ロン毛ではありません。その辺は想像に個人差があってもよいかと思いますが、特に描写して頂きたいのは表情です。しかも十字架のイエス様を取り囲んで無責任に傍観する群集や、ひどく野次っているユダヤの最高責任者の議員たち、またそれこそ、俺はユダヤ教徒じゃないから関係ないという無責任顔で、自分は関係ないと思いながら侮辱するローマの兵士たち、そういう数々の顔、顔、顔に取り囲まれて、そこでイエス様がこう祈られた表情。父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。そのイエス様の表情を、皆さんイエス様のお名前で祈るとき、ぜひ思って頂きたいと思うのです。何故なら今も、イエス様は同じ表情で神の右の座し、私たちを執り成しておられるからです。

私たちが、イエス様のお名前によって、天の父に向かって祈るとき、言わば天の父がその右におられる御子に顔を向け、あなたの名によって祈りゆうがと、あるいは無言の内に眼差しを向ける。するとイエス様が十字架の上と同じ、溢れる憐れみのご表情で、父よと執り成してくださる。仮に私たちが自分勝手でこりゃいかんという祈りをしよったとしても、なら尚のこと、自分が何を求めているか、自分がどんなことをしゆうか知らんのですと、主は執り成してくださる。その主の祈りを、我らの罪をも赦したまえと祈るたび、主は父に、赦してくださいと懇願される。心からです。私たち自身、自分の悔い改めに、何と心がこもってないかと嘆くときも、主は、父よ、この者は自分の罪を知らんからです、だからです、だからわたしが十字架について、その罪を引き受けたのですから、だから、この者のためにわたしを十字架で裁き死なせて、永遠の裁きを済ませられた父よ、この罪を赦して、いのちに至る悔い改めの恵みをこそ、この愛する者に注いで下さい、聖霊様を注いで下さいと、主は今も、父に願い執り成して、生きておられます。

私たちが安心して生きられるのはその故です。天には私たちの救い主が生きておられる。常に全能の父のすぐ右で、父よ、この者はと、執り成してくださっているから、そのイエス様を知っているから、安心して神様の前に進み出て祈れるのです。罪を犯しても祈れます。十字架の愛で今も私を愛して、今も祈って下さっているイエス様、イエス様のお名前によって祈ります。主よ、あなたにおすがりして生きていきます。生き直させて下さい。私の罪を負われた主よ、私をその罪から救い出して下さいと、罪からの救いを信じて生きられる。皆さんが祈られるとき、このイエス様のお顔を思いながら祈って頂きたいと願います。そしたら天の御座がグッと近くなります。イエス様が、来なさいと招かれる場所です。罪故に遠くとも、イエス様の執り成しゆえに、グッと近くなった恵みの御座に、ますます近づいて頂きたいと、キリストに代わってお願いします。まことにキリストが来られたのは、私たちがそうして神様のもとに進み出て、神の民として生きるためです。

ところが私たちにも、ここで主に愛され祈られているように、自分のしていることを、どんな生き方をしているかを、やはり知らないところがある。知っているなら、やっているはずのないことが山ほどあるろうと思うのです。罪そのものや、罪に影響されてやっていること、しかもそれが罪だとは知らずに、知っているならなおのこと、何故知っているのに別の生き方をしてしまっているのかと思うなら、立ち止まらなくてはなりません。そこに十字架が立ったからです。立ち止まって、わたしのもとに来なさいと、主が立ち止まらせてくださった十字架のもとで、イエス様の祈りのもとに立ち止まり、主の愛にひざまずいて、主よ、と祈ることからやり直す。それが教会の歩んできた道でした。

新共同訳では、この祈りが括弧で括られています。3頁前のオリーブ山の祈りでも同じ括弧があって説明しましたが、これは現在見つかっている聖書の手書きコピーで最も古いコピーには抜かっているけど、更に古い他の文書には同じ言葉が記されているのを苦心して表した。言わば学者のこだわりのような表現ですが、逆に言うと、それだけ教会はこの祈りにすがってきたのです。主の弟子として、この祈りがなかったら、弟子の人生を生き損ねてしまう。それほどの祈りだと、自分たちの態度に、刻んできたのだと思います。そうでなかったら簡単に、イエス様の愛をこそ知らない生活態度に戻ってしまう。まるでヤドカリみたいに、ヒュッと自分の殻に戻ってしまう生活態度から、本来自分ではない殻から抜け出すためには、十字架の愛が必要なのです。

今イースターに向けて、洗礼準備会が皆さんに祈られながら行われています。そこで必ず知るべきこと、これがわからんかったら洗礼を受けることができんという質問を必ず問います。あなたにはイエス様が必要ですかという質問です。実は息子ともイースターにではないですが洗礼に向けてゆっくり学びを始めています。お子さんのために祈っておられる方々も、私が問うてもよいのですけど、まずは自分自身に、我が子にイエス様は必要かと問うことは欠かせないと思います。どうしても必要なのか。じゃあ自分はどうして必要か。そこから思い出す洗礼の恵み、キリストの救いの喜びが、きっとあるに違いないのです。皆どうしても赦してもらう必要がある。私にはイエス様の犠牲が必要ですと、自分事として知るときに、罪の殻、死の墓から抜け出す光が差し込んでくる。その光に照らされるところで、イエス様、私にはあなたが必要です、と告白するとき、罪の裁きと死を超えた、復活の救いを得るのです。

その救い。どうしてイエス様の犠牲が必要か。それを知ることがないところでは、どうしても、自分を救えという話になるのです。自分を救え。ローマ兵からすら、俺はお前がメシアとかそんなのどうでもかまんけど、俺には関係ないけれど、自分を救うのが当たり前だろう、力ある王なら自分を救えよ、救い主なら自分を救えよと侮辱される。自分をも救えんのに、どうして他人を救えるか。結局、自分自分になるのです。しかもそこで思われている救いというのは、自分の生活が周りも含めて自分の思い通りになるという事でしょう。私は自分で自分を救う。神もそういう頑張る人を救うのだろうと、人は自分が神様によって救われる必要は思わない。神様に罪を赦され、罪から救い出され、生き方を変えられる必要があるとは思わない。だからそんな私たちを救うために来られたイエス様を殺してしまう。そうやって自分を救おうとするのです。自分は自分で救えると頑張って、何を頑張っているのか知らんのです。自分が何をしているのか知らんのです。隣人を愛することが大切だとは知っていても、支え合って人となるとか知っていても、いざ自分事となったら、自分にもたれようとする隣人の必要が途端に見えんなることもあります。例えば津波後のがれき問題は、他人事にはならんでしょう。自分事にならん限り、やるべきことはわかっています。でも自分事になった途端に自分を救う話になるのです。最近がれき受け入れを宣言した島田市が、苦労して住民に理解を求めて、あわや無知故の自己保身から脱し得たのは見事の一言に尽きると思います。自分の生活を思うとき、恥じる思いすらあるのです。無知から住民運動をしてきた方々も、また見事だと思います。自分を変えたからです。自分の無知を認め、がれきを引き受けることを決断した人々に、心から尊敬を抱きます。ヤドカリの殻から抜けたのです。これは無知故に入っておった殻に過ぎないと、新しい自分を見つける冒険の旅に出た。殻から抜けられなくなるほどに自分を愛し、自分を救うのが当たり前の世界は、本当は当たり前ではないのだと、そこからも知ることができると思います。そんな殻、本来の自分ではないのです。罪が私たちから、自分を失わせてしまうのです。

イエス様は弟子たちにこう言っておられました。自分の命を救いたいと思う者は、それを失う。しかしわたしのために命を失う者は、それを救う。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり失ったりしては、何の得があろうか。9章で語られた御言葉です。主は言われます。自分の命を救おうと思う者は、命を失う。

ローマ兵は間違っていました。議員たちも間違っていました。黙って傍観しておった民らも全く知りませんでした。神様が、人となられて、主として来られたのは、自分を救うためではありませんでした。人となられた神様は、王だから自分を救わんのです。私たちが自分ばかり救って、罪と裁きから救われんから、だから、その私たちの罪を背負って、裁きをも引き受けて死なれるために、主がご自分を犠牲にされて、わたしがあなたを引き受ける、父はこの犠牲ゆえ、あなたの罪を赦される、わたしは主、あなたの神だと、主は十字架を、栄光の王座とされたのです。張り付けられ、侮辱され、理解されない裸の王が、この王が私たちの罪を担いきられて救われます。それが神様の選ばれた救いです。これが私たちのために選ばれた救い主、メシア、キリストです。我が身ではなく他人を救うことを選ばれたから、十字架を必要としないと豪語する罪人を救うと選ばれたから、罪人は神様によって救われるのです。

またその愛を知るときに私たちは本当の自分を知るのです。自分自分の自分など、古い自分として知るのです。十字架の前に立ち止まって、イエス様、お救いくださいと祈り止まって、キリストの祈りは私のためだと知るときに、新しい自分を知るのです。本当の自分になるのです。その自分は、自分を失ってもよいのです。イエス様が同じように愛されている隣人がイエス様を知るためになら、自分は失ってもよいのです。もう得ていると知るからです。永遠の命を知るからです。皆にも知って欲しいし、私たちもそうやって共に知りたい。ここに命があるのだと、決して失われない永遠の命、赦され、清められ、恵まれた、神の子とされた命があるのだと、ただこの場所で、十字架のもとで知るのです。

12/3/11朝礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書18章1-8節、詩編22篇2-6節 「御国を来たらせたまえ」

12/3/11朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書18章1-8節、詩編22篇2-6節

「御国を来たらせたまえ」

 

あきらめないこと。あきらめなくてもよいのだという励まし、勇気を私たちに与えるために、イエス様は、絶えず祈れと、命じられました。わたしの名を出して、父の御前に進み出よ。父よ、主が、そうせよと、臆することなく、あきらめることなく、絶えずそうせよ、と命じられ、またそれが、父よ、あなたの御心であると主が励まして下さったので、主の名によって、あなたのもとにまいりました。私たちを、この国を、世界を悪から救い出して下さい。そのためにイエス様を十字架に付けられた父よ、私たちを悪からお救い下さいと、そう絶えず祈れと十字架の主は、励まして下さっているのです。これが運命だとか、私は弱いから無理だとか、結局、世界を支配するのは、偶然か悪魔か力ある者だと、あなたは決してあきらめたらいかん。あきらめて、なすべき務めを放棄せず、あなたはわたしの名によって昼も夜も叫べと言われます。

疑いなく、今日、日本中の教会が叫んでいます。東日本大震災による悲しみに気落ちすることなく、イエス様が絶えず祈れと言われたとおりに、被害者の方々を覚え、日本の行く末を執成し祈っています。また、世界の教会が共に神様の前に出て、祈っているに違いないのです。祈りの結ぶ結実として、また献金も多く捧げられていることかと思います。あるいは献金の話が出るときに気落ちするのかもしれません。そもそも私は絶えず祈ってきたかと罪悪感を覚えるのかも知れません。いつの間に、あの切実な祈りをなくしたのかと。しかしもしそうであればこそ、イエス様は気落ちするべきではないことを教えるために、あきらめてはならないと励ますために、祈りを教えて下さったのです。主の十字架の救いを信じて、世界を救う主の十字架の一端を担う者とすらされた弟子たちに、勇気を奮い立たせておられる。それがこの御言葉です。

そこでイエス様が語られるテーマ、主題は、裁きです。何度も語られます。ともすると、大いに誤解して、そんな裁きの神は真っ平ごめんだと心を閉ざしそうです。一年前も神の裁きというイメージを誤解して、天罰だと、しかめっ面で言った指導者さえいました。神様は、そういう誤解をされやすい。自分が神なら、こいつに天罰を下したいという自分の不満を、神に押し付け、そんな自分に対する神様の聖なる不満などは思いもしない。むしろそうやって自己正当化する不遜な態度を、人間は神様に押し付けて済ますことさえあるのです。

けれど、イエス様がここでおっしゃるイメージは、裁きとは、貧しいやもめを守るものです。守られなければならない弱いやもめを、正しく守ってくれるのが、裁きです。訳し直すと、当たり前の正義がなされること。例えば、私の隣人を私自身のように愛する。誰だって正しいと思う。でもその反対を行って隣人を害する。その悪を裁き、人が人として生きられる愛が基準の、当然の正義を行えば、当然やもめは守られる。当然の正義の執行。それがイエス様のおっしゃる裁きです。

ここは祈りの急所でもあります。私たちに求められている祈りは、なされて当然の神様の正義を、当然の正義をして下さいという祈りだからです。子供が自分の欲しいまま親に駄々をこねるような祈りではありません。だから、その祈り自体も正しいのです。当然の祈りです。じゃあそんな当然の祈りを、どうして叫ばなければならないか。

私たちの住むこの地上は、当然、自分たちも含め、罪だらけ、不正だらけであるからです。やもめを守る愛ではなく、やもめを追いつめる罪がある。自己責任を押し付ける。放射能を持ってくるなと、いじめさえする。自分が守られる正義だけに執着して、まさにその執着において悪が行われ、憐れみが放棄され、罪が支配する力の世界。それが私たちの世界です。主がやがて帰って来られて、地上でなされてきた全ての罪と悪の総決算がなされるまで、悪が止まんのです。やもめは当前の正義を見出せんから、裁判官に訴えるのです。

ところがです。イエス様はその当然の正義をもって報いて下さる天の父を、神をも畏れず人を人とも思わない不正な裁判官に譬えられます。当然の正義を求めているのに、知らんぷりする神のイメージ。罪の餌食になっている私たちを憐れんで、悪から救い出し、あなたの正義の中にお守り下さいと、祈っても祈っても、戸が開かれる気配が一向にない。叩けば開かれるはずなのに、叩けば開かれると主はおっしゃったのに、何も変わらない。聴かれて当然の正義を求めて祈っているのに、何一つ変わっていくように見えない現実、正義が見えない現実にぶつかって、そこであきらめ気落ちして、真剣な祈りをやめてしまう。そんな弟子たちを憐れまれ、主は父の顔に、人を人とも思わない裁判官の仮面をつけて言われるのです。あなたの祈りの中で、あなたが見ている神は、こういう顔をしてないか。正義を求めるあなたの祈りに無視を決め込んだ顔を見るのか。もしそうでも、その不正な顔をした裁判官は、あなたが来ているのは知っている。そしてあなたの訪問の間、あなたが気になって集中できず、また来た、また来た、まっことひっきりなしに来ると気になって、実はその毎回の叫びが気になっていて、ついには、じゃあ正義の裁きを行えば、もう来んなるろう、もう来てはくれるなと、この裁判官は腰を上げる。腰を上げるとイエス様は言われて、まして神はと言われるのです。まして神様は、直訳は、しかし、しかし、父なる神様は、御子をあなたの罪のため十字架につけられた神様は、その罪に換わって正義を求めるあなたの祈りが、胸に響いて仕方ないから、父は祈りを聴いて下さる。正義を求めるあなたの祈りは、必ず聴かれると言われるのです。鉄の仮面を剥がすのは、神様を訪れる鉄面皮、厚かましいほどに神様を訪れて、正義を行って下さいと訴える祈りだと言われるのです。

この正義の祈りは、聖なる不満から生まれるとよく言われます。人が罪を犯すということも、またそれ故に皆死ぬということも、決して相応しくはないのです。そこには神様の不満がある。聖なる不満があるのです。その聖なる不満を主ご自身、激しく顕わにされたことがあります。友人ラザロが死んだとき、その墓の前に立って、涙を流して憤られた。人が死ぬのは本当はおかしい。神の形に生まれてきた人間が、罪に支配されて死ぬということは、しかもそのためにこそキリストが地上に来られて、罪を身代りに背負って死んでくださった。その福音の現実においては、死には聖なる不満が伴うのです。そのキリストの弟子たち、教会もまた、主に倣い、主と同じ聖なる不満に突き動かされ、父よ、我らを試みに遭わせず、罪と死の中に放置せず、悪より救い出したまえと祈るのです。祈り続けよと言われたのです。

だから、私たちは祈るのです。キリストによってもう始まった神様のご支配、神の国の到来を求めるのです。父よ、早く救い出して下さい。この私たちの世界は、いつまで悪から救い出されないのですか。まるで旧約聖書のヨブのように、悪魔のたくらみによって自然が牙を向き、命を飲み込んでしまいました。どうしてですか。心も頭も疲れてしまい、問うことも、やめてしまいたくなるのです。気落ちして祈れなくなるのです。でも父よ、それはイエス様にすがる私たちにとって、イエス様を下さったあなたにすがる私たちにとって、間違っておって正しくないです。どうして祈れなくなるのですか。どうして悪が支配するのですか。世界はキリストを既に頂いたのではなかったのですか。どうして、主は波に、黙れ静まれとお叱り下さらなかったのですか。私たちが主に叫び求めなかったからですか。キリストよ、私たちを憐れみたまえ。父よ、私たちを憐れみたまえ。私たちの罪のため、御子を十字架につけられたあなたが、私たちをご支配なさっているのなら、もし、神がいないからだと拒むのでなければ、父よ、あなたの選ばれた者たちがまるでいないかのように、叫び求めてなかったからですか。主よ、憐れんで下さい。キリストの名によってお救い下さい。あなたの正義のご支配を行って、悪から救い出して下さい。私にも、私たちのこの国にも、あなたご自身がご介入下さり、御国を来たらせて下さいと、そう祈ったらよいと、主は言って下さる。

昼も夜も叫び求めて、目覚めて祈れと言われるのです。もし神様が、眠っているように思えても、なら尚のこと目覚めた者として相応しく、神様に向かって叫ぶのです。聖なる父よ、起きて正義を行って下さい。あなたが下さったキリストの名によって叫びます。あなたは起きざるを得んのです。信仰を見出し得ない地上であればこそ、そこにキリストを下さった愛なる父よ、やがて再び、そのキリストの再来によって、世界を造り変えて下さる聖なる父よ、早く救いを来たらせて下さい。あなたがご介入下さいと、御国を求める者たちが昼夜を問わず叫ぶところに、御国はやってくるのです。罪の支配は負けるのです。神様に祈らざるを得んなるところ、神様のご介入以外にないところで、キリストの救いがなるのです。それこそが、神様の正義、十字架で果たされた正義であると、私たちはキリストが下さったこの当然の正義を、私たちの当然として祈るのです。

今しばし、各自、沈黙のうちに、父に叫びましょう。キリストの名によって、しばらく黙祷を捧げます。その後、私が説教後の祈りを捧げて終わりとします。しばし、主の正義を求めて祈りましょう。

12/3/4礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書23:26-31、ホセア書10章3-8節 「わたしはいいから」

12/3/4礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書23:26-31、ホセア書10章3-8節

「わたしはいいから」

 

先週の礼拝後、4つの教会が南国教会に集まって伝道協議会を行いました。主が私たちに命じられ、よろしく頼むと教会に託された伝道を、どう具体的に行っていくか。協議をしまして、予想していたよりも濃い内容と、具体的な方向が与えられ、大変励まされました。その内容は、それぞれに資料をお読みください。そして、そこにある協議内容を自分の事として、祈って頂きたいと心から願います。一言で、そのテーマを抜き出して言えば、教会が主に託された伝道をしていくということは、まず自分の生活をとか、まず自分の教会をとか、そういう自分を捨てて主にお従いしていくところでしか、担えないのではないかという、伝道の基本イメージです。今朝の説教題も、言い換えれば、自己犠牲です。自分を犠牲にしてでもいいから、わたしはいいから、わたしは別にかまんからと、隣人のために尽くす。これが心に伝わるところで、伝道がなされる。でなければ、勧誘と何が違うかということになる。けれど自己犠牲が払われて、それが心に届くときには、言葉を超えて心でわかる。十字架の救いも、自分ごととしてわかるのじゃないでしょうか。

次週の礼拝は3.11を覚える礼拝ともなります。多くの被災者のために祈りを合わせますけれども、なら被災者のために祈る、また犠牲者のためにも生きるというときには、私はその方々のためにも自分を変える、その犠牲に応えるのだという態度もまた必要ではないかと思うのです。戦後の日本はしばらくそうした態度で生きてきたと思います。また愛する人を失った方々も、今真実にそう生きようとしていらっしゃると信じて疑いません。特に、逃げてください逃げてくださいとスピーカー放送をし続けて命を失った役場職員の方々とか、大勢の方々が、自分を犠牲にして他人の命を優先された。その記事を読むたび襟を正します。またそこでイエス様の死が、私たちのための死であったことも、改めて胸に込み上げてくるのです。

牧師として10年、キリスト者として約20年、イエス様の救いを人々に証してきましたが、ますますその中心に十字架があることを、神様の自己犠牲の故にこそ、私たちが罪赦されて救われるその愛と恵みとを、キリストの栄光の死を深く思わされます。それが心でわからんなってしもうたら、牧師はやめないかんとも思うのです。皆さんもそんな説教は聴きとうないろうと思います。ある牧師は、教会学校でもそれは同じだと、厳しく、しかしまこと適確に教会学校教師たちを指導され、当時多かった、マザーテレサのお話とアルベルト・シュヴァイツァーのお話を説教でするのを禁じられたと聞きます。どちらも自己犠牲の貴さを伝えながら、イエス様の十字架、神様の愛を語るということでしょう。が、その多用を禁じられたというのは、他人の自己犠牲だけに頼ったら、結局キリストの十字架を、自分ごととして語り得んのではないか、自分の十字架を負って自己犠牲を払って主にお従いしていくところでこそ、主の弟子として、十字架の救いを自分事としてわかって語りうるのだと、そう問われたのではないかと思うのです。いや~教会学校の先生は大変やと、他人事に思われる方はおらんと思いますが、イエス様に従って、自己犠牲の愛に生きるところで、イエス様の救いを伝える伝道に生きられるのだと聴いて、果たして尻込みせん人がおるのでしょうか。確かに襟を正しながらではあっても、臆さない人などおるかとも思うのです。

今読みましたこの場面、十字架を負って歩んでいかれるイエス様に、ここで従った人々は、十字架につけろと叫んだ民衆と、泣いている婦人たちです。弟子たちの姿は見えません。当時の処刑方法として死罪人が自ら十字架の横木を処刑場まで運ぶ。それを、途中イエス様が崩れ落ちられたのか。じゃあお前!と他人に担わせる。どうせなら弟子が名乗りを上げて担ぐところでしょうけれど、弟子は臆して、そこにはおらん。だからそこにおった者が強制的に横木を担ぎ、イエス様についていく。その後を無責任な群集と、嘆く婦人たちがついていく。

やっぱり最後に頼りになるのは、婦人会か(笑)とも思いましたが、調べてみますと当時は泣き女という職業もあって、お葬式とかで泣く。葬式を出せん人の場合、ボランティアで泣くことで、言わば功徳を積むとも考えられておったようで、そういう方々かもしれない。少なくともイエス様がここで呼びかけられたご婦人方はエルサレム地元の婦人たちで、イエス様とガリラヤ地方から旅をしてきた婦人の弟子たちではないようです。けれどいずれにせよ、イエス様は、ご自分のために泣いている人々に向かって、何故わたしのために泣くのか。むしろ自分たちのために泣きなさい。その涙は自分たちのために、またあなたの子供たちのために流しなさいと言われる。ちょっと冷たくすら思える。でも何故かという理由を、続いて旧約聖書の預言を引かれて言われるのです。それは、およそ40年後に襲い来るローマ軍によるエルサレムの破壊、そして大勢の死という、今まで犯し続けてきた罪に対する神様の裁きが避けられないという事実があるからです。主は既に、そのことを語ってもこられたのです。だから、自分の罪がどれほどの裁きに相当するかをわきまえて、そのためにこそ泣いてほしい。悔い改めの涙を流すことをこそ、わきまえて欲しいと言われるのです。エルサレムのため既に涙を流してくださった主が、またそのためにも、今その罪の身代りに死にに行こうとされている神の子羊が、あなたがたは自分と自分の子供たちのために泣く涙を持って欲しい、悔い改めの涙をわきまえて欲しいと言われる。もしこの婦人たちが、自分たちに迫り来る罪の裁きを絵空事に思って、単なる同情の涙を流すなら、十字架の真意、神様の覚悟は、涙に遮られ見えてないからです。ならばこそ罪の裁きの厳しさと、その裁きを受ける厳しさを、主は、十字架で引き受けられるのです。

生の木さえこうされるというのは、神様が、ご自分の御子、しかも罪を犯したことのないイエス様に対して、本当にここまでなさるのなら、罪の裁きを受けるべき当事者は、どうして神の裁きなどないと、悠々とかまえておれるだろうか。いや、必ず裁きはあることを悟って欲しい。生の木さえ燃えるのなら、枯れ木には、今にも火がつきそうじゃないかと説得をされている言葉です。今までずっと沈黙を守っておられた主が沈黙を破られて語られた言葉とは、ここにあなたの裁きを見て欲しい、そして悔い改めて立ち返って欲しいという、伝道の言葉でありました。裁きの日に、丘は覆ってはくれんからです。たとえ山が崩れ落ちても、罪が覆われることはないからです。ならばこそ、主は私たちの罪を身に背負い、十字架の上で私たちを背負って、わたしが死ぬのは、この人のためです。この丘で、わたしが覆い隠すその罪を、わたしが引き受けたこの人を、どうか赦して受け入れてくださいと罪を覆ってくださった。それが十字架の裁きです。罪ゆえに決して避けることのできない裁きであればこそ、愛ゆえに主が引き受けられた裁きなのです。

その裁きの十字架を主は負われて、赦しの十字架を背負われて、しかもその救いの十字架の一端を、神様は、そこにたまたま居合わせた人、キレネ人シモンに、あなたもその一端を担ぎなさいと任せられました。無論、彼が世界の罪を背負って死んだというわけではありません。世界の罪を覆ったゴルゴタの丘まで、ちょっと運んでいっただけです。主の血潮でその肩を濡らしながら、主の十字架を少し担わせて頂いただけに過ぎません。けれど他の福音書にはこの人の子供たちの名前も記されていることから、この人は後に、イエス様の弟子となったと言われます。名前が知られておったほど、主の弟子となるということはどういうことかを、後の世に伝える人となったのです。強いられた十字架という言葉もあります。しかしそこでこそわきまえることのできる、十字架の恵みもあるのです。このシモンと二人の子を歌ったゴスペル曲もあります。父親のシモンが子供たちの目の前でローマ兵に無理やり横木を担がされてイエス様について行く場面を歌うのです。子供たちは大人たちの群集に遮られ、泣きながらついていく。しかし過越し祭を祝うために連れていた小羊を、群集にもみくちゃにされる中で、逃がしてしまう。群衆の後から、やっと父親に会った子供らが、ゴルゴタの十字架のもとで泣きながら言う。お父さん、過越しの羊が、罪を赦すいけにえの小羊がいなくなってしまいました。その子供たちを抱きながら、父親は、先祖アブラハムに与えられた神様の約束、そしてモーセに与えられたいけにえの小羊の意味を説き明かし、その後、十字架のキリストを見上げて言うのです。見なさい、神の小羊だ。

最初は何かわからなかったシモン。でもまるで神様に捕まるようにして、主の後に従う者にされて、そのシモンの後に、子供らも、また民衆もついていく。そのときは見物客のようではあっても、そこでイエス様の後について行く。そして十字架に行くのです。世界は十字架に行くのです。やがて来たる世の裁きの日、キリストの前に立つときに、本当に泣くことができるため、しかもただ悔いる涙をのみでなく、神様に罪を悔い改めた、改まった涙を流すため、赦された涙を流せるように、神様は十字架の救いをくださいました。イエス・キリスト、神の小羊をこの世に与えてくださいました。そのキリストの十字架の救いを、教会は、主の十字架の一端を担いつつ、世界に伝えていくのです。