12/2/5礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書22:54-62、詩編51篇1-21節 「起きよ、夜明けは近い」

12/2/5礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書22:54-62、詩編51篇1-21節

「起きよ、夜明けは近い」

 

失敗をしたことのない人はおらんと思います。そのみじめさを知らん人もおらんのじゃないかと思うのです。イエス様も、例えば考え事をしながら歩きよって、人前でけっつまずいてすってん転んで、恥ずかしい思いをされるようなことはあったがやないかと想像します。仮にそうでなくても、同情に富んだ救い主です。私たちの罪を背負って犠牲となるため、人となられた神様です。ここでも弟子であるペトロの大失敗を、憐れみ見つめて下さっている。失って敗れると書いて失敗です。ペトロの場合、およそ主の弟子である資格を失うような大失敗をしでかしましたが、主は優しくその弟子を見つめてくださる。まるで大量点を失って敗れたタイガースを、それでも愛して見つめるようなと言ったらファンに叱られそうですが、やっぱりそこには愛情がある。

失敗し、それまで大切に思っていた何かを失する。何を失うのでしょう。根拠のない自信を失うのなら、それはいいんじゃないでしょうか。むしろ、そうしたプライドとも呼べるような自分を信じる自信を失い、まことの信仰に立つためには、失い失敗する体験は、必要なのかもしれません。そうでなかったら御言葉を、思い出しさえせんかったりする。イエス様の言葉、神様の御言葉って忘れるのです。それまでは要するに自分の言葉に支配され、俺は大丈夫とか、自分を信じろとか言っているのが、自分は間違っていたということを思い知るとき、御言葉の正しさを思い出す。イエス様が正しかったと、泣く思いさえする。

でも、ペトロはまだここで、前の頁でイエス様が言われたことの半分しか思い出していません。言わば自分の間違っていた部分だけ、自分を責めるように思える御言葉だけしか思い出してない。そういうのって、罪悪感や失敗に落ち込んだときの心理状況を、見事に映し出しているとも思います。ペトロってホントに私たちの代表やねゃなと思います。

イエス様はペトロに、わたしはあなたの信仰がなくならないように祈った、と言われたのです。失敗しないように、ではない。失敗した結果、信仰を失わないようにと祈られた。そういう悲惨があるからでしょう。失敗して、ああもう信仰をやめる、となってしまうことがおこる。例えば、私はこういうキリスト者になる、なるべきだ、絶対そうなんだ、という理想の失敗。私は結構そういうタイプで、理想になり損ねて落ち込むことがよくあります。また、神様を信じたら、こうなる、こうならんがやったらもう信仰をやめるという失敗もあり得るでしょう。例えば、受験に合格するとか。その場合、信仰とは何かということを、根本的に思い改める体験を神様が許容なさることもあると思います。自分勝手な信仰は、神様との信頼関係をそもそも失っているからです。

いずれの場合も、信仰とは自分が思っていたようなものではなくて、そうか、こういうものであったかと、信仰それ自体を改める体験を神様が敢えてなさせるということがあります。ペトロの場合、イエス様を信じてお従いするとは、自分の力で自分の信仰でと思っていた。ところが自分にはそういう力のなかったことが露わにされて、悔いの涙を流すのです。あるいはイエス様を愛していたのに、ごめんなさいという、自分の愛のなさを悔いる悔い改めの涙だったかも知れません。でも涙自体が悔い改めのしるしとは必ずしも言えないと説くある説教を読んで、確かにそうだと頷きました。確かに悔い改めたなら、自分ではなくイエス様を信じるはずなのです。イエス様が言われたように、信仰はなくならないのだとイエス様を信じて、またイエス様が約束された復活を信じて、十字架から三日目の朝、墓までお迎えに行ってもよさそうなものです。が、ペトロも他の弟子たちもイエス様のお言葉どおりに復活を信じてはいませんでした。信じて墓にお迎えにあがった弟子は一人だにいない。イエス様をそのお言葉通りに信じるという信仰は、まだない。信仰がなくならないようにと言うよりも、まだ身についてないのです。

じゃあどんな信仰がなくならんようにと、イエス様は祈られたのか。イエス様が言われた御言葉の、全部は覚えていなくても、全部が身についていなくても、それでもイエス様が、わたしについて来なさいと招かれたら、はいと言って従っていく。そういう信頼でしょう。それが信仰の根本でしょう。失敗の体験をして初めて思い出すような頼りない信仰であったとしても、それでもイエス様が、その私を救うために御言葉を語り続けて下さって、わたしに従って来なさいと、私を弟子として招き続ける。あなたはわたしを信じるか。あなたはわたしを信じてくれるかと、人格的な信頼を求められて、はい、主よ、わたしはあなたを信じますと主を信じる。自分ではなくイエス様を、イエス様の言葉だからと、信じて何度でも立ち上がって従う。それが主の喜ばれる信仰です。

その信仰で主に向いていれば、失敗しても失いません。間違った信仰や自信を失うのなら、それはむしろよいのです。そのために失敗をすることを、神様がお認めなさることもあるのです。そういう私たちを主は大きな愛で見て下さっていて、失敗するままにさせることもある。失敗したことのない強気の人間が、喜ばしい人間とは限らんことは私たちも既に知っていると思います。無論、失敗をしたい人もおらんでしょう。伝道しない理由の一つにあげられることもあります。伝道の失敗を恐れるのです。失敗するのはペトロが泣くほど辛いのです。ペトロが中庭に乗り込んで来たのは、勇気があったからでしょうか。それとも人前で、私は死ぬ覚悟ですと言った手前のプライドでしょうか。それが失われるために神様は失敗を認められます。彼が本当の勇気を得るためにです。自分がどうのではなくなって、そういうこだわりをこそ失って、自分を失ってもかまいませんと、人々の救いのために十字架を負うキリストの弟子となるために、自分を失う失敗を、神様は与えてくださるのです。そこにイエス様のまなざしもある。優しく、そして勇気をもって、弟子が新しく立ち上がることを、信じて見つめるまなざしがある。ペトロ、わたしを信じて、ついてきなさい。今は勇気がなくっても、自分を失い御言葉に従い、わたしについてきなさいと、私たちを招かれる主のまなざしが、失敗の中にも注がれるのです。

ともすると、私たちもまたペトロのように、主の言葉は、私を責める言葉だと勘違いをしやすいのかもしれません。そういう言葉ばかり思い出しては、責められていると思ってしまう。まるで大祭司の屋敷の女中のように、厳しいまなざしで睨みつけ、ほら、あんた、私は見逃さんでとでも言うような、ギロッというまなざしを、でもイエス様がなさったでしょうか。他の人々からもジロジロ見られているように思うと、勇気が萎えて、臆病になって、イエス様の弟子になり損ねる。それだけでなく、イエス様のまなざしさえも、そのように見えてくるのかもしれません。そういう人の目は確かにあります。しかし、そういう人の目の只中で、イエス様の眼差しは際立つのです。イエス様は、私たちを責めたりはされません。むしろその責めをご自分に負って、十字架で罪の裁きを負われたのです。ペトロ、あなたの罪はわたしが背負ったと、この愛をあなたは信じて、このために来たあなたの救い主をあなたは信じて、わたしについてきなさいと、主はペトロを、そして私たちを見つめられます。決して責められはせんのです。主は罪人を招かれているのです。

鶏が鳴いたのもそのためではないかと思います。古い自分から目覚める時を、知らせてくれたのではないでしょうか。悔い改めるのは喜ばしいことです。古い自分を脱ぎ捨てて、新しい自分に起きられるのです。キリストに従いついていく、恵みの夜明けを迎えるのです。