12/2/12礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書22:63-71、詩編110篇1節 「決めつけないで聴いて」

12/2/12礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書22:63-71、詩編110篇1節

「決めつけないで聴いて」

 

何を言っても信じてもらえない。言葉が届かない。愛の行動すらも。けれど、信じてもらいたい。あなたに信じてもらいたいっていう体験、皆さんは、ないでしょうか。なら神様はどのくらい、同じ苦しみを耐え続けて、そして、今はどういうお気持ちだと思われるでしょうか。

イエス様のお気持ちを知ることは、信仰にとって、とても大切なことだと思います。信仰とは何か。信じるとはどういうことかが、ここでは問われていると思います。信じてもらえんという苦しみがわかるとき、逆に誰かを信じるということの切実さが、心でわかるのではないでしょうか。信じてもらいたい人から信じてもらえなかった、という気持ちがわかる人は、イエス様のお気持ちがわかるのではないかと思うのです。

たぶんこれからやる映画だと思いますが、その映画のコマーシャルをテレビで見て、おそらくその主人公である初老の男性は、自分は母親から捨てられたのだと、ずっと思っている。そういうセリフが出てくる。でも実はそうではなかった、ということを、年老いて表情もなくなった母親から聞いて涙する。え、それでもう映画の筋、全部終わりじゃない?という映画のコマーシャルを見たのですが、捨てられるという言葉ではなくっても、それと似たような体験は、結構多いのではないかと思いました。捨てられたという言葉の換わりに、否定されたと自分では思っていたという体験は、随分多いのではないでしょうか。

小学生の頃、学校帰りに、パチンコ屋の解体現場だと思いますが、車の窓にも用いられている深い水色の硬質ガラスがキラキラ細かい沢山の立方体に粉砕して、まるで宝石の山みたいに光っているのを発見して、しばらく自分の宝物にしていました。で、ある時クラスのお楽しみ会か何かで、宝物交換というのがあって、きれいな箱か蓋つきの缶に入れて持っていったら、誰?こんな危険なもの入れちゅうがは!と言われて、ショックを受けたことがあります。え?どういてこの美しさがわからんが?何で?と自分が否定されたようで今でも記憶に残っています。後々何でそんなことになったがやろうと考えておって、いつぐらいになってわかったのでしょう。ああ、あれは私の幼稚な独り善がりの美的感覚を皆も当然わかってくれるものだと思っていたからで、言い換えれば自分の世界を、人にも無意識で押し付けて、きっとわかってくれるだろうと信じて疑っていなかったのが、あ、それは自分の作った世界であったかと、どっかの時点でわかってきた。案外そういうことを大人になっても繰り返しやっているのではないでしょうか。要するに、人の気持ちなど考えちゃなかった。

ユダヤ教の最高裁判所、最高法院に集まった大人たち。民の長老会ということは、結構なお年の人々でしょうけど、そういうええ年の大人であっても、イエス様のお気持ちなんて一切理解しようとはせんかったのでしょうか。明らかにここでの問題は、イエス様が語ってこられた、聴く耳のある人は聴きなさいという問題が、ハッキリ現れているのです。人の話を聴こうとしない。人の言葉も神様の言葉も、相手の気持ちになって受けとめようとせん限り、結局わからんのではないかと思います。いや、相手が間違っていることはわかっちゅうから、だから受けとめる必要はないのだというのなら、あらためて、このイエス様を裁く場に、イエス様を裁いている人々の中に私はいるのではないかという質問を、自分に問う必要がないでしょうか。子供に対しても、イエス様が、この最も小さき者にしたのはわたしにしたのだとおっしゃった言葉が、ここでも響き始めるのです。そのときに、聴く耳って生えてくるのではないかと思います。

信仰について語る大切な言葉に、ローマの信徒への手紙10章の言葉があります。「実に、信仰は聞くことにより、しかもキリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」なら、信じるということは、聴く耳があるということでもあります。あ、イエス様が私に語っておられるという耳を得る。そこでイエス様のお気持ちが届く心を得る。その語りかけに、はい、とお応えし、自分の思いではなく、イエス様の御言葉を信じる。つまり、信じるって、自分の信じたいことを信じるのではないのです。それは単に自分の行きたい道を選んでいるだけで、そういう道なら、別の気持ちを持っている、相手は必要ないのです。その相手を避けるのが信じるということではないでしょう。少なくともキリストを信じる信仰ではありません。

信じるとは、しかも誰かを信じ、信頼するとは、この人あるいは神様は、私がこの自分の泥沼から救われるために、いま救いの手を伸ばしてくれているということを信じ、私へのその愛を信頼するということでしょう。そのために、聴く耳、心を開くことが求められている。愛の言葉が語りかけられ、扉がノックされるのです。

その扉がなお固いなら、先週の御言葉で登場し、泣きながら退場したペトロのように、自分に絶望するという体験が、どうしても必要なのでしょうか。確かにペトロのように打ち砕かれる体験は人間にとって必要です。そこに復活の主に出会い直して、立ち直る恵みがあることも多くの者が体験していると思います。でもユダのように、同じく絶望しながらも、復活の主にお会いするまでの、三日の苦しみに耐えられず、なお絶望した上での自分の道を選ぶということもおこりうる。それも人間の事実でしょう。罪の力は強いのです。神様をすら裁くのです。お前が神ならこれをしてみろと、できないじゃないかと裁いては、自分と同意見の者を集めて、自分は正しいという証言を集めて、ほらだから、自分は正しいと、神様のお気持ちを締め出して…でも本当はそこでこそ、自分に絶望したのならなおのこと、イエス様、私はあなたが必要です、あなたの十字架の救いが必要です、私の罪を赦してください、私を罪から救い出してくださいと叫び求める。そこに信仰はあるのです。神様の救いの手は目の前にあるのだと、絶望に値する自分から目を上げて、十字架ですべての罪人を受け入れるために、大きく拡げられたキリストの両手を、その救いの力、赦しの愛を信じて、イエス様と呼べば良いのです。

そのときに、人がたとえどんな状態にあろうとも、キリストを見捨てた人間であったとしても、それでもただひたすらに主の名を呼んで、闇の中でさえ救われるように、人となられた神様は、言ってくださった。誰も信じてくれない不信の只中で、人から一体なんと言われても、何にも答えてはくれなくても、それでもしかし、わたしは神の右の座について、あなたがたの救い主、あなたの主となって、あなたがたの罪を裁くと断言される。その断固とした宣言が指し示すものこそ、十字架の上で私たちの罪を身代りに背負って裁かれる、裁き主が自らを裁いて救い主となられる、あの十字架の救いです。あなたの罪をわたしは背負って、わたしはあなたの主となって君臨する。それが、人として来た神の子、人の子である、わたしである。わたしは主、あなたの神だと、イエス様は人の手を借りずに言ってくださる。信仰は、人間の信仰が、キリストに手を伸ばさせるのではないのです。信仰とは、キリストが十字架で伸ばしてくださった救いの手を仰いで、アーメン、そうです、イエス様、あなたが私の主、私の神様ですと主の御手にお応えするのが信仰です。たとえ今どんな状態であっても、たとえ治らぬ病や苦しみにあっても、私たちの主となって下さったキリストが、その伸ばされた救いの手によって、必ず私たちを復活の栄光に迎え入れてくださる。その日を待って呼ぶのです。イエス様、私をあなたの栄光に入れてください。

12/2/5礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書22:54-62、詩編51篇1-21節 「起きよ、夜明けは近い」

12/2/5礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書22:54-62、詩編51篇1-21節

「起きよ、夜明けは近い」

 

失敗をしたことのない人はおらんと思います。そのみじめさを知らん人もおらんのじゃないかと思うのです。イエス様も、例えば考え事をしながら歩きよって、人前でけっつまずいてすってん転んで、恥ずかしい思いをされるようなことはあったがやないかと想像します。仮にそうでなくても、同情に富んだ救い主です。私たちの罪を背負って犠牲となるため、人となられた神様です。ここでも弟子であるペトロの大失敗を、憐れみ見つめて下さっている。失って敗れると書いて失敗です。ペトロの場合、およそ主の弟子である資格を失うような大失敗をしでかしましたが、主は優しくその弟子を見つめてくださる。まるで大量点を失って敗れたタイガースを、それでも愛して見つめるようなと言ったらファンに叱られそうですが、やっぱりそこには愛情がある。

失敗し、それまで大切に思っていた何かを失する。何を失うのでしょう。根拠のない自信を失うのなら、それはいいんじゃないでしょうか。むしろ、そうしたプライドとも呼べるような自分を信じる自信を失い、まことの信仰に立つためには、失い失敗する体験は、必要なのかもしれません。そうでなかったら御言葉を、思い出しさえせんかったりする。イエス様の言葉、神様の御言葉って忘れるのです。それまでは要するに自分の言葉に支配され、俺は大丈夫とか、自分を信じろとか言っているのが、自分は間違っていたということを思い知るとき、御言葉の正しさを思い出す。イエス様が正しかったと、泣く思いさえする。

でも、ペトロはまだここで、前の頁でイエス様が言われたことの半分しか思い出していません。言わば自分の間違っていた部分だけ、自分を責めるように思える御言葉だけしか思い出してない。そういうのって、罪悪感や失敗に落ち込んだときの心理状況を、見事に映し出しているとも思います。ペトロってホントに私たちの代表やねゃなと思います。

イエス様はペトロに、わたしはあなたの信仰がなくならないように祈った、と言われたのです。失敗しないように、ではない。失敗した結果、信仰を失わないようにと祈られた。そういう悲惨があるからでしょう。失敗して、ああもう信仰をやめる、となってしまうことがおこる。例えば、私はこういうキリスト者になる、なるべきだ、絶対そうなんだ、という理想の失敗。私は結構そういうタイプで、理想になり損ねて落ち込むことがよくあります。また、神様を信じたら、こうなる、こうならんがやったらもう信仰をやめるという失敗もあり得るでしょう。例えば、受験に合格するとか。その場合、信仰とは何かということを、根本的に思い改める体験を神様が許容なさることもあると思います。自分勝手な信仰は、神様との信頼関係をそもそも失っているからです。

いずれの場合も、信仰とは自分が思っていたようなものではなくて、そうか、こういうものであったかと、信仰それ自体を改める体験を神様が敢えてなさせるということがあります。ペトロの場合、イエス様を信じてお従いするとは、自分の力で自分の信仰でと思っていた。ところが自分にはそういう力のなかったことが露わにされて、悔いの涙を流すのです。あるいはイエス様を愛していたのに、ごめんなさいという、自分の愛のなさを悔いる悔い改めの涙だったかも知れません。でも涙自体が悔い改めのしるしとは必ずしも言えないと説くある説教を読んで、確かにそうだと頷きました。確かに悔い改めたなら、自分ではなくイエス様を信じるはずなのです。イエス様が言われたように、信仰はなくならないのだとイエス様を信じて、またイエス様が約束された復活を信じて、十字架から三日目の朝、墓までお迎えに行ってもよさそうなものです。が、ペトロも他の弟子たちもイエス様のお言葉どおりに復活を信じてはいませんでした。信じて墓にお迎えにあがった弟子は一人だにいない。イエス様をそのお言葉通りに信じるという信仰は、まだない。信仰がなくならないようにと言うよりも、まだ身についてないのです。

じゃあどんな信仰がなくならんようにと、イエス様は祈られたのか。イエス様が言われた御言葉の、全部は覚えていなくても、全部が身についていなくても、それでもイエス様が、わたしについて来なさいと招かれたら、はいと言って従っていく。そういう信頼でしょう。それが信仰の根本でしょう。失敗の体験をして初めて思い出すような頼りない信仰であったとしても、それでもイエス様が、その私を救うために御言葉を語り続けて下さって、わたしに従って来なさいと、私を弟子として招き続ける。あなたはわたしを信じるか。あなたはわたしを信じてくれるかと、人格的な信頼を求められて、はい、主よ、わたしはあなたを信じますと主を信じる。自分ではなくイエス様を、イエス様の言葉だからと、信じて何度でも立ち上がって従う。それが主の喜ばれる信仰です。

その信仰で主に向いていれば、失敗しても失いません。間違った信仰や自信を失うのなら、それはむしろよいのです。そのために失敗をすることを、神様がお認めなさることもあるのです。そういう私たちを主は大きな愛で見て下さっていて、失敗するままにさせることもある。失敗したことのない強気の人間が、喜ばしい人間とは限らんことは私たちも既に知っていると思います。無論、失敗をしたい人もおらんでしょう。伝道しない理由の一つにあげられることもあります。伝道の失敗を恐れるのです。失敗するのはペトロが泣くほど辛いのです。ペトロが中庭に乗り込んで来たのは、勇気があったからでしょうか。それとも人前で、私は死ぬ覚悟ですと言った手前のプライドでしょうか。それが失われるために神様は失敗を認められます。彼が本当の勇気を得るためにです。自分がどうのではなくなって、そういうこだわりをこそ失って、自分を失ってもかまいませんと、人々の救いのために十字架を負うキリストの弟子となるために、自分を失う失敗を、神様は与えてくださるのです。そこにイエス様のまなざしもある。優しく、そして勇気をもって、弟子が新しく立ち上がることを、信じて見つめるまなざしがある。ペトロ、わたしを信じて、ついてきなさい。今は勇気がなくっても、自分を失い御言葉に従い、わたしについてきなさいと、私たちを招かれる主のまなざしが、失敗の中にも注がれるのです。

ともすると、私たちもまたペトロのように、主の言葉は、私を責める言葉だと勘違いをしやすいのかもしれません。そういう言葉ばかり思い出しては、責められていると思ってしまう。まるで大祭司の屋敷の女中のように、厳しいまなざしで睨みつけ、ほら、あんた、私は見逃さんでとでも言うような、ギロッというまなざしを、でもイエス様がなさったでしょうか。他の人々からもジロジロ見られているように思うと、勇気が萎えて、臆病になって、イエス様の弟子になり損ねる。それだけでなく、イエス様のまなざしさえも、そのように見えてくるのかもしれません。そういう人の目は確かにあります。しかし、そういう人の目の只中で、イエス様の眼差しは際立つのです。イエス様は、私たちを責めたりはされません。むしろその責めをご自分に負って、十字架で罪の裁きを負われたのです。ペトロ、あなたの罪はわたしが背負ったと、この愛をあなたは信じて、このために来たあなたの救い主をあなたは信じて、わたしについてきなさいと、主はペトロを、そして私たちを見つめられます。決して責められはせんのです。主は罪人を招かれているのです。

鶏が鳴いたのもそのためではないかと思います。古い自分から目覚める時を、知らせてくれたのではないでしょうか。悔い改めるのは喜ばしいことです。古い自分を脱ぎ捨てて、新しい自分に起きられるのです。キリストに従いついていく、恵みの夜明けを迎えるのです。

12/1/22礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書22:47-53、イザヤ書43章21-28節 「赦しと癒しを」

12/1/22礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書22:47-53、イザヤ書43章21-28節

「赦しと癒しを」

 

私たちの教会が大津で伝道を始めてから25年が過ぎました。そして14年前の1月25日に、それまでの伝道所から教会となり、高知東教会として新しい歩みを始めた。その教会設立を記念しての礼拝を捧げています。その経緯は、クリスマスに発行された四国教区だよりにも記されています。受付のパンフレット入れにありますので、お読みいただけたらとも思います。そこに「始まりは神様の計画でした」との吉永長老の言葉が引用されています。どうして教会が立って、どうして神様の救いの業が、ここで前進しているかというと、神様のご計画であったから。それしか言いようがないのです。クリスマス・イブ礼拝でも同じことを言いましたが、どうしてイエス様が来られたかと言うと、始まりは神様の計画なのです。始まりはいつでもそうです。それをのっけからおかしな方向にもって行きそうになる人間の過ちがあったとしても、最初の最初の始まりは、いつでも神様の計画がそこにあって救いに向かって導かれていく。途中、どうしてこんなことがということは幾らでもあるし、もうダメかと思う。次々牧師が代わったり、14年前、やっと教会になったと思ったら洪水で財を失ったり。でも人間の思いをはるかに超えて、神様の救いがなるのです。それは救いの始まりが、神様の計画から始まったからです。言い換えれば、神様が、途中でどんなことがあったとしても、最後まで私たちを見離すことなく、必ず救い出してくださることを、神様が選ばれたから。これを選びと言う。私たちがキリストを信じることを選んだからというのが救いの始まりじゃ、ないのです。そうやって罪を赦され、救われることを、神様が選んでくださったから、それが神様のご計画だから、人間は私たちの側での選びや思いを、圧倒的にはるかに超えて、恵みによって救われるのです。

無論、神様の選びというのは、だから、あなたは、わたしがあなたに選んだ救いの道を、わたしに従って歩んできなさいと、私たちが神様の道を選ぶことを求められます。何を選ぶか、強制はされません。神様は人間が愛によって生きることを選ばれましたから、私たちが何を愛して生きるか、何を選ぶか、いや、誰を愛して誰を信じることを選ぶかを、私たちに委ねられます。ときに大人が子供に対し、それは危険だからと全部選んで押し付けてしまうことをせず、無論だからこそ教え導かれますけれど、じゃあ、何を選ぶかは私たちの側に、主は託される。

そしてユダは、救い主を愛することより、裏切ることを選びました。イエス様ご自身が、人の子と呼ばれた、人となられた神様を信じる道を選ぶのではなくて、じゃあユダは、誰を信じる道を選んだのでしょう。はっきりこの道を!というのは、なかったのではないかとも思います。何となく、自分にとって、こっちだと思われるほう。何か望ましく思えるほうや、だって、あっちには行きとうない。あっちは嫌という反対の方向を、あんまり考えないで選ぶということが、多々あるのではないかと思います。だから、反省もするのでしょう。何であんなことをしたろうかと。考えのなかった自分を反省する。

ピノキオのディズニー・アニメを私が見たのは、二十歳を越えてからでしたけど、途中、これは恐ろしいと思う場面がありました。人買いが子供たちを騙して嘘ついて、島の遊園地に行ったら、楽しいことがあるよ、お菓子食べ放題だよとか何とか言って、子供たちを連れて行って、ピノキオもノコノコついていく。そしたら、あれは何なのでしょうか。まるで闇そのものが人の形をしたような、あるいは闇の奴隷、闇の僕のような人型の物体が子供たちを奴隷にするために、うようよ出てくる。夢に見そうなその場面を見て、何と悪魔的な描写を思いつくのかと思いました。そう思う反面、いや、これが恐ろしく思うのは、これが確かに人間の闇の描写であるからだと思うのです。それは単にズルイ大人の闇を描いているだけでしょうか。親が何と言おうと考えないで選びたい、自分の好きなことをしたいという、子供の心にも潜む闇の恐ろしさを、年齢を問わず、暴いていたのではなかったでしょうか。後で、反省するのです。欲望のまま、考えないまま、何で、あんな行動を選んだのだろうと。もし反省もせんというのであれば、どれだけ深い闇でしょうか。

イエス様は、闇の中から現れた人々の顔をご覧になって、今はあなたたちの時で、闇が力を振るっていると言われました。昼は違う顔をしているのです。主の語る神様の言葉に反感を持っていても、人々の手前、体面を恐れて手は下さなかった。人の顔色をうかがって、行動を選ぶ。よくやる選び方でしょう。でも人の目がないところ、闇の中に入ると、自分のやりたかった行動を選ぶ。闇が力を振るっている。直訳すると、闇の支配という言葉です。神の言葉に照らされて、光に照らされた行動を考え選ぶ時間ではなく、そのときには行動を保留して、あなたが本当にやりたかったことをできるようになる、あなたたちの時間になると、闇の支配がヌッと顔を出してきたと、主は言われる。

闇の力は、罪の支配とも悪魔の支配とも言い換えることができます。神様が憎まれる行動を選ばせるよう支配する力、闇の支配力。それゆえこれに先立つところでは、ユダにサタンが、悪魔が入ったとも言われていました。闇の支配に身を委ね、光のもとでなら選ばんかったであろうその道を、ユダは闇の力を得て罪を選んだ。ならそれは、果たしてユダだけに当てはまることでしょうか。ユダだけが特別だったとは、私にはとても言えません。それは、この福音書を記したルカにとっても、同様であったのかも知れません。ちょっと曖昧な記述の仕方を選ぶのです。十二人の一人でユダという者が先頭に立ってと、そんな、ユダという者とか言わずに、あのユダがと言えば、誰もがすぐわかる人物なのです。ともすると反射的に眉をしかめ後ろ指を指すようにして、あのユダだろと。でもルカの選んだ言い方は、ユダと呼ばれる十二弟子の一人です。まるで松明を照らしてイエス様をつかまえに来た群衆の中に、あれ?何で十二弟子が混じっちゅうが?十二弟子がどうして?と。今で言えば、いかがわしい場所で、あれ?なんでクリスチャンがおるが?どうして?と言わんばかりです。他の十二弟子たちが、この時を振り返ったとき、ユダをというよりは、私たちは十二弟子だったのにという恥じる思い、反省せざるをえない思いで、そこに現れたユダの顔を思い出したのではないか。私の顔は、そのとき、じゃあ主のすぐ側におりながら、光に照らされておったのか。神様の御心を選べたか。その内の一人は、主よ、切りつけてやりましょうかと問いながら、イエス様のお言葉を待たずに闇の中に飛び出して行って、バッと人の血を流す。これもまた、ある者としか言われません。イエス様からご覧になったら誰も皆、闇のような顔をしておったのではなかったかと、弟子たちもまた自分の内に巣食う闇の顔を、見つめざるを得なかったのではないかと思うのです。

裏切りが口付けでなされる。そこにも闇に迷う人の心が見えてくるように思います。口付けという言葉は、友情の愛を表すという言葉です。だからこそイエス様は、わたしに向かって友よと言いながら、裏切ろうとするのは、どうしてか。よく考えてみよと反省を求め、悔い改めを求めるのです。でもユダからしたら、だって、それはイエス様、わかるでしょという気持ちがあったかもしれんのです。人間的な弱さがあるのは誰でもある。でもそれを正当化する闇の力。だってそうせざるをえんかったから。だから今でも私はあなたの仲間のつもりですけど、主の考えにはついていけんから、こうせざるをえんかった。それはイエス様こそ反省すべきではないですか。もっと理解すべきではないかとでも言うように、闇の顔を正当化しようとするほどに、心が支配されてしまう。愛とは何か、友である、同情をするとは、どういうことかまで、闇に支配され、愛が自分中心に捻じ曲げられる。その闇の支配の中では、自分も裏切られているのです。裏切るという言葉も直訳は、引き渡す、という言葉です。あなたは、あなたの身代りとなって裁かれ死んで赦すため、人となった造り主、人の子を、なのに愛という名で闇に引き渡すのか。それは愛じゃない、考え直せ、悔い改めて欲しいと主は願われる。

むしろ私たち、神様に愛されている者たちを、闇に引き渡してしまうのが、愛の正反対にある闇の力、罪です。主は、あなたが行っているのは罪だ。愛はそのあなたをも罪から救い出すために、あなたを裁くお方が、あなたの身代りにわたしを犠牲として闇に引き渡してしまうこと。それが愛であり、そのためにわたしはあなたのもとに来たのだと、主はユダと私の罪を背負って死なれた。そうやって私たち全員の罪を負い、救い主が、闇の支配に引き渡された。そして、神様は言われるのです。永遠の御子が身代りに引き渡されたのだから、闇はそこにいる者たちをわたしのもとに渡さなければならない。それがキリストの死による奴隷の交換。十字架の上でなされた罪人の贖い、買い戻しだ。闇の奴隷となっていた者の身代りに、キリストが闇に渡されて、思いのままにされ、呪いの死にまで渡されたのなら、なら闇の奴隷となっていた者たちは、わたしのものだ。神の子となるべき者たちだ。だからあなた方は全員、戻って来なさいと、全能の父が呼んで下さる。死んでなお生きる復活の道を通って、キリストの後に従って、戻ってきなさい。あなたはわたしの愛する者だ。キリストの赦しと癒しを信じて、わたしを信じて歩みなさい。わたしがあなたを癒そうと、神様は招いておられるのです。

闇の勢力は人の人生をもてあそび、友よとか、愛せとか、散々に人間をもてあそび、揚句に奴隷にするのです。その闇の奴隷として生きる人間も、同じように人の人生をもてあそび、神様のお気持ちさえももてあそび、愛しているつもり、友のつもりでさえあるかもしれない。そんな裏切りの生き方を、けれどイエス様は叱って下さる。もうそれでよい、やめなさい、もうそんな生き方は十分だと、闇に騙されて負っていた傷も、優しく癒して下さるのです。闇に散々にもてあそばれて、その支配に影響された私たちが、神様をさえもてあそんでも、神様は、私たちをもてあそばれることはありません。かえってその罪を赦されて、傷を癒され、御言葉の光に照らされて、キリストの弟子として歩めるのです。神様が癒して下さいます。教会は、この光の中に立つのです。

12/1/8礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書22:39-46、詩編142篇1-8節 「祈って立ち上がろう」

12/1/8礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書22:39-46、詩編142篇1-8節

「祈って立ち上がろう」

 

いつもの場所に主は行かれました。それゆえ、そこで主を捕えることすらできたほど、いつもの場所にです。私たちにとってのいつもの場所はどこでしょうか。それが、主に祈る場所であればと心から願います。あの人いっつもトイレにおる、ということもあるかもしれません。祈れるからです。さすがにトイレではひざまずきませんが、祈りの場所としての礼拝堂も、またいつもの場所としてあります。いつもの席に座られる方が、もしそこにおらざったら、あれ?今日はどうされたろうとすぐわかるほど、そこで神様にひざまずく場所。

でもそこで、弟子たちは祈り損ねて寝てしまいさえする。これ、先に言うちょかんと、説教半ばで言うて、あ、私のことをネタにしゆう、と起きて誤解される人がおったらいかんので、先に言うちょきます。説教に御言葉を聴けない悲しみの余り寝てしまうことがないようにと自戒を込めて言うのですが、そこでイエス様は誘惑に陥らぬようと言われる。誘惑って何でしょう。世の楽しみや思い煩い、色々と直面する誘惑がある中で、共通して祈らせんようにするのが、誘惑ではないでしょうか。ある映画は、この場面で、弟子たちに剣を石で磨がせていました。前の38節で手に取った二振りの剣を、石でシャッシャッと磨きゆうところに主が来られて、誘惑に陥らぬよう、祈りなさいと言われる。私たちも、すぐに闘う相手を間違うのです。祈りの格闘ではなくて、人と戦おうとしてしまう。けれど、敵の名は、誘惑だと、イエス様は弟子たちに言われます。剣ではこの敵に勝てんのです。大勢の強者が、この敵の一刀の下になぎ倒されてきました。私は大丈夫、と立ち向かったら、ズバッ。立ち向かったらいけません。この敵に勝つには、ひざまずく。敵に背を向けて、神様にひざまずいて祈るのです。それが誘惑との闘い方だと、主ご自身が、手本を見せてくださっているとも言えるでしょう。唯一の勝ち目は、全能の父の御前にひざまずくこと。父よと、その御心にひれ伏して、ひれ伏せない肉の思い、弱さ、誘惑と闘って、肉の思いはありますけれど、しかし御心がなりますようにと、そこでへりくだり祈って闘う。その私たちの頭越しに、父が誘惑をギロッと睨んでくださって、神様が闘ってくださるのです。

当時のユダヤ人は立って祈るのが普通だったと言われます。いつもの場所で、いつもは立って主も弟子たちと祈っておったのではないかとも言われます。でも、このときはひざまずかれた。あるいは、キリスト者がひざまずいて祈るようになったのは、このイエス様のお姿を、いつも思い起こしていたからかも知れません。当時も、ひざまずいて祈ることはありました。でもそれは余程、苦しいときであったと言われます。このとき主は、静かに膝を折り曲げてひざまずかれたのでしょうか。それとも苦しみの重さに耐えられず、崩れ落ちるようにドスンと膝をつかれたのでしょうか。両手で土をかきむしるようにして、苦しみ叫ぶようにして祈られるのです。

新共同訳では、その苦しみの様が括弧で括られています。現在見つかっている聖書の手書きコピーで最も古いコピーには抜かっているけど、更に古い他の文書には同じ言葉が記されているので、聖書学者が苦心して括弧で表したようです。ただ無論、他の福音書、マルコもマタイも、ルカの記述よりイエス様がもっと苦しまれた様を残しているので、主がこの祈りの格闘で相当に苦しまれたのには違いないのです。

何故、そこまで苦しまれたのでしょう。目前に一刻一刻と迫る死が、それほど恐ろしかったのでしょうか。それなら毒杯を悠々と飲み干したソクラテスの如く、死ぬことなど怖くないとうそぶく多くの者よりも、主はよっぽど意気地がないということでしょうか。でも、死ぬのが怖くないと言えるのは、自分の死後の審判をわきまえておって安心できるのでなかったら、余りに無邪気すぎて煮えたぎった湯に手を突っ込むようなもので、そちらのほうが怖く思います。

あらためて、私たちは死をわきまえているのでしょうか。三位一体の御子なる神様が、その死を身代りに死ぬために人となられて、その死とは何かを、すべてわかっておられたキリストが、その上で、いやその死をわきまえておられるが故にこそ、明日に迫った十字架の死を前にして苦しみ悶えられたのは、その死が心底怖かったからです。その死を避けたいと願われるほどにです。弟子たちに何度も語られた復活の希望が、それ故に私たちが今生きられる復活の希望が、この時の主にはあたかも霞んでしまうほどに、主は、この杯を避けたいと願われた。そこまで、御子は真実に人間になられた、まことの生贄となられたと言えますし、そこまで、この死は、人間が決して悠々と受けられるようなものではないということを雄弁に説教しているとも言えるのです。十字架で死ぬということは、単に直径1㎝を越える鋼の釘を両手と重ねた足に打ち込まれ、ぶら下げられて死ぬだけでなく、弟子たちに逃げられ、人から唾をかけられて罵られ嫌われて死ぬのでもない。十字架で三位一体の永遠の御子が人として死ぬということは、その名をインマヌエル、神様は共におられると呼ばれる方が、この死の間、そのお側から永遠の父も御霊も共におられなくなって、遠く離れられ捨てられ見離されたあげく苦しくて天を仰いだら、父にその扉をバンと閉められて捨てられることです。もし扉越しにでも声を聴けたら、何でもかまんから言ってくれたら、つながりを感じられるであろうのに、父に向かって手を伸ばしたくても、釘付けられた手は伸ばしようがなく、たとえ父に向かって伸ばし得たとしても、その手をよけられるようにして身をよじられて、拒絶される。一切の拒絶。永遠の拒否。造り主を拒絶した人間は、その報いを受けて全存在を拒絶される。それは憎しみでなくて怒りです。人間の怒りもここに尽きるでしょう。あなたにいなくなって欲しいというこの怒りを、しかも死んで受け続けるのが、造り主なる神様を拒んで罪を犯し続けた報いであれば、誰がその怒りの杯を悠々と受けるなどということができるでしょうか。

その苦い怒りの杯を、じゃあどうして御子は、それでも目の前から、はねのけることを拒まれたのか。そしたら、その杯の中身が全部、私たちの口に飛び込んできて、バタバタと全員死ぬからです。世界が始まって以来、どれだけの人間が死んだかわかりませんが、その想像を絶する全ての人間が、神様の前に全員目覚めさせられて、永遠の最後の審判を受けるとき、もしこの杯の中身が残っておったら、その全員の目の前で天の扉がバンと閉められ、全員がバタバタと死なねばならない。そのように人間が死ぬことをこそ、父なる神様は拒否されて、だから、子よ、あなたがこの杯を飲み干してくれるか、と願われた。それが一体何を意味するか、全部わきまえておられた永遠の御子が、ならば、その永遠の苦しみを私が人となって受けましょう、父よ、あなたの御心がなりますようにと、改めて十字架を前にしたこの時も、苦しみ悶えて悶絶しても人間の救いを拒絶せず、人間を救う御心のままに行って下さいと、その名を愛と呼ばれる神様の御心にひざまずかれた。それがキリストの死を前にした祈りです。世界を造られた主の御心は、世界への裁きをも過ぎ越して、御子の生贄の死によって、世の罪が取り除かれて救われることです。その神様の名を呼ぶのです。神は愛なり。

その御心にこそ、ひざまずくから、その名を信じて呼び続けるから、苦しんで祈っても立ち上がれる。この父の御心に膝をかがめて、救い主イエス様の赦しのもとに身を置けるから、ひざまずいた後で、立てるのです。たとえ誘惑に陥ったとしても、何度も何度も倒れても、そこでもひざまずいて祈ればよいのです。そこでなお、十字架で死なれた主の名を呼んで、私たちの罪の赦しを望まれた、父に祈ればよいのです。そこまで、私たちの罪は担われています。そこまでキリストは全存在を死に渡されて、私たちの全存在を負われたのです。私たちの命はキリストの内に、しかも復活のキリストの内にこそあるのです。全ての罪と死を打ち破り、復活のキリストが改めて言われます。あなたの罪は赦された。わたしがあなたと共にいるのだと。

だから倒れても立ち上がれます。また倒れることがないように、誘惑に陥ることがないように、祈って闘うことができるのです。立ち上がられた主の前に、復活の栄光の主の前にひざまずき、祈ってキリストの名によって、立ち上がらせていただけるのです。

12/1/1朝礼拝説教@高知東教会 ローマの信徒への手紙12章1-2節、レビ記19章1-2節 「礼拝から新しく始めよう」

12/1/1朝礼拝説教@高知東教会

ローマの信徒への手紙12章1-2節、レビ記19章1-2節

「礼拝から新しく始めよう」

 

教会の伝統的な暦で、今日1月1日は、主イエス・キリストの命名日と呼ばれています。クリスマスにイエス様が人としてお生まれになられて8日目、掟に従って割礼を授けられ、天使を通して与えられていたように、イエスと名づけられた。それが今日1月1日だという伝統です。実際の日付がいかであれ、新しい一年の始まりを、イエス様の名づけの日と共に始めるというのは大変に意義深いと思います。イエス様というお名前は、主は救い、主が救ってくださる、という意味のお名前です。主は救ってくださる、イエス様によって主は私たちを救ってくださる、イエス様と呼びながら、新しい一年を始める。一年の計は元旦にありと言いますが、神様の側ではもう決まっちゅうのです。この一年も、主が救ってくださる。だから、イエス様の名によって祈ればよい。主の名によって集うこの礼拝で、この一年も御言葉によって生かされ、救われ、造り変えられる一年として、やがてすべてが新しくなる日を心から待ち望んでよい。すべては新しくなるのです。たとえ私たちがそれに対して何もせず、あれもできんかった、これもできんかった、年賀状のことは言わんといて、という状態でも。今日新しい年が来たように、すべては新しくなるのです。主が新しくされるからです。

ただ、それが、相応しい主の迎え方かと言うと、そうではないので、今日の御言葉もまた勧めます。心を新たにして自分を変えていただきなさい。日本語訳が誤解を招きやすいのですが、自分で頑張って心を新たにしたら、その自分を変えて頂けるというのではありません。心も新たにして頂くのです。そしたら自分が変えられる。こう訳したほうがよかったでしょうか。心を新たにして頂いて、自分を変えて頂きなさい。

すべてが新しくなる時に、自分だけは変わらんというのはありえません。どうして私だけと悩む時だってありますけれど、私をも変えていただける。あるいは変わりたくないとさえ思う私も、です。変えられる。でもそれには、新しくされるのに相応しい、一つの行動、あるいは態度が求められると言われます。どうやって、心を新たにして頂くか。自分の体を、神様に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。この一つだけ。これこそが、あなたがたに相応しい礼拝ですと、一つの求めが神様からなされる。

聖なる生けるいけにえとして捧げるという言葉は、教会では馴染みの言葉でもあるでしょう。聖なるとは、神様のものという意味で、例えば神様の家族の食卓で聖餐式です。その最後で、感謝の祈りを捧げつつ、この御言葉を受けて、こう祈ります。この体を生きた聖なる供え物として御前にささげます。先の口語訳聖書に従って供え物と言うのですが、いけにえと訳すほうが正しいでしょう。今この礼拝でもそうなのです。この礼拝が相応しい礼拝となるために、この一年を、新しく変えられた私として歩むため、歩み続けてブレないため、今ここで、自分自身を、神様の喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げる礼拝。その他の一体何が、一年の初めに相応しいでしょう。

確かに、いけにえとして自分を献げるという言葉には、ゴクリと唾を飲むようなインパクトがあります。人間誰しも抵抗感を覚えるに違いありません。スカイダイビングするようなものでしょうか。想像するだに緊張感があります。それがスリルだと好む人もおるかも知れませんが、私は高所恐怖症でチキンですから、たとえ妻から誘われても無様で惨めな姿をさらすのに、何万円も出す気にはなりません。でも教会に神様を礼拝しに行って、いけにえになってお金まで献げて、お前大丈夫かと、あるいは思う人もおられるでしょうか。いけにえです。神学者カール・バルトは、ここには自分という体を持ったすべての人間に対する妨害、対立、攻撃があると言いました。自分の体と心とは、自分自身のためにこそ用いてきたし、今も、またこれからも用いるであろうすべての人間の前に主が立ちふさがって、いや、そのあなたの体と、もちろん心も、神様に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさいと励まされる。それは人間が尊厳と高貴さ、自由と道徳と思ってきたすべての人間的なものへの疑問であり、神様がここでこの世と呼ぶ、すべて私たちに馴染みある生活風習や考え方に対しての、神様からの妨害と対立、攻撃としか思われない。そして、それは事実そうなのだと言うバルトの言葉に、私も、アーメンと思うのです。その通りだと思うのです。

神様に私たちは攻撃されている。でもそこで防衛ラインを引いて迎撃する兵士ではなく、いけにえとして、この攻撃を受けなさい。しかも、死んだいけにえでなく、生きたいけにえとして。それもまたインパクトのある言葉でしょう。言わば、全身麻酔ではなく、目が開いたまま、意識があるまま、神様が私たちを新たにされる救いの業を、生きたまま目覚めて受けるのです。私は、歯医者で歯垢を取るときも、手をギュッと握ってたら恥ずかしいと開いていたら、足の指がギュッと丸くなって、はい野口さん、リラックスして下さいねとチキンがバレて、ああ、全身麻酔だったら良いのにと思うのです。だからわかる気がします。神様に対して目覚めている。寝ている間に楽々変えられるのではない。だから信頼が必要なのです。この世に倣わず、信じなさい。この世に倣っている限り、罪から私を救われる神様の御手が、悪意ある攻撃としか思えないとすれば、この世に倣うなと言うはずなのです。確かに、神様の手が伸びてきて、ああ、これは放っといてくれ、それは取っていかんといてくれ、私を攻撃しないでくれと思うことは、誰しもあるのではないでしょうか。神様に攻撃されていると思う心、罪の心があるのです。

だから攻撃もあるのです。罪への妨害がされるのです。そしたら心は不愉快になります。ますます心が頑なになって、罪に突き進むときもある。この世は罪とは呼んでなくて、皆やっていることかもしれません。楽しそうに見えることも多いのです。でも神様に妨害をされたら、楽しみに疑問が混じるのです。何でこんなことやりゆうのかと自己嫌悪感が沸き起こります。罪悪感が湧き上がります。更に頑なになるときもあれば、苦しくなって、私は何をしたいのか、私は何をやっているのか、私は何をすればよいのかと神様の名を呼ぶこともあるでしょう。それでも楽になるとは限らず、この世の倣いに従って、神様に更なる敵対心を抱くこともありうる。それほどに罪を愛する心が神様から攻撃をされていて、休まることがなくなるのです。どうして攻撃をされるのか、私の前に立ちはだかるのか、頭ではわかっていても、心がわきまえていなくって、神様にも勝てなければ自分にも勝てない。そんな私たちであるにもかかわらず、それでも新しくなれるのは、まったくもって神様の攻撃が憐れみと恵みによるからです。憐れみは救いをあきらめません。恵みは人の自由を奪いません。だから、迫ってくるのです。決してあきらめることのない憐れみによって、恵みの勧めがなされるのです。あなたの罪は十字架の愛に負けたから、あなたの罪は赦されたから、あなたは神様に愛されているから、だからあなたは降参をして、恵みの攻撃に降伏をして、心も体も命も死をも、神様に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これがあなたに相応しい、神様に愛されているあなたに相応しい、神様を信じる礼拝だと、主はおっしゃってくださるのです。このため、私たちの前に立ちふさがって勝利する憐れみとなるために、人となられた神様は、その名を、主が救われる、イエス様という御名を名づけられ、世界にお与え下さいました。その名を呼べばよいのです。その名に負けたらよいのです。神様がその私たちを救われるのです。