11/11/20礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書22:35-39、イザヤ書53篇1-12節 「光を失う心細さに」

11/11/20礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書22:35-39、イザヤ書53篇1-12節

「光を失う心細さに」

 

財布を忘れて取りに帰ったことがあるのはサザエさんだけではないと思います。私もしょっちゅうで、あ、忘れた、あ、今度はカギを忘れたと玄関までの階段を何往復もして体力をつけています。妻も子供たちを車に乗せて幼稚園について、さあ降りようと思ったら、カバンがない、着替え袋も上履もないということがありましたし、私もぐずる娘を抱っこして車に乗せてスーパーに着いたら、あ、履物を履かしてなかったということは、ま、皆さんもあるんじゃないかと思います。財布も袋も履物も、ないと困る。困るから持っている必需品なんですがイエス様は、わたしがあなたがたを遣わしたとき、のうても必要は満たされたろうと弟子たちに言われます。確かに満たされた。スーパーに子供を乗せれるカートがあったり、自分がちゃんとしてのうても、そういう私であればこそ、主が私のために祈り執り成し、望み通りではなくっても、必要は確かに満たされるのです。それは旧約の昔、モーセ率いるイスラエルの民が荒野を40年間旅したときにも、着物は古びず、足も腫れんかったろう、神様が共におられて守ってくれて、必用は満たされ続けたろうと、モーセが死ぬ前に民に語りかけたのにも似ています。主が共におられて祈ってくれて、そしたら不足はせんのです。米国で大学を卒業した後、二年間ボランティアとして伝道団体で働いたとき、ボランティアなので交通費程度のお金だけ頂いて、やっていけるかなと思ったら、教会の人が、うちに来いやと住まわせてくれ、靴下に穴が開いちゅうと、同僚が衣服を分けてくれ、事故で車が壊れたら、教会の仲間にアフリカの人がおりまして、国が政変で難民になり、教会で助けてもらっていた方が、幸生、ちょうど別の車をもろうたき、前の車をやろうかと、私と同年齢71年製の車を頂きました。雪国で道路に塩を撒くために、床に所々穴が開いていて、走ると雨が下から降ってくる車でしたが、本当に助かり、確かにイエス様が私のために祈り執り成して下さっているのだと、主を信じる喜びと確かさを強くされたあの時期を懐かしく思います。

「しかし、今は」と、主は言われるのです。状況がまるっきり違ってしまうようになる。主の言われる「今」が来たら状況が一変する。どう変わるか。主が死なれ、その間、常に執り成し祈って下さっていた主がおらんなる。主が私のために祈って下さっていたからこそ、こんな私でもやってこれたのに、しかしこの夜、イエス様は聖書が約束するように犯罪人の一人として捕えられ、翌朝、鞭打たれ、十字架に架けられて、息を引き取って死なれるのです。無論、私たちが知っているのは、その死が二日間あるいはユダヤの数え方で三日間ではあります。が、毎日、共におられた主です。どんなときでも、離れておっても、弟子のため、執り成し祈って下さっていた主が死なれる。生きておられるという存在そのものが、わたしはあなたを背負い守るという、安心そのものですらあった子供にとって親のような存在が、捕まって、死んで、おらんなるというのは、想像を絶する不安と絶望を弟子たちの心に刻んだに違いないのです。イエス様が繰り返し約束して下さった復活の約束にも安心できないほどの悲しみ、言い知れぬ不安が、キリストの弟子たちをも席巻する。安心そのものであった主が、死んで本当におらんなられる。

逆は、いいのです。私が死んでも、主は私と共におって下さいます。死んで尚、この者はわたしの愛する者であるからと、主がご自分のものとして、死んだ私たちをも御許に置いて、恵みと慈しみとを注がれて、復活の日に向けて守って下さる。釘打たれたその両手で包んで下さる。

そして、そのためにこそ主は、すべての人に襲い来る死の刺を無効にするため、私たちを襲う死の只中に、今、飛び込んで行かれるのです。そういう「今」が、ここでイエス様が弟子たちにはっきり宣言される今です。キリストが、クリスマスの夜、人となられた神様が、罪人として死なれる今です。この今を神様ご自身が受けられて、罪に染んだ人間も一緒に復活の日を迎えることができるため、永遠の神様が身代りに死なれる。罪を犯した罰は死です。すべての罪の報酬は死です。ならばこそ決して避けられない死に立ち向かい、その死から人々を償い出すため、人々と永遠のいのちを分かち合うため、死んでも復活を迎えるために、神様が罪人の一人に数えられ、死んで子供らの罰を受けられる。これは必ず実現する。わたしは必ず、あなたがたのため死ぬと、キリストは、旧約の預言を引用され、今これをわたしが成就すると言われるのです。

聖書の御言葉が実現するのは自動的になるのではありません。御言葉は神様の愛の道標であり、生きるため、滅びないための警告と、慰めの約束だと言っても良いのです。御言葉は従うためにあるもので、自動的にこうなり、ああなるというのではありません。でも人間が従わない。まるで子供が親に逆らい、お城の石垣を登ったり、急な坂道を駆け下りたりして、当然の報いを受けるように、愛の道標に逆らって、それぞれの方角に向かって止まらない。どうしたってそれが止まらない。だから神様も止まらんのです。キリストは一直線に進まれるのです。あなたが迎える裁きの死を、わたしが身代りに死んでしまうと、死の只中に飛び込んでいかれる。何人もこのキリストを止めることはできない。御言葉は実現するのです。誰もこの実現は止められない。キリストが死なれて実現する、救いの実現は止まらんのです。

宗教改革者ルターは、このキリストの死を面白い表現で譬えました。死がキリストを飲み込んだとき、それは他の人間たちを飲み込んだときとは違っていた。罪一つない聖なるキリストを飲み込んで、神様ご自身を飲み込んで、死は腹痛を起こして、キリストを吐き出した。そしたら一緒にすべての人間を吐き出してしまったと、復活の恵みはこのようにキリストのおかげで与えられるのだと説明しました。私もそれに倣って言いましょう。私たちの罪を背負って死に飛び込んで行かれたキリストは、その愛の壮絶な勢いと、全ての人の罪を背負いきった命の重み故、死がその余りある償いに耐え切れず、その腹が破れて大きな穴が開き、キリストは死を突き抜けて復活されたと。そしてキリストの開けられた突破口から大勢の人々が復活をするのだと。キリストがその大勢の人々を引き出して、天の御国に引き上げられて、わたしのもとにおらせると約束をして下さったから、必ず実現させるのだと、償いの十字架の死に飛び込まれたから、だから人間は救われるのです。それだけの、歴史上唯一、一回限りの、神様の死という永遠の交換が、あの二日間に渡って交わされたから、あの「今」という死と悲しみを、キリストが背負って下さったから、人は死んでも生きられるのです。

ただ、その今を、人は御言葉を聴いたとしても、なかなか受け止めることができない。イエス様直々の御言葉を聴いても、弟子たちは受け止められんのです。復活の希望もピンと来ない。やがて受け止められるようにはなるのですけど、今ではない。今は悲しみの時なのです。受け止められない時なのです。その時が二日あるいは三日間続く。弟子によっては、復活のキリストに出会っても尚、疑ったり迷ったりする弟子もいて、言わば個人差があるのです。それは私たちにも言えるでしょうか。聖書の慰めの御言葉を何度聴いても、それで一変するということは、あまりないかもしれません。後に出てくるエマオの町に行く途中の弟子なんて復活のキリストに出会っているのに、それに気づいてなかったり、食事をしたときに初めて気づいて、あ、そう言えば、道々イエス様から御言葉を聴いておったとき、心が燃えておったねゃと言います。御言葉を聴いておったとき、確かに心が照らされておったのに、そのことに、後から気づくということがある。御言葉を聞いておる最中は、混乱しておったり、迷いがあったり、不安の只中で聴いている。今日の御言葉の場面でも、弟子たちがイエス様から聴かされたのは、イザヤ書の御言葉の引用です。それが説き明かされたのです。このイザヤ書53章は旧約の御言葉の中でも特に重要で有名な御言葉です。それが説き明かされたのに、しかもイエス様が、わたしがその償いを実現する救い主だと言われたのに、弟子たちは自分のこととして受け止めきれない。不安、混乱、苛立ちや強がりが心に満ちて、どうにも今の状況を受け止めきれない。それが人間というものでもあるのでしょう。弱く貧しい器なのです。

その私たちという、ひび割れた器を、イエス様は、憐れみ受け止めて下さいます。私たちの罪を引き受けられただけでなく、その弱さも悲しみも、弟子の不信仰でさえ、キリストは正面から受け止められて、だから、あなたがた、わたしがあなたがたと共にいられない二日間、あなたがたの信仰がなくなってしまう二日間、心細さをまぎらわせれるなら、財布も袋も持ったらよい。これまで全く不必要であった剣さえ、これで我が身を守ろうと手元に置いたってかまわない。それだけの二日間であろうから、信仰がなくなってしまうような今であるから、神の子の命を守るためには、一切役に立たない剣だけれど、それでもいいから、この今を耐えよ、わたしが帰ってくるまでの今を耐えよと弟子たちに言ってくださるのです。

無論、剣を振り回す暴力の肯定ではありません。二振りだけで十分だとも言われます。実際、それで人を傷つけることはできるでしょうが、自分を守ることなんてできんのです。少しでも安心できるなら、信仰がふるいにかけられて、振り落とされてなくなる絶望に耐えられるなら、役に立たん剣でも、二日間持っておったらよいと言われる。三日目にはもういらんなるのです。三日目の朝には、もういらんのです。キリストが死に大穴を開けて復活をされ、わたしはあなたと共にいる、わたしは復活であり命である、わたしを信じる者は死んでも生きる、わたしは、あなたの主であると、死のかんぬきを外されたから、剣はもはやいらんのです。命はキリストの手にあるからです。十字架で釘穴を開けられた主の御手に、私たちの罪と死に勝利されたしるしである穴の開いた主の両手に、私たちの命はあるのです。信じられぬ弱さを憐れまれ、悲しみの二日に勝利される。二日に勝つで、復活です。笑いで締めるのは初めてですが、復活されたイエス様を思うのです。きっと笑顔だったと思うのです。私たちも、また愛する者たちも、復活の笑顔で起きるのです。