11/12/25朝礼拝説教@高知東教会 創世記3章8-9節、マタイによる福音書1章18-25節 「神様が私たちと共に」

11/12/25朝礼拝説教@高知東教会

創世記3章8-9節、マタイによる福音書1章18-25節

「神様が私たちと共に」

 

人間が罪を犯して生きるようになって以来、神様は、ずっと人間を、一人一人を、捜し続けておられます。「あなたはどこにいるのか」と。

無論、見えないわけじゃありません。姿は見えているのです。人には見せんよう隠されている自分も、神様はすべてをご存知です。なのに、見たくても見えない、見出したいのに見出せないのが私たちの、神様に対する誠実な姿ではないでしょうか。

人に誠実であることさえ、難しいのが現実です。その場限りの優しさや、その場逃れの言い訳や、表向きだけ人前だけという自分の姿は、人には当然見せたくないし、自分でも見たくないものです。だから人間は隠してしまう。本当の自分すらわからなくなるほど、隠す名人になってしまって、それを言い当てたオネスティーという名曲もあります。翻訳するとズバリ誠実。誠実とは何とさみしい言葉だろう、皆偽ってばかりじゃないか。誠実なんて言葉、耳にすることさえできない、あなたから一番必要とするものなのに。ドキュンとくる言葉です。あなたから一番必要としているのは誠実だ。ヨセフの悩みは、まさしくここに由来しますし、誠実さを求めておればこそ悩むというのは、神様にとってもそうなのです。あなたはどこにいるのかと主に求められているのです。

誠実って何でしょう。それは愛を愛たらしめ、愛を支える、愛の秘密ではないかと思います。愛もまた、それが真実に愛かどうかは、目には見えない。じゃあどうするか。愛を感じるか感じないかの、感覚の世界に愛を押し込め、自分の感覚こそ、愛より優れたものだとするのでしょうか。それがどれほど頼りないかは、もう知っているのではないかと思います。なら愛は、やはりその一番奥底から愛を支える、誠実さがあるかどうかを、信じるかどうかではないのでしょうか。この人は誠実で、信頼することができる人だと、私はこの人を信じようと、自分をその人に委ねてしまう。そこに愛の絆が生まれます。愛は、その誠実さを相手に信じてもらえるときに、初めて完成を迎えます。だから愛されていることを、まるで第三者的に、あるいはお客さんのような態度のままで、愛がないとか、こういう風に愛してとか、到底言えるものではないでしょう。自分の誠実さもそこで問われるのが愛です。自分の誠実さが問われないまま、相手の誠実さも愛も問えません。誠実であることが愛を愛たらしめ、人を人たらしめるとさえ言えるのではないかと思うのです。

誠実さは、謙遜な態度と切り離せません。ヨセフもマリアも、なんて誠実で謙遜なのかと、嬉しくなると同時に、自分が恥ずかしくなるのがクリスマスの迎え方なら、それは尊ぶべきことだと思います。謙遜という宝箱の中に誠実が満ちていて、それを誰かのために与える。それを愛と呼ぶのではないでしょうか。マリアが、私は主のはしため、僕です、お言葉のとおりになりますようにと身を捧げ、その謙遜なマリアに主が宿られる。それはヨセフのためにでもあったのです。ヨセフをも罪から救うため、すべての人を救うため、神様の誠実なる救いの御子がマリアの胎に宿られた。

ただ、その愛を、最初は受け入れられんのです。当然のことだとも思います。マリアが大祭司の娘だったらまだありそうな話ですけど、何でナザレの田舎娘に、しかもどうして人の婚約者に、しかも俺の。理性と自我が複雑に絡み合い、けれど誠実な人ですから、マリアを信じることはできんけど、責めないで、おそらく自分が去ろうと決意する。自分が誠実なだけでは足らんのです。相手の誠実さを信じなければ、愛は完成せんのです。弱さが愛の邪魔をして、自分だけで足ろうとするのです。自分の計画、自分のやり方、そういう自分を捨てるようにして、相手の誠実を信じるときに、愛は真実の輝きを放ちます。愛とはまさに冒険です。そして冒険には勇気がいります。そこで自分という人間が、測られてしまうほどの重みを持って、愛が私たちの前に立っている。その愛を信じ受け入れるか、どうするか。あるいは、そこから去ろうとするか。神様の前からも、マリアの前からも。

クリスマスとは、その人間の弱さと罪を、神様が御言葉によって打ち破ってくださった、愛の勝利の祭典です。自分では逃げることしか選べない破れの中に、まさにその自分という破れの只中に、神様が御言葉によって来てくださって、恐れずに、ただ受け入れてよいのだと、ここに起こった全てのことは、わたしの手の中にあるからと、慰め訪れてくださるのです。私たちと共におられる神様が、どんなに私たちのほうから去ろうとしても、離れ去ろうと決心しても、神様が私たちと共におられることをこそ決心されて、わたしはあなたにとってインマヌエル、あなたがたと共にいる神、それがわたしだ、それがわたしの名であって、わたしの愛であるのだと、神様は、その愛が私たちの救いとなるために、人としてお生まれくださった。それは私たちの罪と破れを、三位一体の御子なる神様が、全部引っかぶり背負われて、十字架で神様と私たちをつなぐ掛け橋、天と地をつなぐ救いの絆となられるためです。たとえ、人間の作った橋は流され、命さえ流され失われても、神様が架けられたこの十字の橋は決して揺るがず、倒されず、人間の罪の破れを繕うのです。やがて、この胎の子が産まれ、成長し、十字架に架けられて死んだとき、私たち全員の身代りとして死んだとき、我が神、我が神、どうして私を見捨てられたかと叫ばれた。それはキリストが人として身代りに捨てられる代わりに、私たちがその罪にもかかわらず捨てられず、罪を赦され、破れを繕われ、あなたを見捨てることはないと神様に救われるためでした。神様はそこまで私たちと共にいてくださって、わたしのもとに来なさいと、語りかけ続けてくださっている。ただ来たらよいと。あなたがどこにいるかは知っているから、破れたままでもかまわないから、わたしがあなたを繕おうと言ってくださる。そのまま主の前に行く私たちを、誠実な者、信じる者と、主は受け入れて下さるのです。

ヨセフは、この神様に救われたのです。マリアも、そして私たちも、このキリストによって担われたのです。だから今日ここに、洗礼を受ける姉妹兄弟がおられます。新しく神様の前に生きていく、神の子として生きていく、喜びのいのちに生きるのです。神様が共にいて下さって、キリストがいつも執り成して下さっている。その真実に目覚めて歩む、主の誠実に担われて生きる、救いがここにあるのです。

Davis stated the Casinos now notice that gambling online is one thing they have to do something about if they would like to stay in the driver’s chair.

11/12/24クリスマスイヴ礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書1章26-38節 「おめでとう恵まれた方」

11/12/24クリスマスイヴ礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書1章26-38節

「おめでとう恵まれた方」

 

神様が天使ガブリエルを遣わすにあたって、まずは御前に呼ばれたのだと思います。ガブリエル。はい、ここに。時は満ちた!いよいよ御子が人として生まれる時がついに満ちた。おお、ついに!ガブリエルもなんぼか嬉しかったのじゃないでしょうか。神様のお顔も、いよいよ栄光に輝いておったのではないかと思います。まずは、天から始まったのです。世界の始まりも救いの始まりも、始まりは天から始まるのです。その始まりから自分を切り離し、まるですべては地上で始まると考えておったら、随分不自由になるのではないでしょうか。地上では、どうしてこんなことにと、不安に縛られ、どうして、どうしてと、自分の見えている範囲だけという制限にますます自分を縛りつけ、胸まで苦しくなることが結構少なくないように思います。でもそこに天から届くのです。そこで始まるがじゃないぞと、天を見上げて息をしてごらんと、はるか昔、そうやってアダムが、人間が初めて息をしたあの日のように、神様のもとでこそ息ができる。神様の言葉が届いたら、天から御言葉が届いたら、人間は自由になれるのです。

人を自由にする言葉がこれです。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」無論、マリアに語られたその時には、天地を造られた神様が人して生まれる、その母として、あなたが選ばれたのですよという歴史上ただ一度限りの特定の祝いの言葉でありました。それは繰り返されません。が、その結果、生まれてくる喜びは、特定の人だけに留まらず、世界中すべての人に向けられたのです。おめでとう、あなた、あなたが恵まれた方ですよ、主があなたと共におられる。そう決意して来て下さった。キリストが、あなたの救い主として、来てくださった。三位一体の神様が、あなたを目がけて、恵みを差し出してくださった。おめでとうと。もしいま私たちの不自由な耳が開けて目が開け、神の子としての息をしながら自由に天を仰ぐことができたなら、いまなお天使たちがことほぐ喜びのおとずれ、おめでとうという大合唱が、聴こえるに違いないのです。

特にこの、クリスマスにはそうでしょう。クリスマスはやはり特別なのです。この日には、教会に来る人が増えるのです。何故かとお考えになったことはないでしょうか。そりゃ、だって、え~とと、色々と考えることはできるでしょう。その考えもまた、天から始めてみませんか。随分自由になると思います。神様が、開かれる道があるのです。まるでモーセの目の前で、海が二つに分かれたように、不思議と礼拝への道が多くの人の前で開かれる。無論、最終的には自分で選んだということがあるのは疑えないでしょうけど、その前に、マリアがそうであったように、選ばれたのではないでしょうか。マリアが選んだのではなかったのです。マリアが望んだのではなかったのです。天から恵みが降ってきたのがクリスマスです。しかも、おめでとうの言葉と一緒にです。

けれど、おめでとうって天使がマリアに告げたとき、マリアは戸惑い恐れを感じました。人間って、わからんことに出会うと恐いものです。そのことも神様はご存知です。だから天使は言いました。これは恐れるものではなくて、恵みですって。でもそれが、人間は恐いのかもしれません。恵みって相手が恵むことを選ぶのです。自分で選べないのが恵みであって、クリスマスプレゼントと同じです。自分には何が選ばれているのかと、もしも相手を信頼できれば、わくわくするのだと思います。けれど信頼がなかったら、信じることができなかったら、箱を開けるのも恐いでしょう。突然の恐ろしい告白を聞かされるようなもので、神様が愛しておられる、本当に十字架で死んでしまわれるほど、私を愛しておられるとの信頼関係がなかったら、恐ろしいのは当然です。マリアも神様イコール恐いというイメージが少なからずあったのだと思います。

だからこそ、その恐れを拭い取るように天使は告げます。神様は、あなたに最高のプレゼントをお与えになる。永く約束されてきた救い主、世界を罪と死から救い出す、イエス・キリストを、あなたは身ごもり、世界への最高の恵みの贈り物を産む。あなたがその選ばれた宝箱だと。

マリアは改めて驚いたに違いないのですが、心の底は嬉しかったと思います。そんな夢にさえ見なかった神様の恵みが本当に私に起こるのだろうか、神様は本当に私を宝箱として、お選びくださったのだろうか。本当だったら嬉しいけれど、恵みを信じきれない自分の姿を正直に天使にぶつけるマリア。どうして、そのようなことがありましょう。天使は説明をするのですけど、説明されて、わかったでしょうか。むしろ最後の天使の言葉に、信仰の納得を得たのじゃないか。神様にできないことは何一つない。これは理屈ではありません。これは信頼を求める言葉です。どうだ、マリア、信じるか。神様はあなたをお選びになった。その神様の恵みを信じるか。世界は、神様の恵みに救われる。神様が人々を救われるのに不可能なことなど何一つない。あなたはこれを信じるか。マリアは応えた。私は主のはしため、僕です。神様がお選びくださった宝の道を、私も選ばせて頂きます。私にその通りなりますように。救いはそうやって来たのです。

このマリアに語られた「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」という御言葉。これを、自分のお葬儀でも読んでもらいたい愛唱聖句として選ばれた方を複数存じています。思うに、その方々は、クリスマスに洗礼を受けられて、そこでこの御言葉が語られ、あ、これは私だと、受け止めたのじゃないかと思うのです。なんと幸いな人でしょう。この御言葉が私に実現していると信じる人は。その人も、きっとマリアがそうだったように、どうしてこんなことが私に起こったのでしょうと、神様に祈ることがあったと思います。不安もあったし、暗い道も通った。悲しみの涙を流しつつ、でもそこで、神様、あなたは共におられて、私はあなたに向き合えました、あなたのもとで息をしたとき、私は慰めを受けました、あなたは私を恵まれましたと、神様が私に選んで下さった救いの道を、喜んできたのだと思います。明日朝の礼拝でも洗礼が執り行われます。私たち全員がそうだったでしょう。洗礼に至る道のりは決して平坦でなかったし、悲しみや苦悩があったのだけれど、でもそこにキリストは私と共にいて下さった、私の重荷は負われていたのだと、改めて知るのが洗礼の恵みです。洗礼をぜひお受けくださってほしいと祈っています。また、そこで約束されているこの恵み、主が、いつでも共におられると、わたしは決してあなたを見捨てず、あなたを見離すことはない、死んでなお生きる復活のいのちに、あなたも死から起き上がって歩みなさいと、キリストが約束してくださっている救いの恵みに、共に歩んで行きたいと心から願います。神様にできないことはありません。だからクリスマスには喜ぶのです。おめでとう、あなたが恵まれているその人です。

11/12/18朝礼拝説教@高知東教会 イザヤ書9章1-6節、ルカによる福音書1章78-79節 「永遠の扉が開き光が!」

11/12/18朝礼拝説教@高知東教会

イザヤ書9章1-6節、ルカによる福音書1章78-79節

「永遠の扉が開き光が!」

 

この御言葉を聴いて、ヘンデルのメサイアが頭に鳴り響いている方がおられるかもしれません。私も説教準備の間、うろ覚えのおぼつかない歌詞ですが、もう鳴りやまんくらいグルグル脳が口ずさんでいました。「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。」今読みました御言葉はここまで過去形です。生まれた。今の私たちからすれば、そうだ、確かに、イエス様はお生まれになったと思うのですが、この預言がなされた2700年前からすると、まだイエス様はお生まれになってないので、ありゃ?という感じがするかもしれません。これは聖書の文法で、預言的完了形と呼ばれる文法なのだそうです。だから日本語で言う過去形ではなくて、完了形。土佐弁なら、雨が降った、が過去形で、雨が降っちゅう、が完了形。もう雨が降っていた状態は完了して、今はもう雨が上がっているという、土佐弁はなかなか優れちゅうと感心します。で、預言的完了形というのは何かというと、神様の約束が与えられた時点で、その約束はもう完了したも同然だという、約束の確かさを言うのです。例えば、あなたの信仰が、あなたを救ったとイエス様がおっしゃる。その人が救われたかどうかは死んで神様の前に立って、人生の総決算、罪の裁きがなされるときに、時間的には初めてわかることだろうのに、もう救われた、とイエス様はおっしゃる。ご自分を信じる人を、イエス様はもう既にギュッとご自分に結び付けてしまわれているので、目には見えいでも、肌で感じることがなくとも、もう信じて良いのです。自分の感情や感覚は不確かでも、イエス様は確かだと、イエス様が言って下さったから、もう絶対に確かながやと信じてよい。預言というのは神様の言葉ということです。言葉を預かっているので預言です。単なる人の言葉なら不確かです。神様の言葉なら確かなのです。不確かなのは、それを信じることのできん人間のほうではないでしょうか。あなたを愛しますとか、もうやりませんという人間の約束が、どんなに不確かか。知らん人はおらんと思います。

この預言的完了形で語られた1節から5節前半は、いずれもイメージ豊かです。曙のイメージでも描かれますが、夜空に光るベツレヘムの星に導かれてきた東方の博士たちのイメージや、羊飼いたちの頭上で輝いた天使たちの賛美の光も、ここに思い出すことができるかと思います。いずれの場合も、喜びをもたらす光でした。しかも深い喜びだと言う。浅くはない。クリスマスの喜びは、25日を過ぎたら鏡餅にすげ替えられて段ボールにしまわれて来年出てくるような、そんな浅い喜びとは異なります。深い。深い喜びです。この深さに、私たち本当は皆、渇いているのではないかと思います。なのに同時にキリスト者であっても、浅い目先の喜びをとっかえひっかえして、神様の深みに飛び込んで行くということが中々容易ではないということも、確かであるように思います。何かがブロックしておって、浅い人間的満足に留まらせる。そして浅いが故にこそ、いつも不満で、魂がギスギス渇いている。

その邪魔をしているブロックこそ、ここで闇とか死の陰と呼ばれている罪の力だと思うのです。10年ほどの前のベストセラーの言葉で言えばバカの壁と言ってもよいのかもしれません。自己満足、自己中心、自分自分というブロック、壁が、私たちの人生を浅くしてしまう。頑固頭のことを、英語でブロックヘッドと言いますが、まこと言い得て妙です。自分自分の頑固さ、罪が、救い主の深い喜びに飛び込むことを、押さえつけブロックしてしまう。

でもそこに、預言的完了形で語られる神様の救いの約束が、私たちの上から輝きました。この深い喜びを、あなたも祝って良いのだと、神様の御前に招かれたのです。神様の前でこそ、深く喜べると言われます。そうでしょう。神様の前にいないと、浅くなってしまう。よくわかるのではないでしょうか。その深い喜びが、どんな深い喜びであるかが色々なイメージで描かれます。その中で一番私の心を捕えたイメージは、地を踏み鳴らした兵士の靴、血にまみれた軍服がことごとく火に投げ込まれ、焼き尽くされるイメージです。軍服を投げ込んでいる人々の表情を思い描いて欲しいのです。どんな顔をしているでしょうか。誰の軍服でしょうか。ネームはないですか。血が付いています。いや血にまみれています。誰が誰の血を流したのでしょう。もしかしたら隣人の血を、私たちが流したのではないでしょうか。本当は愛すべきだった人の顔に、頑固なブロックヘッドで頭突きして、愛すべきだったのに傷つけて、返り血を浴びたのじゃないか。なんでそんなことになるのかは戦争体験者でなくてもわかるのではないかと思います。私たちがいつの間にか着ている軍服が、火に投げ込んで永久に燃やしてなくしたい軍服が、あるのではないかと思うのです。家族の中ですら勃発する、つまらない争いや小競り合い、人に言えない憎しみや冷たい狂気という軍服を、脱ぎ捨て全部火に投げ込んで、永遠に葬ることができたなら、クリスマスの天使たちの歌を、神には栄光、地には平和と、真心から喜んで歌えるのではないかとも思うのです。

何度も捨てようとは思ったのです。本当は着たくなんてないのです。でも人を赦せず、イライラして、自分自分で愛を失い、喜びも平和をも失って、銃を持つ代わりに、口から鋭い言葉を吐き出す。仮に穏やかな言葉であっても、内心はまるでナイフのよう。戦争も同じように始まるのではないかと思うのです。相手を上からねじ伏せて勝ちたい。いかに自分が正しくて相手が間違っているのかを、思い知らせて支配したい。そして戦争を起こすのです。いつの間にかあの軍服を着用して、支配欲という罪が詰まった頑固な頭で、頭突きを食らわしてやりたいと、喜びと平和を失っている。

相手が悪いということもそりゃ無論あるろうと思います。もっと頑固なブロックヘッドで、何度も私に頭突きをしてくるから、だから相手を支配しないと、自分を守るために勝たないかんと、勝つか負けるかやと思うから、だから平安がないのでしょうか。勝たんと平和はないのでしょうか。そうやって、ずっと人間は戦ってきました。勝てば喜び、負けたら全部闇、死の陰だと。ずっと戦火を燃やしてきました。この預言がなされた紀元前730年前後、イスラエルはアッシリアに戦争で負けて、ガリラヤ地方は略奪されて、人々は悲惨な状況にありました。文字通り死の陰に人々は住んでいました。

でもそこに、天から光が輝いたのです。それはまだ、完全に成就した約束ではなかったけれど、キリストが来てくださった今も尚、まだ完全には成就してないけど、ひとりのみどりごが生まれたとき、私たちのためにお生まれになったとき、悲惨な状況しか生み出さない軍服の行き場が決まったのです。軍服をこそ火に投げ込んで焼き尽くし、そうやって地には平和が訪れる。延々と戦火が燃えている地上にもです。地上に罪の火が燃えてなかった時代があったでしょうか。街が燃やされ、人が燃やされ、欲望の業火が人々の生活をなめ尽くす人間の罪の世界に、でもまったく別の火が投げ込まれ、天から光りながら火が降ってきて、この火の中に、あなたの軍服を投げ込めばよい、そんなもの焼いてなくしてしまえばよいと、神様がキリストを投げ入れて下さった。罪を焼き死を滅ぼすための聖なる神の火を、地上に投げ込んでくださった。

イエス様がおっしゃった大切な御言葉があります。「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。」思いを込めておっしゃった。そして更に思いを込められこう言われた。「しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。」ルカ12章に刻まれた主の御言葉です。ここでイエス様が、しかしと続けておっしゃった洗礼は、私たちが受ける水の洗礼ではありません。火の洗礼です。洗礼者ヨハネが、キリストは聖霊と火であなたがたに洗礼を授けられると言った、火の洗礼を、しかし、イエス様ご自身が受けられて、あなたが受けるべき火の洗礼を、でも、あなたが受けたら焼き尽くされてしまうから、この火は罪を焼き尽くす、神の怒りの炎であるから、あなたが焼き尽くされないために、わたしが代わりにその火を受けると、十字架で焼かれて陰府にまで降られ、罪として処断されてくださった。それがキリストの受けられた、罪を焼き尽くす火の洗礼です。

ならその洗礼をキリストが私たちに授けられるとはどういうことか。それはキリストが十字架で焼かれて死んだとき、私たちもキリストと共に死んだのだと、キリストに包まれ、炎から逃れて、けれどキリストと共に死んだことにしてよい、そのためのキリストの死であったから、だからキリストと共に死んだあなたは、その火から水で救われ、新しい人として生まれ変わって、聖霊と水とで洗礼を受け、キリストの復活の命に結ばれて、神の子として新しく生きよ。それが救いの洗礼です。

その洗礼が私たちを確かに救うため、キリストが生まれて下さった、わたしたちのために、救いの御子が生まれて下さった。だから私たちはクリスマスを心から祝うのです。本来、火に投げ込まれるべきであった私たちの代わりに、キリストが焼き尽くされて下さったから、そうして驚くべき指導者となって下さり、力ある神であられる方が、永遠の父と呼ばれる聖なるお方が、平和の君として私たちを救って下さる。あなたの罪は赦された、わたしはあなたの救いになったと、救いを成し遂げて下さったから、だからクリスマスは喜びなのです。浅くない、25日だけで終わらない。今もそしてとこしえに平和の御国の入口として、ずっと開き続けているのです。

ここに燃えているクリスマスの蝋燭の火に、その愛の火を見てもよいと私は思います。そのためにキリストは来てくださったから、罪を焼き尽くす聖なる火として、私たちを待っていて下さるから、この火を見つめながら祈りを捧げ、主よ、私の頑なな罪の軍服を、あなたが十字架で受けられた赦しの火の中に投げ込みます、どうかこの罪を焼き尽くして下さい、私を新しくして下さいと、悔い改めて、キリストに祈ればよいのです。そこに神様から約束された、深い喜びがあるのです。

11/12/11朝礼拝説教@高知東教会 ハガイ書2章1-8節、ヨハネによる福音書2章19-22節 「栄光の主が来られる」

11/12/11朝礼拝説教@高知東教会

ハガイ書2章1-8節、ヨハネによる福音書2章19-22節

「栄光の主が来られる」

 

クリスマスの慰めが、今読みました旧約の御言葉にも響いています。わたしはあなたがたと共にいる。実に旧約聖書の中で何度も何度も語りかけられ続けてきた主の慰めの御言葉です。励ましと言ったほうが、特に今日の場合はわかりよいでしょうか。主が私たちと共にいて下さるなら、じゃあ私たちは何ちゃあせいじゃちかまわいで、じゃ、あの~私は好きなことしながら休ませてもらいます、というのではありません。わたしがあなたがたと共にいるから、だから働きなさい、わたしがあなたと共におるからと、聖なる万軍の主が言われる。

クリスマスに向けて、教会は最高の伝道のシーズンを迎えますから、働け、伝道せよ、わたしがあなたと共にいるというメッセージは、日本の教会ではわかりよいのではないかと思います。先週配布した、かわら版にも、クリスマスは教会で、と大きく書きました。他にどこに行くがですか。クリスマスですよ。そりゃ教会でしょう。でも一人では敷居が高く感じるだろうから、じゃ、一緒に行きませんかと誘うには、最高の機会を主が与えて下さっているのだと心から思います。かわら版、まだ余ってますから、ぜひぜひ受付から持っていってお用い下さい。今年は特別にクリスマス家庭集会をと、田中長老のお母さんのところに伺うことも決まっています。まだまだ来てと言われたら行きますので、呼んでください。いやあ、けんど先生忙しいきと遠慮は無用です。クリスマスに牧師が暇しよって、どうして神の家を建てることができるでしょう。どうぞ用いて下さい。そして倒れんようお祈り下さると助かります。

多少、このハガイ書の背景を説明する必要があるかと思います。主の御言葉に背き続けて悔い改めなかったイスラエル王国は、その裁きとしてバビロン帝国に滅ぼされ、栄華を誇ったソロモン神殿も、燃やされ、破壊され、倒されます。主なる神様の家として建てた神殿。この神殿を中心に、私たちは神様の家族形成をしていきますと、そのために建てた神殿でしたが、神様抜きの生活をし、宗教は形だけ、神殿はただの家。家族あっての家なのに、家族形成のための家なのに、家だけ立派で生活は皆自分勝手。そんな家はいらんと神様が怒られて、神殿は一度完全に倒されて、国としても一回滅んだのです。が、神様はイスラエルを完全に見捨てたのでなく、えいかえ、わかったかえ、わたしなしの生き方がどんなに虚しく的外れだったか、不誠実という罪が、どんなに恐ろしい結果を招くかを。しかし、わたしはあなたに誠実を尽くす。もう一回、やり直そうと、遠くバビロンの地に捕虜として連行されたイスラエルの民を約50年の時を経て、再びユダヤの地に連れ帰って下さった。しかもペルシャ帝国からお金まで頂いて、これで神殿を再建しいやと。もう皆喜んで神殿を建てる準備をし、基礎までは据えたが、後が続かん。近所の人々から嫌がらせを受け、自分らの生活も楽ではない。やる気を失ってしまうのです。やらないかんということは知っちゅう。これが神様の御心であることはわかっちゅう。けんど人から嫌われるし、最初の勢いもなくなって、ちょっとここいらで自分たちの生活を優先せんかえと、そういう意見が周りからも出てくる。教会で言えば牧師や長老にあたる当時のユダヤ地方総督ゼルバベルと大祭司ヨシュアも、カリスマタイプのリーダーではないので、えーと、どうしようと言っている間に、どんどんやる気がなくなって、結局、自分たちの生活が優先になる。神殿はまたもや、ただの宗教的家屋になりかねない。神の家再建のチャンスを再び与えられた民だったのに、またもや神の家族を建て損ない、倒れる危機的な状況にある。

そこで神様が預言者ハガイを通して、勇気を出せと言われるのです。信仰をと言うのではなく、勇気を出せ!ああ、そうだって思いました。信仰はあるのです。無きに等しい信仰かも知れませんけど、けれどないのは勇気なのです。クリスマスに求められる闘いは、勇気の闘いだと。総督も、大祭司も、また民も。今こそゼルバベルよ勇気を出せ。大祭司ヨシュアよ勇気を出せ。国の民は皆勇気を出せ、と主は言われる。主の民、神の家族として、なすべき働きを働きなさい、わたしはあなたがたと共にいると。

主が共におられたら、苦難がなくなるのではないのです。苦難の只中であればこそ、もういかん、自分の昔の道に逃げていこうと思いたくなる私たちに向かって、いや、そうじゃない、わたしはあなたと共にいるから、勇気を出して、わたしに従って来なさいと主は言われる。モーセもそうでした。同じクリスマスの励ましを受けました。そして海を割る強風の向かい風の中を、勇気を出して突っ切っていった。民もまたその後を突っ切った。わたしが共にいるからと、主の約束を信じることで、勇気を出すことができました。モーセより、クリスマスと言えばマリアでしょう。まだ15-6であったろういたいけな少女が、主があなたと共におられるという約束を信じて、誰が信じてくれるろうという処女懐胎の重荷を背負って、家族に向き合い、婚約者に向き合い、やっぱり理解されんという人間の弱さと、それでも勇気を出して祈って向き合う。その当のヨセフもそうでした。人間は受けとめれんことがどうしてもある。でもそのヨセフに神様の御言葉が飛び込んで、マリアの胎の子は聖霊によって宿った神の子、この子が、ご自分の民を罪から救う、その名は、インマヌエル、神様は私たちと共におられるという意味であると、人の思いや言葉でなくて、神様の言葉を受けたから、ヨセフは勇気を出すのです。マリアを信じ、神様を信じて、世界にイエス・キリストの救いを運ぶ聖なる器となったのです。イエス様ご自身おっしゃいました。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。だから今日の御言葉も告げるのです。民は皆、勇気を出しなさい。わたしはあなたがたと共にいる。だから、わたしの家を建てなさい、神の家族を形成しなさいと、万軍の主は言われます。

ソロモンが何でもしてくれよった昔の神殿の栄光など、昔話にすればよい。神様が望まれるのは家族です。主を愛し、主の愛で互いに愛し合う神の家族こそ、神様が望まれるゴールであって、愛のない宗教的家屋はお呼びでない。神殿と訳された言葉は、家、主の家という言葉です。新しい家の栄光は昔の家の栄光に勝ると主は言われます。立派だったのは昔の家です。人が一杯だったのも昔の家です。でも今、勇気を出して働いて、インマヌエルの愛を信じて神の家族を建て上げる。その新しい家の栄光は、昔の家に勝るのです。愛には勇気が必要です。信仰を実行に移すには勇気がいります。でもそこに神様が共にいて下さって、困難に向き合う勇気を下さり、愛の闘いをなさせてくださる。暖かな部屋の揺りかごでなく、馬小屋の餌箱で担われた主の愛が、たとえわずかでも映し出されて、見た目は負けているように見えたとしても、人から笑われ、冷たい目で見られ、我が神、我が神、どうしてわたしをお見捨てになられたかと祈るときでも、でもそこでこそ知るのです。神様はわたしと共におられる。勝利は復活と共にある。人には理解できなくっても、キリストの勝利は揺るがない。だから主と共に働こう。神様の家を共に建て上げ、この家が栄光で満ちるのを、神の家族の愛と喜びで満ちるのを、一緒に見させて頂こうと、勇気を出して働ける。なすべき愛の働きをなせるのです。ここに教会が建っているのも、私たちが救いを受けているのも、誰かがその業をなしたのです。それを主が喜んで下さって、救いの栄光を満たされたのです。そこに神様の栄光があります。御子の笑顔がそこにあります。クリスマスはいつでもそのように来るのです。

11/12/4朝礼拝説教@高知東教会 イザヤ書55章8-13節、ヨハネによる福音書1章1-13節 「意外な救いの訪れ」

11/12/4朝礼拝説教@高知東教会

イザヤ書55章8-13節、ヨハネによる福音書1章1-13節

「意外な救いの訪れ」

 

夏だったでしょうか、私の留守中に、ある管理業者さんが来られて、いつもの点検をさせていただきますと、汗をかきかき仕事を終えられ、じゃあサインをお願いしますと妻に書類を出すときになって、ようやく気づかれたそうです。え、ここ高知西福音教会じゃないんですか?東と西が異なって、かわいそうやったと妻が同情していました。東と西ならさほど違わないとも言えるでしょう。同じ主の体なるキリスト教会には違いありません。が、天地を創られた神様がお考えになられて選ばれる道と、その神様をさて置いて自分の道を行きたがる人間の道とは、天地ほどの違いがあると主は言われます。

「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている。」

道と言っても色々あるでしょう。将来こうなりたいという道もあり、いま選ばないかん道もある。あ、しもうた、こっちじゃなかったという道が度々ある。どうして思うか。うまくいかんかったからでしょうか。思っていたより満足しない。あるいは不満になったから、あっちにすれば良かったというのなら、案外、どっちを選んでも不満なのかもしれません。そういう人間の道ってあると思います。自分が満足するしないで判断し選ぶ人間の道。潤いを求める乾いた大地や畑のように恵みの雨を求める…のでなく、祈ったち雨らあ降らんじゃかと、あっちに井戸を掘り、こっちに井戸を掘る人のように、そもそも地下を流れる地下水も、天からの恵みの水であることを忘れてしまう、というよりも、思いつきさえしないほど、人間は乾ききってしまっているのでしょうか。

先日子供らが、幼稚園でクリスマス献金袋を作って、ご飯が食べれんお友達に献金するのに、何か手伝うきお小遣いちょうだい、というので足や腰を踏んでもらって、30円ずつあげたらニコニコ喜んでいる。またやってよと私も嬉しかったのですが、次の日、私の祖母に誕生日プレゼントを渡しに行った際、1000円お小遣いをもらったと超嬉しそうな顔をしている。良かったねえと言うと、うん、これで献金が1030円になったとニコニコしている。私は泣きそうになりました。親バカでじゃなく、そんな全部捧げてしまうなんてことは、私は思いつきもせんかった。それほど欲深い人間だと悟らされ、ごめんなさいと思ったのです。

神様が、三位一体の御子が人となられて、その全部を捧げきって犠牲にされて、幸生、これで、あなたの全部の償いができると、喜んで身を投げ出された。全部償ってもらわないかんのです。しかも人類の罪全部です。そのために神様が人となられて十字架に掛かられて、でも十字架で罪を背負って死なれるのなら、せめて生まれて大人になるまでは楽に暮らしたいじゃないですか。死ぬ前に洗礼を受けると言われる方がおられますけど、その気持ちはよくわかるのです。それまでは神様抜きが楽だと思う。もし私たちが神様の代わりにイエス様のお誕生の場所を決められるなら、あえて馬小屋を選びますか。早くして父を亡くして苦労して家族を養いつつ、でも30歳の時、まるでその家族を捨てるようにして十字架に向かって歩み始められ、家族から、兄は狂うたと理解されん。そういう茨の人生をイエス様に選ぶでしょうか。マリアとヨセフであったって、もっと楽な生活をさせてあげたいとか、せめて動物の鳴き声や糞尿の臭いがせん一般家屋で産湯につからせてあげたかったと願ったに違いないのです。

神様の道は随分異なります。神様の思いは、私たちの思いを「高く」超えていると言われます。そうでしょうか。低くの間違いじゃないのでしょうか。随分不幸せな道に思えるのです。損する道、満たされない道に思えます。この世の尺度からすると、低い道、光さえ届かないほどの底辺の道に、イエス様は降って来られたように思えます。

だからでしょう。ひとたび天から降れば空しく戻らない雨のように、キリストは天から降られたのです。その雨で、人は罪を赦され洗われて永遠の命を恵まれたのです。人間に赦しの宣言をなさった神の言葉は、あのクリスマスの夜、大いなる神様の決意のもとで、人として底辺に降られました。あなたの苦しみを共にしようと、俗な言葉遣いで言うならば、すべての恵まれない子供たちの泣き声を泣きながら、血だらけになられて震えながら、神様がその子たちの命を背負われました。わたしはあなたの友となろうと、わたしだけ楽しようとは思わないと、神の言葉が降られたのが、クリスマスのメッセージ、天使によって説き明かされた神様の救いの宣言です。神様があなたを救われる。イエスという名前それ自体が、主は救い、という意味である、そのイエス様が、神様の救いの言葉として降ってこられた。人として30数年の生涯で、すべての人を背負われ、死んで、三日目に死から復活させられ、40日後に天に戻られる。しかしそのとき、決して空しくは戻られなかった。断じて手ぶらで戻られはせんかった。その手には、十字架ですべての人々の身代りに五寸釘で穴を穿たれたその手には、おびただしい人々の救いが握りしめられ、主は天に凱旋をされたのです。父よ、あなたがわたしに託された人々の赦しと救いを、わたしは勝ち取って戻りました。彼らの罪は赦されました。わたしは救いを成し遂げました。あなたから託された救いの使命をわたしは果たして戻りましたと、父なる神様に報告なさった。

クリスマスからイースター・昇天と随分賑やかになりましたが、神の言葉なるキリストが、父なる神様の望むこと、私たちの救いを十字架で成し遂げ、天使たちの歓喜の中を昇天されて、父の御許に戻られたというのは、ものすごい賛美と栄光に包まれておったに違いないのです。

けれども、それを遥かに超えて、もっと高い歓喜と栄光とすべての聖徒たちの賛美に包まれ、キリストが栄冠を受けられる最高の日がやがて来るのです。それまで私たちの道は低いでしょう。高みを目指して歩んでいるのに、低くて崩れそうになるのです。うつむいて泣きそうになるのです。その日がまだ来てないからです。でも、必ず来る。病もない、涙もない、苦しみも叫びも、死にたいという思いもない、復活の日が必ず来る。その前に死んでも、意外な死に方をしたとしても。それでもそのことを遥かに超えて、人間の思いを遥かに超えて、人間のあきらめも言い訳も屁理屈も、人間の道を遥かに超えて、神様の道が来たのです。どっか高いとこにあるのではない。人間が本当は知っていたその道を、私たち皆、罪を犯して断ち切って、道がわからなくなってしまった。道を失い、父から離れて、地上をさ迷う人間に、罪を犯した当然の報いを受けて当然の人間に向かって、道が突入してきたのです。その道こそがキリストです。わたしは道であり、真理であり、いのちであるとおっしゃった、その名を、主こそ救い、イエス様と呼ばれることを受けられた御子が、わたしが成し遂げる、救いの道を成し遂げると、罪を背負って下さった。全部赦しきって下さったから死を超える命に起きるのです。死んでなお復活の命に起こされて、キリストが、わたしが死んで復活したのは、この日のためだと、満面の笑顔で迎えてくださる復活の朝が、喜びの叫び以外の、一切の叫びがなくなる賛美礼拝の日が、絶対に必ずやって来る。私たちはその日を待つのです。やがて再び降られる主を、復活をたずさえて降られる主の日を、私たちは心を高くして待つ。それを待降節と言うのです。その日もまた、思いもよらないときに来ます。その日のために今を生きる。喜びの日に備えての今日なのです。

11/11/20礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書22:35-39、イザヤ書53篇1-12節 「光を失う心細さに」

11/11/20礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書22:35-39、イザヤ書53篇1-12節

「光を失う心細さに」

 

財布を忘れて取りに帰ったことがあるのはサザエさんだけではないと思います。私もしょっちゅうで、あ、忘れた、あ、今度はカギを忘れたと玄関までの階段を何往復もして体力をつけています。妻も子供たちを車に乗せて幼稚園について、さあ降りようと思ったら、カバンがない、着替え袋も上履もないということがありましたし、私もぐずる娘を抱っこして車に乗せてスーパーに着いたら、あ、履物を履かしてなかったということは、ま、皆さんもあるんじゃないかと思います。財布も袋も履物も、ないと困る。困るから持っている必需品なんですがイエス様は、わたしがあなたがたを遣わしたとき、のうても必要は満たされたろうと弟子たちに言われます。確かに満たされた。スーパーに子供を乗せれるカートがあったり、自分がちゃんとしてのうても、そういう私であればこそ、主が私のために祈り執り成し、望み通りではなくっても、必要は確かに満たされるのです。それは旧約の昔、モーセ率いるイスラエルの民が荒野を40年間旅したときにも、着物は古びず、足も腫れんかったろう、神様が共におられて守ってくれて、必用は満たされ続けたろうと、モーセが死ぬ前に民に語りかけたのにも似ています。主が共におられて祈ってくれて、そしたら不足はせんのです。米国で大学を卒業した後、二年間ボランティアとして伝道団体で働いたとき、ボランティアなので交通費程度のお金だけ頂いて、やっていけるかなと思ったら、教会の人が、うちに来いやと住まわせてくれ、靴下に穴が開いちゅうと、同僚が衣服を分けてくれ、事故で車が壊れたら、教会の仲間にアフリカの人がおりまして、国が政変で難民になり、教会で助けてもらっていた方が、幸生、ちょうど別の車をもろうたき、前の車をやろうかと、私と同年齢71年製の車を頂きました。雪国で道路に塩を撒くために、床に所々穴が開いていて、走ると雨が下から降ってくる車でしたが、本当に助かり、確かにイエス様が私のために祈り執り成して下さっているのだと、主を信じる喜びと確かさを強くされたあの時期を懐かしく思います。

「しかし、今は」と、主は言われるのです。状況がまるっきり違ってしまうようになる。主の言われる「今」が来たら状況が一変する。どう変わるか。主が死なれ、その間、常に執り成し祈って下さっていた主がおらんなる。主が私のために祈って下さっていたからこそ、こんな私でもやってこれたのに、しかしこの夜、イエス様は聖書が約束するように犯罪人の一人として捕えられ、翌朝、鞭打たれ、十字架に架けられて、息を引き取って死なれるのです。無論、私たちが知っているのは、その死が二日間あるいはユダヤの数え方で三日間ではあります。が、毎日、共におられた主です。どんなときでも、離れておっても、弟子のため、執り成し祈って下さっていた主が死なれる。生きておられるという存在そのものが、わたしはあなたを背負い守るという、安心そのものですらあった子供にとって親のような存在が、捕まって、死んで、おらんなるというのは、想像を絶する不安と絶望を弟子たちの心に刻んだに違いないのです。イエス様が繰り返し約束して下さった復活の約束にも安心できないほどの悲しみ、言い知れぬ不安が、キリストの弟子たちをも席巻する。安心そのものであった主が、死んで本当におらんなられる。

逆は、いいのです。私が死んでも、主は私と共におって下さいます。死んで尚、この者はわたしの愛する者であるからと、主がご自分のものとして、死んだ私たちをも御許に置いて、恵みと慈しみとを注がれて、復活の日に向けて守って下さる。釘打たれたその両手で包んで下さる。

そして、そのためにこそ主は、すべての人に襲い来る死の刺を無効にするため、私たちを襲う死の只中に、今、飛び込んで行かれるのです。そういう「今」が、ここでイエス様が弟子たちにはっきり宣言される今です。キリストが、クリスマスの夜、人となられた神様が、罪人として死なれる今です。この今を神様ご自身が受けられて、罪に染んだ人間も一緒に復活の日を迎えることができるため、永遠の神様が身代りに死なれる。罪を犯した罰は死です。すべての罪の報酬は死です。ならばこそ決して避けられない死に立ち向かい、その死から人々を償い出すため、人々と永遠のいのちを分かち合うため、死んでも復活を迎えるために、神様が罪人の一人に数えられ、死んで子供らの罰を受けられる。これは必ず実現する。わたしは必ず、あなたがたのため死ぬと、キリストは、旧約の預言を引用され、今これをわたしが成就すると言われるのです。

聖書の御言葉が実現するのは自動的になるのではありません。御言葉は神様の愛の道標であり、生きるため、滅びないための警告と、慰めの約束だと言っても良いのです。御言葉は従うためにあるもので、自動的にこうなり、ああなるというのではありません。でも人間が従わない。まるで子供が親に逆らい、お城の石垣を登ったり、急な坂道を駆け下りたりして、当然の報いを受けるように、愛の道標に逆らって、それぞれの方角に向かって止まらない。どうしたってそれが止まらない。だから神様も止まらんのです。キリストは一直線に進まれるのです。あなたが迎える裁きの死を、わたしが身代りに死んでしまうと、死の只中に飛び込んでいかれる。何人もこのキリストを止めることはできない。御言葉は実現するのです。誰もこの実現は止められない。キリストが死なれて実現する、救いの実現は止まらんのです。

宗教改革者ルターは、このキリストの死を面白い表現で譬えました。死がキリストを飲み込んだとき、それは他の人間たちを飲み込んだときとは違っていた。罪一つない聖なるキリストを飲み込んで、神様ご自身を飲み込んで、死は腹痛を起こして、キリストを吐き出した。そしたら一緒にすべての人間を吐き出してしまったと、復活の恵みはこのようにキリストのおかげで与えられるのだと説明しました。私もそれに倣って言いましょう。私たちの罪を背負って死に飛び込んで行かれたキリストは、その愛の壮絶な勢いと、全ての人の罪を背負いきった命の重み故、死がその余りある償いに耐え切れず、その腹が破れて大きな穴が開き、キリストは死を突き抜けて復活されたと。そしてキリストの開けられた突破口から大勢の人々が復活をするのだと。キリストがその大勢の人々を引き出して、天の御国に引き上げられて、わたしのもとにおらせると約束をして下さったから、必ず実現させるのだと、償いの十字架の死に飛び込まれたから、だから人間は救われるのです。それだけの、歴史上唯一、一回限りの、神様の死という永遠の交換が、あの二日間に渡って交わされたから、あの「今」という死と悲しみを、キリストが背負って下さったから、人は死んでも生きられるのです。

ただ、その今を、人は御言葉を聴いたとしても、なかなか受け止めることができない。イエス様直々の御言葉を聴いても、弟子たちは受け止められんのです。復活の希望もピンと来ない。やがて受け止められるようにはなるのですけど、今ではない。今は悲しみの時なのです。受け止められない時なのです。その時が二日あるいは三日間続く。弟子によっては、復活のキリストに出会っても尚、疑ったり迷ったりする弟子もいて、言わば個人差があるのです。それは私たちにも言えるでしょうか。聖書の慰めの御言葉を何度聴いても、それで一変するということは、あまりないかもしれません。後に出てくるエマオの町に行く途中の弟子なんて復活のキリストに出会っているのに、それに気づいてなかったり、食事をしたときに初めて気づいて、あ、そう言えば、道々イエス様から御言葉を聴いておったとき、心が燃えておったねゃと言います。御言葉を聴いておったとき、確かに心が照らされておったのに、そのことに、後から気づくということがある。御言葉を聞いておる最中は、混乱しておったり、迷いがあったり、不安の只中で聴いている。今日の御言葉の場面でも、弟子たちがイエス様から聴かされたのは、イザヤ書の御言葉の引用です。それが説き明かされたのです。このイザヤ書53章は旧約の御言葉の中でも特に重要で有名な御言葉です。それが説き明かされたのに、しかもイエス様が、わたしがその償いを実現する救い主だと言われたのに、弟子たちは自分のこととして受け止めきれない。不安、混乱、苛立ちや強がりが心に満ちて、どうにも今の状況を受け止めきれない。それが人間というものでもあるのでしょう。弱く貧しい器なのです。

その私たちという、ひび割れた器を、イエス様は、憐れみ受け止めて下さいます。私たちの罪を引き受けられただけでなく、その弱さも悲しみも、弟子の不信仰でさえ、キリストは正面から受け止められて、だから、あなたがた、わたしがあなたがたと共にいられない二日間、あなたがたの信仰がなくなってしまう二日間、心細さをまぎらわせれるなら、財布も袋も持ったらよい。これまで全く不必要であった剣さえ、これで我が身を守ろうと手元に置いたってかまわない。それだけの二日間であろうから、信仰がなくなってしまうような今であるから、神の子の命を守るためには、一切役に立たない剣だけれど、それでもいいから、この今を耐えよ、わたしが帰ってくるまでの今を耐えよと弟子たちに言ってくださるのです。

無論、剣を振り回す暴力の肯定ではありません。二振りだけで十分だとも言われます。実際、それで人を傷つけることはできるでしょうが、自分を守ることなんてできんのです。少しでも安心できるなら、信仰がふるいにかけられて、振り落とされてなくなる絶望に耐えられるなら、役に立たん剣でも、二日間持っておったらよいと言われる。三日目にはもういらんなるのです。三日目の朝には、もういらんのです。キリストが死に大穴を開けて復活をされ、わたしはあなたと共にいる、わたしは復活であり命である、わたしを信じる者は死んでも生きる、わたしは、あなたの主であると、死のかんぬきを外されたから、剣はもはやいらんのです。命はキリストの手にあるからです。十字架で釘穴を開けられた主の御手に、私たちの罪と死に勝利されたしるしである穴の開いた主の両手に、私たちの命はあるのです。信じられぬ弱さを憐れまれ、悲しみの二日に勝利される。二日に勝つで、復活です。笑いで締めるのは初めてですが、復活されたイエス様を思うのです。きっと笑顔だったと思うのです。私たちも、また愛する者たちも、復活の笑顔で起きるのです。

11/11/13幼児祝福礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書22:31-34、詩編41篇2-4節 「倒れても立ち直れ」

11/11/13幼児祝福礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書22:31-34、詩編41篇2-4節

「倒れても立ち直れ」

 

先ほど共に捧げました祈りの中で、まことの勝利者とならせて下さいと祈りました。嘘の勝利ではない。老いていようと年若かろうと、この世に生きている間が一体どれくらいであるかはわかりませんが、わずか死ぬまでの間だけ自分を勝ち誇るような虚しい勝利者ではない。死んでなお、いや、死んで復活を迎えた時に、朽ちない勝利の冠を与えられるまことの勝利者とならせて下さいと、真剣に祈らない者がおるでしょうか。世に流されず、倣いに染まず、かと言って我流自己流というのでもない。我流こそ世の倣いの本流だとも思います。でも流されやすいのが世の常でもある。だからこそ祈る。イエス様も、弟子たちのため、私たちのために、祈らないではおれんのです。

祈るというのは、私たちを造られた天の父に願うことです。お願いばかりで言うことは聴かんじゃいけませんが、弱さ苦しみがあればこそ、願わずにはおれんのが、祈りの本質でもあるでしょう。イエス様もまた父に祈り願われた。しかもご自分のためにというのではなく、弟子たちの苦しみのために祈られた。でも当の弟子たちからしてみたら、そんなおせっかいはいりません、ということではなかったでしょうか。自分は大丈夫だと思っているのです。それもまた、造り主をわきまえず、自分をも知らない世界の現実かも知れません。自分は祈られる必要などないと思う。願わくは、今日祝福を受けた子供たちが、そう思わないように育って欲しいと心から願います。

どうしてイエス様はペトロ達のために祈らなければならなかったか。サタンの願いがあるからです。キリストは一生懸命に弟子たちを育てて導いてきたけれど、ぜんぜんダメでしょう、ちょっとふるいにかけてみたらわかりますよと願うサタンに、神様が、わしはそう思わん。じゃあやってみろと許可された。手塩にかけ育てた小麦も叩いてふるいにかけてみたら案外中身がスカスカで、もみや土と一緒に落ちることもある。自信過剰の人間の心を全部見透かしているような願いに対して、じゃあ弟子たちは、それに対抗して父に祈り願うほどの信仰があったかというと、ない。ないから祈らないし、この後もイエス様から、誘惑に陥らないように祈っていなさいと言われるのに、寝てしまう弟子たちの姿が露にされます。ふるいから、こぼれ落ちていってしまうのです。

「しかし」と言われるキリストの恵みが、ここにガッと割り込んでこんかったら、私たちもまた、落ちて吹き飛んでしまっていたでしょう。しかし、わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈ったとイエス様が本当に祈って下さったから、父の前にひざまずかれて、願い懇願して下さったから、落ちて倒れても、立ち直るのです。キリストが命をかけて祈られたから、だから、倒れても立ち直るのです。キリストが私たちの十字架を負われたとは、そういうことでしょう。私たちもまた復活するため、倒れまた死んでも立ち上がるため、神様が人となられて十字架で死なれ、復活されて、これはあなたの復活だから、わたしと結ばれて一緒に起きよと呼びかけてくださる。どんなにひどい倒れ方をしてしまっても、だから、人間は立ち直るのです。

無論、自動的にではありません。自分の足で立つのです。立てる力をキリストが注いで下さるからです。子育ても同じ面があると思います。甘ったれにする育て方は、いたしません。親を信頼していいんだ、私は受け入れられているんだという、言わば健全な甘えの意識は大切でしょうけれど、人にやらして自分はせんのは、甘ったれであって別物です。甘えは信頼の形ですけど、甘ったれは自信の塊です。自立をするように育てることは大切です。自分の足で立つときに自分の弱さだってわかるからです。自分の弱さをわきまえてこそ、本当に立つこともできるからです。自立ではあっても、自力ではない。立てる力を与えられてこそ、私は立つことができるのだと、親や先生や友人や隣人を、そして誰よりそのような愛の育みを与えてくださり、互いの弱さをも受け入れられる愛の力を与えてくださる、天の父の前に立つことを、自立と呼ぶのではないでしょうか。本当の自立は、人を立たせることさえもできるのだとキリストが祈ってくださった。立たせてくれと、力づけてくれと、愛の力で祈ってくれた。キリストを信じるということは、この愛を信じるということでしょう。たとえ倒れてしまう時にも、私はキリストの腕の中に倒れていける、一人で倒れるのではないのだと、倒れて尚、神様の愛を信じて倒れられる。それは自信の対極です。信仰とは、信じる自分が主体ではなく、それほどにキリストの救いが信頼に足るから、キリストを信じられるのです。欧米では、夫婦関係の立て直しセミナーというのがあって、例えば配偶者に自分の真後ろに立ってもらって、その相手を信じて、自分の全体重をかけて後ろに倒れるという実践がある。それをネタにした米国アニメで、セミナーに参加した人々が、バタンバタンと倒れてキャッチしてもらっている列の最後で、主人公の妻が、私も本当に倒れるのですか?と誰もいない後ろを指差す。次の場面で、夫は別の場所に逃げて釣りに興じている。セミナー主催者が、いいえ、あの結構ですと頭を抱えているブラックジョークを見たことがあります。信仰が鰯の頭でも何でもよくて、信じる自分が大事なら、誰もいないところに信じて倒れて、頭を打って泣くことになる。アニメであれば笑えても、笑えない現実も多いのです。実際にそうやって自分を押し通し、自分を信じたつけがまわって泣く子供を皆さんも見ることがないでしょうか。大人でやるのはペトロだけだと、一体誰が言えるでしょうか。

ペトロは自信満々です。私は大丈夫だと言い張るのです。死ぬ覚悟さえしていると訳された言葉は、自分の足場は固まっているという言葉です。ペトロは立っているつもりです。自立した信仰を持っているから、あなたのために死ねるとさえ思っている。イエス様のためなら死ねると言う。でもイエス様がこの後捕まり、お前もあの男の弟子だろうと問われたときに、あんな奴は知らんと三度も繰り返す。何故か。自分に立って、神様の恵みの御言葉に立ち損ねたからです。イエス様が、あなたは立ち直って兄弟を力づけてくれと願われたのに、結局ペトロが立っておったのは、自分の思いの上だったからです。ならイエス様のために死ぬのではないでしょう。自分のためです。なら人間は本当に自分のために死ねるのか。自分のためにも死ねんのが弱い人間じゃないでしょうか。自分のための勝利者にペトロは三度もなり損ねてしまう。

けれども、それでよいのです。ペトロは主のために生きるからです。兄弟を励まし力づけるため、主に生かされているからです。自分の足下が崩れたときに、真実の足場に立てるのです。キリストが私たちを丸ごと担ぎ上げ、十字架ですべての罪を背負い切られて、あなたはこの赦しに立ってよいと私たちのため死んで下さり、死者の中から復活されて、あなたも復活の命に立ちなさいと、ご自分の命を、私たちの足場として下さった。人はキリストに立って良いのです。キリストのようにすら生きられる。それがペトロに願われた、兄弟たちのために生きるという命です。私たちに願われている命です。痛みを知る者となれたからです。弱さを受け入れられるからです。批判する代わりに祈ることができる。サタンの弟子になるのではなく、この兄弟を助けて下さいと、イエス様のように祈ることができる。祈ってくれと言われるのです。力づけてくれと言われたのです。人はこのためにこそ生かされて、キリストを足場として生きられる。今日祈られた子供たちまた私たちも、互いのために祈って生きる神の子の祝福に生きれるよう、主に祈られているのです。