11/10/23礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書22:1-13、出エジプト記12章21-28節 「死の備え、救いの備え」

11/10/23礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書22:1-13、出エジプト記12章21-28節

「死の備え、救いの備え」

 

私たちの教会では、教会員に信仰の遺言書を書いてもらっています。家族や教会に、どのような葬りをして欲しいか、後のことをどのように願うかを書き残し、ある意味最後の責任を果たすという面もあります。でももっと大切なのは、そのように、今、自分の死に向き合いながら、神様に向き合って欲しいのです。いつ来るかわからない死に備え生きることで、むしろそれが、生きることへの備えになる。何となく生きているというのではなく、行くべきところを知っていて、ゴールから目を離さない生きかたをしていく。死への備えは生きることへの備えである。しっかり生きたい。そのためには備えはやはり大事です。

しっかり生きるということは、務めを果たすということでしょう。仕事も人間関係も。例えば、約束を守る。嘘をつかない。愛する。自分に与えられた責任、責務、務めを果たす。子供であろうと大人だろうと、それは誰だって同じでしょう。死んで神様の前に立つときには、皆同じように問われるのです。あなたは生きて何をしたかと。

当時の宗教的指導者、祭司長たちや律法学者たちは、じゃあ何を考えて、民衆にバレんようにイエス様を闇に葬ってしまおうと考えておったのでしょうか。それが神様から私に与えられている務めを果たすことだと本気で考えておったのか。改めて思うのです。神様の前に私は立たないかんということを、健全な畏れを持って考えることは不可欠だと。

私たちが悪を考え、神様の愛に背くことを考えているとき、おそらく裁きは考えていません。あるいは考えておったとしても、そこに畏れがないままに、大丈夫じゃないけど大丈夫と、心が鈍くなっているのでしょう。イスカリオテのユダもまた、同じことではなかったでしょうか。裏切り者のユダという悪名高いイメージがありますが、私とどこが違うだろうかとも思うのです。私にはサタンが入ったことがないと言い切れる人が、果たしてどれだけおるろうかとも思います。サタンに付け入る隙を与えたら、シュッと入ってくる。それは取り憑かれるということとは少し違うようです。自分が何をしているか、そしてそれが良いことでは決してないことは知っておったろうと思います。言い訳が上手だったということでしょうか。純朴な田舎の漁師であったペトロたちはまんまと騙せたのかもしれません。イスカリオテというのはあだ名です。都会の人という意味の言葉です。他にもユダという弟子がおったので、区別するためにつけたのが、都会人のほうのユダ。言葉も巧みであったのでしょうか。お金の管理もまかされておったようです。けれどそのお金をごまかしておったのだとヨハネによる福音書には記されています。まずは自分をごまかすのです。自分に言い訳をするのです。罪を犯すときは大体そうでしょう。言い訳が、嘘が上手になっていく。ま、そう思っているのは案外自分だけなので、自分で自分を麻痺させることが上手になるということでしょうか。その麻痺した隙に、シュッと付け入ったサタンがするのは、もうすでに罪に向いている私たちの背中を、後押しするだけだと言えるかも知れません。イエス様に向かないかんかったのに、神様に向き合わないかんかったのに、罪を見つめて、背中を押されて、そのユダがどこにいるかを捜す必要はあるのでしょうか。私はユダじゃない、私は大丈夫というところに、隙が開きます。誰一人として大丈夫じゃないから、神様が、人となられて来られたのです。罪犯した者をも赦して救うため、過越の小羊となるために、罪人の身代りに犠牲となるため、キリストは人となられて来られたのです。

そのご自分の死の備えを、ここでイエス様はなさっておられる。自分に与えられた務めを、しっかり果たすための備えだとも言えます。それがこの過越の食事の準備であり、次に語られる主の晩餐、聖餐式の意味でもあります。詳しくは来週説き明かしますけど、ここで提供されているのは、ジンギスカンの肉ではありません。当時から数えて1500年程前から、ずっと過越の食事で与えられてきたのは、その小羊が、食卓を囲む人々の身代り、犠牲となって殺され、屠られて、その代わりに、神様の救いの御言葉を信じるこの家に、神様が救いを提供して下さる。小羊が身代りに裁きを受けて、その身代りの死によって、罪の裁きは神様を信じるあなたの家を過越して、あなたがたは救われる。これが過越の、神の小羊の死の意味です。小羊の死によってあなたは救われる。これを備えてくださったのは神様です。人間の考えではありません。人間は、自分を救い、自分のやりたいことをし続けようと、御言葉を殺し、神様の形に造られた本来の自分の心をも殺し、最後にはキリストをも殺すのです。神様を黙らせ、なかったことにして、自分の生き方を救おうとするのが、キリストを黙らせようとする、人間の考えと策略です。

その人間を、それでも赦して救うには、どうして動物の犠牲で十分でしょう。そもそも過越の小羊は、罪人をそれでも救うため人となられた神の御子、イエス・キリストを指し示す徴です。あのキリストの十字架で、人は罪を背負われて赦される。あのキリストの裂かれた肉で、神様の心を引き裂いた罪が償われ、あの十字架で流された血によって、神様が怒りながら流された涙と、この地上において流された数え切れない命の流出が、キリストの血によって償われ回復させられる。イスカリオテのユダの裏切りと罪が、まだ生ぬるく思われるようなおぞましい人間の罪が、それでも担われ、背負われて、それでもあなたに救われて欲しいと、神様ご自身、裁き主ご自身が自らを十字架で裁きに渡され、だからあなたは赦されて、死後、神様の前で受けるべき裁きの、永遠の有罪の判決が、あなたの前を過ぎ越していい、そして、その横にいるわたしに向かって、すべての断罪が突き刺さってきてもいいと、キリストが過越の小羊となって来てくださった。これが神様の救いのご計画なのです。神様を殺して黙らせようとする人間を、それでも救おうとされる神様のご計画が、この過越の十字架で、罪だらけの人間と切り結ばれる。

そしてイエス様は、その救いのご計画が、この地上で遂行されていくため、私たちのような普通の人々を用いられるのです。そこでもまた、どうしてそんなことを神様はなさるろう、めんどくさいと、ともすると自らの心の鈍さを暴露してしまうような私たちかもしれません。自分にとって意味を見出すことができんことを、人間はやりたくないと思う。そりゃそうでしょう。ユダも、イエス様にこれ以上ついていっても自分にとって意味がない、何になると思ったのでしょうか。けれど売ったらそれは自分に意味があると、いらんなった服を売るように、イエス様を売ったのか。生きることの意味を、自分の得に見出す世界では、死への感覚も鈍ってしまい、いのちを軽んじる生き方になっていく。少し前の新聞に、ある国で、車に跳ねられて倒れた女の子の横を何人もの人々が素通りしていったのを防犯カメラが映しておって、それが世界的に流れたという記事を読んで泣きそうになりました。涙を流された方々も少なからずおられたと思います。どうして私たちは自分のためにではなく、人のために生きるのか。どうしてイエス様についていって、私たちを罪と裁きから救われる神様の愛のご計画にお従いして生きるのか。これも理屈ではないでしょう。痛むか、痛まんかではないでしょうか。そこに鈍くならんよう注意せよとイエス様がおっしゃった意味もあるのです。そこにサタンが入るからです。自分が痛まなければ幸せだと。

キリストが私のために死んでくださったと信じるのは、理屈ではありません。信仰は理屈ではありません。確かに理解は必要ですけど、痛みの意味をわきまえないで、心でそれを生きないで、何をわきまえていると言えるでしょうか。この世は痛みだらけです。自分の痛みだってわかってほしいと、誰もが思っているに違いありません。でもならばこそ、わかるのです。人の痛みも、神様の痛みも、どうしてキリストが自分のいのちをも惜しまずに、それは具体的に言うならば、ご自身が痛み苦しむことを厭わずに、この叫びだらけの世界に飛び込んでこられたのか。人間は自分で自分たちを救えんからです。死後の裁きから救われるには罪が赦されるしかないからです。その罪が赦されるには、誰かが身代りに裁きを受けるしかないからです。そしてこの心の鈍さからも救われて神の子として生きるには、神様の愛の只中に飛び込んでいくしかないからです。そのためにキリストが、私たちの只中に飛び込んで来て下さって、あなたの罪は赦された、さあ、赦された者として、愛されていることを知る者として、あなたの人生を、愛の人生に回復させなさい、神様があなたに与えてくださった命の意味を、あなたの務めを果たしなさいと、キリストが私たちの主となってくださった。私たちはそのイエス様の後をついていき、また、イエス様が言われたことは真実だと信じて、務めを果たせばよいのです。全ては既に主が備えておられるからです。

ペトロとヨハネを遣わして過越の準備をさせたときも、備えはすでにできていました。都に入ると水がめを運ぶ男に出会うと主は言われた。普通は女性が運ぶ水がめを、男性が運んでいる。本当かなあとペトロらも思ったかも知れません。でもおった。わ、本当だ。準備をする。この福音書には記されていませんが、いわゆる最後の晩餐です。イエス様が弟子たちの足を洗われる。ユダの足もです。悔い改めて欲しいのです。痛みを知ってほしいのです。神様はあなたを愛しておられる。あなたは愛に生きるため、罪赦されて生きられる。悔い改め、愛に生きよ、神様の痛みに生かされよと、イエス様が弟子たちの足を洗われる。その水を運んだのは、この男性です。人からは変に思われておったかも知れません。キリスト者なんて大概そう思われておるのかも知れません。あの人皆と違うことをしゆうと。でも水を運ぶ。意味がわかっておったでしょうか。何でこんなことを私はせないかんがやろうかと自問することはなかったでしょうか。けれどその意味は、イエス様の前におったらわかるのです。そうでなかったらわからん意味が、虚しく歯噛みして果たしていく人生の務めが、イエス様の前におったら、わかるのです。すべての務めには意味がある。神様が私を用いてくださる。しかも救いのご計画のうちに私を用いられ、主は、私たちが運ぶ水を清めて、主の愛の業、救いの御業とされるのです。