11/11/6礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書22:24-30、ホセア書11章1-4節 「愛は低いところへ流れる」

11/11/6礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書22:24-30、ホセア書11章1-4節

「愛は低いところへ流れる」

 

説教者が好んで説教する御言葉というのがあるように思います。鈴木先生でしたら放蕩息子やタラントンの譬えでしょう。ペトロたち、使徒たちにも、そういう御言葉ってあったでしょうか。あったとして、もし今読みました、ここ、ここが好き、もう何回も好んで説教をしたというのであれば、偉い、本当の意味で偉いと思います。

随分恥ずかしい場面です。すぐ直前にイエス様が、この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約であると言われたときには、皆、固唾を飲んでイエス様を見つめて、その杯を飲んだに違いないのです。でもイエス様が、この中にわたしを裏切る者がいると言われるや否や、誰がそんなことをしようとするのかと論じ始める。それはまあわからんでもありませんが、それがどういういきさつで、自分たちのうち誰が一番偉いろうという議論になるのか。それだけで恥ずかしい場面ではないでしょうか。例えば聖餐式の礼拝が終わって報告のとき、誰彼となく声が上がって、何か私はここで蔑ろにされている気がする、もっと丁寧な扱いをされて、敬ってもらうべきじゃなかろうか、いや、俺こそそうだ、いいや、私こそもっと尊敬を払ってもらってしかるべきだと、やんややんやと紛糾したら、ま、イエス様はそこで皆から無視されているということでしょう。イエス様置いてけ堀の議論。イエス様の目の前で、しかもイエス様がご自身の死を語られるそのところで、私こそもっと注目を受けてよいのにとか議論する。ひょっとしたらイエス様まだ杯を持って、皆の間に立っているかもしれんのに。しかも使徒が、です。イエス様に選ばれた使徒として、この場面が、聖書として皆の前で読まれるというのは、本当に恥ずかしかったのじゃないでしょうか。いやあ、あんときは俺も若かったから、というのでもないと思います。むしろ使徒たちは自分たちがイエス様に選ばれているということの意味を忘れんように、何度も何度もこの恥ずかしい出来事に立ち返っていったのではないかと思うのです。これが、イエス様にご自分の命を捨てさせねばならなかった私の罪の姿なのだと、この恥ずかしい罪の姿を忘れるときに、私たちの間で私をもっと認めろ合戦が始まるのだと、むしろ身に刻んでおったのではないでしょうか。

自分のほうが偉い。稼ぎでは、この人にかなわないけど、器量では、この人にかなわんけど、人格的にも、この人にかなわんけど、精神的には私が勝っちゅうとか、何の得にもならんことを私たちはやっているのかもしれません。損得ってことではないでしょうけど、そういう言い方のほうがわかりやすいとも思います。誰の得になると私たちは考えるのか。誰の得のための偉さだと考えるのか。偉いと訳された言葉は、より偉大である、より大きい、あるいはより重い、横文字でメガという言葉の比較級です。超大盛りのメガ牛丼とかありますし、例えば運動会の綱引きのときメガの人がおったら、しめた、得したって思う。稼ぎがメガな家の子は塾に行けて得とか思う。イエス様も、偉くなったらいかん、メガはいかんというのではありません。メガな人はおる。でも、この世のメガな人々が、メガな力を自分のために使って、自分の損得を考えるのに対して、イエス様は、それはでも違うろうと言われるのです。使い道を間違うちゅうろうと。あなたがたの中でメガな人、多く与えられている人は…昔からそうだったのでしょう。若い人がよく、使いっ走りをさせられる。夏、馬路村の山奥の家とかにトラクトを配りに行くとき、若い夏期伝道実習生に、よし、走ってあの家に配って来いと、ゴンゴン走らせたりする。そのときの態度で、お、今年の神学生は見込みがあると、わかったりします。キリスト者とは、僕であることだとわきまえている神学生や若い伝道者は、ゼエゼエ言いながらも、喜んで使いっ走りを引き受けて、それを見て、よし俺もと無茶をして、妻から、あんたもう中年ながでと引導を渡されたりします。が、それならそれなりに蓄積されてきた経験や能力が与えられてますから、今二つの教会の牧師を任されておるのだと思うのです。体力であろうと何であろうと、多く与えられているのなら、多く、主の使いっ走りをさせられたらよいのです。自分に与えられている分が何であろうと、与えられているのは主のためです。主が私たちを通して、人々に仕えることを求めておられる。自分を裏切ろうとしている弟子にさえ、自分はどうなったってかまわない。あなたのことが心配だ、あなたを滅びから救いたいんだ、あなたの犠牲になってもいいんだと、ご自分を差し出してくださった。そして私たちが自分の損得ばかりに心奪われ、この世と一緒に裁かれないようにと、神様のご支配のあり方を、私たちに委ねても下さいました。あなた自身も身につけなさいと、人に仕える生き方を、私たちに委ねて下さった。そこでも得はあるのです。仮に私が走らされて、しかも十字架に登るような坂道を走らされて、肉体的にも精神的にも生活の面でも損しても、あなたが得してくれたらいいという生き方、得と言うより、得る、ということでしょう。あなたが本当の命を得るためなら、あなたが永遠の命を得るためならと、自分の命を使ってしまう。偽物、まがいモノを掴むのでなく、その手に、本当の命を掴んで欲しい。そのためには私が損をしたってかまわないと、主が苦しみをさえ忍ばれる。

そのご支配のあり方を、イエス様は、ここで、わたしの国、わたしの支配と呼んでおられます。これから十字架によっていよいよ明らかにされる神の国のご支配を、弟子達に、はっきり見ていて欲しいということもあったのではないかと思います。こういう支配だ。これが人々を治め導くということだと、ヨハネ10章の言葉で言えば、主が、わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てると言われた。改めて考えて欲しいのです。飼っている羊のために、しかも100匹おって1匹おらんなって、その1匹の羊のために命を捨てる羊飼いになれますか。イエス様は、なれると言われた。わたしはあなたのために命を捨てて、その罪を背負い切って赦す、だってあなたはわたしの羊だと、神様が、十字架でボロ切れのように捨てられて死んで下さって、だけどわたしは損をしたとは思わない、あなたがこの食卓に共についてくれて、一緒に永遠を過ごせるのなら、永遠に家族の食卓を囲めるなら、わたしはこの十字架の坂道を登っていくと、まことの支配を見せて下さった。

ペトロたち使徒たちは、このイエス様の言葉を最初聴いたとき、まだピンと来てなかったかも知れません。まだ自分に固着しておった弟子の姿が来週の御言葉にも見れるのです。私は踏みとどまりますと。けれどそんな私は木っ端微塵に吹き飛びます。ペトロも他の弟子達もイエス様を見捨てて逃げるのです。でもそんな使徒たちであってもイエス様から離れられないで、やっぱり使徒として、教会の土台となるのです。主がこう言って下さったのは、やっぱり本当なのだと思うのです。あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた。肝心なところで踏み越えたのに、あのとき踏みとどまれんかったのに、イエス様は、それでもあなたが今まで踏みとどまってくれたから、この愛をあなたに委ねると言って下さった。どうして踏みとどまったのか。強かったからではないと思います。本当に捨てられるほど偉くなかったからじゃないでしょうか。皆さんに率直に問います。何故主を捨てんのですか。主を捨てて生きられるほど偉くないからでしょう。それで良いのだと思います。その私たちに主は愛を委ねて下さった。その主の愛の偉大さの前に自分の小ささを認めたときに、キリストの奇跡は起きるのです。キリストが私を主の僕として使われるのです。

11/10/30礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書22:14-23、出エジプト記24章3-8節 「主の死を感謝する礼拝」

11/10/30礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書22:14-23、出エジプト記24章3-8節

「主の死を感謝する礼拝」

 

エルサレムにある一軒の家の二階広間に、過越しの食事が用意されました。すべて準備は整いました。その食事の席に、イエス様が、さあ、時が来たから、行こうと、率先して進まれる。弟子たち、特にここで、使徒と呼ばれる12人の弟子たちは、今までおよそ3年間、いつもそうやってイエス様の後姿を見ながら、その後に着いていっておったに違いありませんが、このときは、イエス様の言葉や後姿に、ますますイエス様の覚悟を見るような思いがあったかも知れません。もう何時間もせんうちに、イエス様は弟子に裏切られ、ローマ兵たちに連行されて、十字架に一直線に向かわれるのです。その時が来た、そのことはもう定められているのだ、人の子は定められた通りに去っていくのだとすらイエス様は言われる。覚悟の決まった、腹の据わった主の言葉です。イエス様の今までの全ては、まさにこれからの時のためにこそあったとさえ言えるのです。この時のために、わたしは人として生まれてきた。この時のために、今までの30数年間の全てがあった。そのゴールに向かっての最後の時。言わば、ヨーロッパの古い街で、礼拝が始まる15分前に、ゴーンゴーンと教会の鐘が鳴る。そのような時の音をイエス様は聴いておられたということでしょう。そして向かわれたのはイエス様にとっての最後の晩餐、弟子達と共に祝う、過越の食事の席でした。

この食事、教会でいう聖餐式の食事を、イエス様は、あなたがたと共にしたいと切に願っていたと言われます。直訳は切なる願いを切望していたというほど熱烈に求めておられた。聖餐式を共に祝うというのは、イエス様の熱烈な思いなのです。無論、そのためにはイエス様の弟子となる、いや、もっと深い交わり、関係、切れない絆で結ばれる、洗礼を受けることを主は求めておられます。洗礼の水は、新しく生まれることの象徴です。神様の子供として、洗礼の水と共に破水して、新しく生まれる洗礼を受ける。それは人となられた神様、人の子であるイエス様から、わたしの兄弟姉妹と呼ばれるほどの、家族の関係に入る、それほどの絆で結ばれるのです。そして初めて聖餐の食事を共にすることができる。旧約聖書で過越の食事が制定されてから1500年、ずっと過越の食事は家族で祝われてきました。家族単位で行いなさいと言われています。貧しくて小羊を用意できない家があったら、その家の分も用意してあげて、どうぞご家族でうちに来て下さい、そして過越の食事を一つの家族として共にしましょうと、とにかく家族単位で食べました。家族を神様は重んじられます。十戒に、あなたの父母を敬えと言われたほどの神様です。私はキリスト教にするけど、あんたらあは好きにしいやというような、およそ核家族の自由と呼ばれるようなものを神様は信じません。いつでも家族を目指されます。聖餐共同体とも呼ばれる教会が、そこで家族を目指さなければ、教会の何たるかも、聖餐式の何たるかも、壊されているということでしょう。昨今、教団で問題化されている聖餐問題も、これは神様の家族の食卓なのだということがわからなくなっていることを、如実に現していると痛感します。個人の自由で家族はやっていけません。個人の自由や思いなどでは、到底切ることのできんもの、それが家族の絆だからです。食卓に連なるか連ならんかは自分で決めるというのは、自由ではなく、家族を無視したわがままでしょう。イエス様が、これはわたしの血による新しい契約だ、契りだ、絆でお互いを結ぶんだと言ってくださった。この新しい血による絆。この血が、全歴史、全世界を貫く全教会の一人一人の内に脈々と流れていて、皆、イエス様と一つに結ばれている。全員、ただこの一つの絆で結ばれている。それが聖餐式の土台です。

それほどの血を流されることを、イエス様はまさに目前に控えているのだと、このとき悟っておられましたから、そら、ものすごく切望されているのです。この過越が、一体どういう意味であったか、思い出すなら、わかるはずだと、1500年間続けられてきたこの過越の食事は、この日のためにあったのだと、まさしく神様の愛の歴史が、全部ここに集約してきたという思いをこめて、イエス様が「言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない」と言われた。先週も申しましたが、過越とは、神様に背く罪人の犠牲として、小羊が身代りに殺され屠られて、血が流される。その血を塗った家の玄関の前を、神様の裁きが過ぎ越していくことを意味しています。その過越が、神の国で成し遂げられる、直訳は、神の国で満たされる、実現し、成就するという言葉です。過越が神の国で実現し、成就する。成就せんかったら、私たちは死後、神様の前で罪の裁きを受ける時、裁きを全部受けなければいけない。永遠の有罪の判決を受けなければならない。その有罪の判決が、神の国での、神様の前での永遠の法廷で聞くべき永遠の判決が、私の前から過ぎ越して、私の横に立っていてくださる、私の唯一の救い主、イエス・キリストに全部突き刺さって行って、そのときに、イエス様が、その判決をわたしは既に受けました。あの十字架で、わたしは幸生のために、幸生の全部の罪と恥とを背負い切って、幸生の身代りに永遠の有罪の判決を身に受けて、父よ、あなたから見捨てられ、わたしは裁かれ死にましたから、だから、このことは過ぎ越しました。もはや幸生は無罪です、この子はわたしの兄弟ですとキリストが私の横で言って下さる。この過越が神の国で成就し成し遂げられるまで、イエス様は、ずっとわたしたちのために執り成し続けていてくださる。そして、その日をこそ、何よりも熱烈に待ち望んで下さっているに違いないのです。幸生が早うここに来て、一緒に神の国の祝いの席に連ならんろうか、まあその前に、幸生にはやらないかん務めが、任務があるけんど、それが終わって一緒に食事する日を、わしゃあ切望しゆうぜよと、今や十字架を終えられて復活してくださったイエス様がどんなに私たちを愛して待っていてくださるか。

このイエス様の愛をこそ、聖餐式においては思うのです。思ってくれとさえ言われるのです。わたしの記念として、と言われると、正直私はどうもしっくりこんものを覚えます。日本語で記念と言うと、何か過去を偲ぶようなイメージがあって、いやあ、イエス様ってえい人やったねえと、今生きてないような響きがあったり、偉い人の記念碑を建てて、こんなにもすごいことをしましたと、その人の偉業を称えるような気がしてなりません。想起してとも訳されますが、これもピンと来にくい。ならば訓読みで、思い起こす。思いを、起こして、忘れたらいかんで、わたしがどんなにあなたを愛しちゅうか、わたしがどんな愛をもって、あなたを今も執り成しているか。ついわたしへの思いが意識下に沈められてしまうそのところで、わたしへの思いを起こして、ああ、そうや、イエス様が私の身代りに血を流してくださったがやき、罪を犯されん、この愛に応えて生きていこう、自分の自由とかじゃのうて、神様の子供として、罪の縄目から自由にされて生きていこう、罪の赦しにこそ生きていこうと、この新しい契約に生きてくれ、あなたはわたしによって、神の子ながやきと、イエス様が、ご自身の私たちへの愛のたけを、あなたはいつも思いよってくれと願われた。これがイエス様を記念する聖餐の記念の仕方なのです。いつも説教で繰り返し言う言葉で言うならば、聖餐式でパンを受ける時、そこでイエス様に改めて向き合うのです。体を投げ出してくださったイエス様だから、私もあなたにこの体を投げ出しますと、神の子として向き合うと言ってもよい。その体が、どんな体かをも、そこでは無視することはできんでしょう。罪に染まった、肉と呼ぶほうが相応しいのではないかと思われるほどの体、しかしイエス様が、そのあなたの身代りに、わたしが体を裂き、血を流したから、その体を真実の意味で労わって大切にして、罪から自由に生きなさいと、そこで私たちに向き合ってくださっている。そのイエス様に向き合うのが聖餐式での記念だとも言えます。イエス様の私への愛を思い起こして、イエス様への私からの愛の思いをも起こすときです。倒れておった愛が起きるのです。復活するための死と赦し、聖餐式であるのです。

ならばこそ、イエス様を裏切っても、どうせ赦されちゅうがやき別にという態度は許容されません。イエス様は、それは不幸だと言われる。愛が求められているからです。単なる法的な赦しとか、結果論ではないのです。問題はいつでも愛です。向き合うべきはいつでも愛です。思い起こすのは、主の愛なのです。その愛に背く時、人は不幸を自分でその身に招くのです。これはユダだけに言われた言葉でしょうか。そもそもどうしてここで言われたか。それがユダの運命だとでも言うのなら、言う必要はないのです。言うのはむしろ空気読めてないってことになりかねません。決してそうではないのです。悔い改めて欲しいのです。愛を起こして欲しいのです。ユダ、わたしはあなたを愛してきた。ずっと、一緒におったじゃないか。会話を交し、一緒に祈り、沢山の言葉を重ね合い、御言葉を聴いて、人々に仕えて、その愛を、わたしと一緒に歩んできた愛の記憶を、どうか思い起こして、わたしのもとに帰って欲しいと、イエス様は悔い改めを求めておられる。ご自身はどうでもよいのだと言われるのです。人の子としてお生まれになった、私たちの犠牲として裁かれ死ぬため、罪人の代表として、人として今まで生きてこられた人の子は、定められた通りに去っていくけど、それでよい。そのために生まれてきたのだから、覚悟はできている。それをこそ望んで生きてきた。それはユダ、あなたのためだと、あなたに不幸になってほしゅうないと、主は悔い改めを望まれるのです。裏切りはまだ回避することが間に合ったし、裏切った後でも、悔い改めることはできたのです。十字架の主が、すべての人に望まれるのは、幸いの側に来ることです。わたしのもとに来なさいと、十字架を背負われた小羊が言われます。あなたの罪はわたしが背負った。あなたの罪は赦された。だから過越が成就するため、わたしのもとに来なさいと、キリストが私たち全員に言ってくださる。神の子とされる洗礼を受けて、キリストの血による神様の家族の食卓に連なって、過越の祝いをするのです。キリストが罪を赦して下さったのです。この愛が、私たちを神の子の命に起こすのです。

11/10/23礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書22:1-13、出エジプト記12章21-28節 「死の備え、救いの備え」

11/10/23礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書22:1-13、出エジプト記12章21-28節

「死の備え、救いの備え」

 

私たちの教会では、教会員に信仰の遺言書を書いてもらっています。家族や教会に、どのような葬りをして欲しいか、後のことをどのように願うかを書き残し、ある意味最後の責任を果たすという面もあります。でももっと大切なのは、そのように、今、自分の死に向き合いながら、神様に向き合って欲しいのです。いつ来るかわからない死に備え生きることで、むしろそれが、生きることへの備えになる。何となく生きているというのではなく、行くべきところを知っていて、ゴールから目を離さない生きかたをしていく。死への備えは生きることへの備えである。しっかり生きたい。そのためには備えはやはり大事です。

しっかり生きるということは、務めを果たすということでしょう。仕事も人間関係も。例えば、約束を守る。嘘をつかない。愛する。自分に与えられた責任、責務、務めを果たす。子供であろうと大人だろうと、それは誰だって同じでしょう。死んで神様の前に立つときには、皆同じように問われるのです。あなたは生きて何をしたかと。

当時の宗教的指導者、祭司長たちや律法学者たちは、じゃあ何を考えて、民衆にバレんようにイエス様を闇に葬ってしまおうと考えておったのでしょうか。それが神様から私に与えられている務めを果たすことだと本気で考えておったのか。改めて思うのです。神様の前に私は立たないかんということを、健全な畏れを持って考えることは不可欠だと。

私たちが悪を考え、神様の愛に背くことを考えているとき、おそらく裁きは考えていません。あるいは考えておったとしても、そこに畏れがないままに、大丈夫じゃないけど大丈夫と、心が鈍くなっているのでしょう。イスカリオテのユダもまた、同じことではなかったでしょうか。裏切り者のユダという悪名高いイメージがありますが、私とどこが違うだろうかとも思うのです。私にはサタンが入ったことがないと言い切れる人が、果たしてどれだけおるろうかとも思います。サタンに付け入る隙を与えたら、シュッと入ってくる。それは取り憑かれるということとは少し違うようです。自分が何をしているか、そしてそれが良いことでは決してないことは知っておったろうと思います。言い訳が上手だったということでしょうか。純朴な田舎の漁師であったペトロたちはまんまと騙せたのかもしれません。イスカリオテというのはあだ名です。都会の人という意味の言葉です。他にもユダという弟子がおったので、区別するためにつけたのが、都会人のほうのユダ。言葉も巧みであったのでしょうか。お金の管理もまかされておったようです。けれどそのお金をごまかしておったのだとヨハネによる福音書には記されています。まずは自分をごまかすのです。自分に言い訳をするのです。罪を犯すときは大体そうでしょう。言い訳が、嘘が上手になっていく。ま、そう思っているのは案外自分だけなので、自分で自分を麻痺させることが上手になるということでしょうか。その麻痺した隙に、シュッと付け入ったサタンがするのは、もうすでに罪に向いている私たちの背中を、後押しするだけだと言えるかも知れません。イエス様に向かないかんかったのに、神様に向き合わないかんかったのに、罪を見つめて、背中を押されて、そのユダがどこにいるかを捜す必要はあるのでしょうか。私はユダじゃない、私は大丈夫というところに、隙が開きます。誰一人として大丈夫じゃないから、神様が、人となられて来られたのです。罪犯した者をも赦して救うため、過越の小羊となるために、罪人の身代りに犠牲となるため、キリストは人となられて来られたのです。

そのご自分の死の備えを、ここでイエス様はなさっておられる。自分に与えられた務めを、しっかり果たすための備えだとも言えます。それがこの過越の食事の準備であり、次に語られる主の晩餐、聖餐式の意味でもあります。詳しくは来週説き明かしますけど、ここで提供されているのは、ジンギスカンの肉ではありません。当時から数えて1500年程前から、ずっと過越の食事で与えられてきたのは、その小羊が、食卓を囲む人々の身代り、犠牲となって殺され、屠られて、その代わりに、神様の救いの御言葉を信じるこの家に、神様が救いを提供して下さる。小羊が身代りに裁きを受けて、その身代りの死によって、罪の裁きは神様を信じるあなたの家を過越して、あなたがたは救われる。これが過越の、神の小羊の死の意味です。小羊の死によってあなたは救われる。これを備えてくださったのは神様です。人間の考えではありません。人間は、自分を救い、自分のやりたいことをし続けようと、御言葉を殺し、神様の形に造られた本来の自分の心をも殺し、最後にはキリストをも殺すのです。神様を黙らせ、なかったことにして、自分の生き方を救おうとするのが、キリストを黙らせようとする、人間の考えと策略です。

その人間を、それでも赦して救うには、どうして動物の犠牲で十分でしょう。そもそも過越の小羊は、罪人をそれでも救うため人となられた神の御子、イエス・キリストを指し示す徴です。あのキリストの十字架で、人は罪を背負われて赦される。あのキリストの裂かれた肉で、神様の心を引き裂いた罪が償われ、あの十字架で流された血によって、神様が怒りながら流された涙と、この地上において流された数え切れない命の流出が、キリストの血によって償われ回復させられる。イスカリオテのユダの裏切りと罪が、まだ生ぬるく思われるようなおぞましい人間の罪が、それでも担われ、背負われて、それでもあなたに救われて欲しいと、神様ご自身、裁き主ご自身が自らを十字架で裁きに渡され、だからあなたは赦されて、死後、神様の前で受けるべき裁きの、永遠の有罪の判決が、あなたの前を過ぎ越していい、そして、その横にいるわたしに向かって、すべての断罪が突き刺さってきてもいいと、キリストが過越の小羊となって来てくださった。これが神様の救いのご計画なのです。神様を殺して黙らせようとする人間を、それでも救おうとされる神様のご計画が、この過越の十字架で、罪だらけの人間と切り結ばれる。

そしてイエス様は、その救いのご計画が、この地上で遂行されていくため、私たちのような普通の人々を用いられるのです。そこでもまた、どうしてそんなことを神様はなさるろう、めんどくさいと、ともすると自らの心の鈍さを暴露してしまうような私たちかもしれません。自分にとって意味を見出すことができんことを、人間はやりたくないと思う。そりゃそうでしょう。ユダも、イエス様にこれ以上ついていっても自分にとって意味がない、何になると思ったのでしょうか。けれど売ったらそれは自分に意味があると、いらんなった服を売るように、イエス様を売ったのか。生きることの意味を、自分の得に見出す世界では、死への感覚も鈍ってしまい、いのちを軽んじる生き方になっていく。少し前の新聞に、ある国で、車に跳ねられて倒れた女の子の横を何人もの人々が素通りしていったのを防犯カメラが映しておって、それが世界的に流れたという記事を読んで泣きそうになりました。涙を流された方々も少なからずおられたと思います。どうして私たちは自分のためにではなく、人のために生きるのか。どうしてイエス様についていって、私たちを罪と裁きから救われる神様の愛のご計画にお従いして生きるのか。これも理屈ではないでしょう。痛むか、痛まんかではないでしょうか。そこに鈍くならんよう注意せよとイエス様がおっしゃった意味もあるのです。そこにサタンが入るからです。自分が痛まなければ幸せだと。

キリストが私のために死んでくださったと信じるのは、理屈ではありません。信仰は理屈ではありません。確かに理解は必要ですけど、痛みの意味をわきまえないで、心でそれを生きないで、何をわきまえていると言えるでしょうか。この世は痛みだらけです。自分の痛みだってわかってほしいと、誰もが思っているに違いありません。でもならばこそ、わかるのです。人の痛みも、神様の痛みも、どうしてキリストが自分のいのちをも惜しまずに、それは具体的に言うならば、ご自身が痛み苦しむことを厭わずに、この叫びだらけの世界に飛び込んでこられたのか。人間は自分で自分たちを救えんからです。死後の裁きから救われるには罪が赦されるしかないからです。その罪が赦されるには、誰かが身代りに裁きを受けるしかないからです。そしてこの心の鈍さからも救われて神の子として生きるには、神様の愛の只中に飛び込んでいくしかないからです。そのためにキリストが、私たちの只中に飛び込んで来て下さって、あなたの罪は赦された、さあ、赦された者として、愛されていることを知る者として、あなたの人生を、愛の人生に回復させなさい、神様があなたに与えてくださった命の意味を、あなたの務めを果たしなさいと、キリストが私たちの主となってくださった。私たちはそのイエス様の後をついていき、また、イエス様が言われたことは真実だと信じて、務めを果たせばよいのです。全ては既に主が備えておられるからです。

ペトロとヨハネを遣わして過越の準備をさせたときも、備えはすでにできていました。都に入ると水がめを運ぶ男に出会うと主は言われた。普通は女性が運ぶ水がめを、男性が運んでいる。本当かなあとペトロらも思ったかも知れません。でもおった。わ、本当だ。準備をする。この福音書には記されていませんが、いわゆる最後の晩餐です。イエス様が弟子たちの足を洗われる。ユダの足もです。悔い改めて欲しいのです。痛みを知ってほしいのです。神様はあなたを愛しておられる。あなたは愛に生きるため、罪赦されて生きられる。悔い改め、愛に生きよ、神様の痛みに生かされよと、イエス様が弟子たちの足を洗われる。その水を運んだのは、この男性です。人からは変に思われておったかも知れません。キリスト者なんて大概そう思われておるのかも知れません。あの人皆と違うことをしゆうと。でも水を運ぶ。意味がわかっておったでしょうか。何でこんなことを私はせないかんがやろうかと自問することはなかったでしょうか。けれどその意味は、イエス様の前におったらわかるのです。そうでなかったらわからん意味が、虚しく歯噛みして果たしていく人生の務めが、イエス様の前におったら、わかるのです。すべての務めには意味がある。神様が私を用いてくださる。しかも救いのご計画のうちに私を用いられ、主は、私たちが運ぶ水を清めて、主の愛の業、救いの御業とされるのです。

11/10/16礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書21:29-38、イザヤ書40章1-8節 「ぶれない言葉と祈り」

11/10/16礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書21:29-38、イザヤ書40章1-8節

「ぶれない言葉と祈り」

 

イエス様は、夏が近づいたことは、木を見たら自ずとわかるろう、と言われました。自ずと、というのは、人から言われいでも自分で、あ、夏が近いと、自分でわかる。同じように、この世界に、私たちの、今の生活にも終わりが来ることは自ずとわかるはずだ、違うかと言われる。ところでそれを譬えるのに、木を見なさいとおっしゃるのは、イエス様優しいなあと思います。もしも、人を見なさい、~さんや、他のすべての人を見なさい…だったらどうか。よう見てみ。しわが出て、下っ腹も出て、立つとき、よいしょって声も出てきたら、中年を迎えて、御国が近づいていることを悟りなさい…であれば、自ずと悟るというよりは、ああ、考えとうないと、心を鈍くさせてしまうでしょうか。現実逃避をしたいのが人間なのかもしれません。

けれど、神様から逃げてはならない。それがイエス様のおっしゃっておられることでしょう。どんなに逃げても終わりの日が来る。人は色々言い訳をしては、自分の好きにできる世界を確保しようとしますけど、そうした如何なる人間の支配も、神様の裁きの前にある。必ず終わりが来るのです。それをイエス様は、神の国が近づいていることを、あなたは自分でわかるはずだ。神様のご支配の前に自分はいると、人に言われいでも悟れるろう、違うかと言われる。終わりは勝手には来んのです。罪の支配、自分の支配、人の支配が終わるとき、その終わりに向かって起こるすべてのことは、勝手にそうなるのではありません。すべては、世界をご支配なさる神様の御手の内にあるからです。滅びもそうです。ただ、ここで滅びと訳された言葉は、直訳すると、過ぎ去るという言葉です。英語で死ぬことをpass away過ぎ去ると言うように、過ぎ去っていく。どんな滅びも、どんな死も、私たちの目の前を過ぎ去って、ならどこに行くか。神様の裁きの前にです。終わったと思ったら終わりではなくて、いわゆる最後の審判の座で、目が覚める。真実の意味で目が覚めます。今まで、神様はおらんと思っていた。あるいはおっても何とかなると思っておった。よたんぼが、平気で警官に殴りかかっていくように、心が鈍くなっていて、愚かな生き方をしておった。でも今は自分がどんな生き方をしておったかと、神様の前で目が覚めて、厳粛に、永遠の法廷に立つのです。

それは御言葉による裁きです。既に世界が聞いてきた、あるいはそれでも無視をしてきた同じ御言葉によって、すべての行いが審査される。御言葉が、それは裁かれるぜよと告げてきたのに、いや、大丈夫と豪語してきた人間の言葉は、そこで跡形もなく滅びます。すべての言い訳と嘘、自己保身のために築いてきた防御壁が全部私の前から崩壊して、目の前に迫るのは、あの同じ、しかも圧倒的な響きをもって語られる主の御言葉の現実です。目の前に神様がおられて、例えば十戒が、例えば、あなたは自分を愛するように、あなたの隣人を愛したか、わたしの愛に生きたか、この最も小さき者を愛したかと問われる。目を背けたくなるけれど、しかしだからこそ語られる御言葉の現実を、イエス様は、悟りなさいと語られるのです。心が鈍くならないように、目覚めていなさいと言われます。

神様だからです。誰一人滅んで欲しくなどないからと、御子を十字架につけられた天の父から私たちの救い主として贈られた、人となられた神様ならばこそ、イエス様はどれだけ真顔で言われたか。グリム童話の狼と七匹の子山羊の物語で、お母さん山羊が、このドアは開けたらいかんと、きつく言った。親なら当然言います。父親山羊は出てきません。狼に食べられてしまったからでしょうか。ならば尚更、母親は絶対に、真顔で言うたはずです。言うことを聴かんと死ぬぞねと。現実を知っているからです。注意しなさいと何度でも言う。重い言葉です。なのに、どうして子山羊たちは狼を入れたのでしょう。

イエス様も、人間の弱く残酷な現実を顧みて、注意しなさいと言われたのです。心が鈍くなってしまったら、入れてもいいかなと思うから、狼に食べられた胃の中で、まあ、しゃあないとか、ドアを開けたのは、私じゃなくて、あいつじゃないかとか、悔いる心も罪悪感も、どんどん鈍くなって朦朧としてきて、そして終わりを迎えるのでしょうか。断じてそうなってはならないと、神様が人となって来てくださった。人の子として来てくださって、目を覚まして祈れ、わたしの前に立てと言ってくださった。この言葉こそ、過ぎ去らんのです。決して滅びない、この御言葉に、あなたも立ちなさいと、主が言われる。

放縦というのは、自分を信じて好きに生きるということですが、直訳は朦朧としちゅうという言葉です。朦朧としちょって、考えられない。考えないまま、欲望のまま、思考停止して、ええい、やってしまえ、と行動に出る。深酒、酒に逃げるのもそうでしょう。酒だけでしょうか。性的行動、衝動買い、仕事に逃げることだってあるでしょう。

逃げたくなる生活もある。生活の煩いで心が鈍くなって、神様の前から逃げるような生活に、ますますなってしまうこともあるでしょうか。悩み多き生活であればこそ、その生活に神様の御心を祈り求めて、心に神様のご支配を求める、のでなく、心が生活に支配される。神様のお心がわからんなって、今の大変な生活がすんだら、神様のことを考えますとなるほどに、心が鈍くなりがちでもある。朦朧とした心が思うのは、神様から距離を置こうという思いでしょうか。神様のことを考えなくてすむようになったら楽になると思うのでしょうか。ストレス解消のお酒がいつしか、そこに逃げ込むお酒になって、深酒になるのも、嫌な現実を考えなくてすむようになるからでしょう。人間となられたイエス様ですから、それはようわかる、ということだとも思います。ようわかる、ようわかるけんど、それが神様からの逃避になるなら、それは罪の罠にはまってないか。神様抜きですむことなどあるのか。逃げるなら、どうして神様のもとに逃げ込まないのかと、正しい逃げ方を教えて下さっているとも言えるでしょう。逃れなさいと主は言われる。

自分優先の思い、罪の誘惑から逃げるのです。逃げることそのものがいかんのではない。神様から逃げたらいかんのです。神様からの逃げ癖をつけない。よくわかることだと思います。逃げ癖をつけたら、状況はどんどん悪化します。どんなことにも言えるでしょうけど、神様からの逃避は特にそうです。逃げるなら、罪の誘惑から逃げる。誘惑と距離を置く。何故か。正直、強すぎるからです。違いますか。それよりもっと大事な理由は、神様が逃げろとおっしゃるからです。恥を忍んで言いますが、私がタバコを吸わんなったのは、妻が吸うなと言ったからです。イエス様の愛の真顔を見るときに、滅びから逃げる力が与えられます。これもよくおわかりになると思うのです。

なら、どうやって滅びから逃げればよいか。神様の愛の現実の中に、御言葉と祈りによって逃げ込んでいくのです。これはもう理屈ではありません。無論、説明だったら幾らでもできます。今から3時間ぶっ通しで話すこともできるでしょう。でもそれよりも30分御言葉に深く入り込んで、30分深く祈るほうが、ずっとよくわかると思います。祈って主の愛の中に逃げ込む。これは体験する他にないのではないかと思います。泳ぎを教えるようなものです。水の中に入ればわかるのです。仮に自己流でも、説明を聞くより、何となくわかるのではないでしょうか。主が祈りなさいと言われる。なら、祈るしかない。シンプルです。人の子の前に立てと言われる。なら、主の前に立ち止まる。イエス様のお名前によって、イエス様の支払われた命の代償によって、わたしの名によって祈るなら、天の父はあなたの祈りを聴いてくださるという、三位一体の神様の愛の現実の中に飛び込んで、うめきながらでも、空を掴むようでも、天の父に顔を向けて、祈る。両手を挙げて、顔を上げて、イエス様のお名前によって祈ります、父よ、わたしをお救いくださいと、十字架の主に心の焦点を向けるなら、命の焦点はぶれんのです。悩みは減らんかもしれません。けれど正しく悩めるようになります。罪を犯したらいかんとわかります。頭でわかるだけではなくて、心が目覚めてわかるのです。ごめんなさいと言えるようになる。悔い改めの言葉が出るようになる。祈りの言葉が身につくとも言える。

祈りは身につける他ありません。だから教会は祈祷会を重んじてきました。一緒に祈りを身につけるためです。私は自分の言わば祈りの歴史を知っています。牧師たちの祈り、先輩たちの祈り、友の祈りから身につけた祈りの歴史を感謝して思い出します。祈祷会が熱くなるとき、教会にリバイバルが起こってきたのは所以なきことではないでしょう。そこで目を覚ますのは自分だけではない。教会が目を覚ますということもあるのです。最初はペンテコステがそうです。皆が祈っておったとき、教会に聖霊様が降られました。その後も繰り返し祈りの中で、奇跡が起こり続けてきました。弱くて罪ある人間にはできんことも、神様に不可能はないからです。いつも熱い祈りとは限らんでしょう。妙な言い方ですが、気が乗らんときだってあると思います。弱いのです。朦朧とするときもあるのです。それでもイエス様、イエス様と主の名を呼んで祈ればよい。たとえ気分が乗らんでも、祈ることで生活の焦点がぶれないようにするのです。十字架のイエス様の名を呼びながら、助けて下さいと祈りつつ、私たちが頂いているこの生活は、すべてあなたのものなのですと、命の焦点を定めるのです。与えられている生活の焦点、命の焦点がぶれやすい私たちであればこそ、イエス様は、祈りつつ、わたしの前に立ちなさいと言ってくださる。いま既に、主の前に立つことができるのです。そのために、人となられて来て下さった、罪を背負って赦してくださった、人の子と呼ばれる救い主です。疲れた人、重荷を負う人は誰でもわたしのもとに来なさいと、招いてくださった救い主です。このイエス・キリストの前に立ち、主の名を呼んで生きる僕は、すべてが過ぎ去っていく裁きの時も、神様の前に立つことができる。しかも主は、あなたがたは、と言ってくださる。一人じゃない。一緒に主の前に立つのです。だから教会は私たちの主の名によって祈りを集結するのです。