11/10/9礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書21:20-28、ヨブ記19章25-27節 「心を高く上げよ」

11/10/9礼拝説教@高知東教会
ルカによる福音書21:20-28、ヨブ記19章25-27節
「心を高く上げよ」

身を起こして頭を高く上げなさい、とイエス様が言ってくださった。凛とした姿勢。折れてない姿勢とも言えるでしょうか。私が思ったのはマラソンランナーの、最後のゴールの姿勢です。苦しみが最高潮に達しているときであろうはずなのに、これでゴールだ!と、頭を高く上げてゴールする。しかも、こう想像して下さったらと思います。ゴールする一人一人が、他人と比べることも無く、自分のベストを尽くして走り、つまずくこともあったけど、それも含めてベストでしょう。止まってしまったこともある。もうこれ以上走れないとも思ったけれど、目に見えない主の励ましに支えられ、共に走る教会の家族に支えられ、一歩一歩ゴールに近づき、まだゴール自体は見えてなくても、けれどこのことを知っている。この先にゴールのテープが、一人一人に張られておって、キリストがご自身で張ってくださったテープがあって、皆、キリストの胸に飛び込んでいってテープを切れる。そのゴールの幻を見るときに、キリストに迎えられてテープを切れるキリスト者のゴールを思うとき、頭を上げることができる。床に身を横たえたままであってもです。明日四国障害者キリスト伝道会の修養会で道後に行きますが、ずっと一緒に行っていた西山兄が今年は行けなくなりました。いつもストレッチャーの車椅子に寝て礼拝を守っておられる兄弟の姿を皆さんもご存知ではないかと思います。首の具合が悪くなり、うつ伏せにもなれなくなった。その苦しみは私の想像を絶します。でも兄弟は、起こせない体を凛と起こして、頭を高く上げている。その姿勢を私はいつも見させて頂いて、共にキリストを見上げる幸いを得させて頂き、一緒にゴールに向かえるのです。身を横たえておっても身を起こし、頭を高く上げながら、やがて栄光の雲に包まれて来られる人の子、人となられた救い主キリストを見上げて、寝ながら走っていけるのです。先に賛美したように、心を高く上げることができる。それは必ずしも、気分の高揚を意味しません。心が悲しみに沈んでおっても、祈りの内にキリストに顔を向け、主よ、この悲しみの心をお受けくださいと、心を高く上げられるのです。立ち上がることのできない悲しい我が身を、どうぞあなたが起こして下さいと、キリストの名を呼んで立つことができる。神様の前に立つのです。それ以外、どこに立つことができるでしょう。
イエス様は、エルサレムも倒れるとおっしゃいました。主なる神様を礼拝するはずのエルサレム神殿も、粉々に崩されて倒されて、立ち上がれない。そればかりか、イエス様が、倒れるとおっしゃるのに、言わば迷信に惑わされて、いいや、神の都エルサレムなら大丈夫だろうとか、神殿の中におったら大丈夫だろうと、御言葉でなく、自分の勝手な信仰を信じ込んで、そして倒れていく者たちもおると言われる。事実、西暦70年、城壁を打ち破って雪崩れ込んだローマ軍によって、エルサレムは倒れ滅亡します。イエス様がここでおっしゃった40年後に、そのことが起こった。人間の勝手な信仰に惑わされてはならないとイエス様が必死におっしゃってくださったのに、自分を信じたら倒れるのです。
それは、世界の終りについても同じことである、と主は言われます。神様が、神の民として、ご自分で選ばれたユダヤ民族に対して、あなたがたは、自分たちは特別だと思い高ぶり、わたしの言葉に聴き従わず、自分を信じて他人を裁くのなら、わたしがあなたを裁き、報復すると、彼らに怒りを注がれた。ならばどうして神様を信じない世界が、同様に怒りの対象にならないか、どうして自分たちは裁かれないし、この世界が終わることなどはないのだと、自分を信じられるのかと、イエス様は世界の裁きを告げられるのです。
世の終り、世界の裁きと言っても、漠とした恐怖心が起こるだけで、逆に、それを打ち消そうと、人間は何か安心を得るために、心理的操作をするのかもしれません。しかし、世界とは何でしょうか。どんな世界が倒れるのか。イエス様が用いられた言葉は、直訳すると、住んでいるところ、住んでいる世界、まさに私たちが生活を営んでいる、その足場そのものという言葉です。今日も昨日と同じような世界なんだろうなあと、根拠はないけど思っている世界。でも、きっと昨日と同じだろうと昨日と同じような生活を今日も続けて、本当は不安定な足場なんだけど揺るぎない足場のように考えて、いや考えもしないで、あれもしよう、これもしようと思っているけど、そこで神様の前に立って、あれをします、これをしますとは考えてない。神様の前に立ってないまま、それが普通だと過ごし続ける不安定な足場。その足場は、エルサレムと同じように、ガラガラと崩壊する。そのとき人々は、この足場、この世界に、何が起こるのかと怯え、恐ろしさのあまり気を失いさえする人もいる。そのような世界に住んでおったら、神様の前に立ってない足場、自分で安心だと思っているだけの足場に生きておったら、どんなに自分の心に言い聞かせて、安心だ安心だと思っておっても、その世界は決して安全ではないのだと主は言われます。決して揺り動かされない足場は、神様の前にしかないからです。たとえ死を前にしてもです。それを滅びとは思わんからです。それが終りだとは思わんからです。それは終りではなくて、ゴールです。キリストがテープを張って、そこに立っていてくださるゴールです。ゴールは終りではありません。その先に、栄光があるのがゴールです。解放があるのがゴールだとも言える。イエス様がここでおっしゃっている解放というのは、単に死んだら苦しみから解放されてお星様になれるというのではありません。キリストと同じように復活を迎えられるから解放なのです。苦しみから解放されて、その先に永遠の喜びがある。永遠の静けさではありません。にぎやかな賛美です。嬉しいという喜びの歓喜です。イエス様、私はテープを切れました、全部イエス様のおかげですという、ずいぶんにぎやかで晴れ晴れしい喜びの永遠に突入するのが、キリストが迎え入れてくださるゴールなのです。ゴールのテープを切るときは、倒れこむようにしてであったとしても、テープを切ったら復活です。生まれてこの方、ずっと寝たきりであった兄弟姉妹も、テープを切ったら立ち上がるのです。キリストが、我が子よ立ち上がれ、あなたの罪は赦されたと、神様の前に立ち得る者としてくださって、三日目に死者の中から立ち上がられて、この復活は、あなたに与える復活だから、起きよ、神の子よ、神様の前に立ち上がれと、キリストが立ち上がらせてくださる。だからゴールを目前にして、頭を上げることができるのです。今は起こせない身をも起こして、神様の前に立つのです。神様が、あなたはわたしの前に立てと言ってくださる。心を高く上げましょう。キリストが私たちを立たせてくださる。
自分は情けない信仰者だと、うなだれる心であったとしても、ならばこそキリストの名を呼ぶのです。実際に頭を上げられるなら、顔を上げて祈ったらよいでしょう。イエス様、憐れんで下さいと、うなだれるのでなく、むしろキリストのお顔を見上げたらよい。主よ、見上げても、清くない私は、あなたを見ることができません、それでもあなたに顔を向けますと、一人で祈ったら良いのです。主が、あなたは一人、密室で祈りなさいとおっしゃったのは、それを人前でやってると、変だからかもしれません。なら、一人で主の前に立てばよい。キリストを下さった父は、その私たちをこそ喜ばれます。父は、子の顔を見たいのです。
信じておっても色々あります。足場が揺るぐ。でもそこで、キリストに立つことができるのが、父が下さった救いです。揺らいでも揺るがん信仰に立てる。教会はここに立ち、世界にキリストを伝えるのです。