11/9/18朝礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書20:45-47、詩編12篇 「神様を求めない祈り」

11/9/18朝礼拝説教@高知東教会
ルカによる福音書20:45-47、詩編12篇
「神様を求めない祈り」

以前、通信販売でコーヒー豆を挽くコーヒーミルを買ったことがあります。好きな方はご存知かと思いますが、豆を挽くために回すハンドルが、上についちゅうのと、横についちゅうのがありまして、私はどうせ買うなら、横についちゅうのが恰好えいにゃあと店で探すと、べらぼうに高い。あ~でもと思って捜していたある日、通販で、安くて恰好えいクラッシックな渋い商品に出会い、これや!と買い求め、届いたミルで鼻の下を伸ばしながら早速コーヒー豆を挽いておったら、ボキ、…あ、折れた。ミルを回す主軸がポッキリ折れて、中身はいかにも安い鋳物。あんまりにも情けないのでノークレーム、ノーリターンで何年も部屋に飾って、自分への戒めにしていました。人は見かけに騙されやすい。
イエス様は言われるのです。あなたもまた見せかけのキリスト者にはなってくれるなと。
人から良く思われたい。それは人間の持つ自然な願望ではないかとも思います。必ずしも悪い欲望だとは言えんでしょう。子供が親から良く思われたいと、喜んで頑張る。自然な、むしろ望ましい関係がそこにはあると思います。イエス様も私たちに祈りを教えて、あなたがたの造り主なる神様に向かって、あなたは、父よ、天にまします我らの父よ、と祈ったらよい。父は喜んで、あなたをまっすぐに見てくださる。あなたのまことの父の喜びに生きるとき、あなたの願いは叶ったと知るだろうと、父の喜びに生きる祈りを、主もまた教えてくださいました。神様の愛を知り、神様を愛し、そこから生まれる人への愛に生きていく。超自然的な愛でありながら、けれど本来自然な愛に生きられる喜びを知る。それがキリストによって与えられる、恵みに生きる喜びです。
けれどもし神様を信じ敬う、信仰者の看板を背負って生きながら、人からその看板を見られて一目置かれることが、喜び、願いとなってしまうなら、神様はどんな思いで私たちを見られるだろうか。その誘惑に気をつけなさいと言われるのです。こんな場面を想像できるでしょうか。歩いていると、自分の誕生日をお祝いしてくれるパーティー会場の看板がある。え~って照れながら、でも期待して会場に入ると、私の名前は連呼されているのに誰も私を見てくれない。なのに、いかにも私の親友だという顔をして、人から、お~と一目置かれている人が朗々と私について語っておって、しかも、それは真実の私ではない、私についての嘘を聴く。悲しくなって顔を背けると、あ、私は自分のお祝いには、この人を絶対に招きたかったという人がおって、嬉しいと思いよったら、先の、嘘の私の親友がその人を食い物にして、貧しいその人に私の名前で取り入って、お祝いを騙し取り、嘘の私への賛辞が語られ、愛する人がますます苦しい生活を強いられる。イエス様は、このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになると言われます。その裁きを、私は襟を正して思いつつ、受けたくないと思うのです。イエス様ご自身が、それを願われ、誰一人、そんな裁きを受けて欲しくないから、ご自分で裁きを受けに来られたからです。
私の買うたコーヒーミルの話に戻りますけど、どうして買うてしもうたのでしょう。欲に駆られたから。イエス、その通りだとグ~の音も出ません。が、その欲がどこで膨れ上がって、私の知性と意志をワッと飲み込んでしもうたかというと、その写真を見たときです。ミルだけに。これは余計でしたが、イエス様も、見せかけに気をつけなさい、また、あなた自身、人に見せかける誘惑に気をつけなさいと言われるのです。何故か。誰しもが、比較的楽に満足を得られるこの手段に頼ってしまうからじゃないでしょうか。最近は進化しているらしいですが、いわゆる俺俺詐欺も、どうして一向に減らんのか。百発百中ではないけれども、見せかけの演技をするだけで楽してお金が入るからでしょう。少し前、夕刊の四コマ漫画にこういう話がありました。おじいちゃんが孫に尋ねる。歯を磨いたかえ。うん磨いたよ。おじいちゃんは自分を磨きゆうかえと尋ね返す。おじいちゃんが、お、お~と言って、遠山の金さんよろしく片肌脱いで、ムキっと筋肉を作って顔をイケメン風にして終わり。面白かったのですけど、どうして、自分を磨く=見た目をよくするになるのか。自分=自分の心だと、漫画がオチんと思われたのか、あるいは一般的な風潮を風刺しているのだろうかと、少し考えさせられました。外側だけでえい。中身は問われないままで通用してしまう人の世界。
これを形式主義とも言うのでしょう。中身じゃなくて、形式に意識が向く。見かけで、おお、これはと。例えば、割と多くの教会では牧師が礼拝で黒いガウンを着ますが、あれを形式主義と捉える人も中にはおられます。が、もとは16世紀のスイス宗教改革で、当時ローマ教会の司祭が、まあいかにも宗教っぽい司祭服を着て、民衆にはわからんラテン語で礼拝をしておったのを改革して、牧師とは、神様の御言葉を、人々にわかるように教え導くために神様に選ばれた者であるから、当時大学の講師が着ておった教師のガウンを着ることで、それを皆に知ってもらおうと、敢えて教師用ガウンを着たのです。何かわからん言葉が唱えられるところで、人々が無知故に好き勝手神を拝み願い事をするのが礼拝ではないだろうと。むしろ神様が私たちに願い求めておられる真実の命、生き方がある。その神様の愛、求め、私たちへの御言葉を聴いて、父の喜び、父の求めをこそ喜んで生きる。もし自分がその求めから離れて、自分勝手な求めに生きていることが示されたなら、ごめんなさいと悔い改めて、改めて神様との愛の関係、人との本来の関係に生き直すよう、仲間の助けを借りながら、共に重荷を負いながら、一緒に神様の愛に生きていく。これが私たち本来の生き方じゃないか。それを教えてくれるのが、聖書の言葉、神様の御言葉ではなかったか。その御言葉を礼拝で説き明かし教える牧師の服装は、じゃあ教師の真っ黒なガウンにしようと、具体的な宗教改革を行った。のに、それがまたもやひっくり返って宗教的装いになりやすい。御言葉の教師という中身がなくなり、説教がなんかようわからんけんど、宗教的権威に見えるし、何か霊的なお力に守られるろうと。あるいは礼拝の中身が問題じゃなく、礼拝に行くこと自体が宗教になる。日本人の宗教意識は、そういうところがあるように思えます。宗教的な何かをやること、行事それ自体が宗教になる。行事宗教。行事主義。形式主義。中身はわからなくっても、見た目がちゃんとしておって、それらしくって、権威があって、やることやりよったら大丈夫よえと。しかし、その権威は一体、誰の権威かと主は問われるのです。それの中身は問われないのかと。御言葉によって世界を造られ、その造られた地面の土から、私たち人間の形を造られた神様は、それでは、ただの形だけだから、そこにいのちの息を吹き込んで、人は初めて生きる者になるのだと、ふ~っと、まるで口づけをするように、ご自分の息を吹き入れられた。それで人は立ち上がって、生きられるのです。人は中身で生きられるのだろうと主は言われます。人はうわべを見るけれど、わたしはあなたの心を見ると、父が私たちに求められる。
神様が心を見られるというのは、道徳的かどうかを見られるのでしょうか。無論そうではありますが、そこですぐ、真っ先に問われなければならないのは、それが人間の道徳で終わってないか。人から良い人だと認められたい、あるいは自分で自分を褒めてあげたい、そういう自分に正直に生きたいと、人間だけで終わってしまって、あるいは自分だけの道徳に終始してないか。神様の家族の愛の掟、文字面だけでない真実の律法、御言葉によって知らされる、神様の求めを聴いているか。そして神様に向き合って生きてきたか。すべからく人が受けなければならない死後の審判に先立って、厳かにその現実を受け止めながら、誠実に神様に向き合って、神様、これが私の中身です、私はあなたからよくやった我が子よと褒められたくて生きてきましたと、行ってきた様々な行いの動機や願望、求めてきたこと、手に入れてきたもの、そして隠れて行ってきたこと。すべて白昼に神様に差し出して、しかし、そこでこそ自分の心にも明らかにされる、罪の自覚と裁きへの畏れを、隠し通せる人がいるのでしょうか。神様が見たいのは、そこでしょう。祈りとは、これを隠さず、自分にも隠さず、ここでこそ明らかにされる真実の自分に向き合って、罪を悔い改め、キリストをくださった父の恵みに感謝して、父よ、天にまします我らの父よ、私にも御名を崇めさせたまえと、父の赦しのシャワーを浴びて、神の子に立ち返ることに他なりません。
そのためにキリストが祈って下さった。人に見せかける長い祈りでは届かない、自分を捨てずしては決して届かん、父の求めに叶う祈りを、短くてするどい矢のような執り成しを、十字架の上で祈って下さった。父よ、彼らを赦してください。自分が何をしているのか知らんのです。これに勝って父の求めを代弁する祈りがあるのでしょうか。見せかけではない十字架を背負って、あえぎ苦しまれ血を流されて、私たちの罪を全部背負って、三位一体の聖なる神の御子、人となられた御子なる神様が全ての人間の代表として人となられて、すべての罪咎を身に負って、この十字架の故に赦して下さいと祈られた。わたしが全部責任を負いますと。自分を捨てて、犠牲となって、ここに神様の愛がある、罪赦される救いがあると、自分が何をしているか知らないで行ってきた全ての罪を、あなたは赦されて知りなさい、神様はあなたを愛しておられると、私たちの死を死んでくださった。だから人間は救われるのです。そして罪とは何か、赦しとは何か、愛とは、生きるとは何なのかを、キリストを仰ぐときに知るのです。罪を負われて十字架で死なれ、三日目に復活をされたキリストを仰いで礼拝するとき、私たちは神様の求めに生きることができる。キリストが言って下さった。見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。だから、あなたがたは行って、全世界の人々が神の子として生きられるよう、洗礼を授け、あなたがたに命じた全てのことを、守って生きていくように、教えなさい。
だから教会は教えるのです。うわべに生きてしまう罪を悔い改めて、父の憐れみに生きていこうと、キリストの救いに生きていこうと、主の福音を、身をもって人にも伝える。これがキリスト信仰の中身です。